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川口順子による論点すり替え   従軍慰安婦問題の本質 [戦争・原爆]

政治家の慰安婦発言について by川口順子
http://blogos.com/article/62886/

川口順子による巧妙な問題点のすり替えである。軍による強制はあったのであり、書類によっても証明されている。仮に、などというはなしではない。単なる人権問題ではない。当時、貧困な家庭は女性を売りに出していた、これは歴史的事実だ。国民全体に人権意識が薄かった。それを首相が談話で謝罪するとでも言うのか。軍と行政組織が関与して、戦争犯罪である慰安婦の輸送をやった、これが問題なのである。    

川口の議論では、戦前の日本全体に人権というものが無かった、そのことが悪、ということになる。これぞ一億層懺悔。 それだけなら戦争犯罪ではない。一国の首相が<談話>で謝罪すればいい、というハナシだ。戦争犯罪は 首相談話でチャラにできる話ではない。 日本人が日本の手で、戦争犯罪を裁かなかった、したがって、犯罪意識もない、そう言う話だ。 川口は、日本の手で少なくとも慰安婦問題を裁くべきである、というべきなのだ。 そして犯罪を裁く女性による市民法廷は開かれたのである。しらないのは川口順子だけだろう。 だが、安倍がその放送(NHK)に干渉し、NHK幹部が放送内容をすり替えた。誰でも知っており、そして忘れようとしている事実である。  川口順子やハシゲのような三流政治屋の言葉巧みな誤魔化しにだまされてはならない。                          http://www.news-pj.net/siryou/2006/nhk-bangumikaihen200509.html

安倍は首相になっても 侵略はなかった、慰安婦は軍が強制したのではない、と言い続け、それをマスゴミは批判しない。 ハシゲ、や川口などの雑魚ではなく、安倍こそが慰安婦や侵略問題の元凶である。ハシゲ叩きに専心することにより本丸=安倍を守ろうとするマスゴミの作戦にのってはならない。http://www.masrescue9.jp/tv/kouno/back_no/kono13.html#kono

                                     
川口>
仮に、権力による強制連行がなかったとしても、女性達は自らの意志でそこを離れることができたのだろうか。その監視に権力が全く関与していなかったと言いきれるのだろうか。だからこの問題に対しては、「政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。」(河野談話)ことが必要だと私は考えている。

慰安婦問題を人権という視点から考えることは、国際社会の潮流になっていると私は思う。戦場には性がつきものだとの考え方は、女性を「モノ視」した発想である。慰安婦について国際社会が問題にしていることから大きくずれている。これは女性の人権が尊ばれているか否かの問題である。


グルーとは誰か? 知日派の生態 [戦争・原爆]

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毎日新聞 2011年9月4日 東京朝刊
今週の本棚:五百旗頭真・評 『グルー-真の日本の友』=廣部泉・著
 ◇五百旗頭(いおきべ)真・評
 (ミネルヴァ書房・3150円)

このケッタイな書評?が気になったので、図書館にリクエストしてやっとのことで読み終えた。

ケッタイな、というのは五百旗頭真の書評が書評になっていないからである。つまり、己の主張と同じ流れの論者の本を取り上げ、グルーへの賛辞を連ねた書評(書評に名を借りた、評者の主題に対する心情吐露)を書いていること。廣部泉は、五百旗頭真のグループに世話になったとあとがきで謝辞を述べている。

副題の「真の日本の友」は、吉田茂がグルーを評した言葉である。それをそっくり副題に戴いている、ということでこの本の主張は尽きていよう。吉田茂は、宮中派のスポークスマンとしてつとに有名。終戦期には国体維持のために暗躍した男である。グルーは10年間(32~42)日本大使として日本に縁が深かった、といわれているが彼の交際範囲は宮中グループが中心でありもちろん彼が反感をもった陸海軍とは交際していない。彼が愛したと言われる日本、には日本の民衆は含まれていない。大衆を蔑視し、敗戦による革命を恐れた宮中グループが、グルーの愛する「日本」の実体である。

知日派、とはいったい何なのか?

44年以前から日本の敗戦は決定的であるにも拘わらず、米軍の空襲を放置し日本を焼け野原にした責任は誰にあるのか。44年四月から始まった沖縄戦により沖縄住民十万人が死んだ(日本軍もほぼ同数の死者。米軍も1万五千の死者を数えこれは米軍にとっては驚愕の数字であった)。これでも天皇は敗北を決断しなかった。最後の一撃をくわえての終戦にこだわったのである。一体戦争とはなんなのか。誰のための戦争なのか。

グルーはそれでも天皇制護持を信条として唱え続けるのである。

グルーを「反共主義者」(であり、反共主義者であったことが日本(=天皇制)を救った、と著者は繰り返し述べている。しかし、いかにしてグルーが反共主義者になったのか、は説明されていない。グルーの出自はボストンの由緒ある家柄、しかも、この本では1行しか触れられていないがグルー家はモルガン財閥(原発開発に係わった)と親戚である。

グルーもトルーマンもルーズベルトの下では冷や飯を食わされた。そういう意味では同じ釜の米である。トルーマンもグルーもヤルタ会談密約を知らされたのはルーズベルトの死(4/12)の後であり、トルーマンは副大統領であったにもかかわらず原爆開発の事実を教えてもらっていなかったのである。グルーが原発開発の事実を、スチムソン(陸軍長官)から教えてもらって知ったのは5月に入ってからだ。もっとも原発開発は議会にも内緒であり米国内でも知っていたのはごくわずかであった。当時の金で20億ドル、携わった人数2万人という巨大な、しかも超短期の大プロジェクトであった。原発実験が成功するのがポツダム会議(7月17日~8月2日)の開催中である。

あとがきで、米国内のグルー評価が紹介されている。「性格は良いが、幾分知的に凡庸」とする評価にわたしは同意する。その一面は、44年5月12日の対ソ連武器輸出を禁止した政策であろう(グルーが手回しした)。この一件は重要であると思うのだが(グルーの、外交官としてはまれに見る凡庸さ軽率さの象徴である、という意味で)、廣部泉は1行も触れていない。

対ソ武器輸出禁止はスターリンの猛抗議ですぐに撤回された。トルーマンは軽率にもグルーの禁輸提議にメクラ判(署名)を押してしまったことを後悔し、これ以後、グルーを信用しなくなったという。このことは重要であるはずだが廣部泉は本書でひと言も触れていない(五百旗頭真も、自分の著作でおそらく触れていまい)。ソ連側対応を含めた詳細は長谷川毅『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』(2006年。原本となる英本は2005年)に記述してある。長谷川毅はソ連研究家であり米国に帰化している歴史家。敗戦期日本の研究家としてこれほどふさわしいひともいまい。この本は原著が英語、本人が英著を大幅改定して和訳したもの。これ一冊読めば太平洋終戦の実相は十分、といえるほどの内容である。

五百旗頭真は書評でポツダム宣言へのグルーの係わりを強調しているが、中村政則『象徴天皇制への道』(1989年)は、グルーはポツダム宣言を起草していないことを明らかにし、五百旗頭真『日本の占領政策』におけるグルーが起草したという記述の誤りを指摘している。五百旗頭真はどこかでこの記述の誤りを修正したのか?

終戦直前まで(あるいはソ連の満州侵攻といったほうがいいか)日本は愚かにもソ連に対し、米国との講和の仲介を依頼し続けていた。米国は41年から日本の対外電報をすべて解読しており、ソ連への仲介依頼も知っていた。また、米国は原爆開発はソ連に対しても機密にしていたがソ連はスパイを放って開発の内情は承知していた。

グルーは原爆投下に反対したのだろうか?グルーの意図に拘わらず、あるいはトルーマンの意図に拘わらず、原爆投下は陸軍を中心としたルーズベルト政権生き残りの既定方針であり、すでに、巨額の予算を費消し完成間近のプロジェクトをなんの成果ももたらさずに途中放棄することは新任大統領にはできかねる相談だった(もちろん、完成したならば、という条件付きだが)。幸か不幸か、ポツダム会議中に原爆実験は成功した。トルーマンにとっては、ソ連の侵攻(ヤルタ会談で、ドイツ敗北の3ヶ月後にソ連は日本に侵攻する、と決定されていた。ドイツは5/8に無条件降伏。その三ヶ月後とは8/8である)の前に日本が降伏しては困る(巨大予算を費やした原爆を使用できなくなる)、しかも、降伏が遅すぎても困る=つまりソ連が参戦する、というこれ以上ないほどの制約の多い数週間であった。

 
かりに原発開発が数ヶ月、あるいは半年遅れたらどうなるか。おそらく使用されなかったろう。かわりに米軍とソ連軍が南と北から日本に侵攻し、軍隊も住民も壊滅的な打撃を受けたろう。日本は文字通りの焼け野原になったろう。その帰結は?天皇の命は消えたろう、ということ。

すなわち、原爆こそが天皇の命を救ったのである。だからこそ、天皇は原爆投下を待望したのである。

グルーが救いたかった宮中グループは結局、グルーの意図通り救われたがそれは結果論である。宮中グループを米国政府が救ったのは戦後の米国による支配を容易にするためである。グルーがそれに異を唱えることはありえない。というより彼の意図に拘わらずそのためにグルーは存在した。冷戦を経て後、日本が米国の属国になることが、日本の(のぞましき、他の選択の余地無き)運命であるかのように歓ぶ五百旗頭真が、書評の最後で「天はなぜこの人を日本に与えたのであろうか」と正直に感じ入るのも、もっともなことである(「天はなぜ米国を日本に与えたのであろうか」、と、私には聞こえる)。 しかし、当然ながらグルーは米国の国益のために行動したのであり、天皇と天皇制に愛着ある故に行動したのではない。グルーを、本書の著者や五百旗頭真あるいは吉田茂のように「真の日本の友」と評価しているようでは贔屓の引き倒しにならないか。

藤村信『ヤルタ -- 戦後史の起点』にはグルーの別の姿を描いている。長いが引用する。p.275~から。
わたし(藤村)はグルーの情熱的な行動を日本へよせる愛着にもとめる解釈をしりぞけるものではありませんが、グルーをして<<異常>>に行動せしめた、もうひとつの根本的な動機をさぐらないわけにはいきません(略)。グルーは日本の十年間に先立って、第一次大戦の当時はベルリンとウィーンに勤務しました。かれは古典的、保守的外交官の生きた典型であって、難聴も手伝って本来の内省的な性格は執拗で一本気の人間をつくりだしていました。ことにその執拗な信念はヨーロッパ滞在を契機として、ソ連と共産主義に対する一種の憎悪を結晶させました。かれはボリシェビキ革命をゆるさなかったし、古典的な外交の様式と慣行を無視するソ連の行動をたちまち侵略と膨張主義に直結させる点で、人後に落ちません。ルーズヴェルトの時代、そしてトルーマン政権の草創期において、アメリカの最高政策グループのなかでは、戦後アメリカの世界政策は老いたる大英帝国主義の跡を追ってはならない、米英の友好関係に米ソの友好関係を優先的に重ね合わせてまずいことはひとつもない、という考え方が支配的であったことを思えば、グルーのソ連に対する一本気の憎悪は<異様>でさえあります。(二頁省略)グルー覚書によれば、第二次大戦を経過して、全体主義の独裁はドイツと日本から今やソヴェトロシアに移っており、それはナチスと同じ水準に危険な現象である。東ヨーロッパの現状こそ、ソ連がヨーロッパ大陸にうちたてようとこころざす<世界>のモデルであり、それはやがて中近東へも及ぶであろう。ソ連に対応して、アメリカは軍事力を堅持し、英国、フランス、ラテンアメリカとの関係を強化しなければならず、いささかでもソ連の言動に信頼をよせることは、われわれの士気と倫理を弱め、かれらの仕事を容易ならしめる重大な誤りに陥る。従って、サンフランシスコ国連総会のあと、アメリカはソ連に対してつよい態度を示さなければならない。ソ連がその巨大な軍事力、経済力、地理的優位を回復させ、発展させるまえに、アメリカの安全保障のためにもソ連と対決することはなによりも望ましい。対ソ政策においてアメリカの立場をつよめるためには、太平洋戦争を一刻も早く終わらせることは絶対の条件である。ソ連が極東において戦争に参加する事態が起こるならば、モンゴル、満州、朝鮮はひとつずつソ連の支配圏内に滑り落ちていき、やがておそらくは日本もはいってしまうであろう。さればこそ、ソ連がアジアにおいて動きだすまえに、すみやかに日本との戦争を終わらせなければならないのである・・・(イエルギン著書による)。グルー覚書の哲学が、天皇制存続の可能性をほのめかす5月30日トルーマン演説への勧告、そしてポツダム宣言草案のための覚書に延長していくことは、ここに詳述するまでもありません。実にグルーの天皇制護持の執念は、将来におけるソ連との対決への準備という黙示録的な信念と表裏一体をなしていたのです。


ジョセフ・グルー joseph Grew@Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC



111016_2122~01.jpg写真は『グルー 真の日本の友』(ミネルヴァ書房)から
以下、五百旗頭真による書評の全文引用である。

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 ◇誰よりも決定的に、戦後日本を支えた人
 こんな歴史のイフもありうる。--もしJ・グルーがいなかったら、戦後日本はどう変っていただろうか。

 天皇制はなくなっていたかもしれない。それが答の一つである。一九四四年春、米国務省の戦後計画委員会に、日本専門家グループは天皇制の存続を可能にする案を提出した。幹部たちはこれを厳しく批判し、再検討を命じた。幹部の指示である。下部の知日派は上意に従う他はないはずである。ところが、ここにグルー極東局長が天皇制を廃止すべきでないとの意見書をもって介入した。

 日本大使を十年近く務め、日米戦争回避に懸命の努力を重ねながら、「真珠湾」の破局を迎えたグルーであった。その点、彼は敗者であったが、半年後に帰国したグルーは、米国において勝者でもあった。国務省にあって三〇年代の極東政策を牛耳ったS・ホーンベックは日本が勝ち目のない対米戦争を開始するなどありえないと断じつつ対日強硬論を説いた。それに対し、グルーは「国家的なハラキリ」として日本が対米戦に身を投ずることもありうると米国政府に警告し、真珠湾奇襲攻撃の危険すら打電していた。皮肉にも、不本意な破局は、対日認識に関するグルーのホーンベックに対する勝利であった。グルーは最も人気ある凱旋(がいせん)大使として全米を講演してまわり、彼の『滞日十年』は戦時のベストセラーとなった。

 アメリカにあって日本を誰よりも深く知る外交界の長老(彼はすでに国務次官やトルコ大使を務めていた)が真剣に反対する以上、国務省幹部も天皇制廃止を決定しかねた。天皇がはたして和平と民主化にとっての障害なのか資産なのか、確かめた上でと、決定を先送りしたのである。もし四四年段階でグルーが動かなければ、天皇制廃止が米国政府の既定方針になっていたであろう。

 同様に、もしグルーがいなければ、ポツダム宣言はなかったのではないか。

 終戦を迎える年に国務次官に復帰し、国務長官代理として米国外交の運転席に坐(すわ)ることの多かったグルーは、ヤルタの密約と対日原爆投下の予定を知るに至った。日本と日米関係を深く想(おも)うグルーは、この二つの悲劇の実施なしに終戦をもたらすため、五月下旬に大統領による対日声明を提唱する。戦後日本が平和で民主的な国になるのなら、立憲君主制を認めると日本国民に告げよう。それにより、日本国民に武器を置かせよう、との提案である。

 それがポツダム宣言へとつながる。スティムソン陸軍長官は、原爆投下と対日声明の併用によって対日戦の早期終結を図る。もしグルーが無条件降伏の緩和もしくは撤回を意味する対日声明に向けて力強く動き、スティムソンを仲間にしなければ、ポツダム宣言はなかったのではないか。

 ポツダム宣言が出され、広島に原爆が投下され、ソ連が参戦するに至っても、なお降伏を潔しとしなかった日本陸軍であり、意思決定が難しかった日本政府である。もしポツダム宣言がなければ、あの時点での終戦はなく、本土決戦に突入したであろう。日本全土が軍事的に制圧されるまで日本人の悲惨な抵抗が続いたことであろう。犠牲者は二倍となったであろうか。もちろん天皇と日本政府を通しての間接統治はありえず、直接軍政の日本占領である。

 こうして見れば、グルーこそ戦後日本を誰にも劣らず決定的に支えた人物ではなかろうか。本書は、日本人学者の手になる初めてのグルー伝である。吉田茂がグルーのことを「真の日本の友」と評した言葉を副題とする本書は、グルーが日本と日本人をこよなく愛し、礼節をもって日本に対し、日米を結び合わせるためきわみまで献身したことを、実証的に淡々と描いている。

 グルーについては、W・ハインリクス教授の古典的研究がある。ただその見事な邦訳は、全文でなく対日関係部分を中心とするものである。評者も二十五年前の『米国の日本占領政策』においてグルーの役割をかなり詳細に論じたが、本書を読むと、それ以後多くの公文書が公開され、より詳しく立体的にグルーの人と役割が描き出されていることに感銘を受け、教えられる。

 グルーは豊かなボストンの名門実業家の子に生れ、グロトン=ハーバードに学んだ後、一年半の世界旅行を行い、中国の巣穴でアモイ虎を仕とめる冒険を行った後、日本にも立ち寄った。グルーの妻となるアリスは、父が慶応大学で教鞭(きょうべん)をとった際に日本に滞在し、日本語もできた。夫婦ともに日本を愛したが、グルーの日本重視は彼の外交官としてのたしなみでもあろう。本書が語る第一次大戦期の欧州での外交経験、とりわけその後のトルコ大使としての卓抜した業績と篤(あつ)い任国での信頼を見れば、グルーは任国と母国を結び合わせる責任感と使命感を、どこに派遣されようと旺盛に発揮したように見える。その中でも、日本はグルー夫妻にとってなぜか格別の国であった。天はなぜこの人を日本に与えたのであろうか。
 


封印された原爆報告書: 国民を売った天皇、軍、政府と医学者。米軍占領下の原爆調査 [戦争・原爆]

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昨日深夜(10日午前0時10分~)再放送されたNHKスペシャル「封印された原爆報告書」 をビデオに撮り何回も見た。

NHKスペシャル「封印された原爆報告書」
チャンネル :総合/デジタル総合
放送日 :2010年 8月 6日(金)
放送時間 :午後10:00~午後10:55(55分)
番組HP:
http://www.nhk.or.jp/special/

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米国立公文書館に、日本が原爆被害の実態を調べた181冊の報告書が眠っている。なぜ報告書はアメリカに渡され、被爆者のために活かされなかったのか? その真相に迫る。

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アメリカ国立公文書館に、181冊1万ページにおよぶ「原爆被害の実態を調べた報告書」が眠る。まとめたのは、総勢1300人に上る日本の調査団。しかし、報告書はすべてアメリカへと渡っていた。なぜ、貴重な資料が被爆者のために生かされることなく、長年、封印されていたのか? 被爆から65年、番組では報告書に隠された原爆被害の実相に迫るとともに、戦後、日本が被爆の現実とどう向き合ってきたのか検証する。

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何度も見た結論として言えるのは、この番組は

米国立公文書館に、日本が原爆被害の実態を調べた181冊(一万頁)の報告書が眠っている。なぜ報告書はアメリカに渡され、被爆者のために活かされなかったのか? その真相に迫る。」

と番組案内で唱っているが、<なぜ報告書はアメリカに渡されたのか、誰の命令で渡されたのか>ちっともその真相に迫っていないということである。

原爆が投下されるまでのニッポンは誰の眼にも敗戦が明らかとなり、連合軍からポツダム宣言受諾要求への対応を迫られており、天皇と軍部、政府は敗戦後予想される連合軍からの厳しい戦争責任処断への対応を考えていた。軍部は10日にポツダム宣言受諾を(国体維持、すなわち天皇の処刑を回避するという条件で)海外向け放送で伝えた(国民には知らされていない。世界にとって、日本降伏は8月10日http://www1.doshisha.ac.jp/~kasano/FEATURES/2006/report-oda.html)。9月2日、正式に大日本帝国政府が降伏文書に調印した後、52年にGHQから(沖縄を除いて)日本に連合軍(GHQ)から施政権を返還されるまでは日本は二重権力状態(GHQ vs 日本政府、天皇)にあった(この間、新憲法が発布され、極東軍事裁判=東京裁判があった)。新憲法成立までは、日本を規制したのは大日本帝国憲法だったのである。天皇を頂点とする旧権力が(どの組織の、誰が中心となって)どのように戦争責任追及を免れようとしたか、を調査しない限り、原爆調査・報告の疑問には答えたことにならない。

廣島に原爆投下直後の8日から軍部が<新型爆弾>の調査を行ったことは既知の情報である。しかも軍部は廣島における数日の調査で原爆の性格を的確に見ぬいていた。

8月10日、政府は<新型爆弾>使用は国際法違反であるという抗議を中立国スイス経由で米国に伝え、同じ抗議を赤十字国際委員会に提出した。当時の新聞(朝日、八月十一日付)によれば

「国際法規を無視せる 残虐の新型爆弾 

帝国、米政府へ抗議提出」。

広島市への原爆投下@wiki

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B

大本営調査団の八月付調査結果には「本爆弾ノ主体ハ普通爆弾又ハ焼夷爆弾ヲ使用セルモノニ非ズ、原子爆弾ナリト認ム」とあり、原爆と認定した理由を五項目挙げている(笹本『米軍占領下の原爆調査』(新幹社、1995年)p18~19。以下、本書は『原爆調査』と略記する)。とくに項目4:

「外傷はさして顕著ならざるも一日乃至二日後死亡せる者あり、又調査の結果中心部附近の土砂の放射を続行しあるもの、人員にして著しく白血球の数少なくなりたるものあり、これは放射線の影響と判定せらる」(原文カタカナ。笹本さん著書から孫引き)

日本において原爆研究が独自に為されていたことを伺わせる報告である。

日本における原子爆弾開発@wiki

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E9%96%8B%E7%99%BA

敵の兵器の性能を調査するのは戦争中でなくても当然のことだ。しかし、問題は笹本が『原爆調査』p21以後(第一章、第三節「敗戦後の原爆調査」)、で述べているように調査の指揮関係である。8月15日天皇は降伏を宣言したがその後も軍が調査を仕切っていたのではないか、ということだ(原爆調査という軍事行動)。引用する:

「八月十五日、昭和天皇は日本陸軍に対して停戦命令を出した(さらに8月18日、陸軍に復員命令を出し、日本軍は連合国の降伏を受け入れる体制に入っていた)。それにもかかわらず、なぜ陸軍軍医学校軍医を中心とする原爆被害調査という軍事行動を止めなかったのであろうか。この点に関して、後に陸軍軍医学校校長井深健次・軍医中将は八月一五日以降の動きについて次のように説明している。

「調査研究の方針も変化し、傷者に対する診療の普及ならびに充分なる医学的調査に重点を置くようになった。けだし、これは最早戦争が継続せられぬ故、落着いて惨害を被った傷者を診療することが我等の任務となり、また、原子爆弾のような特殊の兵器に因る戦傷の研究をすることは、我々医学者としても軍医としても最大のご奉公と考え、また殉職せる同僚を弔うことにもなると考えたのである」(1952年)

ここには後からの辻つま合わせがある。まず日本軍は敗戦後「傷者を診療する」命令を発したのか。もしそうだとすれば、八月十五日の第二総軍司令官の救護の指揮解除命令(●注)はどうなるのか。私はまだ敗戦後に日本軍がそのような救護命令を出したという資料を発見していない。

 戦時中であれば「原子爆弾のような特殊の兵器に因る戦傷の研究」は日本軍としては当然の研究である。しかし、原子爆弾に因る戦傷の研究は、原子爆弾を使った敵軍が占領した中で行われたのである。つまり、敵軍と協力することなしに戦傷の研究を行うことはできなかったのである。(中略)

さらに井深(健)が校長であった陸軍軍医学校は中国の民衆に残虐の限りを尽くした細菌戦部隊の731部隊を統括しており、731部隊の生体実験の資料は陸軍軍医学校に送られ、まさに軍事研究されていたことを忘れてはならない。このように他国の民に苛酷きわまりない軍が、敗れたからといって掌を返すように「同胞」に救いの手を差し延べたという論理はそのままでは納得しがたい(以下略)」

 上記の(●注)八月十五日の第二総軍司令官の救護の指揮解除命令とは以下の件を指す。順序が前後するが笹本の著書、第一章、「初期調査と原爆被害利用」、第一節「救護と原爆被害調査の関係」から引用する:

1945年8月6日、アメリカ軍機による原爆攻撃を受けた広島市では、直後から日本軍を中心とする原爆被害調査と救護活動が開始されていた。簡単にその動きをみると、第二総軍司令官畑俊六元帥が廣島救護の総指揮を取り、その指揮下に中国軍管区司令部、船舶司令部、呉海軍鎮守府、および広島県、広島市の民間救護団が入り、救護復旧体制が取られた。さらに近県からも救護部隊が広島市に派遣され、救護と復旧の任務についた。広島市に対してこのように軍を中心とする救護復旧体制が敷かれたのは、ひとえに戦争を継続するためであった。

しかし、八月十五日、第二総軍司令官畑俊六元帥は「戦災応急処理の為、中国軍管区司令官、船舶司令官、中国憲兵司令官、中国地区鉄道司令官及中国地方総監、広島県知事、広島市長に対して一時採りたる予の指揮を解く」(原文カタカナ)、という命令を発した。この命令はきわめて重要である。というのは第二総軍は大本営直属の本土防衛部隊であり、畑元帥の命令は大本営命令であり、つまり昭和天皇の命令である。日本陸軍はこの八月十五日を期して広島市への救護対策を放棄したのである。さらにいえば、このことは大日本帝国が廣島救護を放棄したことを意味する。

それにもかかわらず、従来の廣島の記録は「八月十五日、終戦となって第二総軍司令部は戦災応急処理の指揮を解除したので、以後は県・市が行うことになった」と記している。今から考えれば、あれだけの大量の死傷者を県と市だけの救護体制で救護できなかったことは明らかである。国が放棄した救護責任を県と市が背負うことにも不当である。敗戦国の被害者に対する責任放棄こそが問われるべきであろう。

番組に因れば、終戦と共に、調査の規模が一気に拡大、「国の大号令で全国から医師、研究者が召集された。調査は巨大な国家プロジェクトとなった」。

驚くべきは最初に米国に手渡した報告の作成者が陸軍となっており、報告書の日付が、45年11月15日であることだ。英訳された報告書の表紙には

Medical Report of The Atomic Bombing in Hiroshima 

(Authored by) Army Medical College, The First Tokyo Army Hospital (陸軍医学校、第1陸軍病院)

 Nov. 30, 1945

とタイトルが表記されている。

岩波書店発行の1985年発行、英文原爆レポート: The Impact of The A-Bomb (Hiroshima and Nagasaki, 1945-85)の年表によると、

November 30:

Special Committee for Investigation of A-bomb Damages(Scientific Research Council) presents first report (at Tokyo Imperial University). GHQ issues directive requiring prior permission for A-bomb research.

とある。この二つの報告(あるいは表記の差)はどう関連しているのだろうか?あるいはまったく無関係に同じ日付で偶然に報告が為されたのか?もし同一であるならば、米国に提出することのみを目的として実施された調査と、その報告であることを岩波英訳本はまったく伝えていないことになる。

番組で興味深かったのは、8月15日に、陸軍の戦後処理を任された一人である小出中佐に出された極秘命令文書を曝露していることだ。「敵に証拠を得られることを不利とする特殊研究はすべて証拠を隠滅せよ」

「戦争犯罪の疑惑から逃れるためにも、戦後の新たな日米関係を築くためにも原爆報告書を渡すことは当時の国益にかなうものだったと言います」。こう軽々しくナレーションで語るところが NHKのNHKたる所以である。しかし、原爆調査の作成が、戦犯容疑から逃れることを唯一の目的とした天皇と軍部首脳の意志であり、その欺瞞の日米政府間了解で成立した「東京裁判」が以後のニッポンを規制している(新しい日米関係!)ことを言い表して妙である。今日まで連綿と続く、米国への大股開き(開け!と要求されてもいないのに)、と、擦り寄り、その記念すべき第一号はこの調査報告であった。

当時の内情を知る元陸軍軍医少佐三木輝雄(90歳)が番組に登場した。父は医務局長をつとめ大本営に属していた。三木輝雄は報告を手渡した背景には、占領軍との関係を配慮した<日本側>の意志があったという。

三木輝雄元少佐とのインタビュー:

「いずれ要求があるだろう、と。その時はどうせ持っていかなければならない。早く持っていった方がいわゆる心証がいいだろう」

心証をよくする、とは何のためですか?(NHKインタビュア)

「731(部隊)のこともあるんでしょうね。。。新しい兵器を持てばその威力を誰も知りたいものですよ。カードで言えば有効なカードはあまりないんで。。原爆のことはかなり有力なカードだったんでしょうね」

(ナレーション)自ら開発した原子爆弾の威力を知りたいアメリカ。戦争に負けたニッポン。原爆を落とした国と落とされた国、二つの国の利害が一致したのです。

二つの<国>の利害? 日本については、この<国>に、原爆で焼かれた一般市民は入っていない。一般市民は戦争に負けたことを歓迎したのだ。敗戦に続く、戦争犯罪追求を最も怖れたもの達が、あらかじめ連合国(米国)の歓心を引くことを仕組んだのである。 軍を統帥するのは天皇である。国体護持、天皇の地位保全がもっとも重要な課題であったこのときに、軍が天皇の意向を確認せずに動くわけがない。

9月になってGHQが日本に進駐した後、それまで調査指揮に当たった陸軍小出中佐に代わって指揮をとったのが東京帝国大学の都築正男教授(海軍軍医少将)である。都築は当初から陸軍とともに調査に当たった。

都築正男と加藤周一http://radiophilia.kyumei.me/?p=127

GHQが日本に進駐後も原爆調査は拡大され、治療目的でなく、患者をモルモットとしての調査、標本作りは2年間も継続された。召集された医師、研究者はこの調査が対米報告のみを目的とすることを承知していた。例外もあったろうが、患者を治療するという医師の魂を売り渡した哀れな姿をさらしたのである。敗戦国の医師が、患者を治療するのでなくモルモット、標本として扱い、自国権力者の戦争犯罪追求、延命取引のため、戦勝国の武器効果を調査し、戦略目的の資料作成に、2年も精を出すというおそらく世界史上希な出来事が発生したのである。

1995年に『米軍占領下の原爆報告』を出版した笹本征男は、2005年に重要なインタビューを行っている。

笹本征男さん 占領下の原爆調査が意味するもの(上)
http://www.csij.org/archives/2007/02/interview5.html
笹本征男さん 占領下の原爆調査が意味するもの(下)
http://www.csij.org/archives/2007/02/interview5_1.html

 笹本征男『米軍占領下の原爆報告』目次

第1章 初期調査と原爆被害利用
第2章 日本の降伏、占領―初期日米調査協力
第3章 CACとABCCの設置と予備調査
第4章 ABCC・予防衛生研究所体制
第5章 日本政府、GHQへ「原爆傷害調査計画」を提出
第6章 原爆報道とプレス・コード
第7章 歴史の再考
第8章 原爆加害国になった日本

番組後半に現在闘病中の元山口医学専門学校学生、門田可宗(もんでん・よしとき)氏が登場する。彼は原爆投下後4日目に広島市中心部に入った(当時19歳)。彼は15日、40度の高熱、17日、歯茎と喉の痛み、19日、身体中に斑点状の多数の皮下出血という自身に発生した症状から、これは6日、原爆を被爆者と同じ症状ではないか!私は、6日には確かに廣島には、いなかったではないか!しかし、ああなんと言うことだ、私も原爆被害者になったのか、と慌てた。

彼を山口医学専門学校に訪れ、日記を書くように勧めたのが都築正男である。彼の書いた手記は本人の知らぬ間に英訳され、GHQへの報告書の一部となったのだ。いわゆる間接被爆、あるいは<入市被爆>の医学生による症状自己観察である。

番組や、番組に登場した医師は、門田さんの手記は入市被爆者に原爆症の症状は出ない、と見解をとり続けた国への重要な反証である、と言う。しかし、8月6日8時15分にどこにいたかについてはアリバイがあり(つまり広島市以外の場所)、その後、親戚捜しに市内に入り、数日後原爆症に似た症状を第三者が確認している、という例は山ほどあるはずである。医学生の手記であるがゆえに第三者確認がなくても信用される、ということがあってよいはずがない。わたしが不思議なのは、調査に当たった述べ数千人の医師、研究者たちは当然、入市被爆者(間接ヒバクシャ)の症状は知っていたのではないか、と言うことだ。大門さんのGHQレポートがなければ入市被爆者の症状も認定されないのか、という疑問。入市被爆者の裁判闘争は何十年も継続しており、その主張を大門さんやこれらの医師は知らなかったのか?あるいは、知っていても黙っていたのか(記憶の封印?)。忘れたのか(調査時に受けた被爆による健忘症?)。

敗戦するや勝者にすり寄る天皇と軍部、政府。権力者にすり寄り、医師の使命のカケラも持ち合わせなかったく研究者、医師たちの存在が、この番組から浮かび上がる。笹本征男が15年前に『米軍占領下の原爆報告』を出版した当時、なぜ、資料を多数保有しているはずのNHKが直ちに、まだ多数が生存していたはずの関係者(加藤周一も含まれる)から証言を求めなかったのか。GHQに手渡した報告の機密は米国で、とっくの昔に解かれているはずである(731と同じ。米国はいったん没収した資料はすべて日本・当時の防衛庁に返還したと言っている)。 関係者が死に絶えた頃になってやっと腰を上げるNHK。米国が65年間も封印を命じたのではない、権力者にオモネって勝手に自主規制しているだけではないか。

わたしは加藤周一についてブログ記事を何件か書いたが、終戦時の廣島における調査について加藤がほとんど書いていないことはひとつの疑問であった。加藤ならばこの調査が天皇の直接間接の命令に発することは容易に推測したはずである。

前記の笹本征男インタビューから関連部分を引用しておく:

──引き合いに出して、ご本人はつらいかもしれませんが、加藤周一さんが『羊の歌』で──当時は東大の血液学教室の助手だったかな──その記述が少し出てきますね。命令を受け、派遣されていった、調査の中で没頭する日々があったという記述が2ページくらいにわたって出てきたと思いますけれども、それだけ読んでも、原爆調査が誰が何を意図して行なったのかについては触れないままで、その時の印象しか語られていませんね。それでもその記述はきわめて例外的な、本当に稀な例だと思いますが、きっと彼のような立場の人は膨大にいて、今おっしゃったように、本当はわかっていた、わかっているが故に口をつぐんでいる、という構造がずっと続いているのだと思うんです。

 僕は本で加藤周一さんのことを書いていますから、僕の本が出た後、おそらく何人もの人が加藤さんに接触を試みているでしょう、加藤さんは会うことを全部拒否しているはずだけどね。あまり個人のことは言いたくないんですけど、せめて加藤さんしかいないんですね、原爆調査に従事した人でああいう風に語っている人は。今年の3月10日の朝日新聞夕刊の連載「夕陽妄言」で加藤さんが、いわゆる米軍の東京大空襲のときの随筆で、当時を回想していた。その記事を強烈に覚えているんですが、加藤さんは医者として書くんですね。当時米軍の空襲で戦災者が傷つけられて来ると、私は医者だから治すために治療するんだと書いているわけですが、突然8月6日の話になり、加藤さんは調査と観察のために広島に入ったと書いていた。治療のために入ったとは書かないんですよ。彼には僕の本を送っているから、読んでいると思うんですよ。それでなおかつ、調査と観察のために行ったと書くんです。

 国から命令されたとなぜ書けないのか。なぜそこまであなたを国が縛るのですか、と僕は言いたいです。加藤さんでもそうなんです。これが原爆調査問題の底深さです。そこには個人がいなかった。個人の自由がなかった。ならばそれを認めなさいよ、もう。思想の自由も学問の自由もなかったんだから、あなたは一つの部品として動いたんでしょう、と。でも部品ではなく人間なんだから、もう声をあげて下さい……。僕の加藤さんへの思いはこういうことです。

 だから僕は原爆調査に関わった人間の名簿を作って本に入れた。あれは報告書を元にして作った名簿です。実際に参加した人間はあの数倍いますよ、あるいは数十倍はいますよ。延べにすれば何万人ですよ。現地の陸海軍の兵士なんて入っていないからね、看護婦さんとか全部入ったら……。

