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松岡環編著 『南京戦  閉ざされた記憶を訪ねて』 (社会評論社) [戦争・原爆]

                                 

松岡環編著 『南京戦』閉ざされた記憶を訪ねて、(社会評論社、2002年8月15日)から。
この本は、元兵士(南京戦に従軍した兵士)の証言を収集したものである。
一部を抜粋する。
聞き取りした兵士の名前はトラブルを避けるため、原著でもすべて仮名にしてある。
氏名には南京戦当時の所属部隊名も記載されているが、ここでは省略する。ページを記載しているので詳細、前後関係は、是非、原著に当たって欲しい。

原著の構成は以下の通り。(数字はページ)
第一部 「南京大虐殺情報ホットライン」から元兵士の調査へ 15
第二部 南京大虐殺をめぐる背景                 31
  抹殺されようとしている南京大虐殺
  軍隊用語解説
第三部 証言
1 南京陥落直後 -- 揚子江一帯での集団虐殺     55
2 南京陥落前後 -- 城内や城門付近での虐殺     128
3 陥落後も続く集団虐殺                   220
4 中国女性への性暴力                   269
5 「徴発」と称する掠奪、放火、強制労働         336
あとがき                             365

以下の抜粋は、主としてp270以降の証言から、従軍慰安婦(性暴力、強姦)および掃蕩戦に関連する内容を抜粋したもの。証言は特定のテーマを巡ってなされたわけではなく、上記の配列は主たる証言内容に基づいておおざっぱにカテゴライズしたものであり、以下の抜粋に欠けている前後関係(証言者の所属など)、南京戦および日本軍の性格、その全貌を知るにはこの証言集全体を読むにしくはない。

再度のべるが、証言者名は原著方針によりすべて仮名である。

### 抜粋開始

●鬼頭久二(仮名)1916年生まれ p269~
聞き取り 1999,10月
(略)
掃討する時、家を一軒一軒まわり女の子をみつけるとその場で強姦した。女の子はだいたい床の下かカーテンの後ろとかに隠れていたな。見つかった時、怖いかどうか分からないけど反抗し無かったな。憲兵から止められたりしなかったのでやり放題やった。女たちは皆顔に墨などを塗っていた。何人ぐらいしたか覚えていないけど、印象に残るのは逃げている母と娘を捕まえた時、母親は我々に娘は小さいから自分をやってと頼んだ事だった。我々は「アホかー」と母をふりはらった。やる時は2,3人で行っている。もちろんやる時悪いと思ってたし、逆に日本がやられ自分たちの子ども、あるいは女性がやられたらどうなるかを考えたこともある。それでも、自分もいつ死ぬか分からない状況なので、生きている間に、天皇の命令とかは関係なく自分がやりたいことをした。そんなことは当たり前になった。私ももちろん南京で強姦を経験した。場所はどこでもいい、いくらでも空家があり、そんな家の寝台の上とかでやった。平時の時はお米を持っていって、母親に娘をちょうだいと頼んだこともある。また、難民区から女性たちが自ら出てきて、お米と自分の体を交換した人もいる。お米は私たちが食べるお米で、一回に靴下片方満タン(五合ぐらい)のお米を上げた。南京城内ではなく郊外では憲兵に見つかったらうるさいから女の人を殺したりした。自分は掃討戦の時だけ城内に入り人を殺したことがある。
 こんなことから南京大虐殺はあったと思う。悪いことしたと思っている。

●井戸直次郎(仮名)1914年生まれ p273~
聞き取り 2000,5月
(略)
南京陥落の日じゃった。城内にはいる時、城壁の外側が死体の山じゃった。足下がフワフワするんで。マッチをつけて見たら、筵を敷いたように一面に死体がぎっしりじゃった。ずーと死んどったんじゃ。どの部隊がやったかは知らんが、突き殺したんやな。兵隊やなしに、女も子どももおった。爺さんも婆さんもおった、兵隊やないもんばっかりじゃ。どこの部隊がやったのかは知らんが、新聞でよう言う”南京の虐殺”って、全く本当のことじゃが、そんなこと言えんもんで「嘘」や言うとるんじゃ。

(略)

(強姦は)そこら中でやっとった。つきものじゃ。そこら中で女担いどるのや、女を強姦しとるのを見たで。婆さんも見境なしじゃ。強姦して殺すんじゃ。もう無茶苦茶じゃ。
 陥落して二日ばかりたったころじゃ。下関あたりに挑発に出た時じゃ。民家のあるとこに米や食べ物を徴発したんじゃ。そんな時に女も徴発するんじゃ。家の長持ちの蓋を開けると中に若い嫁さんが隠れとったんじゃ。纏足で速く逃げられんで、そいつを捕まえて、その場で服を