 繰り返しになりますが、原爆被害国日本がなぜ、ここまで敵国アメリカ、原爆投下国アメリカに対して国家をあげて調査協力したかという問題は、60年経っても70年経っても語り継がなきゃいけない問題ですよ。それまで日本帝国が行った全ての植民地支配、中国などへの海外侵略の総仕上げなんですよ、これは。その歴史があるから、この原爆調査を日本側は本気でやったんですよ。

 あの原爆被害者の姿を見ていたら、敵が使うのをわかっていて報告書を作って、果たして敵軍に渡せるものなのか。米軍が来て、報告書を出せと言われたが、渡さなかったので米占領軍の軍事裁判にかけられた人間がいたといったような話が一つでもあれば、僕はこんな本は書かないですよ。でもそうした日本側の抵抗は本当に皆無なんです。

この番組の取材協力者の筆頭に笹本正男の名前がある。笹本正男は今年3月に亡くなっている。なお、笹本の著書の副題<原爆加害国になった日本>は分かりにくい表現である。原爆加害国にすりよって資料を売り渡し、自国の被害者を救出するどころか見捨てる役割を果たしたことを<加害国>というのは問題をはぐらかす。「原爆加害者になった日本政府と科学者たち」とするのが適切だろう。戦争(犯罪)は国家が市民に加害する<国家悪>なのであり、国家間取引により、罪を相殺させてはならない。戦争犯罪は、加害者(政府) 対 市民犠牲者の枠組みで、戦争の勝敗とは無関係に裁くべきである。

番組は「。。米国に渡された一万ページ、181冊に及ぶ原爆調査報告は原爆被害者の治療のために使われることはありませんでした」のナレーションで締めくくられる。しかし、これは結論ではなく問題の出発点である。

付記(8/11)

<ニッポンの名誉>のために言っておけば、自国民を核の実験台に使ったのはニッポンだけではない。

アトミックソルジャー atomic soldier@wiki

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC

Atomic Bomb Test on human subjects

http://www.youtube.com/watch?v=Bz9g_rl2JnU

付記2: (8/14)

図書館から次の本を借用した:

河井智康著『原爆開発における人体実験の実相―米政府調査報告を読む』(2003年、新日本出版社) 

目次

序論 なぜ今この書を著すのか
第1話 病院患者へのプルトニウム注射
第2話 精神障害児へのラジオアイソトープの投与
第3話 囚人を使った睾丸放射線照射
第4話 兵士による核戦争被害の実験
第5話 ウラン抗夫の被曝体験調査
第6話 マーシャル人の被曝体験調査・実験
第7話 その他の2つの実験
まとめ アメリカの人体実験をどう見るか
解説 人体実験をもたらした核軍拡競争と核兵器廃絶の展望

本書はクリントン大統領の要請により設立された<人体放射線実験に関する諮問委員会>の最終報告の解説書である。"Final Report -- Advisory Committee on Human Radiation Experiment"

報告書序文から引用する。

「1994年1月15日、クリントン大統領は、冷戦のさなか米国政府または政府の資金援助を受けていた機関が、電離放射線を人体に対して使用または被爆させるという非倫理的な行動を指摘した報告の増加に答える形で、人体放射線実験諮問委員会を設立した。大統領は人体放射実験と故意に環境への放射線の放出の歴史を暴露すること、それらの事実を吟味するにあたっての倫理的、科学的な規準をつきとめること、また、過去に行われた不正が繰り返されることのないように勧告を出すことを我々に諮問した。(中略)

1994年4月21日、初回会議初日の最後に大統領は我々をホワイトハウスに招き、我々が着手しようとしていることに対しての個人的な決意を述べた。大統領は我々に、公平であり、徹底的に調査し、不幸で理解しがたいこの国の過去に光を当て、真実を暴くことを恐れるなと熱望した。大統領は、我々の一番重要な任務は米国民にすべてを知らせることだと述べた。それと同時に、人体放射線実験がどのように行われていたか現在と過去を比較し、米国民を守るために連邦政府の政策を変える必要があるかを見極める必要があるとも述べた。この報告書は、諮問委員会が過去を調査した経緯と現況の調査報告から構成されている。」 (強調表示は古井戸)

日本政府が、終戦直後に実施した原爆調査の実態、731部隊が行った生体実験の詳細、。。に関する調査を行う組織を戦後、設立し、国民に対して報告を行った。。ということはもちろん無かった。積極的に証拠の隠滅を図ったのである(米国には渡した。米国から返却されても知らんふりを決め込んでいる)。


健忘症の季節 [戦争・原爆]

いま『ヒバクシャからの手紙』、をNHK総合が放映している。
http://www.nhk.or.jp/hiroshima/tegami/

番組案内:
ヒバクシャからの手紙~そして ヒバクシャへの手紙~ 
放送日 :2010年 8月 9日(月)
放送時間 :午前0:10~午前1:00(50分) 
番組HP:
http://www.nhk.or.jp/hiroshima/tegami/

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広島・長崎に原爆が投下されて65年。忘れられないあの日の光景、大切な人を失った心の傷、その後の差別。被爆者から寄せられた「手紙」を生放送で朗読する。
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写真家…大石芳野,【司会】周山制洋,【朗読】杉浦圭子,塩屋紀克 ~NHK広島放送局・広島平和公園・長崎平和公園から中継~
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いかにもNHK好みの番組である。この内容なら世界のどの国の視聴者からも政府からも抗議は来ないだろう。安心して放映できる。

原爆被害者やその家族からの手紙を読み上げる番組。
歴史を知らない人がこの番組を聴くとゲンバクとは自然災害(神戸地震、新潟地震などの)だろうか?と思うだろう。いや、NHKの企画担当者も実際、ゲンバクを自然災害と思っているのだろう。

原爆とは自然災害ではない。戦争犯罪である。
ヒバクシャの手紙、と言うな。戦争犯罪被害者の手紙と言え。

まるで吉永小百合の原爆詩朗読である(NHK好み、の番組)。

たまには、。。
中国の、朝鮮の、フィリピンの、マレイの、台湾の、シンガポールの戦争犯罪被害者からの手紙を海外からも募集、翻訳・朗読、さらに当地の天皇・日本軍による侵略戦争被害を詠んだ詩も朗読したらどうか。

毎年8月のこの季節は、戦争加害者であることを忘れたい人々が跋扈する、健忘症の季節。


『米軍占領下の原爆調査』の著者、笹本征雄へのインタビュー(2005年)の一節:

> 原爆を作って、投下したのはアメリカです。この「アメリカ」という主語、つまり行為主体としてのアメリカというのが大事です。その集会で僕が一番感動したのは、ブラジルから来た被爆者の盆子原邦彦さんの挨拶なんです。彼は、原爆を投下したアメリカ政府に対する批判をはっきり「アメリカ政府」という言葉を使って言うわけです。日本政府についても「日本政府」とはっきり言いまして、「日本政府」は自分たちを含めた被爆者を差別してきた、放置してきたと指摘しました。もっと感動的だったのが、自分は日本人だが、少なくとも歴史的に考えれば韓国人被爆者の援護は私たちより先にあるべきだと言ったことです。日本の植民地支配によって「強制連行」などで日本に渡ってきた人たちは、日本人より先に援護されるべきだと盆子原さんはおっしゃった。僕は非常に感動した。つまり、彼はアメリカを主語にして語ることができたんです。その後女性だけが集まった分科会にも出ました。一人のフィリピンから来たフィリピン人の老女性がタガログ語で話したのですが、彼女もやっぱり主語をはっきり言いました。「私の村に、1944年11月23日に日本軍が侵略してきた。その時私は13歳だった。日本兵が私を陵辱した」と。「日本軍、日本兵」と明確に言うわけです。

笹本征男さん 占領下の原爆調査が意味するもの(上)
http://www.csij.org/archives/2007/02/interview5.html

 

わたしの母もそうだが、原爆被害を受けた人々(そう国家から認定された人)は俗にいう『原爆手帖』が公布され、医療費はすべて無料になっている。日本の国税から医療費が支給されるのだ。戦争は人災である、自然災害ではない。人災による、しかも、犯罪行為である市民に対する意図的攻撃による被害をなぜ、被害者自身の金でまかなわねばならぬのか、という疑問を持ったことがあるか。あたかもこういう疑問など持ってはならない、それは国是にハンする、がこの国の常識のようである。

 

戦争の勝敗とは無関係に、戦争犯罪被害(一般市民に対する加害)は、加害国が、被害者個人に対して全面的に(対物、対人の)賠償責任を、時効無く、負う、と国際規定をもうけるべきである。これを国連で宣言せよ。この規定がないから、軍事大国が平気で(賠償責任のことなどまったく考慮せず)他国の一般市民を殺し、戦争犯罪が尽きることがないのだ。交通事故で人を殺傷し、財産を損壊すしても賠償責任が無いのであれば無謀運転の尽きることはないだろう。同じことである。

自然災害の報道には、災害の予知法、予防法も合わせて報道する。核戦争を防ぐには、<核抑止力>は必須です(ニッポン政府が戦後、ずっと米国から押し付けられ、嬉々として米国からアウトソース=購入、している)、とでも言うのか。

 

松岡環編著 『南京戦  閉ざされた記憶を訪ねて』
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2007-03-11


Increasingly Loopy PRESIDENT  イカレタ核の行商人 [戦争・原爆]

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世界の核弾頭をほぼ独占して製造、保有し、核実験をくり返してきた核テロ国のプレジデントが、核テロ撲滅を叫んで世界の酋長を呼び寄せる、というのだから、イカレテないかい?

Yes, You are the Loopy President!

... と、Loopyなワシントンポスト記者がタマゲたそうだ。


Mainichi Daily News記事:
Japan displeased by U.S. newspaper column calling Hatoyama 'loopy'
http://mdn.mainichi.jp/mdnnews/news/20100416p2g00m0in019000c.html
TOKYO (Kyodo) -- Chief Cabinet Secretary Hirofumi Hirano expressed displeasure Thursday with a Washington Post column that called Prime Minister Yukio Hatoyama "increasingly loopy," saying it lacked due courtesy to a national leader.

In a column in Wednesday's edition of the major U.S. daily, Al Kamen wrote that "by far the biggest loser" at the Nuclear Security Summit held in Washington earlier this week was "the hapless and (in the opinion of some Obama administration officials) increasingly loopy" Hatoyama.

The columnist said Hatoyama reportedly could not have a bilateral meeting with U.S. President Barack Obama, despite requesting one, on the sidelines of the major event. The roughly 10-minute informal talks Hatoyama and Obama held during a working dinner were "the only consolation prize" the prime minister got, he said.


LoopyなPresidentと10分以上話すと、鳩山のアタマがマスマスLoopyになっちまうよ。Loopyな政府高官君&記者君。

 

#

鳩山首相は、腹をくくるべきではないか?

唯一の核被爆国として、さらに、わが国が国連復帰に当たって世界から承認された憲法の前文の精神にしたがって、次の非核宣言をすべきではないか?

                
を使用した場合、先制攻撃であっても、報復であっても、被害を受けた市民(兵士は除く)に対し、無制限、時効無しの賠償責任を核使用国と発射基地提供国は負い、さらに、被害地域の対人、対物の原状回復責任を負うモノトスル。


ニッポンに対して核攻撃があった場合も、ニッポンは報復しない。市民は喜んで死ぬ。(ただし、上記の賠償を攻撃国に対して求める)


と、宣言し、この宣言にしたがい、ニッポンは核抑止を求めない、核の傘にも入らない、外国軍の基地も置かないと、世界に向かって宣言すべきではないか。

Loopyな大統領・政府職員や、Loopyな世界のマスゴミ、さらに、Loopyな日本の防衛族、外務省から、Loopyと言われるのは名誉なことである。

米国内(政府、議員を除く)を含め、この宣言を支持するLoopyでない市民が世界に多数いることは確実である。グローバルな支持とは政府からの支持ではなく、歴史感覚を持った世界の市民からの支持をいう。ヒロシマ、ナガサキを経験した日本と世界は、日本国内は言うに及ばず、世界のどこかの都市で三発目、四発目、五発目。。の核爆弾が破裂し何十万の市民が爆死・被爆したとき、それ以後の世界を、何に希望をもって生きぬくのか。無意味の世界に耐えて生きていけると思うか?地震や津波で住民が死ぬのと分けが違うのだ。

 

イカレタ、washington post記者は言う:

Arguing that the Japanese government has yet to propose an alternative plan for Futemma's relocation, the columnist said, "Uh, Yukio, you're supposed to be an ally, remember? Saved you countless billions with that expensive U.S. nuclear umbrella?"

「ユキオ。米国の妾だろ?米国の傘の下で何十億ドルも節約したんだろ?」

米政府高官を代弁している。鳩山君。日本はいつまで、米国に大股開いているんだ?核の商売人=オバマの臭いケツをいつまで舐めているつもりだ!いい加減に見返したらどうだ?!と、諫めているんだよ。アハハ。

 

オバマは先日、NPT加盟国で核を持たない国に対して核攻撃(先制も報復も)を仕掛けないが、NPT非加盟の北朝鮮とイランを、核攻撃の対象とする、と発表した。では、イスラエルや、インド、パキスタンはどうなのか?とんだダブルスタンダードである。NPT加盟・非加盟は関係なく、核・非保有国は、核保有国に対して、先制・報復の区別無く、核を使用した場合、あるいは事故により周辺国住民を被爆させた場合、無制限・無期限の賠償責任を課すべきである(NPTに追加・修正)。これ以外にイカレタ核保有国を御する手段はない。


倫理的な戦争 [戦争・原爆]

毎日新聞4月4日

今週の本棚: 

『倫理的な戦争   トニー・ブレアの栄光と挫折』=細谷雄一・著
 ◇五百旗頭(いおきべ)真・評  (慶應義塾大学出版会・2940円)http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20100404ddm015070009000c.html

###全文引用 

◇信念ゆえに引き裂かれた指導者の軌跡
 久しぶりに感銘をもって読んだ国際関係の書である。感銘を覚えるのは、われわれが国際関係と日本外交について直面している主要問題について、本書がトニー・ブレア英国首相の思考と軌跡を通して深い良質の考察を行っているからである。

 たとえば、日本外交の主要問題はアメリカとどう交わるかである。米国は圧倒的重要性を持ちながら、必ずしもこちらに向き合って行動してくれず、一方的思い込みからベトナム戦争やイラク戦争に走ったりする。そんな時、同盟国は距離をとって批判的にたしなめるべきか、あえて懐に飛び込み同行しつつ影響力を保つべきか。後者を純度高く実践したのがブレア首相であり、ついで小泉純一郎首相であった。

 本書の著者はかつて『外交による平和』(有斐閣)を著して、英国の外交指導者A・イーデンが米国との連携を切望しつつ、不実の巨人に留(とど)まる米国にいらだち、ついに自らスエズ戦争の愚行に走るケースを検証した。ブレアはイーデンよりも深く米国大統領と親交を結び、その心をつかんだ。しかしイラク戦争を国際正義と国際協力の枠組において行うよう米国を説得し切れなかった。米国は結局のところ米国自身の想念と国益定義において行動した。

 日本外交にとって、日米関係と、台頭するアジアとをどう関連づけるか、それが二一世紀の中核的問題である。ブレア首相はよどみなくヨーロッパに深くかかわり、一員であるに留まらず欧州のリーダーとしての役割を果すに至った。それでいて同時に米国との例外的緊密さへと突き進み、米国と欧州の「架け橋」たることを英国の任務とした。日本は米国とアジアの間で同じことができるだろうか。「英国は大国ではない、しかし中軸国家(pivotalpower)でなければならない」。同じ言葉を日本の首相は発することができるだろうか。

 戦後日本が戦争と平和の問題から解放されることはなかった。第9条の下、侵略戦争は絶対不可であるが自衛戦争は許されるとの二分法が基本であった。しかし冷戦終結後の湾岸危機を経験して、平和維持や災害救援のためなら自衛隊を海外派遣しうると改めた。国際基準はもっと進んでいる。自衛の場合のみならず、国連安保理の決定に基く場合、軍事力行使は可である。加えて、ブレアの時代に「人道的介入」が国際基準に近づいた。一九九四年のルワンダの虐殺を放置したことに責任を感じる欧米指導層は、九九年のコソボでの民族浄化に対して起(た)ち上り、「保護する責任」を口にして軍事介入した。人道と正義のために戦わねばならない、それはブレアの深い信念であった。かつて観念的な平和主義の無為に漂流していた労働党を、ブレアは「倫理的な戦争」を敢行する政権党に変えた。リベラルな価値を奉ずる帝国主義といえるかもしれない。

 この観点ゆえにブレアはブッシュ大統領のイラク戦争に協力することができたが、それはブレアにとって身を引き裂くような受難を意味した。ブッシュ政権を動かすネオコンたちはリベラルな国際主義を侮蔑(ぶべつ)しており、国連決議を敵視し、イラクの戦後復興や中東和平に顧慮することなく先制攻撃へ突き進もうとした。欧州の友邦と断絶し、国内と政権内にも厳しい批判を招くブレアの英米同行劇となった。

 アジアで何か起る時、日本はブレアほど戦争と平和、そして米国とアジアの双方への深い関与を持ち得ないであろう。けれども本書が提示したブレアの強い信念ゆえのジレンマは、日本の国家戦略にとって図上演習の如(ごと)き意味を帯びている。

####全文引用おわり


評者・五百旗頭真は、防衛大学校長である(今週の本棚・書評委員)。

五百旗頭真>けれども本書が提示したブレアの強い信念ゆえのジレンマは、日本の国家戦略にとって図上演習の如(ごと)き意味を帯びている。

なにが図上演習か?と、ブレアなら言うだろう。
俺は「独立調査委員会に喚問されて証言もした。議会は、「米国と特別な関係を英国政府がもつこと」を拒否した。EUの大統領にもなれない。

コイズミを無罪放免したニッポンと英国を同列に扱うな。


ブレアは下記の記事で述べている:
チルコット委員長が「兵士遺族も傍聴している。参戦に後悔はありませんか?」と問うと、ブレア氏は「サダム・フセイン(イラク大統領)を除去したことを後悔していない。彼は怪物で世界への脅威だった」と言い切った。

こう断言する(ブッシュも死ぬまで同じことを言い続けるだろう。コイズミも)ブレアに対して英国議会や英国民はどういう言葉を投げつけるのか?ブレアなら君等はあのとき、俺を批判したか?コトが終わって俺を批判できるのか?と言うかもしれない(敗戦後、東條英機も国民や議会に対しては、こう言えたはずだ)。

しかし、たとえ事後であろうと、恥知らずといわれようと、調査委員会を開催して、首相や当時の閣僚を喚問したことは、国民や議会に何もしない(税金とヒトを消費した国策に対して国民に何の報告もしない)日本とは大違いである。


ブレアはイーデンよりも深く米国大統領と親交を結び、その心をつかんだ。しかしイラク戦争を国際正義と国際協力の枠組において行うよう米国を説得し切れなかった。米国は結局のところ米国自身の想念と国益定義において行動した。

戦争を発議するのは内閣や大統領であっても、議会の支持がなければ実施はできない。首相や喚問すると言うことは、当時の議員に対しても別の行動が取れなかったか、と反省を迫っているはずである。でないなら、第2第3のイラク戦争をどうやって防ぐのか?(もちろん、ニッポンは何度でも同じ過ちをくり返す)。


ミソと糞の区別がつかない、目糞と鼻くその区別もつかない人間でなければ、防衛大学校長は務まらない。

イラク戦争を実施したのは米国を中心とする国連軍である。国連は世界に対して、戦争が如何にして行われたか、倫理的であったのか、説明する必要があるのではないか?米英、それに日本の議会や政府も、報告書を作成し、国民に提出すべきではないか?

 

イラク戦争に「英国式けじめ」 独立調査委、首相を喚問
http://www.asahi.com/international/update/0218/TKY201002170537.htm
l2010年2月18日2時27分

英国で、イラク戦争を検証する独立調査委員会の取り組みが続いている。参戦を決断したブレア前首相を1月末に喚問し、3月初めには、ブレア政権ナンバー2だったブラウン首相(当時財務相)も呼ぶ。総選挙を控えて政治的な思惑もからむが、世論を二分する問題に一つの区切りを与える、英国伝統の知恵でもある。

 ブレア氏が喚問されたのは1月29日。6時間にわたって自分の決断の正しさを主張した。チルコット委員長が「兵士遺族も傍聴している。参戦に後悔はありませんか?」と問うと、ブレア氏は「サダム・フセイン(イラク大統領)を除去したことを後悔していない。彼は怪物で世界への脅威だった」と言い切った。

 その翌週には開戦当時の女性閣僚ショート氏が証言。「大事な情報は私たちに伝えられず、ペテンにかけられた」とブレア氏の側近政治を真っ向から批判した。

 米英が開戦の「大義」とした大量破壊兵器はイラクになく、調査委の焦点は、ブレア氏ら政権中枢が内閣や議会を「ミスリード(誤導)したか」に絞られている。

 英国は昨夏まで軍部隊をイラクに駐留させ、179人が犠牲になった。イラク戦争はまだ過去のものではなく、テレビ中継される調査委の喚問を国民は注視する。調査委はネットのホームページでも喚問記録を公開している。

 ブレア氏喚問後の英紙インディペンデントの世論調査によると「ブレア氏は戦犯として裁判にかけられるべきだ」に賛成が37%、反対57%。6割が「ブラウン首相にも共同責任がある」と答えた。

 英国では5月にも総選挙がある見通しだ。ブラウン首相の喚問は、影響を避けるため総選挙後の予定だった。ところが1月、首相自身が「総選挙前に」と申し出た。野党から「喚問がこわいのか」とあげつらわれ、逃げ腰のレッテルを張られるのを嫌ったためだ。この問題に早く区切りをつけ、風向きを変えたいとの思惑もありそうだ。

英国の独立調査委員会方式の歴史は、20世紀初めにさかのぼる。英議会は強い調査権限を持つが、二大政党制のもとで手順などをめぐって対立が起き、暗礁に乗り上げてしまうことが多かった。

 オックスフォード・ブルックス大のダイアナ・ウッドハウス教授(法学)は「政治的に中立で一般の人びとから尊敬される議会外の『賢人』に調査を委ねる方式が生まれた」という。

 これまでに設置されたのは約80件。1982年のフォークランド紛争後にはサッチャー政権の責任が問われ、「政府に落ち度なし」との結論が出された。近年では、牛海綿状脳症(BSE)や北アイルランドの流血事件をめぐる調査もあった。

 イラク戦争の調査委員は戦史研究家のオックスフォード大教授ら男性4人、女性1人。委員長のチルコット氏は元官僚。

 調査は長期におよぶため、政府にとってはその間、論争を棚上げして時間稼ぎができるという面もある。調査がうわべだけのガス抜きに利用されている、との指摘もある。

 しかしタイムズ紙のコラムニスト、ベン・マッキンタイア氏は「どんな結論であれ、そこに至る過程そのものに大切な意味がある」と言う。ウッドハウス教授も「調査委の結論に満足しない人もいるだろうが、国民的議論に終止符が打たれ、歴史のひとこまになっていく。イラク戦争調査が公開の場で歴史に刻まれていく意義は大きい」と話す。

     ◇

 〈英国のイラク戦争調査〉 イラク戦争や占領政策に疑問をもつ世論や野党の突き上げで、ブラウン首相が昨年7月、歴史学者や元外交官ら5人から成る独立調査委員会を設けた。政府の機密書類を精査し、11月から政治家、外交官、軍幹部、情報機関トップら約80人を喚問した。結論が出るのは早くても今年末。

 

 


●「2002年から戦争を画策」:イラクに対するブレアとブッシュの陰謀 / デーブ・リンドルフ
"Working the War Up Since Early 2002": The Blair-Bush Conspiracy on Iraq / DAVE LINDORFF 2009年11月25日
http://trans-aid.jp/viewer/?id=7367&lang=ja
アメリカ人のほとんどはこれについてまったく知らされないまま満足げだが、大西洋の向こう側、英国では、ゴードン・ブラウン首相が英国の反戦活動家たちからの圧力で、嫌々ながらに設置した調査委員会が、2003年に英国を米国とともにイラク侵略に導いた英国政府指導陣の行動と発言をめぐる聴聞を開始した。
昨日開始された聴聞会で証言が行われる前から、委員会が入手した文書からのリークに基づき、元首相トニー・ブレアの政府がイラク戦争計画に対する英国の関与について議会と国民に嘘をついていたとのニュースが現れていた。
週末、英テレグラフ紙は英軍幹部たちの文書を公開した。その一つは英軍特殊部隊長グレアム・ラム少将のメモで、その中で彼は「2002年の早いうちから戦争を扇動するよう」指示されていたと述べている。
ここから、2002年7月に下院の委員会の場でブレアが「イラク侵略を事前に準備していたわけでは断じてない」と述べたとき、彼は嘘をついていたことが明らかである。
委員会が証言を聴き始めると事態は加熱するだろう。委員会には、ブレア自身を含む最上層の政府高官たちに証言させる権限があり、またその意志もある

 

 

英国:米と「特別な関係」終幕 国内、オバマ外交に不満--下院委が報告書
http://mainichi.jp/select/world/news/20100329ddm007030040000c.html
 【ロンドン笠原敏彦】英下院外交委員会は28日、英米関係に関する報告書を公表し、両国間の「特別な関係」はもはや実態を示していないとした上で、米国に対し「いとわずにノーと言う」べきだと勧告した。オバマ米政権が多極化する世界で相対的に英国・欧州への関心を薄める中、両国関係にはきしみが目立っている。報告書は英国の伝統的な外交姿勢の変更を求めるもので、流動化する国際秩序を反映している。

 「特別な関係」という表現は、チャーチル元首相が1946年の「鉄のカーテン」演説で言及。情報・軍事面で密接な協力関係を持つ両国の関係は、80年代のサッチャー首相とレーガン米大統領による対ソ連強硬路線などに象徴される。英国にとってこの関係は国際社会で「実力以上の影響力」を発揮する基盤となってきた。

 英メディアによると、報告書(244ページ)は「特別な関係」という表現を今使うことは「英米関係が英国にもたらす利益について非現実的な期待を生む」と指摘し、「その使用は避けるべきだ」と結論付けている。

 その弊害については、03年にブレア首相がブッシュ米大統領と肩を並べてイラク開戦に突き進んだ教訓に触れ、「英国は米国の従順なプードル犬との認識が海外にも広がったことは、英国の評価と国益を大きく傷つけた」と指摘した。

 報告書は英米関係が「重要で貴重」と認めながらも、「英国が米国を常に敬う必要はなく、利益が異なる場合はノーと言うことをいとうべきではない」と勧告した。背景には、外交の多角化が必要との認識がある。

 ゲイプス委員長は「長期的に見て、英国が過去のように米国に影響力を行使することはできなくなるだろう」と述べた。

 英国内には、米国の戦略的な関心が大西洋から太平洋にシフトし、オバマ政権が「特別な関係」に十分な関心を示していないとの不満がある。英軍はイラクやアフガニスタンで多くの犠牲を払っているが、米軍は英軍に大きな期待はしていないとの指摘も強い。

 最近では、石油資源開発をめぐるアルゼンチンとの対立で、米国が「中立的立場」を取っていると英メディアが米国を批判するなど、両国間の溝は深まっている。

 英国では5月6日投票とみられる総選挙を前に、国際社会の中で果たすべき役割についての議論が生まれている。経済危機のあおりで軍事費の大幅削減を迫られる中、「国力低下」と「米英間の戦略的志向の乖離(かいり)」を認識した論議で、報告書は一石を投じそうだ。


歳は取りたくないモンダ [戦争・原爆]

本日の毎日新聞。「今週の本棚」は終戦記念日特集。

高齢かつ高名な書評家、<今週の本棚>主宰者=丸谷才一が直々に、終戦を論じた短文を寄稿している。

http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2009/08/20090809ddm015070026000c.html
●全文を引用する

 ◇仔犬を抱いて笑う少年特攻兵の写真は悲しい
 アメリカ軍は九州上陸を「オリンピック作戦」と名づけ、昭和二十年(一九四五)十一月一日におこなうことにしていた。関東攻略は「コロネット作戦」で、翌年(四六)三月一日開始の予定だった。

 大本営情報将校堀栄三はこれを推定していた。彼のもとに毎日とどく、アメリカのラジオ放送を傍受した記録を丹念に見てゆくうちに、製薬会社と缶詰会社の株があがると何ケ月後かにかならず新作戦がはじまることに気づいたのだ。

 一つにはこの株の動き。第二には、四五年五月のドイツ降伏後にアメリカ兵にしばらく休養を与えなければならないし、第三に、日本の九月は台風、十一月、十二月は寒さがある。第四にアメリカ軍は何かのメモリアル・デーに作戦をおこなうのが好きだけれど、この期間、その種の日はないから、区切りのよい日にするだろう。そこで十月三十一日か十一月一日と予測した。オリンピック作戦が志布志(しぶし)湾、吹上浜、宮崎沿岸の三方面から同時にということも、攻撃側は守備側の三倍の兵力を必要とするから二十四個師団がつぎ込まれることも、見抜いていた。

 戦後、彼の分析はほぼ当っていたことがわかる。ただし堀参謀の頭脳の冴(さ)えはむなしい。作戦参謀は情報部を軽んじ、一顧だにしなかった。
 
これは日本軍の体質をよく示す挿話。日本軍の指導者たちは知性を軽んじたし、国民に対しても君主に対しても責任感が乏しかった。思考が非論理的で、数値になじまなかった。サイパンの砲撃でアメリカ軍の戦艦一隻が持っていた弾量は千九百トン。その半分を使って陸上の目標に艦砲射撃をおこなえば、殺傷と破壊の能力は地上師団五個師団分に相当する。アメリカ軍は地形が改まるほどの艦砲砲撃を一週間つづけ、上陸地点で日本軍がまったく抵抗できないようにしてから上陸する。サイパンにおけるこの体験で、同じことを九州でも関東でもされることがわかっていながら、日本軍の上層部は本土決戦とか一億玉砕とか叫ぶのをやめなかった。長野県松代の地下に設けた大本営は、天皇と内閣を巨大な地下壕(ごう)に幽閉していつまでもこの国を支配したいという空想的願望のための装置である。


 保阪正康の『昭和史の大河を往(ゆ)く』(毎日新聞社・一四七〇~一五七五円)は、第一集『「靖国」という悩み』から第六集『華族たちの昭和史』まで、同時代の現場を着実的確にたどってきたあげく、この第七集『本土決戦幻想--オリンピック作戦』において、突如、奇想天外な大業をかける。八月十五日に降伏しなかったら、日本と日本人はどうなっていたかという、あり得たかもしれない歴史をつきつけるのだ。保阪によれば、秋になっても降伏しない日本はもはや国家の体をなしていない。天皇や鈴木内閣の意に従おうとする終戦派に対し、本土決戦派がクーデターを起し、後者が勝てば、天皇および次期内閣が松代に軟禁される。当然、ソ連軍は北海道と東北に侵入する。しかし決戦派は諦(あきら)めないかもしれぬ。

 十月二十五日(十一月一日のマイナス七日)にはアメリカ戦艦群による艦砲砲撃が開始。二十七日には米軍が、防備の手薄な甑(こしき)島などに上陸。十一月一日、侵攻部隊が浜辺に近づくと、特攻機が突っ込む。艦隊の集結している所へは人間魚雷などで攻撃。その他の特殊潜航艇や攻撃艇などが特攻作戦をおこなう。

上陸した米軍との地上戦になると、米軍戦車にくらべて日本軍の戦車および対戦車砲ははるかに劣弱。火焔瓶(かえんびん)、手投爆雷による特攻作戦をおこなう。このあとが民間人による戦闘で、大本営の「国民抗戦必携」は、刀、槍(やり)、竹槍、鎌(かま)、ナタ、玄能、出刃包丁、鳶口(とびぐち)を用いてアメリカ兵の腹部を突き刺せと教える。

 米軍は、九州には五十六万人の日本兵が集結すると見ていた。その抵抗が長びけば、もう一度、原爆が九州に投下されたかもしれぬ。ただしここで保阪は、アメリカ人がよく口にする、原爆投下はやむを得なかったという説に同調するような言辞は弄(ろう)さない。

 本土決戦となれば敵が近くにいるから特攻作戦に有利、というのが軍人たちの理屈だったらしいが、しかし特攻とはまことに非人間的な戦術で、たとえば特攻機「桜花」はありていに言えば人間爆弾にすぎない。日本軍上層部の、体面を重んじる官僚主義が最も悪質な形で発揮されたとき、年少者や民衆にこんな形での抗戦を強いる発想が生れた。

 『本土決戦幻想』には朝日新聞社カメラマンが鹿児島の万世(ばんせい)飛行場で撮った、五人の少年航空兵の写真が載っている。四五年五月末、出撃前の彼らの一人は仔犬(こいぬ)を抱いて笑っている。自分が乗り込む特攻機に爆弾を装備するのを見ているとき、近くを歩きまわっている仔犬を見つけて抱いたという。抱いているのは十七歳の荒木幸雄伍長。ここでわたしは言葉が涙に濡れないようにして書くが、これは昭和日本の最も悲しい写真だろう。

 まったく新手の昭和史を保阪は書いた。翌年三月以降、関東でのことは第八集『コロネット作戦』で。
●引用終わり




文藝評論家とは奇天烈なことを言うものだ。

1 「堀参謀が。。。オリンピック作戦が志布志(しぶし)湾、吹上浜、宮崎沿岸の三方面から同時にということも、攻撃側は守備側の三倍の兵力を必要とするから二十四個師団がつぎ込まれることも、見抜いていた。」

  見抜いていたのは堀参謀だけか?そんな馬鹿な。すでに米軍の沖縄戦を終えたあと、いつかの時点で本土侵攻は誰しも予想していたところではないか。
 <アメリカ軍は地形が改まるほどの艦砲砲撃を一週間つづけ、上陸地点で日本軍がまったく抵抗できないようにしてから上陸する。サイパンにおけるこの体験で、同じことを九州でも関東でもされることがわかっていながら、日本軍の上層部は本土決戦とか一億玉砕とか叫ぶのをやめなかった。>

 一億玉砕を叫ぶのをやめなかったのは軍上層部だけか?国民のほとんどがそうだったんじゃないか?


2 「この第七集『本土決戦幻想--オリンピック作戦』において、突如、奇想天外な大業をかける。八月十五日に降伏しなかったら、日本と日本人はどうなっていたかという、あり得たかもしれない歴史をつきつけるのだ。」

どうして本土決戦が<奇想天外>なのか?沖縄で何が起こったかを考えればつぎに、本土で同じことが起こる、と考えるのがごく自然じゃないか。降伏しなければ、本土で沖縄と同じ戦いが繰り広げられたのである。したがって、「原爆を投下されなくても降伏というオプションがあり得たか」という設問を吟味しなくてはならない。


3 本土決戦になれば何人の死者が出たか。

> 米軍は、九州には五十六万人の日本兵が集結すると見ていた。その抵抗が長びけば、もう一度、原爆が九州に投下されたかもしれぬ。ただしここで保阪は、アメリカ人がよく口にする、原爆投下はやむを得なかったという説に同調するような言辞は弄(ろう)さない。

米国では原爆投下により、数十万~100万の米兵の命を救った、という信仰がいまだにまかりとおっているらしい。しかしそれは他国の考えること。勝手にしたらいい。しかし、本土侵攻により何人の日本兵、日本国民が死んだか?くらいはもっと正確に予想すべきではないか。とくに原爆投下を非難する論者は。

九州への侵攻が十月、関東(本土)への攻撃は翌年3月。十分あり得たシナリオである。侵攻とは別に、米軍による大都市への無差別爆撃はひっきりなしに行われ、工場、輸送路(橋梁、鉄道など)の破壊が行われたらどうなるか?餓死者が一千万人出たかもしれない、というのは途方もない想定ではない。フィリピンのレイテ島で起こったことが日本でも十分起こりえた。

くりかえすが、原爆投下がなかったら、本土の沖縄化がかならず起こった。降伏のタイミングは、天皇の命を保証する、と連合国が認めたときしかなかった。本土侵攻をやれば米軍にも沖縄をはるかに上回る死者数が発生したろう。この時点で天皇の命を救うメリットは、全くないのである。

原爆は、天皇(象徴として生きのびた)と軍人(責任をほとんど問われず、幹部は戦後、自衛隊に横滑りした。官僚も同じ)、多数の国民の命を救ったのだ。この結論で不満のむきは自分でシミュレーションをやったらよかろう。


原爆で死んだ市民達には「あなたたちがいたおかげで私たち(天皇、軍人、国民の大多数)は、罪を問われず、無反省に戦争を生きのびることができました」と感謝すべきである。

原爆投下が非人道的なのは、日本軍が中国大陸で行った毒ガス使用、無差別爆撃、731部隊の生体実験が非人道的なのと同じである。何十万~何百万の国民の死を経過しなければ、降伏しない、という非・民主的国家の存在が本質である(ロールズの原爆投下不正論はこの問題を検討していない)。


対・英米戦争の日本軍死者200万のうち6~7割は餓死、病死である。敗戦記念日に、天皇と政府代表は戦死者に対し、政府・軍の誤った作戦により死ななくてよい死においやったことを謝罪し、国民に対しても空襲による財産と人命の喪失、なにより非人間的な生活を長年強いたことに対し謝罪すべきである。


丸谷「。。四五年五月末、出撃前の彼らの一人は仔犬(こいぬ)を抱いて笑っている。自分が乗り込む特攻機に爆弾を装備するのを見ているとき、近くを歩きまわっている仔犬を見つけて抱いたという。抱いているのは十七歳の荒木幸雄伍長。ここでわたしは言葉が涙に濡れないようにして書くが。。」

馬鹿馬鹿しい。
歳を取ればこんなことで涙が出るのか。負けるとわかっているイクサを己の命欲しさだけのために国民と兵士の命を犠牲にしてまで降伏しなかった天皇を巧妙に無罪放免したがるこの老作家(。。日本軍の指導者たちは知性を軽んじたし、国民に対しても君主に対しても責任感が乏しかった。。)。歳は喰いたくないモンである。




「原爆投下はなぜ不正なのか?」  ロールズ、ウォルツァー論文を読む [戦争・原爆]

雑誌『世界』1996年2月号を図書館で借り、ロールズが雑誌『Dissent』(誌名は、反論というほどの意味か)に掲載した論文 Fifty Years After Hiroshima、をコピーして読んだ。Dissent誌は政治学者ウォルツァーらが主宰した左翼系雑誌。ロールズがこれに投稿するのはこの時が初めてであった。『世界』には、ウォルツァーの論文『核抑止論が無効である根拠』も載せている。ロールズ論文の長さは10頁前後と短いが、敗戦直前の日本側の事情もよく捉えているようだ。ここの論点には異議があるが、ロールズが強調しているのは、戦争を遂行した政治家や上位軍人と、兵士ではその責任に大きな差がある、ということ。政治家に高い識見と先見性とモラルを要求している。

220px-原子雲.jpgwiki 原爆

ロールズは冒頭の2頁(本論文の第一章)で、戦争における法=武力紛争法に関して六つの原理、想定を紹介している。論議の多い内容だろう。
1 【正しい戦争の目標】
まともな(decent)民主社会が当事者となる正しい戦争の目標は諸民衆の間 -- とりわけ目下の敵との間 -- に成立すべき正しくかつ永続的な平和である

2 【敵国の政情】
  まともな民主社会の戦争相手国は、民主的ではない国家である。このことは、民主的な民衆は相互に戦争を起こさないという事実から帰結する。

3 【戦争責任の軽重】
  戦争を遂行する上で、民主社会は三つの集団 (1)相手国の指導者と要職者、(2) 兵士たち (3) 非戦闘員である住民 -- を注意深く区別しなければならない。

4 【人権の尊重】
  まともな民主社会は、相手国の非戦闘員、兵士双方の人権を尊重しなければならない。これには二つの理由がある。諸民衆の法(the law of peoples = 国内法の枠を越えた普遍妥当性を有する「万民法」)に基づいてこそ、民間人・兵士ともにそうした人権を有しているから、というのが第一の理由。第二の理由は、こうした戦時においても人権が効力を有するという実例を自ら率先垂範することによって、敵国の兵士および戦闘員に人権の内実を教えるべきだということ。そうすることで、彼らは人権の意義を心底から悟ることになろう。

5 【戦争目的の公示】
  人権の中身を教えるという(4の)思想の延長として、この原理が成立する。すなわち、軍事行動と(交戦国や国際社会に対する)声明・布告との両面にいて正義を自負できる民衆は、自分たちが目標とする平和がどのようなものであるか、自分たちが求める国際関係はどのようなものなのかについて、戦争中においてあらかじめ示すべきである。この二点を明示することにより、民主的な民衆は自分たちの戦争目標の性質を示し、自分たちがどのような民衆であるかについても公然かつ公共的な仕方でもって提示する。戦争目標と国際関係のありようを示すべき義務の大半は民主的民衆の政府関係者・要職者の双肩にかかってくる。

6 【目的と手段の選択】
  実践的な目的=手段の推論が果たすべき役目についてとくに言及しておく。戦争目的を達成するための軍事行動や政策が適切かどうかを判定するための思考様式は、つねに上述の五原理の枠内で構成され、これらの原理によって厳格に限定されたものでなければならない。


ロールズの定めるこの基準はかれが戦後(ロールズは大学を卒業後兵役に付いた。兵士として終戦直後、日本に来たこともある。兵士の経験から厭戦家になったそうだ)、米国の戦争経験から学んだ知恵が大きく寄与しているに違いない。この基準を遡及的に過去の戦争に適用しているのだ。


先回りになるが、オバマや民主党(日米とも)がロールズの戦争基準をたたき台にして国連で認知された戦争基準の確立にむけ、国内外の反対を押し切って世界の民主勢力を説得、結集すればリンカーンに並ぶ英雄になるだろう。紛争を国際的に監視する常設の戦争裁判所の設立を望みたい。公共正義を論じる日本の政治学者もロールズの本論文をもとに戦争原則~平和的紛争処理の諸原理を論じ、パンフレットにして21世紀を生きる若い学生、生徒に配布すべきではないだろうか。年寄りに希望はない。

ロールズによる「原爆投下は不正」だった、とする判断はこの小論による根拠だけでははなはだ薄弱である。戦争の帰趨が見えている時点で日本への上陸・侵攻は不要だった、という。また投下を根拠付ける<危機的事態>も生じていない。さらに、トルーマンが「日本人はを野獣として扱う以外にない」と述べたことに対し、ナチスや東條に率いられた日本軍部についてならそう読んでいいかも知れないが、だが彼ら(指導者)はドイツの民衆、日本の民衆ではない、と。「感情を野放しにせず、平和を希求する民主的な民衆が歩むべき最善の進路を踏み外さないよう努めること、これが政治家たるものの義務なのである」

そして

「立憲民主制とその政体が尊重すべき権利・義務の基礎を正当化すること、これは(ただしい戦争についての論議と)同様に、公共的な政治文化の不可欠の要素であり、市民社会のさまざまな連合体の中で論じられるべき、公民教育の大切な一部分なのである。日々執りおこなわれるありきたりの政治の中では、そうした正当化の議論に耳をかす人が必ずいるかどうかわからない。けれども、これは特別の情況を例外として、政治の日常的主題に取り上げられることはなくても、政治文化の背景をなすものとして前提されていなければならない。そうした諸原理は根本的に重要なのだという把握が事前に十分ゆきわたっていなかったので、諸原理を国民の前で打ち出したとしても、たぶん実践的な目的=手段の推論の説得力を押さえつけることはできなかったろう。実践的な目的=手段の推論は、生存者・死傷者の人数の算定、戦争を終わらすための最短期間、その他の費用・便益の差引勘定といった観点からなされる。この実践的推論は、あまりに多くの事柄をあまりに安直に正当化してしまう。。。」

ロールズはこのような警告から、さらに、避けるべき二種類のニヒリズムを指摘する。

1 地獄のような戦争を一刻でも早く終わらせるためならどんな手段でも選んでもよいとする論法。

2 (戦争に突入した以上)私たちは皆有罪という同等の立場にあるのだから誰も他人(他国民)を非難できないとする主張。

この二つのニヒリズムに反撃するためにロールズの用いる弁明はあくまで正攻法である:

「これらのニヒリズムが空っぽであるのは次の事実から明白だ。すなわち、正義を重んずるまともな文明社会(その制度・法律、市民生活、背景となる文化や習俗)はすべて、どんな状況においても道徳的・政治的に有意味な区別を行っており、その区別に絶対的に依存している、という事実。。」

ニヒリズムに陥るのは惰性~本能によるが、それを回避するのは<教育あるいは宗教的信念?から得られる高い識見>に基づくしかない、とさえきこえる。こういうドンキホーテのように高邁な人物を公共正義の第一人者として抱えながら米国は戦後、大きな戦争をくり返したのだ。




ウォルツァーはイアンブルマを引用して、つぎのように述べている。
「。。広島での原爆によるコリアン犠牲者(約2万人)のうちかなりの部分が当地に(強制連行された)奴隷労働者であった。だが、日本側のどの文書や慰霊碑にも彼らの名前は触れられないままである。日本の指導者たちはコリアン政府に対して外交上の遺憾の意を表する前に、自分たちの歴史のそうした断片(=強制連行の事実とコリアン被爆者の存在)を明示し次世代に申し送るべきであることは間違いない。(合衆国に関していうと)私たち自身は、第二次大戦中に強制収容された日系(移民)家族に対して賠償金を払うという決定を下した。それはあまりに遅きに失したとはいえ、クリントン大統領がたとえ広島におもむいて何らかの(謝罪の)意思表示を行うことよりも、道徳の面からすればはるかに重要な決定だったのである」



8月3日の毎日新聞、一面トップに、エノラゲイ乗組員ジェプソン氏に対する毎日新聞の単独インタビュー記事が載っている。

引用:
エノラ・ゲイ乗組員:反核潮流の裏返し 「謝罪しないで」
 <世の中ナビ NEWS NAVIGATOR 国際>

 エノラ・ゲイ乗組員のモリス・ジェプソンさん(87)が毎日新聞のインタビューで主張したように、原爆は戦争終結のために必要だったと考える米国人は今なお多い。一方で、オバマ大統領が米国の指導者として初めて、原爆使用の「道義的責任」に言及したように、核兵器について問い直す機運が生まれているのも確かだ。ジェプソンさんの発言は、そうした動きへの当事者からの危機感の表れと考えることもできる。【ラスベガスで小倉孝保】

 プラハでのオバマ大統領による「道義的責任」発言は、原爆投下に直接関係した人にとっては看過できないものだったのだろう。ジェプソンさんは、この発言に関しては強い批判を繰り返した。また「当時を知らない世代になれば、原爆使用の罪が強調されるのでは」という危機感もあるはずだ。ジェプソンさんは「将来、米大統領が被爆地を訪問するとすれば」との質問に「謝罪するようなことになれば腹立たしい」と語った。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090803ddm002040112000c.html

エノラ・ゲイ乗組員:ジェプソンさんの発言(要旨)
http://mainichi.jp/select/world/news/20090803ddm007040080000c.html


ロールズの見解によれば兵士には原爆投下の責任はないのであり、その責任はトルーマンにあることになる。確かにその通りだろう。かりにエノラゲイの乗組員12人が全員、原爆投下を拒否した場合、軍規により罰せられるだろうが(命令拒否)、代わりの乗組員がいくらでもいたろうし、遅かれ早かれ投下はされたろう。

ロールズによると、日本の敗戦は明白な状況で、非戦闘員を大量に殺した、原爆や東京空襲は道徳的な悪行(great evils)となる。

しかし、そのように連合国の無差別爆撃(英国によるドレスデン無差別爆撃など)を裁くのであれば、日本軍による無差別爆撃やアジアでの戦争犯罪も裁かねばならなくなるのは当然である。

エノラゲイ乗組員ジェプソン氏は、当時は米軍の本土上陸作戦が近づいたと説明、「上陸すれば、米兵だけでなく、日本兵や一般の日本人の多くが犠牲になることは明白だった。原爆は戦争を早期に終結し犠牲を回避するための唯一の選択だった」と述べた。


<唯一の選択>かどうかはなんともいえないが、有効な選択であったことは間違いなかろう。しかし、米兵(味方の兵隊)だけの命を救うのが戦争というものなのか?そうであれば、いかなる戦争であっても冒頭から大量破壊兵器を使用するのがもっとも有効、優秀な作戦ということになる。非戦闘員に対する無差別爆撃は許されぬ、という戦争ゲームの規則からは逸脱していることは間違いない。世界で最初に無差別爆撃をやり始めた日本、実際面で何十万という一般市民の犠牲者を出した英国や米国の空襲は断じて許されない。しかし、これを追求できるのは誰であるか?アジアの各地で現地の一般人に対して悪行を展開し、そのすべてを調査し、明らかにした上で謝罪するニッポン人のみが連合軍に対しても犯罪を追求できる。


ロールズは原爆投下の第3の理由として
「。。(「日本本土の迅速かつ完全なる壊滅」を警告したポツダム宣言どおりに)原爆が投下されたことで、天皇と日本の指導者たちは面目を保ちながら(無条件降伏を受託するための)退路を手に入れることができた。日本のサムライ文化を念頭において考えるなら、これはけっこう重要な理由となる。。。。そして、8月12日に天皇自ら降伏を命じる。米軍最高司令官の指示に服すべきことがもし了解されるなら、天皇は退位しなくてもよいとの約束を米政府から取り付けた後のことである」

と、述べている。天皇がサムライであれば腹を切ったろう。我が命欲しさだけしか天皇の頭にはなかった。しかも、天皇は原爆投下をずいぶん前から承知しており、これを利用しようと考えていたのである。玉音放送の内容を読めばアキラかだろう。かりに、原爆投下がなかったらどうなるか?日本軍は容易に降伏せず、本土決戦になり、多数の兵士、一般人の命が失われたろう(戦闘によるより、市民の餓死が多いはず。兵士はたらふく食ったろう。45年終戦後の1年間にも本土で何十万の市民が餓死したのだから)。その後最終的に日米軍に多数の死者が出た後、戦後処理で天皇の命はどうなったか?天皇はこれを比較したのである。原爆投下が既定路線とわかった時点で、投下直前に、降伏宣言をするということは我が命欲しさだけの天皇にはあり得ない選択だった。原爆によってなにもかも有耶無耶にしたかった。

同じことが広島市民にも言えるのではないか。原爆が広島に投下されなかったとしよう。広島市民は、戦争について、何か発言したろうか?アジアでの無辜の犠牲者のために現地を訪れたろうか?何も語らず何も思念せず何もせず、であったろう。 今でもそうであるように。

原爆は米兵士や日本軍、日本の市民の多くの命を救った、というのはかなり確度の高い事実である、と私は想定する。しかし、戦争というゲームは数十万の一般市民に対する一発の大量破壊兵器で終わらせるべきものではない。双方の兵士に多数の死者を出し、国土と国民の資産に壊滅的な打撃を与えるべきものなのである(注。原爆投下の当日、広島市からは日本軍兵士のほとんどは消えていた、という)。こうでもしなければ双方の馬鹿な指導者たちに戦争の恐ろしさ、無益さを学ばせることはできなかった。そういう意味で、原爆は少なくとも失敗だった、といえるだろう。

何度も言うがアジアの民衆が日本帝国軍人から受けた被害に比べれば原爆の苦しみなど屁のようなものである。アジアとくに南洋で1944~45年にかけて多数の兵士が、病死、餓死した。現地人も多数日本兵に殺され、食糧財産を徴集された。食糧も兵器もなく辺鄙な島々に送り込まれた兵士も気の毒だが兵士の死と、現地の一般人の死を同列には論じられない。

大東亜戦争=アジア太平洋戦争を、日本への原爆投下と無差別大空襲だけで代表させることができれば天皇や元軍人にとっては幸いであるがそういうわけにはいかない。


オバマが広島に来て<謝罪>するのであれば、それは米国が広島市民やニッポンに謝罪するのであってはならない。人類の名において、戦争(原爆のみでなく)犠牲者を追悼するのでなければならない(ベトナム、イラク、アフガン。。の一般市民もその中には入る)。原爆慰霊碑の碑文「過ちは二度とくり返しません」はたんに原爆の惨禍を悔いているのではなくすべての戦争を止めよう、という全地球の人類を代表した声とせねばならない。オバマが頭を垂れるとき、ニッポンや広島の市民はオバマよりさらに深く、頭を垂れなければならないだろう。



慰霊碑090803_1136~01.JPG


ロールズのこの論文はネットでは読めないようだ。
かれの論文集に収録されている。いずれ購入してこの論文だけは読んでおきたい。『世界』への論文翻訳者は川本隆史。
「Collected Papers」http://www.amazon.com/Collected-Papers-John-Rawls/dp/0674005694/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1249263111&sr=1-1

論理学者=三浦俊彦が去年、原爆投下を<クリティカルシンキング>した本を出版している。
『戦争論理学  あの原爆投下を考える62問』(二見書房)
すくなくともロールズよりは遥かに多面的に原爆を捉えている。深く、かどうかが問題。
三浦は事実認定からしてロールズと意見を異にする点が多々ある。三浦の結論から、<謝罪>に関して言えば、
「日本の多数派の考えは、トルーマンの原爆投下決定は間違っており、大統領から原爆投下機搭乗員にいたるまで被爆者に謝罪すべきだ、というものだろう。本書の結論は、むしろ被爆者に謝罪すべきなのはアメリカ人ではなくて日本政府、天皇、かつての軍首脳関係者などである」というもの。至極妥当な結論であるとわたしはおもう。天皇、政府、軍が市民に謝罪したことがかつてあるか?市民が謝罪を求めたことがあったろうか?しかし、この<謝罪>は天皇、政府、軍が行わなければならない日本兵士に対する謝罪、さらに、アジア各国の民衆~市民に対する謝罪の大きさに比べれば物の数にも入らないであろう。日本兵士はさらにアジア各国でおこなった行為を振り返り謝罪に相当するものがあるのではないか、自問自答する必要があったろう。日本在住の市民(広島市民を含め)についても同様である。謝罪の義務は他の何物によっても帳消しになることはない。

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イッセイ・ミヤケ、米紙に原爆体験寄稿 大統領演説が触発 [戦争・原爆]

朝日新聞記事:

三宅一生さん、米紙に原爆体験寄稿 大統領演説が触発
http://www.asahi.com/national/update/0715/TKY200907150116.html
【ニューヨーク=田中光】世界で活躍するデザイナーの三宅一生さん(71)が、14日付の米ニューヨーク・タイムズ紙に寄稿し、これまで多くを語ってこなかった自らの原爆体験に触れながら、オバマ米大統領に広島を訪れるよう呼びかけた。オバマ氏が「核兵器のない世界」を訴えた4月のプラハでの演説に触発されたという。

 寄稿によると、三宅さんは広島にいた7歳の時に閃光(せんこう)を目撃。黒い雲があがり、人々が逃げまどう光景が「今も目に浮かぶ」。母親は放射線を浴びて3年後に亡くなった。

 一方で「原爆を生き延びたデザイナー」といったレッテルを張られるのを嫌い、「いつも広島に関する質問は避けてきた」という。

 しかし、オバマ氏が「プラハ演説」で、単なる核の削減ではなく、廃絶に言及したことが「自分の中に深く埋もれていた何かを呼び覚ました」といい、「体験者の一人として個人的、そして倫理的な責任をかつてないほど感じるようになった」という。

 そして、8月6日に広島市である平和記念式にオバマ氏が参加すれば「核の脅威とは無縁の世界に向けた現実的で象徴的な一歩になる」と訴え、訪問を呼びかけた。

 三宅さんは、「ヒロシマの心」を表現している芸術家に贈られる「ヒロシマ賞」(広島市など主催、朝日新聞社共催)を90年に受賞している。



NYT opinion
http://www.nytimes.com/2009/07/14/opinion/14miyake.html?_r=1

記事の全文。イッセイ・ミヤケ氏の和文原稿を彼のスタッフが英訳したものである。いずれ原文が公開されるのだろうが、この英文記事を和訳してみる。

July 14, 2009
Op-Ed ContributorA Flash of Memory By ISSEY MIYAKETokyo

IN April, President Obama pledged to seek peace and security in a world without nuclear weapons. He called for not simply a reduction, but elimination. His words awakened something buried deeply within me, something about which I have until now been reluctant to discuss.

4月、オバマ大統領は核兵器のない平和と安全を希求すると誓った。単なる削減ではない、廃絶を求めたのだ。大統領の言葉は私の内部に眠っていた何かを呼び覚ました。その何か、それを今まで話すのをずっとためらってきた。


I realized that I have, perhaps now more than ever, a personal and moral responsibility to speak out as one who survived what Mr. Obama called the “flash of light.”

大統領が『閃光』と呼んだ原爆を生きのびた一人として発言する個人的な、かつ、倫理的な責任を私は、今、恐らく初めて、自覚したのである。

On Aug. 6, 1945, the first atomic bomb was dropped on my hometown, Hiroshima. I was there, and only 7 years old. When I close my eyes, I still see things no one should ever experience: a bright red light, the black cloud soon after, people running in every direction trying desperately to escape — I remember it all. Within three years, my mother died from radiation exposure.

1945年8月6日、最初の原爆が私の住んでいた広島に落とされた。そのとき七歳の私は広島に住んでいた。目を閉じると、いまでも、誰も見たことがないはずの光景が目に浮かぶ。明るい赤色の光。直後の真っ黒な雲。苦難の表情を浮かべて逃げまどう市民の群れ。すべては私の記憶に焼き付いている。放射能を浴びた母は、三年たたずして死んだ。

I have never chosen to share my memories or thoughts of that day. I have tried, albeit unsuccessfully, to put them behind me, preferring to think of things that can be created, not destroyed, and that bring beauty and joy. I gravitated toward the field of clothing design, partly because it is a creative format that is modern and optimistic.

あの日の、私の記憶と思考を他人には決して話さなかった。うまくいかなかったが、黙っていようとつとめた。破壊ではなく創造の可能性を考えたかったのだ。美しいこと、歓びをもたらすものを思考したかったのだ。衣服のデザインの道を進んだのも、それが現代的かつ楽観的な創造の形式であったのが理由のひとつだろう。

I tried never to be defined by my past. I did not want to be labeled “the designer who survived the atomic bomb,” and therefore I have always avoided questions about Hiroshima. They made me uncomfortable.

私は過去に制約されたくなかった。原爆を生きのびたデザイナと呼ばれたくなかった。だから、広島に関する質問を避けてきた。不快だからである。


But now I realize it is a subject that must be discussed if we are ever to rid the world of nuclear weapons. There is a movement in Hiroshima to invite Mr. Obama to Universal Peace Day on Aug. 6 — the annual commemoration of that fateful day. I hope he will accept. My wish is motivated by a desire not to dwell on the past, but rather to give a sign to the world that the American president’s goal is to work to eliminate nuclear wars in the future.

だが、今、世界から核兵器を消滅させうる条件を論点とすべきであると悟ったのだ。運命の日を毎年記念する8月6日の世界平和記念日に、オバマ氏を広島に招待しようという運動がある。私の希望は、過去に留まりたいという望みによるのでなく、米国大統領の目標が核兵器を将来、廃絶することにあることを世界に示すことにあるのだ。

Last week, Russia and the United States signed an agreement to reduce nuclear arms. This was an important event. However, we are not naïve: no one person or country can stop nuclear warfare. In Japan, we live with the constant threat from our nuclear-armed neighbor North Korea. There are reports of other countries acquiring nuclear technology, too. For there to be any hope of peace, people around the world must add their voices to President Obama’s.

先週、ロシアと米国は核兵器削減合意に署名した。しかし、われれはナイーブではない。だれも、どの国も、核兵器を止めることはできないのだ。日本は、核武装した隣国北朝鮮につねに怯えながら生きている。さらに核技術を保有する国々がほかにもあると報告されている。平和の希望があるところ、世界の人びとは大統領にむけて大きな声を届けなければならない。

If Mr. Obama could walk across the Peace Bridge in Hiroshima — whose balustrades were designed by the Japanese-American sculptor Isamu Noguchi as a reminder both of his ties to East and West and of what humans do to one another out of hatred — it would be both a real and a symbolic step toward creating a world that knows no fear of nuclear threat. Every step taken is another step closer to world peace.

大統領が広島市の平和大橋(その欄干は、東西の橋渡しと、憎しみを克服した人間同士にできるものを祈願して日系米人彫刻家イサムノグチが設計した)を渡るとき、大統領は核の脅威のない世界をつくるための、現実の、そして、象徴としての一歩をきざむことになるだろう。その一歩一歩のあゆみのぶんだけ、世界平和を引き寄せるのである。


Issey Miyake is a clothing designer. This article was translated by members of his staff from the Japanese.





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イッセイミヤケは、戦時中、ヒロシマで2万人以上の朝鮮人(強制連行者も含む)が働いており、被爆したことを知っているのだろうか。そしてその朝鮮人爆死者を広島市民は慰霊碑で追悼することを拒んだ。広島市民に原爆反対を叫ぶ資格があるか。

広島市民が米国にわたって、原爆反対と言いつのっているのを聞くと私は顔から汗が噴き出るほど恥ずかしい。

重慶、上海にたいして世界で初の無差別爆撃を行ったのはニッポン海軍である。朝鮮人中国人その他のアジア人が日本軍から受けた仕打ちに比べれば原爆など屁のようなものである。原爆投下はアジアの民衆からは歓呼をもってむかえられた。当然のことである。

オバマに、ヒロシマの平和大橋を渡れ、とイッセイは言う。

では、ニッポンの首相には、中国、韓国、フィリピン、香港、タイ、シンガポール、マレーシア。。のどこを歩ませればよいのか?




オバマがヒロシマに来たとき、記者会見で

本日は私の人生で最も感動した日であった。長年の夢が実現した。ついては、
ニッポンにある米国基地の弾薬庫に格納しているxxxx発の核弾頭をすべて3年以内に廃棄することに決定したい。

と<爆弾宣言>すれば、日本国民と政府・外務省のオドロキと感動がいや増すであろう。





オバマが生まれる前の戦争について、オバマが謝罪してもニッポン人に誤ったメッセージを与えるだけだ。それより、多数の市民を無差別攻撃で殺したイラク戦争、アフガン戦争の誤りを認めさせるほうが先である。オバマも国会議員として係わったはずである。


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3月10日は東京大空襲追悼日 [戦争・原爆]

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東京大空襲。下記HPからコピー。撮影は石川光陽氏。

東京大空襲。一般市民をできるだけ多数焼き殺すことだけを狙った、米軍による史上最大の残虐な無差別爆撃である。

昭和20年3月10日午前0時過ぎ、300機のB29が東京下町を襲撃した。


東京大空襲 昭和20年3月10日
http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html

カーチス・ルメイと東京大空襲
http://sidenkai21.cocot.jp/m363.html


『あの苦しみ伝えて』 『時忘れじの集い』 東京大空襲
2009年3月10日http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20090310/CK2009031002000053.html
 1945年3月10日の東京大空襲で、多数の犠牲者が埋葬された台東区上野公園にある2基の慰霊碑で9日、法要と式典「時忘れじの集い」が開かれた。


東京大空襲@wikiから引用:
1945年3月9日夜、アメリカ軍編隊が首都圏上空に飛来。22時30分(日本時間)、ラジオにて放送中の軍歌を中断して警戒警報が発令された。同編隊は房総半島沖に退去して行ったため、警戒警報は解除される。ここで軍民双方に大きな油断が生じた。その隙を突いて、9日から10日に日付が変わった直後(午前0時7分)に爆撃が開始された。B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、午前0時7分に深川地区へ初弾が投下され、その後、城東地区にも爆撃が開始された。午前0時20分には浅草地区や芝地区(現・港区)でも爆撃が開始されている。これにより、住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断ち、逃げ惑う市民には超低空のB-29から大量の榴弾や機銃掃射が浴びせられた。火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、秒速25m以上、台風並みの暴風が吹き荒れた。(以下略)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2 


東京大空襲
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tokyoudaikuusyuu.htm

東京大空襲・戦災資料センター
http://www9.ocn.ne.jp/~sensai/

Youtube
B29による攻撃
http://www.youtube.com/watch?v=5yJLhZescY8
アメリカからみた【東京大空襲】第二次世界大戦
http://www.youtube.com/watch?v=lKnnVF3h6sE

原爆の図  丸木位里・丸木俊 [戦争・原爆]

原爆の図 丸木図書館HP
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/top/genindex.htm

引用:
1945年8月6日、人類史上初めての原子爆弾が広島に投下されました。
その3日後の8月9日には長崎にも。
ふたつの原爆で亡くなったひとは20万人にも及び、その数は今日もなお増え続けています。

広島は位里のふるさとです。親、兄弟、親戚が多く住んでいました。
当時東京に住んでいた位里が知ったのは「広島に新型爆弾が落とされた」ということだけでした。
いったい広島はどうなってしまったのか。
位里は原爆投下から3日後に広島に行き、何もない焼け野原が広がるばかりの光景を見ました。
俊は後を追うように1週間後に広島に入り、ふたりで救援活動を手伝いました。

それから5年後、『原爆の図 第1部 幽霊』が発表されます。
数年間描きあぐねた「原爆」を、水墨画家の位里と油彩画家の俊の共同制作で、やっとかたちにすることができたのです。
はじめは1作だけ、その後は3部作にと考えていた「原爆の図」は、とうとう15部を数えました。
最後に〈長崎〉が描かれた1982年までの32年間、夫妻は「原爆」を描き続けたのです。



『原爆の図』(小峰書店刊、2000年7月)を図書館で借りてきて、模写した。
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やられた側とやった側 記録映画『ヒロシマ・ナガサキ』
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-08-06-2

なぜ広島に原爆が投下されたか、を問うことに意味があるか
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-08-06

松岡環編著 『南京戦  閉ざされた記憶を訪ねて』
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2007-03-11

日本軍と阿片  アジア解放の真実  [戦争・原爆]

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「。。戦前にある日本の名士が中国奥地を旅行した。車窓から山村の寒村に日の丸の旗が翻っているのをみて,「日本の国威がかくも支那の奥地に及んでいるのか」と随喜の涙を流したという話がある。なんぞ知らん、それがアヘンの商標であることを知ったら、かれはなんといって涙を流したであろうか。」 江口圭一『日中アヘン戦争』(岩波新書、1988年)

「日中戦争当時、旧日本軍が中国東北部の旧満州国でアヘンの生産と販売を独占した上、治療した中毒患者の中国人を炭坑現場などで労働者として動員する計画を進めていたことが、愛知県立大(愛知県長久手町)の倉橋正直教授(65)=東洋史=の研究で分かった。  倉橋教授によると、アヘンの専売は国際条約違反だったが、日本は旧満州国の農村部でアヘンを生産させ、都市部で販売。その収益で占領地支配の財政や軍事費を支える仕組みを作っていた」2008/8月17日 中日新聞http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2008081702000076.html



今夜8/17放送される予定のNHKスペシャルは『日本軍と阿片』
http://www.nhk.or.jp/special/onair/080817.html
昭和12年(1937年)に勃発した日中戦争―。広大な中国で、日本は最大100万もの兵力を投入し、8年に渡って戦争を続けた。武力による戦闘のみならず、物資の争奪戦、ひいては金融・通貨面でも激しい闘いを繰り広げた。
「戦争はどのようにして賄われたのかー」。最新の研究や資料の発掘によって、これまで全貌が明らかにされてこなかった中国戦線の「戦争経済」の様々な側面が浮かび上がっている。その一つとして注目されているのが、当時、金と同様の価値があるとされた阿片(アヘン)である。

19世紀以降、イギリスなど欧州列強は、中国やアジアの国々に阿片を蔓延させ、植民地経営を阿片によって行った。アヘンの国際的規制が強化される中、阿片に“遅れて”乗りだしていった日本。日本の戦争と阿片の関わりは、世界から孤立する大きな要因になっていたことが、国際連盟やアメリカ財務省などの資料によって明らかになってきた。
また、これまで決定的なものに欠けるとされてきた、陸軍関係の資料も次々に見つかっている。軍中央の下で、大量のアヘンを兵器購入に使っていた事実。関東軍の暴走を阿片が支えていた実態。元軍人たちの証言からも、日本軍が阿片と深く関わっていた知られざる実態が明らかになってきた。
番組では、日本と中国の戦争を、経済的側面からひもとき、知られざる戦争の実相に迫る。



『戦争責任』 家永三郎 (岩波書店、1985年)では日本国家の戦争責任を分類している。http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2007-03-20-2
中国に対しては、次のように。
(目次から)
第三章 日本国家の戦争責任はどのような点にあるのか
序節 日本帝国の権力組織
第一節 国際的責任
一 中国その他の被侵略諸国・諸民族と日本の植民地諸民族に対する責任
1 中国に対する責任
(ア) 南京大虐殺
(イ) 中国全戦線にわたる残虐行為
(ウ) 毒ガス戦
(エ) 計画的継続的に大量の中国人民等に生体実験・生体解剖を行った731部隊の残虐行為
(オ) アヘン密貿易による日本の巨利獲得と中国人民の心身腐蝕
(カ) 侵略の手先としての中国官民の利用



昨日の朝日新聞記事。
朝日新聞8/16

アヘン王、巨利の足跡 新資料、旧日本軍の販売原案も
http://www.asahi.com/national/update/0816/OSK200808160057.html

日中戦争中、中国占領地でアヘン流通にかかわり「アヘン王」と呼ばれた里見甫(はじめ)(1896~1965)が、アヘンの取扱高などを自ら記した資料や、旧日本軍がアヘン販売の原案を作っていたことを示す資料が日本と中国で相次いで見つかった。取扱高は現在の物価で年560億円にのぼり、旧日本軍がアヘン流通で巨利を得ていたことがうかがえる。
 日本側の資料は「華中宏済善堂内容概記」で、国立国会図書館にある元大蔵官僚・毛里英於菟(もうり・ひでおと)の旧所蔵文書に含まれていた。

 この文書には、里見の中国名「李鳴」が記され、付属する文書に里見の署名がある。毛里は戦時総動員体制を推進した「革新官僚」の一員で、里見の友人だった。内容から42年後半の作成とみられる。

 文書によると、日本軍の上海占領とともに三井物産が中東からアヘンの輸入を開始。アヘン流通のため、日本が対中国政策のために置いた「興亜院」の主導で、「中華民国維新政府」内に部局が置かれ、民間の営業機関として宏済善堂が上海に設立された。


「証言・日中アヘン戦争」江口圭一編から:
私は数年前に「日中アヘン戦争」(岩波新書、1988年)という本を書きました。いささか意表をつくタイトルで、はて、こんな戦争いつあったかしらと不審に思われた方もおられたようです。
 実は、日本は15年戦争の時期を通じて大量のアヘンを中国で販売し、それを中国支配の重要な手段としていました。アヘンはもちろん国際条約によって禁止されている麻薬ですが、日本は国策として中国でアヘンを売りまくりました。
 その目的は、一つは「満州国」をはじめとする傀儡政権の財源や謀略工作の資金を獲得すること、いま一つはアヘン中毒によって中国の抗戦力を麻痺させることでした。中国はこの日本のアヘン政策を「毒化政策」として非難しましたが、たしかにアヘン政策は毒ガス戦や細菌戦とならぶ日本の戦争犯罪でした。日中戦争は実は大規模なアヘン戦争であったという意味で、「日中アヘン戦争」と呼んだわけです。


江口圭一『日中アヘン戦争』(岩波新書、1988年)から:

 国際連盟の前記の会議議事記録は、
「有名な満州および熱河の魔窟と工場についで、天津日本人居留地は中国本部[中国中央部]および世界のヘロイン中心地となった。中国民族のみならず、世界のすべての他の国々が弱体化され、堕落させられるのはここから始まるのである。」
 と述べており、日本は全世界の非難の矢面に立たされていた。

 しかし満州国の専売制などを別として、第一次世界大戦期から満州事変期の日本によるアヘン・麻薬の密造・密輸・密売は、現地の日本軍が関与したり保護をあたえたことはあっても、全体としてみれば、悪徳企業や不良日本人の私的な非行であり、犯行であった。この非行・犯行を、日本は日中戦争下に国策として公然と遂行するにいたる。
「世界における全非合法的白色麻薬の九割が日本製であって、天津の日本人居留地、天津周辺、大連市内あるいはその周辺において、あるいは満州、熱河および中国の他の諸都市において、必ず日本人か日本人の管理のもとに製造されるといっても、非常な的外れとはならないであろう。」
 重視されねばならないのは、この毒化政策が出先の軍や機関のものではなく、また偶発的ないし一時的なものでもなくて、日本国家そのものによって組織的・系統的に遂行されたという事実である。日本のアヘン政策は、首相を総裁とし、外・蔵・陸・海相を副総裁とする興亜院およびその後身の大東亜省によって管掌され、立案され、指導され、国策として計画的に展開されたのである。それは日本国家によるもっとも大規模な戦争犯罪であり、非人道的行為であった。
 アヘン政策の目的は、なによりも、その生産・販売によって巨利を獲得することにあった。アヘン収益の使途は、蒙彊政権の場合、表向きは政権維持の財源にあてられたことになっているが、その実態は秘密のベールに包まれて不明である。また収益とされる金額そのものも、どれだけ正確であるか、無条件には信用できない。ともかく、そこには巨額のブラック・マネーが獲得され、運用されたのである。


日章旗の掲揚はアヘンの販売が日本側によって公認されていることの標識であった。このことから日本側にしてみれば、とんだ勘違いが生じた。関東軍総参謀副長から敗戦直前に内閣総合計画局長官となった陸軍中将池田純久は「陸軍葬儀委員長」(1953年)のなかで、つぎのように書いている。
....[支那]事変当時、日本で喰いつめた一旗組が、中国の奥地に流れ込んで、アヘンの密売に従事しているものが多かった。かれらは治外法権を楯に日の丸の国旗を掲げて公然とアヘンを売っているのである。だから中国人のうちには、日の丸の旗をみて、これがアヘンの商標だと間違えているものが少なくなかった。時々日本の国旗陵辱事件がおこり外交問題に発展することがあったが、よく調べてみると、中国人はそれを国旗とは知らず、アヘンの商標だと思っていたという、まったく笑い話のような滑稽談さえあった。
 戦前にある日本の名士が中国奥地を旅行した。車窓から山村の寒村に日の丸の旗が翻っているのをみて,「日本の国威がかくも支那の奥地に及んでいるのか」と随喜の涙を流したという話がある。なんぞ知らん、それがアヘンの商標であることを知ったら、かれはなんといって涙を流したであろうか。


佐野眞一著『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社)の書評から抜粋。 評者・松原隆一郎(東京大学教授=社会経済学)
http://www.asahi.com/international/aan/review/review51.html
軍や政治家の資金源を「私心なく」差配

高度成長がなぜ可能だったか」と問い、その答えを「満州」に求めるという本書のスタンスは鋭い。東京で行き詰まった戦前の都市計画を、あたう限り理想に近づけたのが首都「新京」(現・長春)だったし、「山を削り海を埋める」神戸市の都市経営は、市長が旧満州での体験を反復したものだ。ところが佐野氏はむしろ戦時上海の暗部に注目し、「日中戦は20世紀の阿片(アヘン)戦争だった」というテーゼを、日中両国にまたがる阿片の一大シンジケートを差配した「阿片王」里見甫(はじめ)を通して論証しようと試みるのである。。

(略)

それにしても惹(ひ)かれるのは、会社のリストラ案で自分を筆頭に置くような、豪胆にして私心なき里見の人柄だ。中毒者の溢(あふ)れる中国では阿片を即時禁止ではなく漸禁させるべきだというのが後藤新平案だったから、民間より高純度で安価な阿片を必要悪として提供するのは一種の公共政策であった。儲(もう)けはすべて人にくれてやり一切私腹を肥やさなかった里見には、公務に殉じたという意識しかなかったのかもしれない。だが資金は岸信介や児玉誉士夫らに流れ、戦後政界を拘束した。無私ゆえに悪徳が蔓延(はびこ)るという逆説が、この本の読みどころだ。


阿片+日本軍、をキーワードにネット検索すれば多数の情報が入手できる。江口圭一『日中アヘン戦争』(1988)には、大平正芳や愛知揆一ら政治家の実名が出てくる。今夜のNHKスペシャルは、どのような新真実(大東亜解放、の真実)を明らかにしてくれるだろうか?


追記(8/19):
NHKの番組は、阿片売却による兵器購入の全責任を東条など戦犯に押し付けて、われわれが新書や文庫で簡単に入手できる事実さえ示すことをしなかった。噴飯物である。岸信介、大平、椎名、愛知など保守系議員の名前、係わった企業名(三井物産と三菱商事他)など、見事に隠された。現在のニッポンを拘束している金権政治、米国による日本政治の実質支配の起源である児玉誉士夫、岸信介らへの阿片マネーの流出ルートをあきらかにしないでなにが『調査報告』か。満州政府と関東軍とはなんだったのか?国民から見れば無法者の巣窟であり、ヤクザであった。国家の制約を離れて商売(麻薬栽培と密売)をし、中国国民にアヘンを売りつけ、アガリを国庫におさめず機密費として私権拡張に使った。敗戦とともにこれはすべて終結したのか?トンデモない。領土とハードウェアは消えても、資金とそのノーハウ=ソフトウエアは政治屋・官僚とともに生き延びて戦後のニッポンに復帰し、いまもそのDNAを受け継ぐ官僚・政治屋は国内に跋扈しつづけているのだ。<満州>は過去ではない。現在のことである。

情報の隠匿はNHKの権力への気配り、これぞ<NHKスペシャル>。半世紀以上経過しているのにいまだに権力者に尻尾を振って真相を明らかにしないNHK。 大本営発表ばかり垂れ流した時代の体質はそのまま、反省はないようである。

番組の最後のナレーションはこうである:
『戦後63年阿片にかかわっていた多くの軍人、政治家たちは過去を隠蔽し、何も語らぬまま戦後を生き延びた。日本軍と阿片との係わりは私たちの記憶に残らなかった』

臍が茶を沸かすとはこのこと。日本軍と阿片に関する著作は20年以上前から市販されている。中国には実情を知るひとはいくらでもみつかるはずである(この番組でもすでに高齢の、事情を知る現地人が登場していたではないか。20年前に調査していればさらに生き残りは多かったろう)。当事者が隠蔽したがるのは当然のこと。それを明らかにするのがマスゴミの役割だろう。マスゴミが、戦後63年もほったらかしていたわけだ。番組では、興亜院で重要な会議が開かれた、と議事録を紹介しながら、<政治家、官僚、軍人>の名前をテレビ画面から<隠蔽>していた。 63年前の事実をいまだに<隠蔽>しつづけるマスゴミ。 

ニッポンのマスゴミは、現在の<事実>を半世紀後になっても明らかにする能力はない、と国民は承知しておいたほうがよかろう。
 

080818_2200~01001.JPG 内蒙古の阿片栽培

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『岸信介』(原彬久著、岩波新書、1995年)から引用する。

<惜しげもなく金を>p73
岸が甘粕をのちに(昭和14年)国策会社満映の理事長に据えたことからもわかるように、岸と甘粕は終始一貫密接な関係にあったことは事実である。古海忠之(総務庁主計処長、岸の部下)はこう回想する。「たとえばこんな話がある。甘粕正彦の排英工作....要するに特務だな。この甘粕のために岸さんが1000万円つくってやったことがある」。 1000万といえば、少なくとも今のおよそ85億円にはなるだろう。古海が甘粕のこの資金調達依頼を岸に取り次いだところ、岸は、それくらい大したことはないといって、あっさりその場で引き受けたという。

<アヘン密売の相関図>p74~
甘粕のカネ遣いは、そのスケールにおいてケタはずれであった。アヘン密売によるところが大きかったといわれる。岩見隆夫によれば、満州支配層がアヘンの密売によって収入を得る道には二つあった。一つは満州国政府が熱河省のアヘンを南方(上海、香港)でさばくルートであり、いま一つはイギリスから、上海の里見某なる人物を経由して甘粕に通じるルートである。甘粕が当時大規模な諜報活動に従事し得たのは、莫大なカネを生むこのアヘンルートを彼が握っていたからである。

しかも重要なことは、満州における岸のあのカネ離れのよさがアヘンの密売と何らかの関係があったのかどうか、ということである。古海忠之はいう。「アヘンについては、支那とか満州で一手にやっていた里見という男がいた。これは私のアヘンの相棒だ。アヘンは私と里見がすべて取り仕切っていたのであって、甘粕さんも岸さんも全く関係ないのだ」

それにしても、当時満州国政府の幹部として総務庁主計処長を務めていた古海が、アヘンを「すべて取り仕切っていた」ということは、すなわち、満州国政府そのものがアヘン密売の当事者であったことを意味する。しかも古海は岸総務庁次長の忠実な部下であったこと、岸と里見が密接な関係にあったこと、そして岸・甘粕間に太いパイプがあったこと等々から割り出されるこの相関図を前にするとき、さてこの相関図から、改めて岸を捨象することはむずかしい。

同時に忘れてならないのは関東軍の存在である。絶対的権力者としての関東軍がこうしたアヘン取引を知らないはずはないし、むしろこれを容認し、これに積極的にかかわっていたことは明かである。アヘンによる収入が関東軍の巨額の機密費を賄っていたわけである。つまり、先の相関図は、これに関東軍を加えることによってはじめて完成されるのであり、したがって、岸と関東軍とりわけ東條参謀長との関係が表舞台とは別のところで、しかもアヘンをめぐって通じていたという仮説は十分成り立つといえよう。

東條の引きもあって、離満後、商工次官、商工大臣になった岸は、今度は東條に政治資金を与えるようになるが、いずれにしても、満州で固まった岸・東條の親密な関係は、アヘン疑惑を含むカネの関係でもあったといえよう。

<濾過器論>p76
満州の三年間は、確かに岸を「立派な政治家」にした。(略) 中央官庁としての商工省から放たれて、満州の荒野に躍りでた岸は、「政治的なるもの」が含むあらゆる要素をみずからの血肉とした。後進的な政治土壌にとりわけ有効に働く「裸の権力」(関東軍)を懐柔し、そして、同じく未成熟な政治土壌に特別の効能を発揮するカネを駆使するという手法は、いまや岸のものとなった。

彼はこうした「学習」の成果を証明してみせるかのように、満州を去る前夜、。。友人たちに語っている。有名な濾過器論である。「諸君が選挙に出ようとすれば、資金がいる。如何にして資金を得るかが問題なのだ。当選して政治家になった後も同様である。政治資金は濾過器を通ったものでなければならない。つまりきれいなカネということだ。濾過をよくしてあれば、問題が起こっても、それは濾過のところでとまって、政治家その人には及ばぬのだ。そのようなことを心がけておかねばならん」(『私と満州国』)。

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首相東條と国務相岸の事務引き継ぎ@東條内閣改造 1943/10/9


雑誌現代思想2007年1月号『特集・岸信介--戦後国家主義の原点』から、小林英雄英夫教授へのインタビュ(岸信介とは誰か):

p38 小林 「。。もうひとつは彼(岸)が当時関東軍司令官だった東條英機と手を結んだということです。(略) そこに。。甘粕という人物が出てきます。1927年にヨーロッパから帰ってきて満州に落ち着く。満州で裏の仕事をやるわけです。満州事変ではダーティーな仕事をやり、彼自身は最終的には満鉄の理事長になります。満映は満州映画協会ですが、それは表の姿で裏の姿は警察の総元締めであり、阿片の総元締めであり、大東公司という山東地域からの苦力が入ってくるときに取り締まる機関の最高の責任者になって、そこから膨大な金をひねり出します。それを岸に渡すし、東條にも渡す。そういうことで岸は東條の最も親しい側近として満州国を運営していく

小林「これ(満鉄改組)は秘密裡にやらないと成功しない。隠密性が必要だったんで、彼はしょっちゅう満州から立川まで飛行機で飛んで何食わぬ顔で官庁に行って、また立川から満州に戻るという離れ業をやっています。途中で飛行機が落ちれば終わりだったわけですが、彼は断固やる。これは軍人にはできない

小林「基本的には1941年に東條内閣に入りますが、それなりに上からの統制をやっていくという道を模索しようとしたんだと思うんですよ。ところが1942、3年の時点になってくるとやはり上からの改革はできるものではない。ということで東條を見限ったんじゃないかなと思うんです。それが東條内閣の瓦解につながっていく。やはり彼自身が東條英機の非合理性に耐えられなくなった。彼の感覚から合わなくなった。ということで先取り的に東條内閣を潰すことで戦後への生き残りの切り札を取っておこうと考えたフシもあります

小林「巣鴨プリズンに入るということは、起訴(東京裁判)の準備過程ですから。東條内閣を倒すおみやげをもって戦後を迎えたということが、彼の戦後も政治活動を続け得る条件の一つになったというのはその通りなんですが、もうちょっと違う要素もあるかなという気がします。それはやっぱり巣鴨で岸に対して尋問している(GHQ)のは検察官ではなく情報将校だったということです。それは簡単にいえば、彼を戦犯容疑にして扱うというよりは、あくまでも情報収集、情報提供者として扱っているということの象徴であって、彼自身初めからそういうものとしてアメリカは位置付けていた面があったような気がします。

アメリカがイラクでフセインを倒したあと、ついにアメリカの意向を継いで国を纏める政治家を見つけることができなかったわけですが、日本の場合岸という人物を見出した。巣鴨の過程というのは、占領軍にとって不要になる人物とこれから将来有用となる人物をふるい分けていく過程だったのではないか。それが占領政策の一つの面ですね。典型的には岸だった。岸はアメリカの占領政策のみならずその後もっと広いパースペクティブの中におけるリーダーの一人として白羽の矢が立ったという気がします


甘粕正彦@ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E7%B2%95%E6%AD%A3%E5%BD%A6

岸信介はCIAの手先だった
http://blog.trend-review.net/blog/2007/09/000439.html

日本軍の阿片売買
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/ahen.html

●「満州国」建国秘話 アヘンが支えた満州事変●
http://hp.vector.co.jp/authors/VA024680/history/index.htm

興亜院 ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E4%BA%9C%E9%99%A2

【日中戦争】A級戦犯東條英機と大平正芳のアヘン商売
http://anarchist.seesaa.net/article/22551040.html



関連記事:
レイテ島幻想
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-03-09

松岡環編著 『南京戦  閉ざされた記憶を訪ねて』
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2007-03-11

映画『蟻の兵隊』 日本軍山西省残留問題 http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2006-05-24


なぜ広島に原爆が投下されたか、を問うことに意味があるか [戦争・原爆]

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なぜ広島か、と問うのはあまり意味がない。どこかの都市には必ず投下される運命にあった。(キューマ防衛大臣が言った、原爆はショーがなかった、というのは一面の真理だ。キューマ発言を非難するひとはよく、オノレに非難の意味をつきつめたほうがよい。キューマのマチガイはソ連が進攻する前に投下するのはやむを得なかった。。という後知恵しかも、日本を現在も苦しめている米軍基地化、政治的属国化を<犯罪的>と認識できない売国的思考だからである。しかし、日本が米国の属国になろうと、アジアの人々にとってはどーでもいいことである)。

しかし、ニッポンジンが原爆投下を非難するのは的はずれだ。
韓国や中国東南アジアのひとびとにとってはまことに慶賀する事態でありました。戦争の相手にとっては、新兵器が非人道的かどうかなど二の次です(現在の視点でこれは非人道的だからよくない!と非難するのは後知恵)。

韓国や中国アジアの人々が長年(少なくとも20世紀前半)日本からウケタ苦痛の総量に比べれば原爆の苦痛などものの数にはいらないのだ。

さらに、広島の原爆に限って言えば、広島では当時5万人くらいの韓国、中国からの強制・自発による労働者が被曝した。しかし、広島市民は彼らを合同追悼しようとしなかった。原爆手帖も発行されていない。これだけでも、広島市民(もとより日本政府は非難してもいない)に原爆を非難する資格はないと私は断ずる。

原爆投下の後、10日に日本はポツダム宣言を受託する旨、中立国スイスを介して連合国に通知した。だから、10日の欧米の新聞には
            戦勝
の文字が第一面を飾り、平和ムードにわき返った。しかし、日本では国体(天皇)を以下に維持するかその条件交渉にこだわって、連合国の怒りを買い、無差別爆撃が継続された。小田実のいた大坂が爆撃されたのは14日のことだ。

原爆を非難するのは、現在、日本がアジアに対して行った全行為、さらに、広島で死んだアジア人を追悼したあとのことだ。

わたしの母は原爆の翌々日廣島市内を親戚を捜して歩き回ったが(というのはうそで、原爆ドーム近くに会社があったから探す、のが無駄とたちどころにわかった)、母から、誰彼(日本とか、天皇とか、米国とか。。)を非難するのを聴いたことがない。これは、筋の通った態度だろう。 広島の状況を母に尋ねたがひとこと『地獄じゃったいのぅ』といったきりだ。(しかし、地獄であるのはなにも広島や原爆に特有のことではもちろんない。戦時に特有でもない、平時にも地獄はある。想像力のない人が広島や長崎を語りすぎる)


広島は平和都市を自称している。原爆が落とされれば自動的にその都市は平和都市と呼ばれるのだろうか?平和都市、の呼称には値しないと私は考えている。

何が問題なのか?

非戦闘員たる市民に対する無差別攻撃である。米軍は第二次大戦後半日本に対して無差別攻撃を繰り返し数十万の市民の生命と財産を破壊した。しかしニッポン政府はこれを避難していない、どころか、焼夷弾による無差別爆撃、原爆、その後ベトナム攻撃を指揮した米国のルメイを表彰している。市民に対する無差別爆撃を世界で最初に行ったのは、重慶、上海を攻撃して日本海軍である。それ以後ドイツの各都市やニッポンの東京大阪名古屋をはじめとするほとんどの都市への無差別爆撃が繰り返された。市民に対する無差別攻撃を容認するのは、民族差別思想である。原爆が落とされた当時、広島や呉で働いていた朝鮮からの強制労働者を広島市民は不思議とも何とも思っていなかった。

広島市民は、おのれのアジアに対する差別思想と長年の差別と虐待に対する天罰として原爆を受けとめ、それを悟った人間として、民族差別をやめるよう世界に訴えるしかない。それが罪滅ぼしの道である。

本日の原爆記念日、小学生男女が述べた誓いの言葉や(総理大臣はもとより)秋葉市長にもこのような言葉は聞かれなかったのは残念である。原爆が落とされた都市に住んでいる、という資格だけで、原爆廃棄を世界に訴えても誰も聴く耳は持つまい。とりわけ、アジアの人々は。原爆投下はアジアの人々には解放の象徴であったという事実を伝えない限り、単なる自己憐憫としか受け取られまい。これを悟らないから彼らが放つメッセージは常に安っぽさを免れない。学校の教育者には猛省を促したい。


わたしは破壊された産業奨励館(通称、原爆ドーム)を保存することに意味を認めない。保存したいなら、その目的は、アジアを苦しめた富国強兵製作への反省の象徴として、その意味を若い人々に忘れさせないために、よりほかあるまい。


原爆慰霊碑に刻まれた言葉『安らかに眠って下さいこの過ちは二度と繰り返しませぬから』。この<過ち>は広島市民の過ちである。これを市民は自覚しているのだろうか。このことを小学生中学生に説明しているか? 別の記事で書いたが、インドのパール判事(東京裁判)は広島を訪れたとき、この碑文をみて怒ったという。原爆を投下した当事国(米国)を非難しないで、なんたる卑屈な文言か、と。 いかにも法学者らしい狭量、低レベルの思考である。

3月10日 東京大空襲追悼日 [戦争・原爆]

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東京大空襲。下記HPからコピー。撮影は石川光陽氏(今夜のTBSドラマの主人公)。



東京大空襲。一般市民をできるだけ多数焼き殺すことだけを狙った、米軍による史上最大の残虐な無差別爆撃である。

昭和20年3月10日午前0時過ぎ、300機のB29が東京下町を襲撃した。


昭和20年3月10日
http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html

東京大空襲・戦災資料センター
http://www9.ocn.ne.jp/~sensai/

Youtube~B29による攻撃
http://www.youtube.com/watch?v=5yJLhZescY8


TBSでは本日pm9時から東京大空襲記念番組を放映するという。
http://www.tbs.co.jp/program/dramasp_20080310.html


レイテ島幻想    あるBC級戦犯 [戦争・原爆]

本日3月9日BS NHKで 「証言記録 兵士たちの戦争」 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第一師団~の再放送があった(1月にハイビジョン放映されたもの)。 内容は昨年7回シリーズで放映した証言記録、の続編である。亜細亜太平洋戦争で生き残った兵士が、戦争の実態を、恐らく初めて語るのである(家族にも秘密にしている場合が多い)。前回のシリーズはニューギニア、ルソン、マレイ半島(インパール)、中国戦線を生き延びた兵士の記録であった。 南方戦線で共通していることは、ほとんどの兵士が闘うことなく、餓えと、病気で死んだことである。 食糧補給は行わず、食糧はすべて現地徴発という方針に基づいて兵士を送り込むのが日本軍のやり方であった。


本日の第二期?の第一回証言記録は、レイテ島における日本軍の闘いである。

最初に疑問におもったのはタイトルである。『誤報が生んだ決戦』とは?

19年秋、台湾沖海戦で米軍に大打撃を与えた。。という有りもしない戦果が報じられた。海軍はすぐに誤りと気づいたが、これを陸軍に即座に伝えず、米海軍力の大幅低下を根拠として、レイテ進出という作戦が編み出された。。かのような口吻であるが。はたしてこれは事実なのか? 19年は広げすぎた太平洋戦線をドンドン縮小している時期である。ニューギニア、ルソンなどはこのとき見捨てられた(米軍からも、攻撃目標にさえされなくなった。これがニューギニアに派兵された兵士の悲惨の始まり)。

誤報。しかし、これが誤報と分かった時点で、この情報は虚報、偽報、に転化する。意図的な偽造情報にである。

ところで、台湾沖海戦で大戦果をおさめなくても、フィリピンへの上陸は既定路線ではなかったのか?(大岡昇平の『レイテ戦記』を引っ張り出したみたが台湾沖海戦、と、レイテ進出の作戦的因果関係の記述は見いだせなかった)。

追記4/16: これは私の見落としだった。大岡昇平は『レイテ戦記』に作戦の因果関係の可能性を記述していた:
「大本営海軍部はしかし、敵機動部隊健在の真実を陸軍部に通報しなかった。今日から見れば信じられないことであるが、恐らく海軍としては全国民を湧かせた戦果がいまさら零とは、どの面さげてといったところであったろう。しかしどんなにいいにくくともいわねばならぬ真実というものはある。
決戦が迫っていた十月十七日、アメリカの機動部隊は健在である。従って比島の飛行場、船舶は千機以上の艦上機に攻撃される危険がある、ということはこの種類の真実に属していた。
もし陸軍がこれを知っていれば、決戦場を急にレイテ島に切り替えて、小磯首相が「レイテは天王山」と絶叫することは起こらなかったかも知れない。 (略) 一万以上の敗兵がレイテ島に取り残されて、餓死するという事態は起らなかったかも知れないのである。」



レイテ島の闘いは悲惨であった。
まず、圧倒的な兵力、火力の差。日本軍歩兵はつぎつぎと米軍の空爆にサラされ命を落とした。
つぎに、餓え。日本軍はすでに制空権を失っており、食糧補給用船は次々と海に沈められる。
ニューギニアや中国戦線と同様に、現地の民家に押し入り、食糧を奪った。動いているモノはトカゲだろうと蛇だろうと喰った。レイテ島には8万前後の兵力を投入したが生存して日本に戻れたのは1割に満たない。

大岡昇平は躊躇しながらも、フィリピンにおける兵士同士の人肉食い、あるいは現地住民を殺して喰う、という事実のあったらしいことを『レイテ戦記』ではほのめかせている。(しかし、昨年放映されたNHKの証言記録で兵士たちはそれを事実であると語った。)

食糧を奪っただけではない。他の東南アジアでも起こったことだが現地住民を生かしておいては米軍への諜報につながる、として、銃や剣でころす。手足を縛り、穴を掘ってまとめて生き埋めにする。。という行為が行われたと兵士は証言した。


大岡昇平『レイテ戦記』p673から引用:

「こうしてレイテ決戦終了後、大本営はフィリピン全域の現地司令官に幸福の自由を与えるべきであった、という平凡な結論に達する。そうすれば、ルソン、ミンダナオ、ビサヤでの日米両軍の無益な殺傷、山中の悲惨な餓死と人喰いは避けられたのであった。

 しかし申すまでもなく、これは今日の眼から見た結果論である。国土狭小、資源に乏しい日本が近代国家の仲間入りするために、国民を犠牲にするのは明治建国以来の歴史の要請であった。われわれは敗戦後も依然としてアジアの中の西欧として残った。低賃金と公害というアジア的条件の上に、西欧的な高度成長を築き上げた。だから戦後25年経てば、アメリカの極東政策に迎合して、国民を無益な死に駆り立てる政府とイデオローグが再生産されるという、退屈極まる事態が生じたのである」 (大岡のレイテ戦記は、雑誌中央公論に連載後昭和46年単行本化された)。


(雑誌連載から起算するとほぼ40年前の記述である。わたしは、過労死、社会保険庁問題、薬害、を咄嗟に思いだした)


大岡昇平のこの作品は、米軍資料を含めた多数の資料を元にして書かれている。が、この番組の兵士の証言には迫力の点で及ばない。後から分かった情報を折り込みながらの<鳥瞰的>戦記は、地上で闘う兵士の心理とは無関係であり、兵士の頭に何があったか、何が兵士の眼は見たのかは、大岡の戦記ではほとんど伝わらない。

敗戦後も、大本営は戦争責任を一切問われることはなく、戦前の官僚システムもGHQにより解体されることなく、そのまま戦後に生き延びた。

昨年放映された(第一期)兵士の記録<ニューギニア戦線>に登場した飯田進氏が私に強い記憶を残す。
飯田氏は、BC旧戦犯に問われ懲役刑20年を受け(10年で釈放)巣鴨で生活した。飯田氏は資源調査担当として西部ニューギニアに派遣された。現地語もできた。あるとき、オランダ部隊が陣取る兵舎を急襲し敵を殲滅した後、オランダ軍のために働いていて、残された現地の住民数人を発見した。捕虜として本部まで連行するつもりであったが、数日もかかるため食糧のことを考えるとここで始末すべし、という上官の命令。飯田氏はこの命令に必死で抗弁したが、最終的に上官の命令にはそむけず、自ら住民を射殺した。これがもとで、戦後、ニューギニアにおけるオランダ法廷(BC級戦犯)で処罰を受けたのである。

飯田氏は、判決を聞いて憤懣やるかたなかったが、冷静になって考え直した、という。俺は命令にそむけなかった、という理由がたつ。しかし何の咎もなく射殺された現地人の怒りはどこにもっていけばおさまりがつくのか?と、自ら罰を受けることに納得したのだ。(むろん、飯田氏ほどの罪もまったくなく、BC級戦犯裁判の犠牲になった人も多い。憎まれた日本兵は、住民や敵兵からあることないことを罪状に加えられた)


080309_2017~01飯田.JPG 飯田進氏。同氏には多数の著書がある。


飯田氏の話を持ち出した一つの理由は、最近封切られた大岡昇平原作「ながい旅」の映画化明日への遺言を思いだしたからである。
この作品は出版されると同時に読んだが、岡田資(たすく)海軍中将の<法戦~BC級戦犯法廷における法律闘争>に私は大きな疑問をもった。作者大岡は明らかに岡田中将に感情移入して書いている。この映画は観るつもりだから、観た後で映画評を書こうと思う。

記憶によれば、名古屋地区を無差別爆撃したB29の米軍搭乗兵10人前後がパラシュートで降下した、これを岡田の部下が捕らえて、全員を裁判にかけることもなく惨殺した、のである。岡田は、無差別爆撃は違法であり、違法を犯した米兵士は軍事法廷を待つことなく処分(殺害)してよい、という。しかも、処分にあたったのは岡田の部下の兵士であり、彼らは岡田の命令にしたがっただけであり罪はない、罪はおのれ(岡田)のみにある、というのだ。しかし、この言い分が通るのであれば、無差別爆撃を行った兵士も上官の命令にしたがっただけであり、罰を問われるいわれはない。無差別爆撃の責任は、それを命令した上官にある、ということにならないか。焼夷弾投下ボタンを押しただけの米兵は戦争犯罪者といえない、と。


##


昨年放映された、証言記録 兵士たちの戦争、全7回とあわせこの証言記録は貴重である。 なぜ、NHKは衛星ハイビジョンそれにBSでしか放映しないのか?まず 総合TVあるいは教育TVで放送し、多数の国民、学生や生徒に、戦争の事実、ニッポンの軍隊とは何だったのか、をしらせるべきである。これは大本営発表~虚報ばかりを垂れ流し続けたNHKの義務である。 ついでにいえば、ほとんど、証言するのが少数の例外を除いて末端の兵士ばかりであるのはなぜか?大本営(参謀本部)の連中から証言を聞き出さないのか。片っ端から証言を求め、恐らく拒否されるだろうから、その拒否の事実を報道すればよいではないか。拒否の理由を報道すればなにがしかの参考にはなる。<証言記録 参謀たちの戦争>や<証言記録 戦争報道>を是非実現してもらいたい。

さらに、なぜ、今頃になって証言を取るのか?敗戦から10年20年、いや敗戦の直後から証言を取り始めるべきであったし、その記録はアーカイブとして、フィルムあるいはネット経由で日本国民に無料で利用させるべきである。 計画もなく作戦を立て、失敗が分かっても責任を取ることなく、破綻するまで放置する。 現在の官僚の顔がそのまま、兵士の証言から読み取れるだろう。 証言者(元兵士)は全員90歳になろうとしている。元兵士の、記憶と命がなくなるのを待っていたのだろうか?記憶と命がなくなるのを待つのは元大本営・軍部官僚あるいは現在の政府や官僚だけで十分である。





関連記事:
原爆直後、米兵捕虜を虐殺した広島市民

映画『蟻の兵隊』 日本軍山西省残留問題

中島岳志 『パール判事』 [戦争・原爆]

                               

 

中島岳志『パール判事』(白水社、20007/8/15)の内容は次の通りである。

序章

第一章 前半生 – 法学者として

第二章 東京裁判

第三章 パール判決書

第四章 パール判事へのまなざし

第五章 再来日

第六章 晩年

終章 

パール判事の主張を「日本無罪論」として日本の一部論者が利用しまくっていることや、パール博士の生涯はすでに周知のことであり、ネットで検索すればこれに関する記事は無数に得られる。本書の特長は一般にあまり読まれていないであろうパール判決書そのものを著者が要約した第三章にあるとおもう。

第三章の小見出しを列挙する:

反対意見書/裁判所の構成の問題/通例の戦争犯罪

どの戦争の犯罪を裁くのか? -- 管轄権の範囲の問題

罪刑法定主義の原則 – 事後法という問題/裁判所憲章の性質

戦争は国際法違反か?/魔法にかけられた冒険者/連合国の欺瞞

世界連邦の理想/原爆投下は国際法違反か?/共産主義批判

共同謀議という問題/張作霖爆殺事件/満州事変と満州国建国/帝国主義の時代

日米開戦への道/日本の指導者は「過ちを犯した」/「厳密なる意味における戦争犯罪」

南京虐殺/戦争中の残虐行為/俘虜の虐待/勧告

第三章だけで著者は約100ページを費やしている(本書全体は300ページ)。この小見出しをみれば著者による要約の枠組みは把握できるだろう。わたしのブログ記事(パール判事の冒険、その他)で家永三郎によるパール判決書の評価と批判を、とくに『家永三郎集第12巻』(岩波書店)から抜粋して紹介した。上記小見出しのうち「共産主義批判」に関して著者は以下のように家永三郎によるパールに対する批判を参照している(本書、p140)。パールのこのような記述は、のちに歴史学者の家永三郎から「極端な偏見にみちみちた見解」と批判され、「反共イデオロギー」という政治的立場からの演繹的解釈として問題視された。法律家としての中立性を強調したパールであったが、共産主義に対しては、一貫して厳しい立場を堅持した。

パールは、この後も日中関係や日ソ関係の歴史解釈の中で、「反共主義」という立場を明確にしつつ、分析を展開する

パール判決書中の「反共イデオロギー」は家永三郎でなくても異様に感じる記述であるとおもう。むしろ、家永三郎のパール批判は判決書中の下記の二点において取り上げるべきだろう。

・罪刑法定主義の原則 – 事後法という問題

・ 戦争は国際法違反か?

この二点は日本の「日本無罪」論者が好んで取り上げる論点だからである。家永三郎は著書『戦争責任』(岩波書店、1985年)の第六章「戦争責任の追及はどのようにしてなされるべきであったか」において、この問題を取り上げている。もっとも家永の論点はヨリ広く、東京裁判に限定することなく、章名のとおり、連合国側の対日責任はしばらく措き、私たち日本人にとっていちばん大切な日本国家および日本国民の戦争責任をどのように処置するか>を問うている。そして<何よりも遺憾なのは、日本国家も日本国民も、自らの自発的反省に基づいて戦争責任の始末を正しくつけなかったにとどまらず、戦後40年を経た今日にいたるまでその始末をつけるのを回避しようとする傾向が顕著であり、それが戦後の日本の歴史の方向を大きく歪める要因となってはたらいている事実であると述べている(p349)。が、いまは論点を上の二点に絞る。まず、パールが判決書で述べているところを著者中島の引用カ所(『パール判決書』講談社学術文庫、上下から)をそのまま、孫引きする。

 <検察側が行われたと主張する諸行為に、犯罪性があるかないかは、それらの諸行為のなされた当時に存在した国際法の、諸規則に照らして決定しなければならない>(上257)

本法廷は一つの国際軍事裁判所として設置されたものである。ここで意図されたところは、明白にこれが「司法裁判所」であることにあり、「権力の表示」であってはならないのである。その意図は、われわれが法律による裁判所として行動しかつ国際法の下に行動することにある>(上268)

かような裁判を行うとすれば、本件において見るような裁判所の設立は、法律的事項というよりも、むしろ政治的事項、すなわち本質的には政治的な目的に対して、右のようにして司法的外貌を冠せたものである、という感じを与えるかもしれないし、またそう解釈されても、それはきわめて当然である。儀式化した復讐のもたらすところのものは、たんに瞬時の満足に過ぎないばかりでなく、究極的には後悔をともなうことはほとんど必至である。しかし国際関係においては秩序と節度の再確立に実質的に寄与するものは、真の法律的手続きによる法の擁護以外にありえないのである>(上268-269)

勝者によって今日与えられた犯罪の定義に従っていわゆる裁判を行うことは敗戦者を即時殺戮した昔とわれわれの時代との間に横たわるところの数世紀にわたる文明を抹殺するものである。かようにして定められた法律に照らして行われる裁判は、復讐の欲望を満たすために、法律的手続を踏んでいるふりをするものにほかならない>(上p268)

 

著者中島はこの引用の直後で、つぎのように述べる。

この部分は「パール判決書」の中でも、パール自身の文明観が率直に表現されている重要なカ所だ。彼は、東京裁判を「文明の裁き」とした検事側に対して、「事後法」による裁判の実施こそが「数世紀にわたる文明を抹殺」する行為であると、逆に厳しく非難した。彼にとっては、政治的意図によって法の原則を踏みにじり、復讐の欲望を満たすために裁判を行うことこそが、野蛮な非文明的行為そのものだったのである。ここには、彼が古代インド法の専門家として議論してきた法観念や文明観が、色濃く反映されているといえよう。為政者が政治的意図に基づいて法を変更させることは、インド人法学者パールの目には反文明的行為としか映らなかったのである>(p114)

以下、本論点に関する家永三郎の見解を『戦争責任』(p359-363。参照先などの挿入注は省略する場合がある)から引用する。

 <東京裁判で法律上いちばん問題とされるのは、有罪の理由となった「平和に対する罪」を犯罪として処罰する国際法が戦時期に成立しておらず、連合国軍最高司令官マッカーサーの制定した極東国際軍事裁判所条例により創設された事後法を遡及適用するのは、法の一般原則である罪刑法定主義に反するという点にあり、法定において弁護人高柳賢三はこの条理に基づいて裁判所に管轄権がないことを主張した。>として、横田喜三郎(国際法学者、最高裁判事)および戒能通孝の見解を援用する。

 <これに対しては、まず「大きな変動期には、とくに古い秩序が破壊され、新しい秩序が建設されようとする転換期には」罪刑法定主義に文字どおり従うのは「不可能なことがあり、望ましくないことすらある」ので、「かならずしも絶対の、無上命令的な要請ではない」とする横田喜三郎の見解(『戦争犯罪論』1949年)、さらに一歩を進め、「判決は既存の国際法によったというよりも、むしろ民主主義革命戦争の一部として、革命の敵に当る一部の人を追放する企てであったことは自然である。けだし革命裁判の場合には、それまで一種の政治犯罪人として追いまわされていた人が、今度は正統権力の地位につき、反革命分子を除去する行為に過ぎないので、事後法による裁判、換言すれば罪刑法定主義によらないことは、まったく避けられない道である。(中略)もし革命による裁判に事後法裁判ができないならば、反革命分子の反抗を容認し、革命自体の崩壊を徒に傍観しなければならないからである」と、事後法の適用がこの裁判では不可避かつ必要であったことを積極的に主張する戒能通孝の見解などがある

団藤重光もまた、戒能に比べればもちろん、横田に比べても緩和された語調ではあるが、「国際平和の確保」のためには、事後法の適用も「現在の国際法の発達段階としてやむを得ない」ばかりでなく、A級戦犯犯罪人のなかには「国内刑法の理論では、無罪とされるべき」ケースもあると思うけれど、「国際平和の確保」という「まず実現すべき」最優先の目的のためには、「責任理論にいろいろの修正が加えられることも、やむをえない」と説いている。>

上記の横田喜三郎の解釈を(たとえばネット検索すればわかるが)日本人学者による「自虐的」な見解とするものがいるが、これに対して家永三郎はつぎのように述べる。

 <ことに戦時下の1933年(昭和8年)発行の著書『国際法』において、国際連盟規約・不戦条約等によって、自衛の戦争と制裁の戦争を除き、「普通の戦争は今や一般に禁止された」「禁止された戦争は国際法上の違反行為である」と論じていた横田が、「戦争責任者の処罰においては、罰こそ前もって定められていないが、罪は前もって定められている」、したがって「違法な戦争について、具体的に制裁が定められていないとしても、これを引起したものを処罰することは、かならずしも非難すべきではない」(『戦争犯罪論』)と論じたのは、戦中・戦後を通しての一貫した信念の吐露にほかならず、占領軍の裁判という現実への追随ではなかったのである

 さらに、事後法の適用は第二次大戦期までは国際法上みとめられていた、と述べている。第二次大戦期までは、戦争の法規慣例の違反行為の処罰に関する実体法(罪と罰を定める法規)を各国が国内刑法として平時から制定するよう国際法上義務づけられておらず、戦争の法規慣例に違反することが明らかであれば、そのこと自体を根拠に死刑を含む刑罰を科することが国際法上認められていたし(略)通常の戦争犯罪のほかに、例えばスパイ行為とか戦時叛逆のように、必ずしも戦争の法規慣例上禁止されているとはいい得ない行為も「戦争犯罪」に含めて処罰できるとするのが英米における通例の戦争犯罪処罰の制度として発展してきたのであり、日本の国際法理論もその影響を強く受け、統帥権によって軍律会議を設け、敵国人の「戦争犯罪」のおこなわれたあとに定めた罪と罰に関する規定を遡及適用して処罰を実行していたのである。このように、通常の戦争犯罪について事後法の適用が広く国際法として確立していたのであるならば「平和に対する罪」という新しい戦争犯罪(略)について事後法が適用されても、ことさら「革命による裁判という法理を援用するまでもなく、戦時国際法における罪刑法定主義不適用の一変種として評価する余地もあり得るのではなかろうか

 

 勝者による裁判、という非難について、家永三郎は次のように言う。そのような一面のあることはたしかであるが、日本国民が自らの力によって戦争勢力を打倒し責任者の責任追及をなしえなかったのであるから、占領軍の処理に委ねられたのを非難する資格が日本人にあるとは思われない

そのような一方的性格にもかかわらず、この裁判がなかったならば、日本の侵略戦争の実態とこれを遂行した権力者たちの言動がこれほど具体的に暴露されることはなかったであろうし、裁かれた人々がその責任を問われることもなく、そのまま支配層のなかでの地位を保持し続けたかもしれないのであるから「日本国民が其の無力の故を以て無し能わざる所を」、外国の軍隊の「圧力に依て」(内村鑑三)実現したものという一面のあることを、やはり評価しないわけにいかないであろう

家永は、つづけて、極東軍事裁判所裁判官であったオランダのレーリンクの言葉を引用する:

東京裁判は若干の欠陥があるが「人類が緊急に必要としていた法の発展に貢献したことも否定できません。国連は、ニュルンベルクと東京の判決に定められた諸原則を採択しました。こうして、平和に対する罪は、国際法の一部として公認されるに至ったのです。今や戦争の禁止は強行法規となりました」(略)とも言って「東京裁判の積極的な側面を評価する」必要を説き。。

 

家永三郎はまた、原爆投下に関する日本政府の態度にかんする事実を示している: 

原爆投下直後、日本政府はスイス政府を通じて米国に対し、ヘーグ陸戦法規を援用し、「米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別かつ残虐性において、従来かかる性能を有するが故に使用を禁止せられたる毒ガスその他の兵器を遙かに凌駕しをれり。米国は国際法および人道の根本原則を無視して(中略)従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性残虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪状なり。帝国政府は自らの名において、かつまた全人類および文明の名において米国政府を糾弾すると共に、即時かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す」という、あたかも東京裁判での検察官の日本の戦争犯罪告発を連想させるきびしい口調でその違法性を非難していたにもかかわらず、1957(昭和32)年に原爆被害者が、原爆投下の違法性を問い、講和条約で対米請求権を一切放棄した日本政府からの賠償を求める訴えが起こされると、これに対し、「原子爆弾の使用は日本の降伏を早め、戦争を継続することによって生ずる交戦国双方の人命殺傷を防止する結果をもたらした。かような事情を客観的にみれば、広島・長崎両市に対する原子爆弾の投下が国際法違反であるかどうかは、何人も結論を出し難い」と、あたかも米国の代弁のような言を弄し、前引スイス政府を通して発した対米抗議の事実を認めながら、「しかし、これは当時交戦国としての新型爆弾の使用が国際法の原則及び人道の根本原則に反するものであることを主張したのであって、交戦国という立場をはなれて客観的にみるならば、必ずしもそう断定することはできない」という、原爆投下弁護論を裁判所に提出して、原告の原爆違法の主張に基づく請求の棄却を求めた(『判例時報』355号1963年)>

さきごろニッポン国の某防衛大臣が「原爆投下はしょうがなかった」、と発言し某首相が発言に気を付けろ、と諫めたがすでに、日本国政府が 1957年頃、「原子爆弾の使用は日本の降伏を早め、戦争を継続することによって生ずる交戦国双方の人命殺傷を防止する結果をもたらした。かような事情を客観的にみれば、広島・長崎両市に対する原子爆弾の投下が国際法違反であるかどうかは、何人も結論を出し難い」 。。と、日本国民に対して弁明しているのである。

 

 さて、パール判事は長い議論の末、最終的につぎのような勧告を提示する。

以上述べてきた理由にもとづいて、本官は各被告はすべて起訴中の各起訴事実全部につき無罪と決定されなければならず、またこれらの起訴事実の全部から免除されるべきであると強く主張するものである>(下727)

パール判決書のしめくくり:

時が、熱狂と、偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう」(下745)

 

                          

 

著者中島はあとがきでつぎのように述べている:「パールについて書いているときは、その論理の鋭さと孤立を恐れない高貴な精神に圧倒され続けた。遙か上の高いところにいるパールを仰ぎ見るという感覚が、私を支配し続けた」「本書ではパールの主張の全体像を提示することを、第一の目的とした。パールのご都合主義的利用が横行する現代日本において、まずはパールの発言を体系化しておく必要があると考えたからである」「断っておくが、私はパールの見解や政治的主張のすべてに賛同しているわけではない

 著者はいう。「パールは東京裁判の構造を痛烈に批判したものの、日本の指導者たちは「過ちを犯した」と明言し、刑事上の責任とは別の道義的責任があることを示している」(p296)。これは著者の判定である。わたしはこれをそのまま肯定することができない。是非、著者の<政治的意見(パールとは独立の)>を知りたいと思う。もちろん、わたしは家永三郎等のいうように刑事責任を問える、とおもっている。刑事責任を問えるのは、本来ならば戦勝国、敗戦国に関係なく、である。かりに、判事全員がパールと同意見であるのならば、敗戦国(ニッポン)の刑事責任もとえず、もちろん、戦勝国の刑事責任も問えないだろう。パールは判事としてこの事態に満足するのだろうか?彼の結論はほとんど「日本無罪論」そのものと誤解されてもしようがないものである(事実、判決で刑事責任は問えない、といっているのだから)。道義は、いつ、だれが、法に転化させるのであろうか?(もちろん、軍人に対して道義を説いてなんの効果ないし規制を与えないことはアキラかである)。裁判官は法に照らして判断する人であり、<道義>に口出しすべきではなかろう。彼の<勧告>は、審理の果てに出た結論でなく、彼の出自(インドという英国に長年虐げられたアジアの出身であり、かつ、中国や東南アジア国のように、日本に独立支援国としての親しみを感じている)から、あらかじめ定められた結論であるとおもう。パールが晩年意欲を燃やした世界連邦の機能を私はよく知らないが、すくなくとも、反戦、不戦を標榜する国際組織であり、戦勝国、敗戦国の区別無く戦争責任を問えるシステムであると理解している。家永が述べている(引用している)ようにその足がかりを東京裁判は築いたのであり、その根拠は東京裁判で突如提示されたものではない、というのが家永三郎の主張である、と私は理解している。 

 

パールは東京裁判結審後、数度請われて来日し、講演を行っている。19532月、東京弁護士会館で行った講演のタイトルは「戦犯釈放の法的根拠」。中島氏の著書から引用する。これ以後『 』内がパール博士の発言である。

彼(パール)はここで東京裁判の問題点を指摘しつつ、完全独立を果たした日本は自由裁量で早急に戦犯の釈放を行うべきことを訴えた。

パールはまず、東京裁判の裁判所条例を問題視する。彼は「パール判決書」と同様、裁判所条例が国際法に基づいていない点をきびしく批判し、『征服者がそういうような犯罪のワクを勝手に法的にきめて、そのワクに被征服者の行為をあてはめて裁判をしたということが果たして正義であるか』と論じる。また、マッカーサーが日本の主権を代行する形で裁判所条例を制定し、これに基づいて刑罰まで加えた点を問題視する。

しかし、パールはこの連合国側の論法を逆手に取り、議論を展開する。

彼は言う。

もし、日本の主権を代行するマッカーサーが裁判所を設置し、刑罰を加えたというならば、日本が主権を回復した今日、『巣鴨拘置所たちにたいして、自由な裁量をもって、日本国家として釈放してもいいという結論が生み出されてくる』。よって、独立国家日本は、アメリカの意向に左右されることなく、独自の判断で戦犯の釈放を行うべきである』(『平和の宣言』1953)(中島、p232) 

 

これは、東京裁判をともに審議した同僚判事(もっともパールは、ホテルで判決書執筆に費やすことが多く、判事席に座ることがもっとも少なかった判事であるが)への冒涜であり、自身の判決書さえその信頼性を自ら落とすような発言である。たしかにパールは判決書(Dissentient Judgment of Justice Pal)の冒頭で、極東国際軍事裁判所の構成(判事が戦勝国のみから選出)について意見(異議)を述べているが、本書のp102で中島が要約しているとおり、<いかに判事の属性が戦勝国に偏っていても、彼らが本国政府から独立した個人の立場で判決を下す以上、その国籍は問題の本質ではない。そのため、裁判所の構成を問題視した『被告の異議は容認するに及ばない』(パール判決書、上242)>と、パール自ら執筆した判決書を忘れたのか、といいたくなる。パール判決は少数意見として採用されなかったが、多数意見にもとづく本法廷の審決に被告が服すのは当然であり、判事であったパール自身がその判決を軽んじるような<釈放>勧告をするというのは「法は政治権力に屈してはならない」という彼の信条から離反する行為である。東京裁判の審決をその程度のものと軽んずなら(もちろん、自動的に彼の判決書も軽んじてヨイということになる)、パールは最初からこの法廷を無効とみなし、判事として列することを拒否スベキなのである。(パールの非難した米ソ間冷戦対立により、第二次起訴が予定されていたA級戦犯容疑者の児玉や岸信介が、昭和23年12月、すなわちA級戦犯絞首刑のあった翌月にGHQにより釈放されたのは皮肉である)。

 

パールは判決書のこのカ所で、敗戦国だけでなく『戦勝国もまた戦争法規に違反した自国の国民にたいする裁判権を独立公平な国際裁判所に進んで引き渡す用意があって然るべきである』とする>。このカ所はわたしも同意である。たとえば、ベトナム戦争、イラク戦争などにも同じ原理を適用した<戦争裁判所>を設立して、戦争犯罪の有無に着目した戦勝国、敗戦国を公平に扱うシステムを構築スベキなのだ。

 

本書p240、中島の要約によれば国際法の原則とはなにか?とパールは問い、パール自身の答えとして、それは法が政治権力の上位概念であるということである。その時々の覇権国家の意向によって法が蹂躙され、都合よく解釈されるならば、国際法による世界秩序の維持という構想は崩壊する>。であるなら、国際法廷で結審した判決を、一国の政治主権が回復したから直ちに廃棄していいわけがあるまい。こういうことをすれば主権国家としての信頼が問われるであろう。さらに、大きな問題は、家永三郎も『戦争責任』で詳述しているように、戦時中の日本政府や軍部、官僚には国内法に照らしても日本の一般市民の生命と財産を保護する公的責任を放棄したという重大なる過失がある。(昭和20年の敗戦から21年にかけて国民数万人が栄養失調、餓死で命を落としていることを忘れるべきでない)。文春新書『あの戦争になぜ負けたのか』で、


パール判事の冒険 [戦争・原爆]

                                 

 

二晩続いたNHKスペシャル。そこそこおもろかった。
1 NHKスペシャル 「A級戦犯は何を語ったのか~東京裁判・尋問調書より~」8月13日(月)総合 午後10:00~11:15
2 NHKスペシャル「パール判事は何を問いかけたのか~東京裁判 知られざる攻防」8月14日(火)総合 午後10:00~10:50

http://www.nhk.or.jp/special/onair/070814.html


たまたま、前日放映した、作家・城山三郎を追跡した番組の直後に見たので1は興味があった。法廷では沈黙を守った広田弘毅が検事尋問には多弁となっている。城山の小説は読んでいないが、唯一文官で死刑判決が出た広田に同情的であるらしい。しかし、死刑が重すぎるとはいえまい。


昨日のニュースで一番おどろいたのは、インドを訪問するらしいアベがなんと、現地でパール判事の子息と会うらしい。

昨日の番組でもわかるように、パール判事はきわめて屈折した存在だ。明確に言えるのは戦争には絶対反対、であるということである。ただ、現実には宗主国英国に苦しめられたという屈折がある、とおもわれる(東京裁判判事のなかで英国、パトリック判事、や欧州の判事と同調できなかったのはこの辺に原因があると、わたしはおもっている。オランダのレーリンクは唯一の例外。パールを理解したが、袂を分かつところもある。レーリンクのナチ体験からだろう)。パールのニッポン無罪論は、東京裁判検事が提出した(米国の意を汲む)訴因は無効とするものであって、ニッポンを単純に無罪放免しているのではない。これをまったく理解しない東京裁判史観派、はパールを『ニッポン無罪論』者、に仕立て上げているのだから、パールもタマランだろう。


訴因無効の理由は事後法によって被告を裁いてはエケン、というのだが、東京裁判を そもそも裁判とみなすのが誤っている。東京裁判は政治行為でありさらにいえば、革命である(明治革命、につぐ、昭和革命)。裁判官がそういっていないだけである。政治が法の上に立ってはイケナイ、などという向きもあるが、東京裁判やニュルンベルク裁判はハッキリと政治行為、とみとめなければコトは始まらない。

しかし。。それが無理という人には、こういっておこう。平和に対する罪、とか、共同謀議(英米法でのみ有効な犯罪)などを適用しなくても東京裁判被告は十分に有罪に出来たのだ。A旧戦犯、などのカテゴリをもうけたのは 東京裁判史観、などを歓ばせるだけ(それが目的か?)とおもわせるマズイ設定だと思う。

十五年戦争とパル判決書:
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-05-11

この記事でも書いたようにパール判決書をバラバラめくってもそのトンデモぶりにビックリするカ所がある(わたしのように素人が読んでも、である)。西欧諸国への対決心(パールはガンジー崇拝者)が旺盛であり、政治的には反共である(したがって国民党を攻撃するニッポンに同情的)。とても不偏不党と呼べるものではない(不偏不党であるべき、とはいっていない。もともとこの裁判は政治裁判なのだから)。

 
 パール判決書(講談社学術文庫版)


原爆や東京無差別攻撃などはあきらかに連合国(米国)の戦争犯罪である。東京裁判では裁かれなかったが、以後、これを政治的に裁くのは自由である。泥棒同志は、相互を傷をなめ合って、相互を無罪放免にするのではなく、互いに、罪を列挙しあって、互いにお縄を頂戴しなければならないのである。(無差別爆撃を中国で世界に先駆けてやり出したのはニッポン海軍である)。

アベ首相が近いうちに訪印し、パール判事の子息に会うそうである。何をしゃべるつもりなのか?楽しみではある。

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NHKの番組で気の付いたところにコメントを追加しておく。

ジョンプリッチャード(英国歴史家)、日暮吉延(鹿児島大、教授)によれば、判事の間でも<侵略戦争>を法廷で裁けるか、などをめぐって、裁判自体が崩壊の危機(プリッチャード)にあった、あるいは、最初から結論があったというのは俗論であり、判事の間には紆余曲折があり結論は流動的であった、と。

しかし、最大の戦犯(候補)であった天皇がすでに終戦前、訴追せず(国体護持)という決定が、米国~政府(宮中グループ)のあいだで合意されていたのであるから(そうでなければ国民ではなく皇室の存亡のみを気にかけていた昭和天皇が降伏を認めるわけがない)、この裁判は開始前からおおかたの結論は出ていた、といえるのではないか? 天皇を訴追しないこと、これがニッポンの戦後レジームを規定した。戦後レジームを見直すというのであれば、さらに、戦勝国の裁判である、非難するのであれば、まず天皇訴追せずから、見直さなくてはならない。

英国から派遣されたパトリック判事は裁判憲章を受け入れないパール判事に辞任を求め、本国に対してはなぜ、あんな男を判事に任命するインドを後押ししたのか、と非難する。パール判事の出身地、カルカタは、200年の英国によるインド支配の中でももっとも独立運動の激しい都市であったという。パールはヒンズー教徒として、ガンジーと同じ敬虔な平和主義の周波に属した。恵まれない家庭に生まれカースト制度の不当な抑圧を受けた。亜細亜の各地で残虐行為を行使した日本軍に対する非難はパール判決書のあちこちにみられる。ニッポンが西欧を真似て満州という狂言を演じ満州を支配した原因をさぐれば、ニッポンの明治初期から固定観念になった<西洋模倣願望>のゆえであろう、という。

パール判事は、非戦闘員への生命財産に対する無差別爆撃がいまだに戦争に置いて違法ならば、原子爆弾使用決定は、ナチス指導者たちの指令に近似した唯一のものである、と米国を非難する。しかし、無差別攻撃はニッポンが中国に対して戦意喪失させるべく南京上海の諸都市に対して38年以降頻繁におこなったのを世界の嚆矢とする(死傷者の数が問題ではあるまい)。わたしは無差別爆撃であろうと、市民に対する暴行、殺害、強姦、すべて区別無く重大犯罪とおもう。パール判事の意見は西欧(=連合国)に対する反感から連合国に対して厳しく、ニッポンのとくに対中国、亜細亜に対する犯罪に甘すぎるようにおもわれる(上記、家永三郎に関するブログ参照。『家永三郎集』第12巻)。

 レーリンク判事(オランダ)がマッカーサーから直接聴いたところによると、マッカーサーはこの裁判を早めに切り上げたかったらしい。真珠湾攻撃の謀議に加わったものを裁けばよい、と。以後の戦線においてニッポンを裁くことはすなわち、連合国(米国)を裁くことにつながり、ニッポンや亜細亜が無力となった状態であればそれ以上の戦犯追及に米国として意味を見いだせないのだろう。しかし、日本にとってはどうか?特に、日本の国民にとってこの裁判はどういう意味を持つか?

かりに東京大空襲(1945年3月10日)以後、名古屋神戸大阪、と続く諸都市の爆撃がなければ日本が降伏することがあり得たろうか?あり得ない。本土決戦が起こる、というのではなく、その前に100万人以上の国民が餓死したであろう。餓死するのを軍部や天皇は放置したであろう(敗戦以後、45~46年になっても、食糧不足で数十万が餓死した)。8月6日、9日に原爆を落とされても降伏しようとせず、天皇は皇室~国体の存続しか関心をもたず、米国がポツダム宣言を受け入れた場合、天皇を訴追せず、と決定したのを知っても(11日頃か)なお降伏せず、大阪などに大空襲を仕掛けられやっと、降伏するに至った。これは国民に対する天皇と軍部、政府の犯罪である。こういう国内的犯罪を戦争法廷~東京裁判という枠組みではおそらく裁けまい(人民裁判が必要となる)。ジョン・プリッチャードがいうように「侵略が違法となっていない」という理由で裁けなかったら何が帰結するか。ニュルンベルク裁判で平和に対する罪、が規定されて以後、侵略は裁かれねばならなかったのである(侵略は悪、であることはわかっていた。だから日中戦争、といわず、日支<事変>と誤魔化したのである)。そもそも、パール判事が称える事後法(遡及せず)の「法」を実定法のみに限定するのが誤りだ。このような政治裁判であれば世界の常識となっている慣習法も法に含まれるのが当然である。

それにしても、死なずにすむ何十万という国民のイノチ、それに財産を失うまで、さらに、兵士に食糧も満足に与えず(死亡した200万兵士のうち半数は餓死) おのれのイノチを保証されるまで降伏しない君主をもった國、それに異議を全く唱えられなかった時代のニッポンとはしょうがない國ではあった。いまだにその時代を恋しがる政治屋が跳梁跋扈しているニッポンはまっこと、どーしようもない國である。

天皇を訴追せず、というのは米国トルーマンが決定し、これは天皇や政府には伝わっていた。それ故に天皇が降伏(ポツダム条件)を受け入れた(小田実は、8月11日頃のニューヨークタイムズ紙に日本が敗戦を受け入れた、と掲載されていたと言っている)。米国が定めた東京裁判憲章に天皇訴追せずということはもちろん明文化されていないが、なぜか、判事等にこの枠組みは伝わっていたようである。これに最後まで異議を唱えたのはオーストラリアのみであったようだ。なぜ、憲章に異議を唱えたパール判事が、天皇訴追せずという米国の意志には異議を唱えなかったか。反=西欧(連合国)で、少なくとも当初、ニッポンに好意を持っていたパール(敬虔なガンジー派)のイデオロギが表れている、というしかない。

 

        パール判事(NHKの番組から)

 

晩年、81歳で迎える死の3ヶ月前、日本を訪れたパール判事と日本人国際法専門家との問答がテープで残っていた(1966年10月最後の来日)。

問: 日本人は自身で独自の判決を下すべきだと思います。自らの行為をふり返り愚かな行為を繰り返さないと誓うべきであると思います。。。

パール元判事: それはニッポンのみなさん自身が考える問題です。しかし、ニッポンだけの問題でしょうか?いまや、世界の国々が武力を棄てポリティクスを考えるときに来たのです。誇張無くいいますが、武力はモハヤ役に立ちません。全く無力です。

 

パールに忠実であろうとする日本人ならば、政略的に残された<天皇>など問題は残るものの、武力不保持、不戦の平和主義を原理とする『日本国憲法』を前面に押し出し、かつての連合国(いまや利権集団と化し、なんの正義も代表していない安保理常任理事国)を裁き返すのが現実的にとりうるポリティクスだろう。勝者の裁判も望ましくない、と同時に敗者の裁判も望ましくない(裁判とは公正を旨とするのであり、復讐のための裁判ではないのだから。これは国内の裁判でも同じである)。平和に対する罪、を明文化し、戦争があった場合、勝者と敗者をともに法に照らして裁くというシステムを設立スベキなのである。勝者がやり放題、のシステムを放置しておいてどうして不戦、と、軍縮が実行できるか。日常生活でわれわれが武器不保持(刀狩り)を了承し武器を国家(警察)の独占にまかせて平気なのは(自衛の武器も持たない)、警察は市民を迫害する暴力から守ることが義務づけられそのためにのみ武器を使用できる、と法律で定めており、他人の自由を物理的、精神的に侵してはならないと法が定めており、法を実施する機関も同時に定めているからだ。地球社会~国際社会にも暴力(侵略、戦争)を不法とし、個人であろうと国家であろうとそれを犯すものは 法に基づいて厳罰を下すことの出来る体制(執行システム=国際警察と司法システム)を、国家から独立させて設立しておくべきである。

 

かりにパール判事の意見が東京裁判で多数意見となったとしよう。東京裁判の憲章はすべて無効、被告はすべて無罪放免になったとしよう。戦前の体制と思考法がそのまま生き残ることになる。。。。。と、ここまで書いて気が付いた。戦前の体制と思考法は、ほとんど現在復活している。

 

                               

 東京裁判の判事を務めたオランダのレーリンクのインタビューをまとめた『レーリンク判事の東京裁判-- 歴史的証言と展望』(新曜社、1996年8月31日。原著出版は1993年。レーリンクへのインタビュは1977年に行われた。レーリンクは1985年死去)から、レーリンクによるパールの印象を述べた部分を本書の解説者(粟谷憲太郎氏)が要約している。これを引用しておくp249以降。

「レーリンクは各判事の人物像について語っているが、特にインドのパル判事について、パルが長年にわたるヨーロッパのアジアへの植民地支配に心から憤りをもち、「アジアをヨーロッパから解放するための日本の戦争、そして『アジア人のためのアジア』というスローガンは、パルの心の琴線に触れるものがあったのです。彼は、日本人とともにイギリスと戦うインド軍に属していたことさえあったのです」と述べていることは興味深い(50-51頁)。レーリンクは、判事としてパルと親しかったのだが、このレーリンクの発言から、アジア太平洋戦争開始後、パルがインド国民軍に関与したことが明らかになる。パルの政治思想は、日本と結んでインド国民軍を率い、インド独立を達成しようとしたチャンドラ・ボースに近かったわけだ。

パルは判事団のなかではまったく特異な立場にあった。すでに来日した時から、侵略戦争が国際法上、犯罪ではないとの信念を持ち、被告全員無罪のみずから判決を書くべく、ひたすら宿舎にこもり準備につとめていた。また法廷での欠席が一番多い判事でもあった(注by 古井戸:逆にレーリンクはもっとも欠席が少なく法廷資料も他のどの判事より熱心に目を通した)。このパルの考えは、一面で、法実証主義の立場から導き出されたのだが、他方では、西洋帝国主義にたいする強烈な敵意にもとづいており、「白人の優越」に挑んだ日本に共鳴した彼の思想的立場から生まれたものであった。日本の侵略と残虐行為、日本の戦争指導者に対してパルの評価が甘いのはこのためであり、他の判事たちと逆の意味で予断をもっていたのである。戦時中に日本に協力した経験からも、パルは「中立的」立場にあった判事ではなかったといえよう」(以上、粟谷憲太郎による解説から)

すなわち粟谷氏の解説の内容は、上記家永三郎の記事『15年戦争とパール判決書』の主張とほぼ同じである。家永の記事の初出は1967年『みすず』11月号。

 

十五年戦争とパル判決書:
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-05-11   
落日燃ゆ
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/2004/20041209Rakujitsu.html


関連ブログ記事:  

中島岳志 『パール判事』 

http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2007-09-23

家永三郎『戦争責任』
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2007-03-20-2


 

  

雑誌『現代思想』2007/8月号 特集=東京裁判とは何か

 


広島vs長崎問題 あるいは 戦略爆撃の思想 [戦争・原爆]

   

東京大空襲 3/10/1945

 

 

広島vs長崎問題というのをご存じでしょうか。史上初めて原爆を落とされた広島が世界で脚光を浴びるのに対し同等な被害を受けた長崎がどうしても小さく扱われることに対する、長崎関係者の嘆きです。

ずいぶんくだらない、とわたしはおもいます。さらに誤解がありますが、原爆を特別に大きく取り上げることに私は反対します。広島の原爆追悼式も取りやめるべきだと思っています。

原爆は、当時のニッポンのほとんどの大都市が受けた無差別爆撃のひとつでしかありません。45年3月10日深夜の東京空襲はその手口の悪質さからすればハルカニ原爆をしのいでいます。死者も10万人です。ニッポン全国でなぜ、東京大空襲を追悼しないのでしょうか?東京だけではありません。大阪、名古屋、工業都市と言われた都市はほとんど爆撃を受けています。

東京は焼け野原になったのにまだ戦争をやめようとしなかった、まさにキチガイです。天皇と軍部は大きな責任があります。天皇=国体を維持するためだけに、半年以上の間ニッポンを焼け野原にしてしまったのだから。8月15日は、天皇が国民に謝罪する日でなければなりません。この日、広島東京長崎その他の諸都市で亡くなった100万以上の人々に謝罪せねばなりません。

重ねて言いますが、原爆を特別扱いすべきではありません。

さらに、広島では中国からの強制連行者が働いて被爆死、死者もたくさん出たのに、広島市は追悼しようとしなかった。追悼名簿にも記載されていません。このような仕打ちをした広島市民に原爆を非難する資格は全くありません。中国、亜細亜で犯した蛮行を当時ニッポン国民はまったく知らぬか知っても当然のことと無視した。

さらに、ニッポンで米国が行った無差別攻撃の(当時の国際法違反であるが。。。米国は現在に置いてもこれを批准していない)起源は、ニッポンが中国戦線で一般市民を攻撃して戦意阻喪させるという<戦略爆撃>思想に従ったものです。ニッポンは世界で初めて重慶でこれを実施し多数の一般市民を殺した。このようなニッポンに原爆を非難する資格は全くありません。血で血を洗う戦いであった、というだけです。

現時点で原爆を非難したいならば、核兵器とか通常兵器かを区別することなく、あらゆる戦争に反対、軍備に反対する、という原理をかかげなければなりません。それ以外はまやかしです。広島は核を売り物にするのではなく(核だけに注目してもなんにもならない)あらゆる戦争に反対するという運動に変じていかねばなりません。

重慶無差別攻撃
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/jyuukei.htm

東京大空襲、3/10/1945: 史上最大の虐殺、原爆より悲惨、悪質。
http://www.ne.jp/asahi/k/m/kusyu/kuusyu.html
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu-kusyu.t.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~rk8h-od/kusyu.htm
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tokyoudaikuusyuu.htm
http://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/c/af4ce59de6dc6fd0b31c238b385a06bc
↑3/10の日記。

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原爆にこだわっているのではなく、原爆クラスの被害を国民に与えなければ降伏という道を取りえない国家制度を持ったニッポン、それに異議申し立てできず黙認し、あろうことか、亜細亜を侵略し蛮行を繰り返し数千万という死者をもたらしたニッポンという国を、嘆いているのです。 

ニッポンが中国亜細亜で蛮行をしているのを連合国は知っていました。中国亜細亜だけでなく国内はすでに食糧もなく政府や天皇は国民の生存など屁ともおもっていなかったのです。

終戦後45~46年にいたるも、ニッポン国民が何十万、餓死したかご存じですか?

あれ以上戦争が長引いたらニッポンジンのほとんどが餓死します。たとえば、7月以降、連合軍がニッポンを封鎖したらどうなりますか? おまえらが、降伏、というまで本土攻撃はしない。全国民が飢えるのを待つ、という作戦もありえたでしょう。
軍部、天皇の食糧が底をついてくる頃にやっと白旗を立てたでしょう。

原爆はそれを早める効果をもたらした、と言う事実を私は言っています。

原爆がまだ開発されず、そのの代わりに東京と同じく、焼夷弾で無差別爆撃を長崎、広島に実施して20万の死者を出せばよかったのでしょうか?

あるいはそれ以外にどのような道があり得ますか?
傍観ですか?
連合国(米国)の、本土上陸作戦を待ちますか?

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やすらかにおねむりください
あやまちはにどとくりかえしませんから。

こういう言葉が広島の慰霊碑にきざまれ、右翼からよく攻撃を受けるという。原爆を落としたのは米国なのになぜ、(おれたちの)あやまち、なのか?

これは、おれたち、のあやまちなのだ。つまり天皇と軍部という(明治維新以来のつくりもの)を壊すことなく信奉し、亜細亜を侵略し蛮行をおこない、さらに自国民の餓えを放置する国体に異議もいうことのできないシステムを放置したことが あやまち、なのである。 こういうシステムを二度とわれわれはつくらない、という決意が上のメッセージである。

被害を受けたことだけを強調し、亜細亜に対して加害したことに目をつむれば天罰受けるのは当然のことである。

ニッポンに必要なのは、被爆国としての自覚だけではない。なぜ、被爆を招いたか、の追及であり、国中焦土と化すまで戦争を続け、敗戦後も数十万という餓死者を出した人間無視の国家をつくったことにたいする、加害国としての自覚である。

 

 

日本兵は中国で何をしたか:  松岡環編著 『南京戦』閉ざされた記憶を訪ねて、(社会評論社)から
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2007-03-11

日本国家は中国と日本兵になにをしたか: 映画『蟻の兵隊』試写、評:
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-05-24

 1945初冬


報復の連鎖を絶つ  二〇〇七年八月六日 [戦争・原爆]

                                    

                                                                                      

原爆慰霊式@廣島

秋葉市長の追悼演説(平和宣言)はおざなりでなく、毎年聴かせる。 しかし、小学校六年男女による追悼メッセージ(誓いの言葉)の迫力には今年も及ばなかった。問題は核兵器ではない、ということを忘れぬようにして欲しい。問題なのは報復思想である。この日、誓いの言葉で、少年少女が指摘していたことだ。

少年少女たちの声が、彼らの成長とトモに、物わかりのヨイ思考とコトバに変わっていくのはなぜか?

 朝日新聞8/6特集。ジョナサン・シェルJonathan Schell(米国、元ニューヨーカー誌記者)http://www.pcf.city.hiroshima.jp/declaration/Japanese/2002/2002words/vol05J.htmlが発言している@国際平和シンポジウム、基調演説@2007/8/4@廣島:

 

「私の国が62年前にここでしたことは決してするべきことではなかった。どの街に対しても、いかなる状況下でも、決して繰り返されるべきではない。

45年夏の廣島を洗浄とは呼べない。あの日、戦いと呼べるものは皆無だった。逃げる兵士も追いかける勝者もいない。あったのは、一機の飛行場と一発の爆弾、そして廃墟になった街だった。ほとんどの犠牲者は民間人だった。」。

 朝日新聞、8/6/2007

 

 しかし、最初から戦場であった場所など地球上、いずこにも存在しない。南京、上海、重慶、徐州。。。ベトナム、朝鮮、バグダッド、しかり。戦場にしたのは人間たち、なかんずく、政治屋と軍隊であり、政治屋軍隊それに、ジャーナリスト、マスコミに踊らされて報復思考に走った人間どもである。しかも、この人間どもが、犠牲者でもある。さらに最初から兵士である人間もいない。兵士と軍隊は国家によって無から製造されるのである。敵も敵国も、兵士、軍隊、兵器工場を維持するため、同様に国家によって無から再生産される。

8月中頃から、NHKハイビジョンで兵士たちの証言を記録、放映するそうだ。第三回までは南洋で戦った兵士。

フシギなのはかくも世論をにぎわせ国際的に論議を興している慰安婦問題の当事者証言、それに 中国戦線、とくに南京や徐州、上海、杭州などで戦った兵士たちの証言をなぜ、取材し放映しないか、ということ。国会はその調査を行う職務を完全に抛棄している。兵士を含めた当事者の高齢化は一層進み、まもなく全員が90歳になり、死に絶える。 それを待っているのか?人間には反戦・不戦という思考は生まれついて備わってはいないのである。動物としての人間に備わっているのは攻撃思考、報復思考のみである。戦争の歴史を学習し、反省するしか、戦争は防止できない。

映画『蟻の兵隊』が取り上げた残留兵問題をなぜ追及しないか。問題はなにも解決していないのである。 NHKは戦時中翼賛番組を作り続けた。反省したらどうか。

 

 追記8/7

ふと思い出した。わたしはこれまで、これほど涙を流して感動した原爆詩、というのはない、そういう詩をおもいだした。それは70年頃(わたしの学生時代)、雑誌、『暮らしの手帖』に、掲載された。茶色に変色した作文が束になって発見されたのを、暮らしの手帖が写真で掲載した。原爆で廃墟になった街の青空学校、先生が原爆のことを作文させたのだろう。小学校2年生の男の子の作文。手元にないので記憶をたどって書く。
 
    xx小学校二年 aa aaa

ぴかどんがおちた 
おとうちゃんがしんだ
おかあちゃんもしんだ
おじいちゃんもしんだ
あんちゃんもしんだ
おねえちゃんもしんだ
みんなみんなしんでしまった

 

 

ブログ記事:

松岡環編著 『南京戦』閉ざされた記憶を訪ねて、(社会評論社)から

http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2007-03-11

映画『蟻の兵隊』試写、評:

 http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-05-24

 

ジョナサン・シェル J. Schell

http://www.mindfully.org/Reform/2003/War-Is-Futile-SchellMar03.htm

http://www.nuclear-free.com/deltredici/schell.htm

 

●リンク

なぜ、廣島長崎に原爆が投下されたか? 


 広島、京都、小倉は、まったく理想的な投下目標都市の形をしていました。つまり、
 1・破壊予想半径の3kmが市街地にスッポリ入る。
 2・適当に建造物が多く人口が多い。
 3・テニアン基地から近い。
 という条件を完全に満たしています。
 三都市以外に新潟も候補地として挙げられた時期もありましたが、新潟はテニアン基地から遠く、目標として貧弱なため、7月までには除外されていました。突然に長崎が候補地に入れられた後も、その不規則な地形を考えて、常に第二、第三候補とされていました。「なぜ京都でなく長崎なのだ」と、米軍部内でも長崎を目標とすることを不満とする考えが多かったそうです。爆撃部隊の責任者である少将が、ポツダム会議に出席中のトルーマン大統領に「京都を爆撃させて欲しい」と直訴したほどです。


投下!
~小倉上空10時44分~
http://www1.linkclub.or.jp/~oya-wm/arsenalkokurafile/dropfile/drop.html


長崎への原爆投下wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%B8%82%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B

なぜ廣島に原爆が投下されたか
http://www.hiroshima-spirit.jp/ja/hiroshima/shiryoukan/morgue_e12.html


『戦争責任』 家永三郎 (岩波書店、1985年) [戦争・原爆]

                                  

買った後、長らく放置してきた書物である。購入したのは5,6年前だが発行は1985年、20年以上前だ。最近、ブログ記事で南京戦や従軍慰安婦を書いたのをきっかけに読んでみた。

実証研究の歴史家らしく、その構成は体系的。分かることは分けること、という私の好きな格言を実感する目次構成である。全体は前半と後半にわかれ、前半は戦争(15年戦争)とは何であったか、どのような責任が誰(どの国)にあるかをのべる、いわば事実篇(狭い意味の歴史)、後半は戦争責任とはなぜか、なんのために責任を追及するか、といういわば、哲学篇である。歴史家としての戦争責任の自覚から生ずる執念、ニッポン国の読者になにかを訴えたいがため、かくも記述が網羅的でありながらコンパクトになったのであろう。戦争責任を書いた書物はあまた存在するなかで、家永のこの本の特徴はなにか?日本の歴史家としての戦争責任に言及する文字。それに、何の責任を負うか、だけでなく、誰が、なぜ(理由、目的)責任を負わねばならぬか、とくに、戦争に直接責任のない戦後世代が責任を負うべきか、を考察した第四章『日本国民の戦争責任はどのような点にあるか』、以降の記述に、倫理的歴史家としての家永三郎の面目があると思われる。歴史記述に先立って倫理観なければ、一行たりとも歴史は記述できない、ということであろう。とくに近現代史においては。

本書の詳細目次を掲げておく。以下に網羅的であるか、がわかるだろう。ヤスパースのように、戦争責任とは何か、ではなく、ニッポンの体験した15年戦争の戦争責任(もちろん、ニッポンだけでなく連合国の戦争責任もある)とはいかなるものか、を論じているのだ。

戦争責任の厄介さは、戦争という事業が共同体(国家)レベルで行われるからである。責任とは最終的に個人の責任に写像される。なぜ、共同体全体の、しかもおのれの生まれる前に発生した政治作為・不作為の責任を、後からこの世に生まれた個人が取らねばならぬか?これは自明な問題ではない。

本書の内容(目次):
はしがき
●序章  今日なぜ戦争責任を論ずるのか

●第一章 戦争責任はどうして生ずるか

●第二章 戦争責任にはどのような区分があるか

●第三章 日本国家の戦争責任はどのような点にあるのか
序節 日本帝国の権力組織
第一節 国際的責任
一 中国その他の被侵略諸国・諸民族と日本の植民地諸民族に対する責任
1 中国に対する責任
(ア) 南京大虐殺
(イ) 中国全戦線にわたる残虐行為
(ウ) 毒ガス戦
(エ) 計画的継続的に大量の中国人民等に生体実験・生体解剖を行った731部隊の残虐行為
(オ) アヘン密貿易による日本の巨利獲得と中国人民の心身腐蝕
(カ) 侵略の手先としての中国官民の利用
2 マライ半島諸民族に対する責任
3 フィリピンに対する責任
 付 グアム島民に対する責任
4 インドネシアに対する責任
5 ビルマに対する責任
6 ヴェトナムに対する責任
7 朝鮮民族に対する責任
8 台湾島民に対する責任
9 旧委託統治領太平洋諸島住民に対する責任
10 小括

二 米国その他の欧米の連合諸国(ソ連を除く)に対する責任
三 中立国に対する責任
四 ソ連に対する責任

第二節 国内的責任
一 国民の自由・権利を破壊し、戦争反対・早期終戦要求を封殺した責任
二 多数の国民を戦死・戦災死させ、あるいは回復できない精神的・肉体的被害を与えた責任
   1 国民の受けた甚大な被害
   2 無謀な開戦決定と終戦遅延
第三節 日本国家の戦争責任は誰が負うべきであるか

●第四章 日本国民の戦争責任はどのような点にあるのか
序節 日本国民の置かれた歴史的境位
第一節 一般国民の責任
第二節 「戦争を知らない世代」にも責任はあるか

●第五章 連合諸国の日本に対する戦争責任はどのような点にあるのか
第一節 米国の戦争責任
第二節 ソ連の戦争責任

●第六章 戦争責任の追及はどのようにしてなされるべきであったか

●第七章 戦争責任の追及は、何のために今後どのようにして続けられるべきであるか

あとがき
付図 
・十五年戦争の戦禍の及んだ地域略図
・十五年戦争下の権力組織略図

##

ここから本書の記述の抜粋を行う。

1 家永三郎は、なぜ本書を書いたか

1953年に家永三郎は次のように書いている:
「私は今になって自分が消極的な意味での戦争犯罪人 -- 戦争を防止するための義務を怠った不作為の犯罪人であったとの自責の念に堪えない。私は今度こそはその後悔を二度としたくないと思う。同胞を破滅への道に駆り立てる力に向かって、私たちは敢然と立ち向かわねばならぬ、と思う」

そして、1960年代に入り『太平洋戦争』(岩波)を著作することになった今(85年)つぎのように書く:
「何事に付けても、また何時においても、悟り方のおそい私が戦争責任の問題と本格的にとりくむようになるまでには、このように長い時間が必要であったのであり、私がそこまで到着したのは「戦争は終わった」といわれるようになった時代であって、戦争責任など今さら問題にならない雰囲気となっていたのであるが、そうした状況であるだけに、私としてはいっそうこの問題を改めて世間に再浮上させる必要を痛感しないではいられず、そのためにも戦争責任の全体像を事実と理論との両面から体系化する作業をやりとげたいとの意欲がわき始めた。本書は、右のような私のたどたとしい歩みののちに成立した著作であって、早くから確立していた見識を披露するものではないのである」

2 丸山真男が1956年度の思想の科学研究会総会、「戦争責任について」の座談会にて、次の発言をした。これが、家永に深い印象を与えた、と言っている。戦争責任の諸範疇をすでに50年代半ばで丸山が捉えていることに対して。
丸山「当面の問題の整理のために、私はだいたい次の4つの点から戦争責任の観念を区別して考えたrどうかと思うのです。」
(1) 誰に対して責任を負うか、誰に対する責任なのかということをハッキリさせること
(2) 責任を負う行為の性質による区別すること
(3) 責任自体の性質による区別。たとえば、ヤスパースによる区分
     1 刑事上の責任
     2 道徳上の責任
     3 政治的な責任
     4 形而上学的責任
(4) 主体の地位および職能の点から区分(リーダーとか、下級指導者とか)
このほか、積極的な協力の責任のほかに、受益度の責任、侵略戦争から受益した者はその限りの責任を負うのではないか。

3 第三章第三節 日本国家の戦争責任は誰が負うべきであるか、から冒頭の引用 p240
「前二節で述べてきたところの日本国家の戦争責任は、公法人としての大日本帝国とその後継者としての日本国が全面的に責任を負わねばならず、国家の制度や機関のメンバーが大きく変じているからといって、責任が消滅するものではない。戦後に講和条約が成立し、あるいは国交が回復して、国際法上の責任が消滅したとしても、国際道徳上の責任が消滅するわけでない。まして日本国家により被害を受けた旧敵国人・旧植民地人個々に対する道義的責任は、それら個々人の被害が回復することのできない生命(本人・近親・恋人など)や肉体の一部の喪失である場合には、ことに重大であって、その個々人が戦後に所属する国家と日本国との間でどのようなとりきめがなされようとも、それとは別次元での日本国に責任が残るのである」p241
「しかし、公法人としての国家という、法律上の権利・義務の主体にとどまる抽象的存在のみに戦争責任をすべて吸収させて終わりとすることはできない。法人を運営するものはその機関としての自然人であるから、当時の日本の国家機関の地位にあって、違法・無謀の戦争を開始または遂行する権限を行使ないし濫用した自然人個々人にも、また責任のあるのは当然である」 p242
「。。国家に責任があるとともに、その機関として国家権力の行使に当たった個人としての責任もあるのを否定することは、国家を隠れ蓑として自然人のあらゆる不法不倫を免責し道徳的存在としての人間の尊厳を抹殺する結果となるであろう」p243

(上官の命令は絶対的であるか、について)
「残虐行為が兵士の自発的意志ではなく、上官の命令で行われた場合に、命令した上官が間接正犯としての犯罪責任を負わねばならないのは当然として、実行した、正確に言えば実行を余儀なくさせられた兵士の責任はどうか。絶対服従を金科玉条とする軍隊では、たといどのような非人道的行為でも、上官の命令を拒否することは許されていなかった。」(略)
「しかしながら、国内法の解釈と運用とは右のとおりであったとしても、それは国際的に通用する法理として認められていたのではない」p256 として、東京裁判のBC級戦犯問題に言及した後、
「。。やはり、軍隊において上官の命令を拒否することには、少なくとも兵士に関するかぎり、期待可能性がなかったようにおもわれる。それ故に、法律上の責任を問うのは酷であると考えられるが、それにもかかわらず、次のような見解もあることを紹介して、この問題の検討を終えたい」。。として富永正三『あるBC旧戦犯の戦後史 ほんとうの戦争責任とは何か』から引用している:
「上官の命令は絶対であり、それを拒否し、反抗することは当然許されることではなかった。それでも非道の命令に対して、命をかけて反抗した者もなかったわけではない。非道な命令を拒否することなく、それに従ったということは、自分もそれを当然と考え、それを認めたか、または自分では正しくない、と思いながらも、それに反抗して自分が処刑されるよりそれに従った方が自分にとって有利である、と打算したからにほかならない。それならその行為に対して、みずから責任をとるべきことは当然である。命令者には命令者としての責任があり、実行者には実行者としての責任があるのである」p256

なお、本節p241に引用されている吉田清治の回想は、『従軍慰安婦をめぐる30のウソと真実』08で著者が述べているように、ウソであることが暴露されている。

4 ●第四章 日本国民の戦争責任はどのような点にあるのか
    第二節 「戦争を知らない世代」にも責任はあるか

読者によっては、本節が、本書で最も問題になるだろう。少し長めの引用をおこなう。

「戦争中にいまだ少年期にあった人々でも、戦争にかかわりあったことについて、少なくとも成長後に少年期の自己の言動を反省の対象とする余地があるかぎり、責任の問題と無関係でないことを前節で述べたのであるが、戦争下をいまだ物心のついていない乳幼児として過ごした世代の人々には、そのような問題を生ずる余地はないし、まして戦後に生まれまったく戦争とかかわりなく成長した純戦後世代においては、責任の問題は全然あり得ないと考えるのが常識であろう。しかし、ほんとうに「戦争を知らない世代」は、一切戦争責任と無関係であるのか?よく考えてみると、問題はそれほど単純ではないのである」p308

(戦後生まれの日本人が、海外で、日本軍の残虐行為により殺された遺族に出会ったとき、良識ある日本人ならば平然と応対できない、恥ずかしさを感じないか、感じるのが当然だろう)

「では、なぜ自分の生まれる前の、自分としては関知せず責任を負うよしもないと思う行為に対して、恥ずかしさを覚え、それにふさわしい応対をしなければならないのか。
 それは、世代を異にしていても、同じ日本人としての連続性の上に生きている以上、自分に先行する世代の同胞の行為から生じた責任が自動的に相続されるからである。純戦後世代の日本人であっても、その肉体は戦前・戦中世代の日本人として生まれたものであるにとどまらず、出生後の肉体的・精神的成長も戦前世代が形成した社会の物質的・文化的条件のなかでおこなわれたのであった。換言すれば、純戦後世代の心身は、戦前世代の生理的・社会的遺産を相続することなしには形成されなかったのである。たとい戦後の激変した諸情況に、あるいは自分たちの戦後での新しい創造的努力にそれぞれよって獲得した戦後の要素がどれほど大きかろうと、それらも戦前からの遺産を基体とし、あるいはそれを改造したり変容させたりして形成されたものであって、戦前世代から相続した遺産とまったく無関係に戦後に別天地から飛来したものではない。戦後世代が戦前世代の遺産を相続することなしに自己形成をなし得なかったのであるとすれば、戦前世代の遺した責任も当然に相続しなければならないのである。個人の遺産相続にあたっては、相続を放棄することによって負債返還の義務から免れることもできるが、日本人としての自己形成において戦前世代からの肉体的・社会的遺産の相続を放棄することは不可能であるのだから、戦争責任についてのみ相続を放棄することもまた不可能である。
 
 日本国家の機関の地位に就く人々が全員純戦後世代に交代しても、法人としての日本国家の連続性が失われないかぎり、法人としての国家の戦争責任は消滅しないし、国民においても、日本国の主権者として国家の運営に参与する地位にある以上、同じ責任を追わねばならない。国家との関係を離れても、民族としての日本人の一員に属するのであれば、民族の一員として世代を超えた連帯責任から離脱できないと考えるべきである。純戦後世代で自分の関知しない行為であるからということは、戦争責任の問題を解消する理由にならないことを、特に純戦後世代の人々に明記して欲しいと考える」 p310

(略)

「近代社会では、個人の独立が強化され、家族や共同体からの離脱が容易となっているばかりでなく、国家・民族のみに個人の生活がすべて埋没するのではなく、国家以外のさまざまの社会集団の構成員としての生活もあれば、国家・民族を越えた全人類社会の一員としての活動も可能となっている。それにもかかわらず、国家・民族という単位での集団生活が現在ではいまだ大きな比重を保っていて、家族・地域共同体・職場・有志集団などからの離脱と同様に国家・民族から離脱するのは容易でない。国家・民族に所属する一員として世界人類社会に生きているかぎり、国家・民族画集団として担う責任を分担する義務を免れないのは当然ではないか。しかも、個人の独立が強いからこそ、その責任を個人の自発的意志により進んで背負うのである(注1)」

わたし(古井戸。純戦後世代=団塊)は、上記の家永の見解は近代社会の経済政治活動の前提として了承する。と同時に、この前提が世界の(あるいは将来の日本の)多民族社会環境(国家)でもそのように了解されているのか、これからもそうなのか、ということには自信がない。この前提を維持するにも部分的に壊すにもグローバル社会の活動・運営にいかなるバランスシートが結果するのか、を考慮しなくてはならないだろう。そのような時代とは、現在の国家連合としての世界、の枠組みも大幅に崩れているはずだ。家永三郎はつぎのように注記する:

(注1) 「ただ一言しておかなければならないのは、個人にとり国家・民族の一員ということの重さが、戦前に比べていちじるしく低下し、世界・人類の一員としての重さが高まるとともに、日本国憲法に国籍離脱の自由という先駆的な人権の保障規定が見られることにも看取される、国籍の移動、所属民族の変更が可能になっている世界史的情況についてである。敗戦の前または後に、日本軍占領地域の住民に身を投じ、その民族社会の一員となりきってしまって、日本に帰らなかった軍人・軍属・在留日本人が相当数いるようであるし、戦後世代で何かの機会にそれと同じような道を歩んだ人の存在、あるいは今後の出現が考えられるのではなかろうか。そのようにして日本人として生まれながらもはや日本人でない、他民族の一員に変身した人々に対しては、日本の戦争責任を問うことは相当でないように思われる」

さて、私(古井戸)の意見だが。。
国家間の問題はさておいて、日本の破産都市、たとえば最近の夕張市でも、若者が故郷をゾクゾクと棄てているという。夕張の全住民が夕張を棄てた場合、あるいは、海外からの移民が多数帰化して日本が混血社会混合民族国家になった場合、戦争責任を一律に国民が感じるのだろうか?法律的レベルと、感情のレベルでわかれるのではあるまいか?15年前頃、シンガポールに滞在したとき、現地の仕事仲間に旧戦跡を案内して貰った。日本軍がここでああしたこうした、降伏した。。という話を聴きながら、現地の人々に同情する、申し訳ないという気持ちと、旧軍人に対し、なんという馬鹿なことをしやがってという怒り。この恥ずかしいという感じと怒りとは別個にではなく同時に襲ってきたとおもう。最近の若い人には、家永三郎の考えはすこしナイーブすぎるかもしれない。

上記の民族問題(世代間の責任継承)は、パリパリの戦後世代である小坂井敏晶『民族という虚構』が真正面から論じている。いずれ、ブログ記事で取り上げたい。

追記:
家永の本書は最近、岩波現代文庫にもなった。

関連記事:
15年戦争とパル判決 by 家永三郎
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-05-11


『従軍慰安婦をめぐる30のウソと真実』 大月書店 [戦争・原爆]

                                
                               

『従軍慰安婦をめぐる30のウソと真実』 大月書店
吉見義明・川田文子編著
1997年、98頁、900円+税

本書<はじめに>から: 
「日本が戦争に敗れたとき、軍と政府は公文書を焼いて、戦争犯罪の証拠を消していった。日本軍が慰安婦制度(軍用・性奴隷制度)をつくり、アジアの女性にたいする重大な人権侵害を犯してきたことも、ほとんど反省されないまま、50年余がたった。
 1990年5月に盧泰愚大統領が訪日するとき、韓国の女性団体は「挺身隊」問題(当時韓国では慰安婦は挺身隊と呼ばれていた)に対する謝罪と補償を求める声明を発表した。だが、日本政府は「民間の業者がそうした方々を軍とともに連れ歩いている」(同年6月参議院予算委員会)と答弁し、軍の関与すら認めなかった。
 ところが、一部の政治家は「慰安婦は公娼」 「商行為に参加した人たち」といった発言をくり返し、被害者の訴えを封じようと動き出した。また、1996年、文部省検定済みの中学校教科書に慰安婦問題が記述されていることがあきらかになると、「自由主義史観研究会」を主宰していた藤岡信勝東大教授ら一部の研究者は、有名な作家・エッセイスト・財界人・マンガ家などと「新しい歴史教科書をつくる会」を結成するとともに、教科書から慰安婦問題を削除せよとのキャンペーンを展開している。
 その主張の核心は、国家の栄光のみをみつめ、侵略戦争や植民地支配の実態を直視することをさけるところにある。こうして、慰安婦問題では、軍と政府の責任を否定し、被害者を侮辱しつづけている」

本書が発刊されたのはいまから10年前(1997年)だが、上述の状況が変わったとも思えない。軍・政府は慰安婦問題に関与していない、軍が強制連行したという証拠はない、などと年中行事のように政治屋が発言を出したり引っ込めたりしている。そのくせ、アジアの各国には謝罪を済ませた、と一方では言う。国際的に通用しない発言内容をやっている国が国際舞台に乗り出せるわけもなく、マスゴミも政治屋の矛盾した発言や、政治屋による報道機関に対する自由な報道を恫喝により規制しているから、ニッチモサッチモいかない不毛な議論がニッポン社会のなかに淀んでいるのが現在の状況である。

本書は慰安婦問題に関する基本的なQ&A集である。なかには「子ども電話相談室」レベルの論点も混じっているが、首相や政治屋、自称歴史家、評論家、漫画家、企業人が子どもレベルのアホな解釈(子どもたち、メンゴ!)を平気でやっている国のこととてやむをえまい。この程度の質問に口ごもっているようではグローバルスタンダードに適合する人間、として国際社会から迎えてもらえまい。歴史教育を習っていない生徒や先生は、この回答集を出発点としておのれ自身で調査し、現代に通用する国際倫理を身に付けることがのぞまれよう。

本書の内容(目次の写しである):

■ I 日本軍と慰安所
01 ”従軍”ということばは、軍属という身分を示すものだ。だから”従軍慰安婦”という用語を教科書にのせるのは、まちがいだ
 (●注意: 。。教科書にのせるのはまちがいだ! という誤りを正す、ということ。以下同じ: 古井戸)

02 軍と慰安所の関係は、たとえていえば、文部省とその庁舎内にある食堂と同じだ。だから、慰安所の運営に批判されるようなことがあったとしても、その責任は軍にはない。

03 いまだってソープランドひとつつくる許可を得るにも警察や保健所など公共機関は関与している。慰安所だって軍が関与しているのは当然じゃないか

04 軍がかかわっていたといっても、慰安所を直接経営していたのは、軍ではない。軍の関与はすべて”よい関与”であって、なんの責任もない

05 慰安婦集めや、慰安婦経営にかかわった業者の多くは朝鮮人だった。責任を問うなら、朝鮮人業者を追及したらどうか

■ II 「慰安婦」の徴募
06 軍や警察は、業者があちこちで違法な慰安婦集めをしないように、指導していた。その証拠が、1938年3月4日の陸軍省副官通牒や同年2月23日の内務省警保局長通牒だ

07 強制連行によって慰安婦を集めたケースはない

08 吉田清治さんの本での告白が強制連行の証拠とされてきたが、現地でのその後の調査で、この告白はウソだと証明された

09 日本人慰安婦のなかには、もともと日本国内で売春婦(芸妓、娼妓、酌婦など)だった者が多いという。朝鮮人・中国人など他国・他地域から集められた慰安婦もそれと同じだ

10 慰安婦が10万人もいたというけれど、そんなに多くなかった。だから名乗りでている人数も少ない

■ III 慰安所の実態
11 日本軍兵士と慰安婦の関係は、当時の売春婦と客に似たようなもので、加害とか被害とかいうほど悪いものではなかった

12 慰安婦にはかなり自由があった。休みの日には買い物にでかけたりもできたのだから、それほど悲惨な目にあったわけではない

13 慰安婦は、個室のある大きな家に住んでおり、前線にしては優雅とも見える生活に満足していた

14 太平洋戦争で生じた200万人に近い戦死者の約7割が広義の”餓死”だったとされる。慰安婦より悲惨だったのが、激戦場の下級兵士だった

■ IV 戦争と性暴力
15 慰安所をもっていたのは、日本軍だけではない。どこの軍隊にも慰安所と同じようなものがあった

16 アメリカ軍も占領軍のための慰安所設置を日本政府に命令した

17 慰安所のおかげで、戦地にいる兵士のすさんだ気持ちはやわらげられた。だから、こういう施設はどうしても必要だった

18 戦争にレイプはつきものだ。それを防ぐために慰安所があった

■ V 軍慰安所と公娼制度
19 当時の日本では、法律で公証制度が認められていたのだから、慰安婦も公娼(娼妓)と同じだ

20 慰安婦は通常の商行為をしていただけだ。しかも、ふつうの兵士の100倍もの収入があった

■ VI 歴史教育と「慰安婦」問題
21 97年度から採用される中学校の7つの教科書が”慰安婦が強制連行された”などと書いているのは事実に反する

22 中学生に従軍慰安婦問題を教えるのは早すぎる

23 こんな問題を子どもに教えようとするのは自虐的な考えで、日本人としての誇りを失わせることになる

■ VII 「慰安婦」問題と過去の克服
24 被害を受けたという人たちの証言にはまちがいもあって信用できない。補償金ほしさの自称”慰安婦”もいる

25 いわれるような被害を受けていたとしたら、どうして戦争の終わった後すぐ訴えなかったのか

26 男女同権などといういまの価値観からすれば悪いことだとしても、その時代にはその時代の価値観があったのだから、いまさら批判しても仕方がない

27 たしかにほめるべきことではなかったかもしれないが、ご先祖の恥をさらすことはないだろう

28 日本は国際法に反することはしていない。していたとしても、国家だけに責任を負わせるのは酷である。そもそも50年以上も前のことなのだから、すでに時効がせいりつしているではないか

29 第二次大戦後の各国との条約で、戦争中の被害への補償については処理ずみだ。

30 自分とは関係のないことでいつもアジアから謝罪を要求されてムカつく

囲み記事<検証> 「ゴーマン」な慰安婦マンガの大いなる歪曲
1 ”生娘”はすべて将校がカンパして帰した?
2 新聞広告で慰安婦を集めた?
3 日本軍は慰安婦に人権を与えた?
4 高収入だから性を売る女がいるだけだ?
5 口をとざしている日本の女は凄い?

##

以上のQ&Aから、現在問題になっている論点のQ&Aをピックアップし、以下、要約する。04と07である。

●04 軍がかかわっていたといっても、慰安所を直接経営していたのは、軍ではない。軍の関与はすべて”よい関与”であって、なんの責任もない

軍の関与の程度からタイプ分けすると:
(1) 軍直営の慰安所
(2) 業者に形成させる軍専用の慰安所
(3) 民間の売春宿を指定して一定期間試用する軍指定の慰安所

問題となるのは(1)と(2)だ。
軍の責任が問われる理由は、国内の公娼性(国家が公認している売買春制度)にはあった「拒否する理由」「外出の自由」「廃業の自由」などを認める軍法をつくらず、女性たちを慰安所に閉じこめて、使役していたからである。千歩譲って、軍が慰安所をつくること自体に問題がないとしても、女性達の自由意志にもとづく「売春」であるというためには、上述の権利が保障されていなければならなかった。しかしこれはなかった。

さらに、日本・朝鮮・台湾からつれてきた未成年者を使役することも問題だった。当時、日本が加入していた「婦人及び児童の売買禁止に関する酷使条約」では、21歳未満の未成年者を国外に連行することは、本人の同意があっても違法とされたのである。

軍が慰安所を国外につくったことも問題。国際法では、本国から国外にいわゆる売春婦を送り出すことを厳しく制限していたからである。

直営の慰安所の場合、慰安所制度に強制性があり、未成年者が使役されていればただちに軍の責任となる。直営の慰安所は、上海や常州、インドネシアにあった。海軍嘱託などが雇用契約責任者となり食糧・衣類・日用品などを軍が無償で与える準直営の慰安所が多数存在した(厚生省資料)。

業者が経営する第二のタイプの慰安所も、軍または警察が選定しており、軍の身分証明書をもっているので純粋な民間業者ではない。業者と軍の関係は、慰安所制度創設・運用の主役は軍であり業者は脇役でしかなかった。慰安所設置を決定するのは現地の部隊であり、業者は勝手に慰安所を作ることはできなかった。

日本・朝鮮・台湾から慰安婦を前線近くまでつれてくるには、軍が軍用船への乗船許可や、列車・トラックなどの使用と通行許可をださなければ、不可能だった。戦地への交通は軍が完全に統制していたからである。慰安所の建物は軍が接収して業者に提供した。このようなことを軍がしなければ、業者は慰安所を経営することができなかった。
(以上、p14~16から)

●07 強制連行によって慰安婦を集めたケースはない

強制連行はあった。なかったという論者は、(現在、安倍首相が馬鹿のひとつ覚えのようにくり返しているように)官憲が奴隷狩りのような拉致・連行はなかった、と意図的に狭く限定する。しかしこれは問題のスリカエ、矮小化、であることはあきらかである。<強制連行>とはなにを指すのか?が問題である。

<強制連行>とは、本人の意志に反して連行することだ。すなわち本人の自由意志に反して連行することである(北朝鮮の拉致、も、家屋に侵入して拉致したわけではない。観光旅行と偽って某国に案内し、身柄を拘束すれば、拉致、強制連行、というだろう: 古井戸)。このように解釈すれば、
(1) 前借金でしばって連行する
(2) 看護の仕事、食事を作る仕事、工場で働く、などと騙して連行(誘拐)
(3) 拉致
などがこれに含まれる。

(2)の騙して連れて行くのを強制連行に含めるのは、慰安所についたとき、無理矢理(本人の意志に反して)慰安婦にするからである。最初から暴力的に連行するよりこのほうが簡単に移送できる。官憲が直接やっておらず、業者がやった場合も元締めとなる業者は軍が選定し、女性たちを集めさせているのだから当然軍の責任になる。

強制連行を指示する命令書がないから強制連行はなかったはず、という者がいるがナンセンス、そもそも、違法な指示を命令書に書くはずがない(その程度の智慧は軍にもある:古井戸)。東京裁判資料によればインドネシア、フィリピン、中国では現地女性が強制的に慰安婦にされた。

さらに問題なのは、未成年者の連行である(国際条約違反)。韓国や台湾のヒアリングでは、半数を超える慰安婦が未成年であるのに送り出されている。
(以上、本書p22~25から)

##

15年間にわたる中国との戦争のなかで、日本軍は満州を含む中国全地域で言語に絶する残虐行為をくり返した。とくに一般民衆への被害が大きいのが特徴であり、虐殺、強姦、放火、掠奪、毒ガス使用、生体実験、アヘン密輸入。。ありとあらゆることをやった。この<実績>を事実と考えるひとであれば、慰安婦の強制連行などで驚かないだろう(古井戸)。そうでないひとにとっては他人事だろう。

本書はうすい。100頁にも満たない。2~3時間あれば精読できる。是非図書館で読んで貰いたい。



岩波新書、小林英夫著『日本軍政下のアジア』(大東亜共栄圏と軍票)、1993年発行、から引用しよう。
終章 「ふたたび被害調査の旅へ」から。

「。。この旅でわたしは、日本の軍事占領が、本書で述べてきたことにとどまらない、深い傷痕をのこしていることをあらためて実感した。
 フィリピンでは従軍慰安婦問題の調査を行った。 (略) 太平洋戦争jの緒戦でバタアンの激戦地をもち、終末期にレイテの激戦地をもつフィリピンは、文字通りの被害を集中的に受けた国のひとつである。フィリピンの女性達もその例外ではなかった。
 首都マニラに隣接するケソン市。道を少し奥に入った比較的静かなおちついた一角にある住宅。入口に看板がなければみすごされてしまうごくごく普通の建物。そこにネリア・サンチョさん(44歳)が主催するフィリピン女性従軍慰安婦調査班(Task Force on Filipino Comfort Women)の事務所がある。対応に出た事務局のシャロンさんに話を聞く。彼女によれば、この調査研究班の発足は1992年7月のことで、現在までに従軍慰安婦にされたフィリピン女性約100人と戦争中にレイプされた女性39人が名乗りでたという。話を聞くと、彼女らの多くは当時10代後半から20代前半で、日本軍に拉致され性的暴行を受けた経験をもつ。当日事務所に来てくれた三人の女性の場合もその例外ではない。

 ジュニシア・メダリア・ウマピット(68歳)。セブ島姥ローン・グラナダ出身。父は漁夫で母は農夫。六人兄弟の四女として1925年グラナダに生まれた。日本軍がフィリピンに侵攻したときは17歳で、ラプラプ市の学校にかよっていたという。彼女が郷里グラナダに帰った1943年のある日(正確な月日は記憶にないという)、ゲリラ調査のためトラック5台に分乗した日本軍が村に侵入、村民を教会に集合させてゲリラ摘発をおこなった。そのとき彼女は拉致され、性的暴行をうけ、ひきつづき他の二人の女性とともにマクタン島に連れていかれた。そして昼間は飛行場建設工事の賄婦、夜は日本軍兵士の性的相手となることを強要されたという。4ヶ月のちにすきをみて脱走。日本軍敗北の日まで山中にかくれていた。

 ルフィナ・フェルナンデスさん(66歳)。マニラのシンガロン出身。父はサンミゲル・ビール工場ではたらいていた。女ばかりの五人兄弟の長女として1927年、マニラに生まれている。日本軍がマニラに侵攻してきたときは15歳。英語とタガログ語を学んでいた。日本軍のマニラ侵攻直前に山へ非難し一年以上山中ですごしたが、安全を確認しマニラにもどり、自宅へ帰った1944年のある日、日本軍兵士5人が家に乱入した。娘たちに暴行をはたらこうとしたので父が抵抗、そのもみあいのなかで父は殺され、彼女は兵舎に拉致された。そこで兵士達の性的相手をすることを強要されたのである。3ヶ月のち、兵舎から脱走しようとして発見され、日本刀で右腕を斬られて重症を負ったという。まくってくれた右腕には数カ所の刀傷がふかくきざまれていた。

 いまひとりの女性は、会うなり泣きだしてしまい、ついに名前すら聞くことができなかった。
 彼女らは現在、戦争中の被害の補償を求めて裁判提訴中である。日本軍政期におきたできごととして、この種の話は決して例外的とはいえない。日本軍の性的暴行が頻繁であったことはフィリピン民衆の間に語り継がれている。」

著者小林はp215で
 「虐殺、強姦、強制労働、これらはもはや戦争犯罪というべきことである。しかも、これらは戦場で戦闘行為に付随しておきたのではなく、占領地で女性や子どもをふくむ一般市民に対してなされたのであった。数多くの証言がそれをうらづける。いまこそ、徹底した被害調査と誠意ある補償がなされるべきであると、わたしはつよくおもう」
 と言っている。日本政府はどのような調査を行ったか?

 日本敗戦前後、満州に侵攻したソ連兵士により、日本軍に見捨てられた多数の子女が陵辱されたという。また、1945年以後、日本に駐留した米国進駐軍による数多の強姦事件が発生している(規制が敷かれ報道されることがなかった)。政府は調査をロシア、米国に要求し、謝罪を要求したらどうか? 被害者に証言をもとめたらどうか? 何も知らぬ夫や家族に囲まれて過去を消して、安定した生活をしているかもしれぬ被害者がどのような心理状態で証人として名を挙げたか、理解できぬのだろうか?

「拉致の証拠がない」と、現地の国々を訪れ証人の前で言ったらどうか?それとも証人がすべて死に絶えるのをひたすら待つか?

リンク:
季刊『東ティモール』3号からの連載記事: 
東ティモールにおける日本軍性奴隷制 by 古沢希代子
http://www.asahi-net.or.jp/~ak4a-mtn/info.html


『南京大虐殺否定論 13のウソ』 柏書房 [戦争・原爆]

                                 

Thirteen Lies
by the Deniers of the Nanking Massacre 南京調査研究会 (柏書房)
1999年発行、250頁、1600円+税

15年戦争は中国侵略にはじまり、中国侵略戦争は日本の降伏に至るまで続いた。15年戦争の主戦場は太平洋や東南アジアではなく 中国だった。。。こう、家永三郎は言っている。家永著『戦争責任』。「15年間にわたる戦争の中で、日本軍は、満州をふくむ中国全地域で、言語に絶する残虐行為を繰り返していた。戦争に残虐はつきものとはいえ、その規模と質とにおいて、軍隊がこれほどの残虐性を発揮した例は、世界史上未曾有と言ってよいのではないだろうか。」

日本軍は中国のいたるところで虐殺、強姦、放火、掠奪などの残虐行為を繰り広げたが、そのもっとも集中的に、大規模に行われ、日本軍が情報の漏れないように遮断をはかったにもかかわらず多数の欧米人が知るところとなり、世界の非難を浴びたのがいわゆる 南京大虐殺、である。

家永三郎の上記著書によれば、南京事実無根説は毎日新聞従軍記者として熊本の第六師団の南京占領作戦に同行した五島広作『六師団は無実である』らしい(1966年)。しかし世間を秘録騒がせたのは鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』であり、この書は戦争責任否定論者をいたく歓ばせ、たとえば文部省教科書調査官時野滋は家永の著した教科書『高校日本史』の検定に当たり、すでに検定をフリーパスした学校の現場で使われてきた教科書中の記載「南京占領直後、日本軍は多数の中国軍民を殺害した。南京大虐殺(アトロシティ)とよばれる」という一句をそのまま襲用している家永原稿にたいし「南京占領の混乱の中で多数の中国軍民が犠牲になった」と書き改めるようにと強要し、その根拠として鈴木明の上記著書を援用した。

中国だけではなく全世界で事実として認定されている南京大虐殺も、世界の孤島であるニッポンでは、政治家や評論家、ウヨクがデマだ、デッチ上げだと飽きずに否定論を繰り返す、という奇観、珍現象を呈している。破産した論理にもならぬ屁理屈を飽きずに繰り返しているのである。

本書は屁理屈を13のパターンに分類したもの。読んでも何らかの高みに達するいうことにならないのは本書の趣旨からしてやむを得ぬ所だが、悲しきニッポンの現実からすると、こういうマニュアル本も一定の価値を持つのだろう。私も最近あるところで、ブログ記事にした証言集『南京戦』(社会評論社)をめぐって議論したが否定論者の議論がこの書物に書いてあるのと、まるっきりそのマンマを踏襲しているのにビックリした次第である。

以下、目次を掲載する。この目次を読めば多少なりとも南京大虐殺否定論を読んだ人にはああ、あれね!とぴんとくるだろう。

●第1章 「東京裁判によるデッチ上げ」説こそがデッチ上げ

南京大虐殺は連合国の創作だった? 伝聞証拠しかないから虐殺はなかった?
南京の軍事法廷もデタラメの復讐劇?

●第2章 本当に誰もが南京事件のことを知らなかったのだろうか

 知らなかった=だから、なかった?
  軍の情報管制にもかかわらず情報は確実にひろがっていた。知っていた一般の国民もいた。

●第3章 リアルタイムで世界から非難を浴びていた南京事件

世界の報道を知らなかったのは日本国民だけ。

●第4章 戦争当時中国でも問題にされていた

中国側の資料に言及がない=虐殺はなかった? 蒋介石、毛沢東、中国共産党も知っていた。

●第5章 数字いじりの不毛な論争は虐殺の実体解明を遠ざける

「30万人虐殺は事実でない= 南京大虐殺はうそ」という小児病的論理
 南京の人口は20万、目撃者はいない。。というウソ

●第6章 据えもの斬りや捕虜虐殺は日常茶飯事だった

●第7章 遺体埋葬記録は偽造資料ではない

●第8章 虐殺か解放か - 山田支隊捕虜約二万の行方

●第9章 国際法の解釈で事件を正当化できるか

中国軍は国際法に違反したか
便衣兵の処刑は適法か
投降兵の殺害は正当化できるか
敗残兵の殲滅は戦闘行動か

●第10章 証言をご都合主義的に利用しても正当な事実認定はできない

パル判決を悪用する騙しのトリック
木を見て森を見ず、のトリック
マギー証言を「伝聞の山、憶測ばかり」というウソ

●第11章 妄想が産み出した「反日攪乱工作隊」説

●第12章 南京大虐殺はニセ写真の宝庫ではない

「ニセ写真」攻撃のトリック
日本軍部が撮らせず、報道もさせなかった虐殺写真

●第13章 歴史修正主義の南京大虐殺否定論は右翼の言い分そのものだ

日中国交回復と「まぼろし」論の台頭
教科書問題の国際化と否定論の再登場

執筆者はつぎのとおり:
井上久士
小野賢二
笠原十九司
藤原彰
本多勝一
吉田裕
渡辺春巳

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本書に何度も引用される否定論者、東中野修道、田中正明、小林よしのり、渡部昇一、藤岡信勝らの名前は、この分野の本を読んだり議論を見聞きしているモノにはオナジミだが上記のようにパターン化されると、彼らの騙しのテクニックは似たり寄ったり、であることが理解できる。暇なおり、図書館などにも多く飾ってある否定論者の本を借りて、騙しのカテゴライズをやるのも多少の頭の訓練にはなるだろう。小中学校でも騙しのテクニックは教えておいた方が、智慧はつかないだろうが、ニッポン国内でしか通用しないアホ論理からは脱却でき国際舞台で恥をかく機会は減るだろう。

 

なお最新の話題を取り上げた議論は下記サイトでなされている。是非ご覧いただきたい。
<南京事件の真実>:
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm

南京事件 小さな資料集 :
http://www.geocities.jp/yu77799/index.html

 


松岡環編著 『南京戦  閉ざされた記憶を訪ねて』 (社会評論社) [戦争・原爆]

                                 

松岡環編著 『南京戦』閉ざされた記憶を訪ねて、(社会評論社、2002年8月15日)から。
この本は、元兵士(南京戦に従軍した兵士)の証言を収集したものである。
一部を抜粋する。
聞き取りした兵士の名前はトラブルを避けるため、原著でもすべて仮名にしてある。
氏名には南京戦当時の所属部隊名も記載されているが、ここでは省略する。ページを記載しているので詳細、前後関係は、是非、原著に当たって欲しい。

原著の構成は以下の通り。(数字はページ)
第一部 「南京大虐殺情報ホットライン」から元兵士の調査へ 15
第二部 南京大虐殺をめぐる背景                 31
  抹殺されようとしている南京大虐殺
  軍隊用語解説
第三部 証言
1 南京陥落直後 -- 揚子江一帯での集団虐殺     55
2 南京陥落前後 -- 城内や城門付近での虐殺     128
3 陥落後も続く集団虐殺                   220
4 中国女性への性暴力                   269
5 「徴発」と称する掠奪、放火、強制労働         336
あとがき                             365

以下の抜粋は、主としてp270以降の証言から、従軍慰安婦(性暴力、強姦)および掃蕩戦に関連する内容を抜粋したもの。証言は特定のテーマを巡ってなされたわけではなく、上記の配列は主たる証言内容に基づいておおざっぱにカテゴライズしたものであり、以下の抜粋に欠けている前後関係(証言者の所属など)、南京戦および日本軍の性格、その全貌を知るにはこの証言集全体を読むにしくはない。

再度のべるが、証言者名は原著方針によりすべて仮名である。

### 抜粋開始

●鬼頭久二(仮名)1916年生まれ p269~
聞き取り 1999,10月
(略)
掃討する時、家を一軒一軒まわり女の子をみつけるとその場で強姦した。女の子はだいたい床の下かカーテンの後ろとかに隠れていたな。見つかった時、怖いかどうか分からないけど反抗し無かったな。憲兵から止められたりしなかったのでやり放題やった。女たちは皆顔に墨などを塗っていた。何人ぐらいしたか覚えていないけど、印象に残るのは逃げている母と娘を捕まえた時、母親は我々に娘は小さいから自分をやってと頼んだ事だった。我々は「アホかー」と母をふりはらった。やる時は2,3人で行っている。もちろんやる時悪いと思ってたし、逆に日本がやられ自分たちの子ども、あるいは女性がやられたらどうなるかを考えたこともある。それでも、自分もいつ死ぬか分からない状況なので、生きている間に、天皇の命令とかは関係なく自分がやりたいことをした。そんなことは当たり前になった。私ももちろん南京で強姦を経験した。場所はどこでもいい、いくらでも空家があり、そんな家の寝台の上とかでやった。平時の時はお米を持っていって、母親に娘をちょうだいと頼んだこともある。また、難民区から女性たちが自ら出てきて、お米と自分の体を交換した人もいる。お米は私たちが食べるお米で、一回に靴下片方満タン(五合ぐらい)のお米を上げた。南京城内ではなく郊外では憲兵に見つかったらうるさいから女の人を殺したりした。自分は掃討戦の時だけ城内に入り人を殺したことがある。
 こんなことから南京大虐殺はあったと思う。悪いことしたと思っている。

●井戸直次郎(仮名)1914年生まれ p273~
聞き取り 2000,5月
(略)
南京陥落の日じゃった。城内にはいる時、城壁の外側が死体の山じゃった。足下がフワフワするんで。マッチをつけて見たら、筵を敷いたように一面に死体がぎっしりじゃった。ずーと死んどったんじゃ。どの部隊がやったかは知らんが、突き殺したんやな。兵隊やなしに、女も子どももおった。爺さんも婆さんもおった、兵隊やないもんばっかりじゃ。どこの部隊がやったのかは知らんが、新聞でよう言う”南京の虐殺”って、全く本当のことじゃが、そんなこと言えんもんで「嘘」や言うとるんじゃ。

(略)

(強姦は)そこら中でやっとった。つきものじゃ。そこら中で女担いどるのや、女を強姦しとるのを見たで。婆さんも見境なしじゃ。強姦して殺すんじゃ。もう無茶苦茶じゃ。
 陥落して二日ばかりたったころじゃ。下関あたりに挑発に出た時じゃ。民家のあるとこに米や食べ物を徴発したんじゃ。そんな時に女も徴発するんじゃ。家の長持ちの蓋を開けると中に若い嫁さんが隠れとったんじゃ。纏足で速く逃げられんで、そいつを捕まえて、その場で服を脱がして強姦したんじゃ。ズボンひとつでパンツみたいなものははいておらんで、すぐにできた。やった後、「やめたれ」って言うたんやけどな、銃で胸を撃って殺した。暗黙のうちの了解やな。後で憲兵隊が来て、ばれると罪になるから殺したんじゃ。それを知っとるさかい、やった後、殺すんじゃ。
 だいぶたって治安がよくなるとな、部隊のみんなを並ばせて、憲兵隊が強姦された女を連れてきて、誰がやったと調べたこともあった。平時と違って罪にはならんかったが「やめとけよ」と怒られる程度じゃった。罪にも何もならへんかったけど、叱られたくらいじゃ。悪いことし放題やった。十人おって九人まで強姦しとらん者はおらん。自慢話にもなっとる。
 慰安婦、慰安婦いうて三十人くらいの女をたいがいの部隊では連れ歩いておった。ほとんど朝鮮人の女じゃった。わしらの部隊でも慰安所を作ったわな。中隊やなく、野田部隊の連隊で作っておった。南京でも(駐屯していた)光華門の近くで作っておったで。
 街の中でも女が隠れとる所を良く知っとるわ。若いもんも、お婆あも、みんなやった。それからばれたらまずいから殺すんじゃ。南京に入る前から、南京に入ったら女はやり放題、物はとり放題じゃ、と言われておった。「七十くらいのお婆あをやった。腰が軽うなった」と自慢しよる奴もおった。町中に女はぎょうさん残っておった。大概穴の中に隠れておってね。慰安所作っても強姦は減らんわ。慰安所の女はだいたい朝鮮人やった。将校用、一般用と分かれておった。料金は一円か二円くらいやったかな。一般の兵隊の給料は八円やった。わしは伍長で十五円くらいやった。わしの分隊はまだましやったけど、他の兵隊は無茶苦茶や。分隊の兵隊は、ほぼみんな(強姦を)やっとった。街に行ったら”ただ”やからな。
 ほとんど女ばっかりの難民区にも行って、部屋に入ったらこれとこれ、指差して、女は選び放題やった。その場でやってしまうんや。わしの部隊でだれがやったか、やってる最中に中国の敗残兵に頭を殴られたもんがあったので、見張りをつけて強姦やった。昼夜お構いなしじゃ。だいたい一個分隊で行った。十数回は行ったやろうかな。 (略)

 倉庫のような部屋に中国人を詰めこんで機関銃で殺しよった。部屋の中やさかいどれかには当たるわな。何百人も入れてやったんじゃ。小さいところで三百人くらいやった。わしらが捕まえた奴をこうして殺したんじゃ。男という男はつかまえて倉庫に放り込んだ。兵隊も何も関係なかった。処分した後はどうしたか知らんわ。三十分かかるかかからんかじゃ。中から凄まじい叫び声が聞こえてきた。こんなこと、部隊がそこら中でやっておった。手榴弾は危ないのであまり使わんかった。投げ損ねると破片が飛んでくるよって。
 南京大虐殺はあったんじゃ。無茶苦茶やったんや。『軍恩新聞』なんかには”デマ”や言うてるけど、今から言うといろいろあるけど間違いなくあったんじゃ。

●東雅雄(仮名)1915年生まれ p278~
聞き取り 2000,6月

(略)

みんな襟章(所属によって色分け)を外して、物を奪うのさ。腹へってくたくたになっても女を見るといきり立って捕まえよったわ。恥ずかしいからもうこれ以上言わさんでや・・・・・・。部隊のもんはみんなやっとったわ。黙認じゃ。女は殴って半殺しにしたわな。抵抗されるからじゃ。若い女は腰振って入れさせんようにするからじゃ。嫁(既婚者)はやりやすかったわな。恥ずかしいからこれ以上は勘弁してください。
 抵抗するから殴りつけたんじゃ。させたもんは殺しはせんかったが、させんもんは殺したわな。
 慰安所の朝鮮人の娘は、ピー屋(業者)から、軍需工場や看護婦にするいうて騙されて連れてこられた言うとったわな。馴染みになった朝鮮人の娘から、前線に徴用され、将校にやられた後、慰安所に払い下げられたという話もきいとるわな。兵隊には立派なことを言いながら、こんな将校もおったわな。

(略)

 大東亜戦争の時、スマトラでオランダ人の女とも寝たよ。慰安所やのうて、捕虜収容所やった。そこの(収容されている)女とやったんじゃ。支那みたいにいやらしいことやったんじゃ。腹がへっとるさかい、食べ物で釣ったわけさね。日本が負けて日本に帰るとき、その二~三十人の女から”首実検”されたわな。悪いことした奴はどれかちゅうことですわ。わしは髭剃ったりしてばれんかった。ひやひやした。

 支那では村に入る前に、抵抗されたことのある村などは放火したわさ。復讐心さね。殺した支那人は十人から二十人、それ以上は覚えておらんわ。銃で殺したのは一人だけで、ほとんどは銃剣で刺し殺した。ほとんどは男じゃが、女も二、三人おったな。女を出さん言うて殺したわな。突いてもなかなか死なんもんじゃ。一時間くらいして見ると、血をぶくぶく吹いていた。「オラ、恨むんなら蒋介石恨めよ」と言うてやった。(殺すことは)何とも思わんかった。わしだけやない。みんなやっとった。若いもんばっかしじゃ、女がほしいわな。一回内地の水を飲みたい、内地の女を抱きたいと思うとった。支那の女は臭いが違うとった。台湾は台湾の臭い、朝鮮は朝鮮の臭いがあった。食べ物の違いじゃろか?(強姦した中国の女性は)十人じゃきかんわさ。三十人くらいじゃろうか、ようは覚えとらん。それは勘弁してくれ・・・・。(略)
 今、そん時の支那人が夢に出てきよる。七十歳になってからじゃ。気が弱くなったせいかねぇ。人を殺したとは言うても、他のことは誰にも言うとりゃあせんよ。戦友会でも言わん。

●田所耕太 (仮名)1916年生まれ p281~
聞き取り 2000,6月

(略)
12月15日まで攻略戦、16日から1月31日まで南京付近の警備についた。南京郊外の駐屯地にも慰安所ができた。とうもろこしの皮で編んだアンペラ小屋で寝台が置いてあるだけの狭いとこだった。女の子は十五人か十六人くらいおったなあ。みんな朝鮮の女の子やった。兵隊はみんな外まで並んで待っとった。私は下士官だったから兵隊が帰ってから行った。一円五十銭位から二円くらいしたなあ。軍票で払った。日本の金なんてひとつもなかった。分隊で訓練しているときは駐屯したところへ女を見つけてきて分隊で飼うとんや。一週間か二週間したらもう帰して替わりを捕りに行くんや。寺へ行ったらなんぼでもおるんや。寺は大きな家やから逃げて来るんや。行ったらおるんや。民家でも二階を壊したら隠れとる。二階に置いてあるわらの中なんかに隠して女の子の親が食べ物を運んでるんや。

南京入城(東京朝日新聞 37/12/8)

●三木本一平  1913年9月生まれ p286
取材、2000年11月、2001年11月

(略)
南京では、暇でほか何もすることないから、女の子を強姦した。部隊の兵隊が、勝手に出ていって、クーニャン徴発していると知っていても、将校は何も言わず黙認やった。男だったら、半年も一年も女の子と寝てないと我慢できないわな。男やったら当たりまえや、そりゃ人間やもの女の子と寝たいもんや。家に入るとな、女の子はいろいろなところに隠れてるんやで。家の中におったり、畑で隠れているのもいた。たいていの女の子は、鍋墨で顔を黒く塗っていたな。支那の女の子は風呂にもはいらんので汚いが、南京のような都会の娘はきれいにしている娘が多かったな。「ピー、カンカン(性器を見せろ)」と言うと、たいがい、どの娘も服を捲くって、おとなしく見せてくれた。国際赤十字の旗が立っている所に、南京の女の子はみんな逃げ込んでいたな。町の中には女の子はいないので、女の子捜しは、たいがい郊外へ掃蕩などに行くと見つけられる。点々とつながっている部落で悪いことをしたんや。

クーニャン捜しは分隊や数人で行くことが多いな。見つけるとな、分隊の何人もで押さえつけたんや。それで、女の子を強姦する順番をくじで決めた。一番のくじを引いた者が、墨を塗っている女の子の顔をきれいに拭いてからやった。交替で五人も六人も押さえつけてやったら、そらもう、泡を吹いているで。兵隊もかつえ(餓え)ている。女の子は殺される恐ろしさでぶるぶる震えている。南京で、二三人でクーニャン捜しに行った時、きれいな中国服を着た、国民党の偉いさんの奥さんと思うが家の中に隠れていた。「ピーカンカン」と言うと、殺されるのが恐いから全然抵抗せんで、大人しく裾を持ち上げたので、わしらはさせてもらった。

(略)

十九や二十の娘を引っ張り出すと、親がついてきて頭を地面にぶつけてな、助けてくれという仕種をするんや。助けてくれと言われても、兵隊はみんなかつえているから、だれも親の言うことを聞かん。まだ男と寝たことのない女の子を、三人も五人もで押さえ込んだら泡を吹いて気失うとるで。親がやめて!と言っても、やらな仕方がない。わしもしたけど、こんなんしても何もええことなかった。日本中の兵隊がこんなことをいっぱいしてきた。言うか言わんだけのことや、男やもの、分隊十人のうちみんなやっとる。戦争が長引くから女の子が恋しくて、他の部隊も同じことをやっていたんや。人間やったらみんな同じことをやる。

(略)

南京を守っていた中国の兵隊は一杯おってな、捕虜になった兵隊は、みんないなくなったんや。そりゃそうやで、中国の兵隊は捕虜になって殺すのは当たり前やんか。捕虜に飯食わすのは、もったいないさかい。「南京を守っておった兵隊はどこへいったんや」と嘘を言ったって、実際いたのを全部殺してしまったんやから。南京大虐殺はあった。ワシはこの眼で見たんや。わしらはどういうわけで戦争しているのかわからんで、一銭五厘で召集されて「チャンコウなんて殺してしまえ」と言っていたんやから。あの時は、中国人をなめてかかっていたな。

揚子江の港、下関に行ったときやった。港とは名ばかりでな、河に桟橋がつき出ていた。捕虜を収容している倉庫のような建物から、五十人くらいの捕虜を引っ張り出し、幅があまりない桟橋に並ばせてた。そこを重機関銃でドルルルルーと水平になでていた。やられた中国人はみんなそのまま河に落ちよった。河のそば、桟橋があるところにわしは行って覗いて見たんや、川底からすぐ足下の岸まで人間が積み重なっていた。大きな船の着く桟橋や、そうとう深いのと違うやろか。ちょうど河に浮いているボラの死体のようにぷかぷか浮いて流れて行った。始末することないわな。

南京大虐殺はあった。自分がこの眼でみてきたことや。今から振り返ってみても、南京の虐殺については、中国人をチャンコウといって下に見ていた。そんなのに自分の戦友や村の者がやられて死んでいったのを見て、かーとなって、殺して当たり前と考えていたんやな。強姦についてはな、男やから二年も女の人に接していなかったなら我慢できないもんや。それは仕方のないことや。自分の部隊も、となりの部隊もみんなやっていた。兵隊はみんなやっていた。それを人に言うか言わんだけのことや。

●大田俊夫 1913年8月生まれ 293頁
取材 2000年7月、2001年1月、11月

(略)
紫金山から降りて来た日、13日やな、揚子江の川縁で人いっぱい撃った。「殺せ」言う命令や。そんなかわいそうなことはもう言わんとくわ・・・・・。
今言う中国の婦女子が日本人にえらい目に遭わされたと怒っとんやろ。
そら命令とはいえ「掃蕩して殺してしまえ」やろ。向こうの人に本当に惨めなことしたわ。
城内に入って、男も女も引っ張ったんや、男やったら手と足を見て「これは軍隊や」言うて殺るんや、親死なして、子どもがいたら、生かしておいたらためにならんで、処分してしまうんや。わしらは、それでおかしな者をみんな川岸べりの大きな倉庫、いっぱいあるんや、そこにみんな放りこんだんや。外の部隊はどんどん刺し殺しとるんや。わしら捕まえて連れて行くだけやけどな。外の部隊そうしてるんやからやらんわけにいかんわな。倉庫満タンや。何日かして、工兵がそれに火をつけたんや。命令や言うても気の毒に皆殺しや蒸し焼きや。向こうの倉庫は煉瓦とトタンでできてるんやから、あちこちの倉庫の窓からえらい炎が出てたわ。倉庫には中国人でいっぱいでもう(入れる倉庫が)ないから、今度は、川岸べりに中国人を四列に並べて何十メートルやないわ、もっと長いわ。ものすごい数の人がびっしり並べられてたんや。こっちから重機を何機も並べて軽機も並べて、撃て!でバラバラと撃ったんや。うちの中隊だけと違う。そこにいた(連隊)全部や。生かしといたらためにならんということで、女も子どもも一緒に混じっていたのを撃ち殺したんや。全部やで。こっちから撃つとばんと飛び上がって河に飛び込むんや。岸辺は死体が折り重なっていっぱいや。そしたら、向こう岸から駆逐艦が撃っているんや。揚子江を泳いで逃げる人をみんな撃ち殺したんやで、そら惨めなことやった。わしら命令やさかいやらなしゃあない。

(略)

淋病や梅毒になったら軍医さんにしかられるんや、病院に入れられてかなんから、自分で治すのには、人間の脳みそがいいんや。 (略) 淋病言うたら小便したらじっとしてられへんぐらい痛いんや。それで、どこかでニイコの子どもを殺すんや。支那人の頭をゴンボ剣でこじ開けて飯盒(はんごう)で脳みそを炊いてたのを分隊長や分隊の者は知っていたけど、知らんふりや。食ってるのを見たんや。「これ食ってみるか」て言われたわ。女の子にいらんことやっているのは、えらいさんでもやっているのに、部隊でいっぱいやっているのは当たり前や。

(略)

南京大虐殺はあったで。ない言う人は後から入った人や。東京から来てちょっと見て回って南京に行きました言うんやか、兵隊でいた人は見てるわ。
今、中国や韓国から賠償という問題が出ているが、気の毒な人がいっぱいで、日本がえらい目に合わしたんや。文句言うのは当たり前やな。南京大虐殺はあったんやから。わしらが、揚子江川縁で、何万という支那人を撃ち殺したんやからな。

●井上益男  1915年6月生まれ  298頁
取材 1998年3月、2000年5月、2001年5月

(略)
南京陥落後、金陵女子大学の警備に入った。警備に入ったら十人で一週間交替制やった。女子大学は女の人の避難所や。そこに日本の将校たちがよく来て「ちょっと入るで」と言って、女子大の構内に入って行っては女の子を連れて出て行った。将校たちはむちゃくちゃで、女の子を連れて行って強姦した。 (略) よく出入りする部隊は三十三連隊だけではなく、それ以外の九師団と十六師団の三十旅団もいた。あの人らはトラックで来た。昼間はあまり来ない。一日だいたい二三台ぐらい来るかな。将校を含め兵隊四五人で来て、三人は銃を持っている。一日五六台来るときもある。一台に二十人ぐらいの女の子を乗せて行くこともあり、嫌がって泣く子もいた。トラックの荷台に引き上げられ、上からシートをかけるとおとなしくなった。送り返されてくる娘は少なかったな。慰安所のことは聞いたこともないし、行ったこともない。たぶんわしらの中隊が出てからできたと思う。

(略)

南京の手前で中隊長が「南京に入ったら、強盗、強姦、殺人を許す」と命令を出したのを聞いたので、わしの中隊が入城して荷物を降ろし、ぐずぐずしてるとさ「何してる、早く盗りに行かんかい」と兵隊に言われた。皆早く実施しなければならない気持ちですぐ掃蕩に入った。わしは銀行に行くのが一番良いと思って、三人一組で行った。

(略)

●坂田貞一 1915年9月生まれ p308
取材 1997年11月、1998年4月

(略)
慰安所は早くからありましたで。男は最初行くのが女の子のいる所で、下関には二か所、城内にも十か所か十二か所あったでね。対岸の浦口にも慰安所が三四カ所ありました。女の子を世話してくれるところがなかったら、もっと暴行がひどかったやろ。下関の慰安所には朝鮮の人が多かった。中国人も十二、三から二十五、六歳までの人がいました。中国人は中国人の子ばかりの建物、朝鮮人は朝鮮人の建物に集めてました。南京城内でも日本人の女性がいる慰安所は一カ所ぐらいでしたで。日本では売れない四十代の小母さんの女の人が、何人かいたようです。慰安所の女の人をピーと呼んでました。町の裏通りに入ったら、軍の許可を取ってない闇の慰安所がたくさんあってね。裏通りで立っている女の子はだいたいそんな商売淫売やった。日本人が女の子五人位連れてって、闇で商売していた。

●下山雄一郎 1916年5月生まれ 319頁~
取材 2000年11月

(略)
揚子江を上海から船で南京へ行った。
(略)
女の徴発をする者もおった。家内がある者ほど我慢できひんのか強姦してた。騎兵でもおった。女をつかまえて民家でもやっとったし、道の真ん中でもやっとったのを見た。わしらの中隊でな。やるから「やるな」と師団命令があったんや。憲兵もはいっていたと聞いてたけど、おらんやった。
女をやってしまってから殺したりしよったな。うちらの師団でもあったと聞いたし、自慢話も聞いた。道の真ん中でひとりで強姦しているのを、支那人も見ていたな。 (略) 
連隊長が「婦女子には戯れるな」とよく言っていた。婦女子はようけおった。普通の家に隠れとるわけさ。顔に鍋墨塗ったりしてな。わしらが占領したところへ入ったらな。鍋墨を塗っていれば、年寄りに見えるが、こっちには若いのだとわかってました。部落へ四五人で徴発に行くと、女が驚いて動けずにいた。敵が入ってくるからやな。部屋におるのを代わる代わる強姦していた。

(略)

戦争については、どうも思わんな。侵略とも思わん。みな外国もやっとる。英国人でもフランス人でも、支那の上海あたりにおったやろ、いろいろ。戦争はやって当たり前。
 あの時はいつ死ぬかわからへんから、あまりやられる側のことなんか考えたことはない。長々と生きたかった。生きたいわ。

●山岡敬一 1916年2月生まれ 321頁
取材 2000年12月

(昭和)11年兵ですねん。(略)連隊長は野田謙吾でしたな。(略)

十三日陥落の日、紫金城から下りてきて、わしらは中国人を捕まえると、女も男も列車の中、いっぱいになるまで詰めこんだ。貨車はようけあったな。一分隊はこれ、二分隊はこの貨車というように、分隊に貨車が割り当てられるんや。
次の日になって貨車から女も男も子どもも出して、揚子江の側の大きな広場に四列ほどに並べました。自分の分隊に割り当てられた貨車は何杯分かありました。「殺せ」と小隊長が言ったので、軽機関銃や小銃で並ばせて中国人を撃った。女の人はひとつの貨車に十人位いました。ほかの分隊も並んで撃っている。南京城を出るとすぐ河へ出られる門のところを出てすぐやった。
撃たれて死んだのもいるし、倒れているのもいる。それを兵隊が河に投げ込むんや。自分は手と足を持って生きてる人を河へ放り込んだ。また中国人を並ばせて射殺や。どんどんどんどん揚子江へ放り込みましたで。
南京では揚子江の端にずっとおりましたので、死体はようけありました。河べりにごみみたいに折り重なって浮いてたな。わしは気が弱いさかい、あまりよう見んかった。

(略)

徴発で物を盗って、中国人を殺した者も多かったです。中国の女は気がきついというか、主人が殺されても、女の人は日本兵が盗った牛なんか返せ言うて、後ろからついてくるんや。女は返せと言う、それでもわしらは運ぶものないんで、みなボンと撃ち殺した。
(略)
家の中で分隊の者が強姦して、わしは、外で歩哨、見張りやな。立たされた。きつい女で抵抗して強姦できない時は、腹立てて胸など撃って殺してましたな。射撃の目標にしたこともありました。命令やからしょうがない。木にくくりつけて射撃の練習でみんなで撃ちました。かわいそうと思いましたが命令やからな。

●中田清次 1915年生まれ p342~
取材 2000年7月

昭和10年兵です。現役は機関銃中隊にいました。昭和12年に除隊です。
(略)

中島師団長という人は剛胆な人で「支那の家を全部焼いてしまえ」と言いましてな。(略)「ここは抗日の一番ひどいところやから各部隊の家は全部焼け」とも言いました。

(略)
日本の兵隊は無茶なことしてますわ。強姦は南京戦より徐州の方がひどかったくらいです。南京でももう乱れてましたな。
(略)

日本軍による掃蕩を報じる新聞(1937/12)

### 抜粋終了 新聞記事(写真)も原著からの引用

大辞林によると:
【従軍】 軍隊に付き従ってともに戦地へ行くこと「軍医として従軍する」
【従軍慰安婦】  日中戦争や太平洋戦争中、朝鮮などアジアから「女子挺身隊」の名で動員され、兵士相手に慰安所で性の相手となることを強要された女性たち。1991年韓国などの元従軍慰安婦から補償と謝罪要求が提起された。

戦後生まれの、歴史教育を受けていないニッポンの首相やアホ議員らが <強制連行の事実>はなかった(家屋に押し入り連行した、ことはない。)などと誤魔化し言辞を吐いている(屋外ならやり放題かい?)。横行したのは強姦である。強姦と部隊による強姦目的の囲い込み、と、強制連行による「従軍慰安婦」、どちらが問題か? あったのは、当時、合法であり業者が営んでいた売春のみ、というつもりであろうか。 臍が茶を沸かす、とはこのこと。

英語においても当初、「慰安婦」を直訳のcomfort womanが使われたが、93年のウィーン世界人権会議以降は、性奴隷(sexual slave)や性奴隷制(sexual slavery)が使われるようになった。

奴隷、は近代日本ではなじみにくいコトバだ。奴隷、は19世紀なかばまで米国では制度、であった(奴隷は貴重な財産として売買された。上記証言のように、強姦した後、殺すような例を 奴隷、とも呼べまい?)。使用していても罰せらなかった、ということ。 従軍慰安婦の 実体をあらわす、適当なコトバが日本にはまだ、ない(歴史家の怠慢)。これをいいことに政治屋がコトバをもてあそんでいるのである。戦争に伴う強姦はニッポンだけにとどまらず、事例は多い、らしい(たとえば、終戦直前の満州へのソ連軍侵入に伴う日本子女のソ連兵による陵辱。これらの調査、謝罪を要求するのならまず、おのれのやったことを明らかにしなければならない)。この戦争に伴う陰の歴史を、闇に葬ってはならない。

敗戦時、証拠記録はすべて処分したのだから、その報いに政府が元兵士から証言をとり、記録を残すべきではないか。急がないと元兵士は、すべて死んでしまうぜ(それを待っているのだろうが)。

記録が残っていないのなら(強姦や軍隊による強姦目的の女性囲い込みなどを、記録に残すとおもうほうがどうかしている)、この証言録などを参考に隠された歴史を暴くべきだろう。戦後生まれの日本人に対する、政治屋、元軍人、軍官僚の、これは義務である。もし、わずかばかりでも<愛国心>、それに、個人の名誉、というものが彼らに残っておれば、の話だが。政治屋、元軍人、軍官僚らに利権以外の愛国的所作を求めるのは無理というものだろう。歴史家は、存在しない記録を嘆かず、未だ生きている兵士を訪ね回り、やった側、の証言を収集し、国民と世界に示すべきである。

なお、本書初版では、証言した元軍人の生年に誤植があり、南京従軍時12歳?前後となる!ことを根拠に、アマゾン書評で<この証言録のすべてが、したがって、虚偽>とウヨクから評されていた。第二版以降では修正されている。こういう本を製作する場合は編集者の 念入りな校正を求めたい。

上記の抜粋は本全体のわずか、の部分でしかない。
図書館で全文を読んで欲しい。無い場合は、図書館にリクエストしてください。

リンク:
南京事件の真実
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm

関連記事: 
映画『蟻の兵隊』試写評
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-05-24
十五年戦争とパール判決書
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-05-11
東京裁判  天皇制/北一輝
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-05-04
天皇問題
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-03-13
その他、カテゴリ=福澤諭吉におさめた脱亜論・福澤諭吉関連記事。


自虐史観 パル判決 [戦争・原爆]

朝日夕刊(8月19日)によると、富士通名誉会長山本卓真らが97年、パル判事を顕彰する碑を建てたという。「今の日本の自虐史観は東京裁判が諸悪の根元。これを払拭したい」。

自虐史観とは?このひとたちは、戦前のニッポンを「自国」と考えているらしい。すくなくとも私にとって戦前の日本はおのれの国ではない。カルト教に支配された「他国」である。山本等戦前のニッポンに何らかの責任をもち、未練もある人間にとって戦前を否定するのは、自虐的と形容せざるを得ないらしい。ナチスの時代を生きたドイツの多くの軍人や一般人(前記事のグラスを含め)は、戦前のドイツを否定しているのではないか? そのとき、彼らドイツ人の多くを 「自虐的」と形容するであろうか。

パル顕彰碑は 昨年6月、靖国神社にも建ったという。

パルは英国植民地時代のインドに生まれ独立戦争の空気を吸い、西洋列強に抗うアジアに共感を示した。くわえて、パルは強烈な反共思想の持ち主であった。

52年秋、廣島で開催された国際会議に訪れたパルに、広島市平和大通り近くにある本照寺の住職、筧義章(かけひぎしょうい)は パルに会った:
筧「日本人の言いたいことをいっていただき、胸がすっきりしました」
パル「それは私の主観ではなく、真理と国際法の結論です」

という会話が交わされたという。

筧は20代で旧満州に渡り、中国の土地を奪う日本軍の話を聞いて胸を痛めた。戦後帰国した筧は慰霊碑の建立を思い立つ。外地で死んだ同胞、原爆犠牲者、中国人、朝鮮人、インド人以下に多くが死んだことか。碑文を頼むとパルはうなずいた:

「抑圧されたアジアの解法のため その厳粛なる誓いにいのち捧げた魂の上に幸いあれ」

残念ながら、この碑文によって祀られるに値する日本人などいない。それは筧自身が見聞きした体験から、実感していたのではないか。

筧の息子で住職を継いだ筧義之はいう:
「パル先生は、日本が無罪と言ったわけではなく、裁判に意味がないといわれたのです。おやじはそう話していた」

パルが言ったことを最大限尊重するならば、東京裁判は成立しない裁判である。戦前の日本を裁いて、あらたな民主主義国を打ち立てるには、当時の(おそらくいまでも)「裁判」では間に合わない、ということ。これは明治維新以上の大改革なのだ。すなわち「革命」もしくは「政治裁判」「革命裁判」が必要だったのである(大政奉還!など期待できないのであるから)。現在の天皇を頂上にいただく国家神道に支配された、現在の北朝鮮以上のカルト国を裁くのに法律など無用なのである。「自虐史観」などとわめいている輩はカルト国再興を念じているのであろう。唾棄すべき人々である。

東京裁判を含む連合軍(GHQ)の戦後改革で不充分であったのは戦前の体制を支えた官僚(靖国官僚はその一部)や天皇制が、ほとんど解体されることなく生き残ったこと。国民自身が被告でもあるという事実(ドイツも同じだ)、外圧に頼った革命の限界だろう。

15年戦争とパル判決書:
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-05-11
東京裁判
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-05-04


原爆の使用、など [戦争・原爆]

あるwebサイトhpの、公開コメントに
1 米国の原爆使用はやむを得なかった。
2 東京、京都へも原爆を使用すべきであったかもしれない
と書き込んだら痛烈な批判を受けた。

2については何も説明しないでいきなり書いたのだが、戦前の国体護持派がゾンビのように復活を計って(天皇制は国体護持グループが、GHQと公称して象徴性として残した)いる現状を考えると完膚無きまでに天皇制を破壊すべきであった、という意味。もちろん、私は戦前の天皇制を完全に破壊すべきである、と考えている。(まさか、日本が戦争に勝つべきであったとか、考えている人はいまいが)。

東京裁判は勝者の裁判である。未来はともかく、過去、戦争後の裁判はすべて勝者の裁判であった。東京裁判は勝者による政治裁判(革命裁判)であり、過去の法律にとらわれる必要はない、と考える(もちろん、勝者であっても 正義、という名のもとの裁判を前提する。いろいろな正義、はあろうが)。わたしはもちろん、勝者=連合国側に立って天皇制国家たる戦前の日本を裁く側にたつ。

日本国民は、戦前は教育と脅迫によるとはいえ 天皇制を指示した臣民としてあったし、中国韓国からの強制労働者をなんのわだかまりもなく使ったし、彼らを差別した。日本軍兵士はアジアでどのような戦闘をしたか?一般市民=非戦闘員の首をはね、捕虜を殺した。ナチと同等の殺人マシーンであったのだ。

政府は開戦時、終戦のプランを持っていなかった。昭和20年以前にまともな判断のできる軍人なら既に敗戦は見えていたのだから降伏すべきであった。全国各地の無差別空襲(これも原爆と同じく国際法には違反である)、沖縄の徹底的な破壊を受けもなお降伏勧告にしたがおうとはしなかった。

当時の日本政府は、兵士の命とか国民の命を維持することをまともに考えていなかった、あるいは考えていても維持する政策を行う能力がなかった、資源も食料もなかった。すなわち、降伏せざるをえなかったのである(そもそも、戦争を起こすような国になっていなかった。交戦権を有するにはそれ相応の資格がいる)。各地の兵士は戦って死んだのではなく300万人の死んだ兵士のうち半数は餓死であったという。昭和二十年敗戦後にも国民は続々餓死した。餓死者は昭和21年になっても減ろうとはしなかった。食糧難を政府は放置した(国民に対する政府の義務の放棄である。いや、そういう義務はなかったのかもしれない)。日本人の誰が今の北朝鮮を笑えるか。今の北朝鮮は、まさに国体護持だけしか頭のない当時の(いまの?)日本そのものである。

トルーマン政府が原爆投下を決定したのは、日本国民の為を思って、ではもちろんない。対ソ戦略の意味もあった。被害者への影響という面では分かっていなかったのである。原爆投下後廣島市民への大々的な調査を実施してやっと人体に及ぼす原爆の影響が分かってきた。そのような兵器を使うのは人道に反するのはもちろんである。それ以後、戦争に非人道的な兵器が使われないことがなかった。

そもそも国民の福祉とか安寧なる生活を維持しようという気のない政府を政府とは呼べず、そのような国家は半国家でしかない。原爆が廣島長崎に投下させていなければ、どうなったか?戦争は継続し、餓死者が増え、投下されない場合に比べて死者は増えたろう。米国兵士は日本国民を モンキー、としか考えていなかった、らしい。しかし当時の日本人の誰がそれを誰が笑ったり非難できようか。しょせん、戦争とはそんなものである。

廣島の原爆跡地には、やすらかにねむってください、あやまちはくりかえしませんから、という慰霊碑がある。わたしは、これを、原爆で死んだ人だけへのメッセージとは考えない。戦争で死んだ日本人すべての兵士、市民への追悼メッセージであると考える。国民がもう少し目覚めて、天皇制を我が手で打倒しておけばこういう惨めな国にしなくて済んだ。

しかし、この慰霊碑により慰めらるるものたちに、日本人以外の、日本人兵士によって殺された捕虜や非戦闘員(農民市民)がはいっているだろうか? 入ってはいない。 廣島市で原爆にあった中国韓国の強制労働者たちは爆死しても慰霊対象とされなかった。ニッポンジンがまともならあるいは『品格』を備えていたならば、日本国民のための慰霊碑より先に、日本兵によるあるいは日本国民による差別の犠牲者であったアジアの人々のための慰霊碑を建立し、追悼さるべきであった。そういうことを全く考えもしないのがニッポンジンなのである。現在の首相はまさに、そういうニッポンジンの正当な代表者である。

そういうニッポンジンから私は離脱したい。


8月6日 追悼、アジア、靖国 [戦争・原爆]

1945.8.6朝、芋畑で鍬仕事をしていた母(まだ、ムスメっこ)が西の空にモクモク立ち上る雲をみつけ、びっくらこいて家に知らせにもどった。翌日からドンドン黒こげのけが人が運び込まれた。田舎は広島市から20キロ東にある村である。広島に爆弾が落ちて丸焼けという話を聞いてこれは大変、と親戚を捜しにでかけた、といっても、切符は駅にはない、西條にでかけ、知人のツテをたどってやっと1枚切符を購入、広島市内に入れたのは8日のことである(不思議なことに列車はいごいていた)。近所に疎開していた親戚の赤ん坊を背中に背負い、連日その父を探しつづけた、が、焼け野原で見つかるわけもない、「地獄じゃったいのぅ」。

何十万市民の上に爆弾を落とすなぞ人間のすることではない、獣の所業である。しかし、(わたしの母を含め)広島市民や日本人民、政府に原爆を非難する資格はない。年一回、ガス抜きのような追悼式をやってなんになるか。追悼は個人にまかせろ。

#####

ゆうべ(8/6)のNHK番組、日曜喫茶室、を録音したのだが池谷監督の話、その他知っているハナシなので新味はなかった。ハカマミツオとアンノミツマサ、という高齢のホストが<まっすぐ>であるのにやや安心。

それにくらべて深夜再放送で聞いたNHKの日曜討論は燃焼不足。1時間という時間設定がまずいのだ。半日掛けなければ徹底討論はできない(徹底的にやられるとまずいから1時間でチョンにする)。主題は、靖国+天皇メモなど。

  所+大原 vs カンサンジュン+松本健一 プラス1

東京裁判(史観)、を徹底に論じなければこの問題は解決しない。であるのに、いつも中途半端で終わる。どの出席者にも、その能力はないし、NHKにも徹底に論じさせる気はない。もともと東京裁判の当事者(被告、原告、検事、裁判判事側)や裁判を観察している日本人、日本人元兵士、その家族、あるいはアジアの人々、あるいはは戦争に参加した連合国、その兵士、家族のすべてを考慮した、東京裁判論を構築せねばならない。それをしないで、靖国を解決はできない。

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麻生らが 国立追悼施設、を今頃になって持ち出してきた。
その<行為の意味: 主観的意図>をさぐらねばならない。
今頃、国立追悼施設、といっているのはどういうこと?なぜいまの状態がまずいか、をはっきり言わないで、ずるずる、と新しい物を作るなよ。現在の靖国は民間の宗教法人、それに公人たる首相が参列するのは、政教分離の憲法原則に違反するのだ。違反するから新しい物を作るのだろう?造る前に違反した事実を認めないのか?(。。ない、のよね)。昨日の討論でも大原らは、民間法人たる靖国がA級戦犯を祀ったのではないのです、祀る対象はA級、B、C級含めすべて政府厚生省のリスト提出にもとづいて、行っているのです、としゃーしゃーと述べている。だいたい民間の一宗教法人にこれを合祀しろ!と国家が指示する、し、それをハイハイと受け入れている民間宗教法人、ってのはなんなんなん?明治に創立された国威発揚=国家神道=国家施設を信教の自由の前提の下、わざわざ終戦後、法人にしたというのに、ずるずると、公の領分に入ってしまった。。これを既成事実化する発言にすぐ異議を唱えようともしない政治学者=カンサンジュンってのは誰なんだ?

何も決着付けないで、靖国から国立宗教施設に!遊就館は防衛庁の管理に! で、国がセッセと名簿を施設に渡す。愛国心もつ小学生中学生はすべからく修学旅行にトウキョさ、きたときは、お参りするように! いまと、どこがちがう?

天皇のメモ(意志)を政治的目的に使用するな、というのは大原の言うとおり。カンサンジュンらはまだ腰がふらついている。しかし、同じ意味で、遺族会の意向、なども 追悼施設をどうするか、には関係ない。犯罪被害者(の家族)が 刑法や量刑を定めるのがおかしい、のと同じ理屈だよ。 あらたにつくる 公営追悼施設、は 過去の戦争で死んだ人間だけではなく、これからの公務で死んだ人間を追悼するための施設だ。国民全員の総意で決定する事項なのである。利権のはいる余地のないよう監視しなければならない。

コイズミは靖国に参拝に行くらしいが、首相は戦死者に対しまず、無駄な死を強制した事実を謝罪しなければならないのではないか?亡くなった300万兵士の半数は餓死なのである。また、中国アジアで死んだ一千万の人間に対して謝罪しなければならないのではないのか?8/15は敗戦の日、である。追悼をするなら、兵士以外の、戦災で命を失った国内外の民間人も対象にスベキである。 おそらく考えたこともないだろう。首相だけでなく、大多数のニッポンのおめでたい国民は。

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昨日の日曜喫茶室。
奥村はいったい何人の無辜の中国人を殺したのだろうか?
わたしのブログ記事で書いていないが、奥村は農村で女学生を銃剣で突き殺した。上官の命令にしたがった。
女学生はしばられ、キッと、奥村を睨む。
奥村は、女学生の顔を正視できない。
そして、銃剣で突きまくる。

池谷監督に忘れて欲しくないのは奥村の戦地における犯罪はまったく裁かれて、いないということだ。彼はおのれの恩給を求めて戦っているのであり、自分が戦った根拠を明らかにしようとしているのである。私的利益で動いているだけなのだ。戦陣訓を兵士に押しつけた軍や政府が罰せられなければならないのと同じく、奥村を追及する手を緩めることはできないのである。もちろん、死後も、である。墓に入れば過去のツミはチャラになる、とおもったら大間違いである。東京裁判とは関係なく、小野田元少尉、ABC級戦犯、天皇、その他 東京裁判で裁かれたもの裁かれなかったもの、は(死者は墓場から引きずり出し) つねに、法ではなく、正義の前の、法廷に立たねばならないのである。 その作業をする気もないが東京裁判を批判などできるわけがない。

フィリピンでロケーションを行った俳優大地康雄は現地の農民から 「野蛮人!」と罵られてショックを受けたと言っている。その労農民は、故郷の村の老若男女、日本兵に皆殺しにされたのである。わたしは、この程度でショックを受けたという俳優がいる、ということにショックを受けた。

80歳を越えた中国出征兵士のいる家では爺さんのアルバムを繰ってみるとよい。現地農民や兵士のクビをちょん切り、その生首を誇らしげに手にぶら下げているおじいさんの写真が出てくるだろう。その写真を処分していなければ、だが。あるいは銃剣で突き刺しているところを写真に撮っているかも知れない。

中国大陸やアジアで日本兵士は何人、銃剣で農民を殺戮したか?その家族や子供孫の怒りがおさまるまではまだ百年かかる。自分の爺さん婆さんがおなじめにあったとしたら、と想像できないか?爺さん婆さんではなく、我が子、我が親が日々中東では殺戮されている。復興に!と、国民の血税をジャカスカ振りまいているニッポンの大臣がいる。いまただいま行われている国家の名による殺人に無関心な奴らが、追悼、などとはチャンチャラおかしや。


『日米開戦の真実』 佐藤優著 小学館 2006/7/1 書評 [戦争・原爆]

                                      

真珠湾攻撃直後(12/14 - 12/25, 1941)に、大川周明がNHKから放送した12回の講演を全文掲載し、佐藤優はこれに、解説を加えたつもりになっている。

なぜ、真珠湾直後に 大川がこういう講演をすることを許されたか(いつ、誰から依頼されたか?攻撃に先立って準備を依頼したはずだ。誰かがその内容を誰が事前に校閲したのではないか?大川は5.15事件で有罪判決を受けた身である。これは松本健一『大川周明』が指摘している問題だが、未だ不明、とある)など、佐藤の念頭にはない。しかも、すでにこのとき 刎頸の友、北一輝を失っている(226で銃殺)大川は賞味期限を過ぎていた、というべきだろう。

この12回の講演はいわゆる『大東亜共栄圏』の思想を鮮明にし、東洋対西洋の対決を謳ったものであり、翌年一月早くも『米英東亜侵略史』として販売されベストセラーとなったようだ。当時としては「客観的な史観」としてであり、ずいぶん高い評価するムキもある。この講演が戦意を煽ったとして、A級戦犯として訴追された原因のひとつにもなった。しかし、当時ならともかく、平成の今読んで、ビックリするような内容ではもはや、ない。

現時点で大川を評価するならば、開戦直後におそらく他律的に用意された著作ではなく、なぜ、1922年の著作『復興亜細亜の諸問題』を引用しないのか?すなわち、1915年の対華211箇条要求を発出し、ニッポンが中国革命の妨害に出た(脱亜路線の選択)ことに対し、大川は本書で、

「而して最も悲しむべく、かつ、恥ずべきは、亜細亜復興の指導者たるべき日本そのものが、英国外交の翻弄するところとなり、その「離間制御 Divide and Rule」の政策を二重に成功せしめ(英国にしてやられている、ということ<古井戸)、支那内部に党争の因を蒔き、同時に日支両国の背理を招くに至れることである」

と、対シナ戦略の過ちを15年戦争の開始前に突いているのである。ニッポンに期待した孫文からも痛烈にこれは批判されている。「日本は西欧的近代化の途を進んでいるが、果たして、西欧覇道の犬、になるのか、それとも 東洋王道の牙城 たらんとするのか」(孫文が死の前年に 神戸で行った講演)

政治家、官僚、思想家(広松渉、あるいは外務省の田中均)らによる東アジア、あるいは北東亜細亜戦略の重要性を佐藤は説いているが、大川はすでに、それにも回答を与えているのだ。支那侵略が既定の事実になった後の、もぬけの殻になった大川を引用しても(おそらく政府軍部検閲済みの書物)、意味はない。

英米の侵略の歴史はすでに東京裁判でパール判事が難じたことだ。しかも、大川は 戦後書かれた(東京裁判で精神異常と認められ訴追を免れた後)、自伝『安楽の門』で、

「東京裁判は正常な訴訟手続きではなく、軍事行動の一種だ」と考えており、日本の無条件降伏により戦闘は終止したが、講和条約が調印されるまでは、まさしく、戦争状態の継続であり、われわれに対する生殺与奪の権は完全に占領軍に握られている。わざわざ裁判を開かなくとも占領軍は思うがママにわれわれを処分することができる。。。。今度、戦犯容疑者に指名されたことは。。いわば最後の召集令を受けたようなものであり、巣鴨(プリズン)に往くのは戦場に往くのは戦場に赴くようなものである。出征に際しては、生還を帰せぬことが日本人の心意気である。。。」

と、覚悟を示している。わたしは真珠湾直後の大川の講演は、すでにこの戦争の大義を日本は欠いている(対亜細亜)、と承知した上の、講演であるとおもう。

佐藤は、われわれは対英米戦争は避けられぬ戦争であった、といいながら、その教訓として

「負け戦はやってはならぬ」

を得た、といっている。そして、一国帝国主義となっている米国に全面対決するのは愚の骨頂、と述べているのだ。(いったいこの本を何のために書いたの?といいたくなる。苦笑、あるのみ)

「A旧戦犯容疑者大川に法廷での証言が許されていたら歴史は大きく変わっていただろう」と佐藤は述べている。なぜ、大川は裁判に臨んで奇矯な振る舞いをし、病院に収監されたのだろうか(その後で自伝を書いているほど回復したのに)。なぞではある。これは、パール判決書がGHQにより長く公刊を禁じられてきたのと同じく、佐藤のいうようにGHQの謀略の可能性もあるだろう。しかし大川自身が言うように東京裁判は戦争の一部であり、佐藤も本書中で、政府は現在でも政策遂行に当たり都合の悪い情報を 国民に対しても秘匿すべきである、といっているくらいだから、これがかりにGHQの謀略であっても非難しないだろう。

大川周明はイスラム学の泰斗。碩学井筒俊彦の師でもあった。大川はたとえ、負け戦とは分かっていても、大義は我にあり、として、すでに中国大陸侵略の愚を犯したことに目をつむり英米に闘いを挑んだニッポンにハナムケのコトバを贈ったのではないか?すでに「大義」など明確に虚妄と分かった現在、「負け戦はスベキでない」と、米国に追随してイスラム国攻撃に荷担したニッポンの現状をみて大川はなんというであろうか?外務官僚(休職中)である佐藤優は、どういうツラをして大川に対面しているのか?

ところで、大川周明のNHK講演はその録音がNHKに残っているはずである。ネットで公開すべきではないか?

(論じたい問題は上記以外にも多々ある。佐藤の著書引用等を交えて、また後日)

関連記事:東京裁判/北一輝
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-05-04


映画『蟻の兵隊』  日本軍山西省残留問題 [戦争・原爆]

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本日、2006年、5月24日、映画『蟻の兵隊』の試写を観た。

映画『蟻の兵隊』のhpアドレスは下記の通り。以下必要に応じこのhpから引用させてもらう。本記事に添付した画像はすべて  有限会社蓮ユニバース からの提供である。
http://www.arinoheitai.com/index.html

この映画は元残留兵、奥村和一の現在と過去を提示する。
奥村和一は、15歳で少年兵として徴用され、中国大陸山西省で中国軍と戦った。
中国軍と、というが実際に殺戮したのは無辜の農民である。
いまでも、最初に突き殺した場面を夢に見る。にらみ返す農民に目が向けられずあらぬ方向を向いて突き刺す。何度付いても急所、心臓を刺せない。上官が怒鳴る。
あたりでは、日本兵が農民の首を、剣で叩き切っている。

日本政府が 国体護持(昭和天皇の死刑を免れること)を条件に連合国が7月につきつけたポツダム宣言を受諾したのは昭和20年8月14日のことだ。しかし、中国山西省にいた陸軍第一軍の将兵59000人のうち2600名は、残留兵として居残り、当時共産軍とたたかっていた国民党系の軍閥に合流して戦い続けたのである。なぜ、こうなったのか?

当時(戦争終了後)、「戦犯」であった軍司令官が責任追及(戦犯として)への恐れから軍閥と密約を交わして「祖国(日本)復興」を名目に残留を画策した、と主張した。実際は、残留兵を残しておのれらだけまっさきに日本に帰国してマッカーサーにすり寄ったのである。

残留兵として戦って、捕虜になった奥村は昭和23年人民解放軍の捕虜になり、中国国内で6年あまりの抑留生活を送る。故郷新潟県にもどったのは、昭和29年のことであった。終戦の翌年、彼の軍籍は抹消されていた。日本政府は、「残留兵はみずからの意志で(すなわち軍の命令でなく)残り、勝手に戦い続けた」と主張したのである。なぜか。そうしないと、ポツダム宣言に違反するからである(武力放棄、戦闘行為の終了が一つの条件であった)。奥村等13名の中国残留兵は、軍人恩給の支給を求めて困難な裁判闘争に入る。東京地裁に提訴するも、2004年4月敗訴、2005年3月の二審でも敗訴。2005年4月に生き残った5名が最高裁に上告している。裁判闘争中、4名が死亡した。

奥村は個人で裁判の証拠文書(国人軍との密約)を求めて単身中国に渡る(映画撮影クルーが同行)。
なぜ、終戦後3年も経過したのに、中国内戦に巻き込まれ「天皇陛下万歳!」と叫んで死ぬ、親友を眼前に見なければならなかったのか?奥村の怒りである。

 山西省。戦闘跡を訪れた奥村。

##

軍隊とはいかなるものか? 日本国、とはいかに国民や兵隊を守ったか、守らなかったか?
奥村がそれを証している。

映画を見ながら私のアタマを去来したのは、レイテ戦記を書いた大岡昇平であり、映画『行き行きて神軍』の主人公奥崎謙三や監督原一男であった。『蟻の兵隊』を監督した池谷も当然原一男は意識していたはずである。

しかし、奥村の闘いは大岡の「レイテ戦記」執筆よりは過酷である。

奥村は山西省の公文書保存施設で、ついに 現地司令官と国民党幹部の交わした密約文書を発見する。しかし、それは証拠として裁判で採用されるに至らなかった。奥村はさらに自分が農民を突き殺した場所を訪れ線香を供えて追悼する。奥村も上官の命令とはいえ犯罪を犯したのだ。(東京裁判の結果、上官の指令であっても、人道に反することは逆らわなければ罪に問われるという判例が成立した)

もっとも胸を突かれた2つのシーンのことを述べておきたい。
1つ。
奥村が宮崎舜一元中佐を病院に訪ねる場面である。宮崎は脳梗塞で倒れ言語を発する状態にない。ベッドの上で寝たきりであり、長女が介護している。宮崎は、敗戦時200万人もいた在留邦人の帰国輸送を総括した。山西省で残留兵の不穏なうごき(国民軍との密約)を察知し、澄田第1軍司令官らの首脳に「残留部隊編成の中止」をせまったのである。宮崎の奮闘にもかかわらず、部隊を山間にかくすなどして秘密計画は実施されてしまった。結果、死なずにすむ多くの兵を殺してしまったのである。(奥村は、かつて戦った中国への旅で、当時を知る中国共産党軍元兵士から、残留兵は故国日本へ帰れば家族との平和な生活が待っているだろうに、なぜ残って戦ったのか?と不思議がられる。)ベッドに横たわる宮崎元中佐に奥村が、現在の法廷闘争の状況を伝える。伝わるまい、と思いながら語りかける。ところが、宮崎は奥村の言葉に激しく反応するのである。口を全開し、おらぶのだ。あきらかに奥村の発言に反応しているのである。奥村は、すでに 言葉と行動の自由を失った宮崎のためにも、戦っているのである。すなわち、多くの戦わなくても良い、死なずにすんだ、死者達が奥村の背中を押すのである。 この映画の、「核」、はこのシーン、言葉を失い、わずかに思考能力と記憶が残されたかに見える、宮崎の絶叫のシーン、にあるといってもよかろう。
この映画で、もっとも印象に残る画面である。 長く言葉として表出されなかった記憶がマグマのように噴出した瞬間であった。

裁判闘争の現状を伝える奥村と激しく応答する宮崎元中佐

その2。
靖国神社。参拝を推進する家族団体を前に、小野田元少尉が演説している。演壇を降り、帰路に就こうとしたたところに奥村が歩み寄り「小野田さん、あなたは侵略戦争を美化するのか」と詰め寄る。小野田は激高し、奥村に対し「軍人勅諭を読め!」と怒鳴りながら、去る。国家の絶対的な庇護のもと、税金から軍人恩給をばらまかれている連中、国家の恥をさらすまいとする一部官僚のエゴと、その巨大な圧力に抗して戦わねばならぬ奥村の孤立が露出した場面であった。軍隊の中にあっては、軍隊とは何か、は見えない。残留兵=軍籍抹消という取り扱いを受け、軍隊の外部にはじき出された後で、奥村は、軍隊とは何かが、あたかも地層が裂けて露わになった断層をみるように、明らかになったのだ。


地裁での敗訴をつげる書類が裁判所から奥村の元に郵送される。本来なら担当裁判官の署名捺印があるべき判決書に捺印が無く、代わりに「都合により印鑑省略」の文字を見る。裁判所に電話をし、この理由をただす奥村。電話の相手(女性担当者)から、「これは物理的な理由です、担当裁判官が「任地変更」のため「物理的に」印鑑をつけなかっただけなのです」、という説明を受ける。 笑うしかなく、もの哀しき場面であった。国家は逃げおおすため、永久に「任地変更」を繰り返すであろう。 

みてみぬふり、くさいものにふた、のニッポンの現実。
この話ははるか遠い昔のはなしではない。現在ただいまの話である。
本来ならこのフィルムは映画ではなく、NHKが放映すべきドキュメントである。(あまりに遅すぎるが)。米国PBSや英国BBCなら遠のむかしにこの程度のドキュメントは放映していたはずである。
NHKが数年先この映画を全国放送するであろうか?まず無理だろう。このような放送局に聴取料など払う必要はないのである。

少年兵奥村に対し、上官は、肝試しとして、農民を銃剣で突き殺した。これは上官の気まぐれではない。組織的な「指導教育」方針に沿ったものなのである(どこが、大東亜共栄圏か?)。奥村は、後数年すれば自分も上官と同じように若い兵隊に同じことをさせた、だろうという。これは当時でも戦争犯罪である。このような組織的犯罪を、現在、国民の前であきらかにし、現在の国際法では上官の命令に背いてでも人道上許されぬ戦争行為を拒否する「義務」が兵士にはある。これはどこで教えられているか?主権者たる国民に国際人としての常識を教えるのは国の義務、である。不正な政府や軍隊、官僚から、国民の生命と生活を守るのはひとつの正義、であり、この正義を遵守する姿勢(スピリット)を 愛国心、という。NHKを含むマスコミは、正義と愛国心を 国民に仕込んだらどうか?ついでに、政府、官僚や軍隊にも愛国心を教育してやってくれ。

最後に、この映画で感じた違和感をのべておこう。
ラストちかく、奥村は当時農村で日本兵に暴行され、輪姦された女性、リュウ・ミイエンホァンさんと対話する(日本政府に損害賠償を求め訴訟。事実関係は認められるも、請求棄却)。このあたりから画面や音楽が情緒に流されていく。最後、奥村が生き残った元上官宅を、事前連絡無く訪れるシーンでおわる。上官宅の玄関先で上官に詰め寄る奥村。上官は、60年前のことだから、と言葉を濁す。

理解できないのは、監督池谷らしき声が(姿をみせない)、奥村に対し 「なぜ、予告無く上官を訪れるのか?」というトンマな問いを発することである。奥村はおのれらが何十何百と殺害した中国農村を単身訪れているのだよ?その彼が、過去を封殺して生き延びている上官を予告無く訪問することがどれほどのもんだというのか?

ラスト。中国人女性歌手?が歌う、情感的な歌。まったく理解に苦しむオセンチな、エンディングである。奥村の裁判闘争はまだ、続いているのだよ。わたしなら、上官に詰め寄る奥村を撮り続け、そのままストップモーションにし、クレジットを流しながら、印象的な遠雷のような 響きを持つ音楽(この映画の主題、といってもよい。冒頭とオーラスのみ、で使用されたが、映画の途中で使用しても良かった)、で終わらせたろう。この映画に「ジ・エンド」のマークはまだ付けられないのだ。映画に『ジ・エンド』はあっても、 奥村の闘いは To Be Continued なのだ。

奥村の闘いは、奥村個人の闘いであっていいのか?この闘いを理解し、共有できない日本人は、人間たる資格を問われねばなるまい。すなわち、奥村の闘いは、一日本人として戦っているのである、と同時に、普遍的な人間としての闘いなのである。つまり、この映画を観てこれは日本という国のみに限定された特殊状況、とみる世界各国の人がいたらおめでたい、というべきだろう。奥村の闘いは、日本だけのもんだいではない、中国、韓国、米国。。。およそ、近代の国家すべてが共有している問題なのである。つまり、国家(政府、裁判所、国会、官僚、軍隊など) 対 個人、という問題なのである。 日本の国会が奥村を支援しなくていいのか? 国家において、正義は、個人の自己負担で実現しなければ、ならぬものなのか?

奥村もいつかは死ぬ。死ぬまでに問題が解決するとは誰も思わぬだろう。政府や裁判所は奥村等訴訟人全員死ぬのを待ち望んでいるのである。 奥村さんと奥さんの生活は本来なら、今頃、平穏であるべきはずのものであった。ご健康と闘いの勝利、を祈りたい。

映画タイトル、わたしなら、『蟻の兵隊』ではなく、『山西省残留兵士達の闘い』としたろう。

この映画のパンフレットに、ジャーナリスト鳥越俊太郎はつぎのようなメッセージを寄せている。
「小泉・安倍氏は 「国のために命を捧げた魂」のため靖国神社に行くという。
一寸待ってくれ!
ここに国に棄てられた兵隊がいるじゃないか!
怒りを呼び戻そう!!」

一寸待ってくれよ、鳥越さん。 棄てられたのは奥村ら山西省残留兵士たちだけではないのだよ。
大東亜戦争で、日本軍の死者は300万という(一般人を含む中国人の死者は少なくとも1千万人)。そのうち半数が餓死なのだよ。戦時、軍人への食料支給は政府軍隊の責任なのだ。奥村等残留兵士だけではなく、すべての兵士が天皇のために棄てられた、というべきなのである。日本軍に、部隊ごとの特殊事情などあるわけはない。政府と軍隊のどこを切っても、無責任、いいのがれが充満しているのだ(これは平成のいまでも、続く、日本政府と官僚の伝統だ)。

小泉ら政府や官僚は、「おのれらの無策のため死なずにすんだあなた方をむざむざ殺してしまった。あなたたちを犬死させたにもかかわらず、生き残った国民の血と汗により、ここまで復興しました」、と死んだ日本兵士と、生き残った国民、それに、一千万を超えるアジア一般住民と兵士の死者、その親族に日本政府と軍を代表して詫びるべきなのである。日本兵士の餓死は必然であり、餓死しなかった兵士は運が良かったのである。兵士同士、あるいは、現地住民の人肉食いまでやる羽目に陥らせ、復員して口を閉ざしている兵士、あるいは、餓死しするに至った兵士が死ぬ瞬間に 「天皇陛下万歳」と叫んだとおもうか? 死者にくちがないのをいいことに、死んだ兵士を二度まで冒涜するでない。犯罪を犯した兵士の罪は死んだからといってチャラになるものではない。地獄にいっても犯罪人は犯罪人なのである。罪を暴き、ふさわしい罪状をわれわれが付与することで死者も永遠に眠ることができるのだ。

したがって、奥村が犯した罪は永久に消えない(誰も裁いていないのだから。奥村は今でも未決囚である)。もちろん奥村以外の日本兵すべても、だ。靖国に祀られたからといって、罪が消えるとおもったら大間違いだ。それを奥村も了解しているから、当時の政府や軍隊の行為を非難できるし、それを政治的に引き継ぐ現在の政府を責めることができるのである。犯した犯罪を自覚しないもの、犯罪を犯してほうかむりするものほど醜いことはない。犯罪を犯したことを自覚し、他人に正義を求めるのは勇気の要ることである。犯罪は誰しも犯す可能性はあると想念した上で自分が奥村の立場に立ったら何をするだろうか、と考えるのも無駄ではあるまい。

この映画、この7月より数館で公開にこぎつけたそうだ。
奥村さんは6月に本を出版するとも聞いた。
ニッポンとはいかなる国であったのか?いかなる国で現在、あるのか。
これを、知りたい人に、この映画を見ることを勧めたい。

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去年7月に85歳で死んだ、私の親父のことを話しておこう。親父は中国戦線(日支事変、志願した)に出かけた下級兵士だった。4年前に余命1年から3年と医者に言い渡された。親父は、おれは一度は中国で死んだ人間だから今更命は惜しくはない、といっていたが、去年のいまごろ入院したとき、だんだん記憶がなくなっていく、こうして死んでいく。。と涙を流していた。結果、医者から1~3年の死を宣告されていたとおり、きっかり、3年目に死んだ。

一年前の今頃だったか、田舎(広島)に見舞いにもどり、新幹線駅から弟の車で自宅に向かう途中母に電話すると親父が倒れた、という。その晩おそく、救急車を手配し、深夜病院に入った。午前一時頃、ありあわせの物置のような狭い部屋のベッドに親父を寝かせて帰ろうとしたとき、親父が中空を睨みながら、つぎのようなことを、問わず語りにしゃべり出した。
「中国の農村で、農家に押し入った。家の主人が泣いて、それだけは止めてくれとせがむのに、牛を連れて行った。。」
なにを、こんな場所で、突然言い出すのか?と、わたしは不審がり、驚いた。

中国で戦ったのは、奥村の15歳に対し、親父は20歳くらいだったか。日支事変のあと、志願兵として出生した。親父は次男坊。志願兵は徴集兵より給与が高かったからである。

すっかり忘れた記憶が突然想起されたのではあるまい。おそらく、人生の、ことある事に、戦線の記憶があたまをよぎったのではあるまいか。医師から余命1-3年を言い渡されたときも、一度は戦争で死んだ身だ、なにもかも隠さず話してくれ、と医師に伝えた、というていた(こんな父にしても、病院の床では、だんだん記憶がなくなる、もう死ぬ、と涙を流していた。これは私にとってショックであった)。

揚子江を船で上っていたら、魚がびょんびょん船の中に飛び込んできた、というような話ならきいたことがあったが、そんなことを聞いたのははじめてであった。兵士はしゃべらず、記憶を地獄まで持って行く。(私が、上記で、寝たきりの宮崎舜一元中佐の激しい反応に胸を突かれたのは、同じくベッドの上にあった親父の姿とだぶったのに、ちがいない)。

大岡昇平は「レイテ戦記」に書いている。「。。従って、小作人の水牛が徴発される場合、影響は破滅的になる。どんなものにも所有者がいるということを日本人に理解させることは、不可能のようにみえた」 これはフィリピンでの話だ。むろん、同じことを当然の如く大陸の戦場で行った。奥村が訪れたかつての戦場である山西省の村の老人も語っていた。牛、豚、鶏と同じように人間を民家から連行し、殴打し、犯し、大根を切るように首を切り落としたのである。

日本軍や政府はなにも記録を残さない。大東亜戦争の記録を日本軍は残したか?
敗戦時、すべて公式記録を焼き尽くした。公式記録がないから、そういう事実もなかった、と恥知らずの評論家はしゃべくり放題。いま、大東亜戦争の跡を辿ろうとおもえば、国内になにひとつ記録はなく、焼き尽くされ廃棄されており、中国の史料保管施設や、米軍の記録した太平洋戦争報告と、米軍が傍受した日本軍の電報などにたよらねばならない惨状である。記録を残さないのはなにも戦争中、戦前戦後だけ、のことではない。いま、政府や国会が国民のためにどのような報告を作成し、情報を国民に開示しているか?軍隊の内部にあっては軍隊が見えぬごとく、日本の内部にあっては日本の姿が見えぬ、という状況にわれわれは置かれている、ということだ。これはあるべき姿とは遠いのである。しかも、これは日本だけの特殊事情、でないことは明らかだ。 歴史は存在しない。人間が、発見しようと意欲し、発見するまでは。

追記:
残留兵、とは 自分の意志で残った兵隊か、と思っていた、とコメントを受けた。名称が悪い。
「違法残留兵」、とかに変えなくては。
軍人恩給請求者、がすべて死に絶えたらこの事実が消えて無くなる可能性がある。国家に、歴史的事実を記録しようという気がないのだから。そういう施設がないのだから。せめて、アカデミがまともなら、こういう事実の発掘に熱意を示すハズなんだがね(何万年前の遺跡、には目を向けるが、何十年前の史実には蓋をするんだから、ひどいもんである。 市川昆の映画『東京オリンピック』にたいし、あまりに芸術的すぎる!記録編をつくれ!と、当時の文部大臣が騒いだことがある(事実、記録編が別に編集された。映画的な美、は喪失)。違法残留兵問題に関しては、オリンピックと異なり、記録そのものが日本には皆無であろうし、政府官僚は、あっても秘匿し処分するだろう。のこっている中国側史料保存施設や、兵士の証言を記録として残し、アーカイブとして公開するなどの作業を誰かがやらなくてはならないのだろうか。本来なら公共の仕事である。情けない国に生まれたモンだ。

追記2: (6/1/2006)
小林正樹監督 『東京裁判』、には、『蟻の兵隊』の最後に登場した小野田元少尉のエピソードが挿入されていなかったか?

小野田はフィリピンで終戦をむかえ(おそらく当人はある時期からそれを知っていたはず)たのだが、同僚と二人で逃げ回り、地元民と戦っていた。同僚が地元民に殺されたのを恨んでいた。結局、投降したのだが、フィリピン政府は罪を問うことはしなかった。小野田は投降の条件として 元の上官からの投降命令を要求。日本から元上官がフィリピンにかけつけ、命令を下す(もう、上官は一私人なのだが)、というケッタイな茶番をやった。 ニッポン国民は大歓迎で莫大な 支援金が小野田の元に届けられた。小野田はそのスベテを靖国に寄付したはずだ。帰還した小野田は皇居にかけつけ参拝し、以後のスケジュールもすべて政府が取り仕切った。

小野田と、奥村ら、との 差はなんだろうか?

かりに、奥村らに 残留命令が出されていない、と仮定しよう。私人(ニッポンジン。まさか国籍を抜く、ということはできまい)がかってに国民党を支援した? であれば、革命政府によりとらえられ抑留生活を送ったあと帰還した奥村を、すくなくとも シベリアからの帰還兵とおなじように政府や国民は、歓迎してもよかったはずだ。 終戦後も、武器を持って地元民を苦しめたのは、小野田等と全く同じ条件なのだ。 もし、政府の投降命令に背いて革命軍と戦ったのが罪(国内法に照らしても)であるというのなら、起訴し、裁判で奥村等の罪を問うたらどうか?(どういう犯罪?)

追記3:
忘れてならないのは奥村の戦地における犯罪はまったく裁かれて、いないということだ。彼はおのれの恩給を求めて戦っているのであり、自分が戦った根拠を明らかにしようとしているのである。私的利益で動いているだけなのだ。戦陣訓を兵士に押しつけた軍や政府が罰せられなければならないのと同じく、奥村を追及する手を緩めることはできないのである。もちろん、死後も、である。墓に入れば過去のツミはチャラになる、とおもったら大間違いである。

東京裁判とは関係なく、小野田元少尉、ABC級戦犯、天皇、その他 東京裁判で裁かれたもの裁かれなかったもの、は(死者は墓場から引きずり出し) つねに、法ではなく、正義の前の、法廷に立たねばならないのである。 その作業をする気もない人間が東京裁判を批判などできるわけがない。


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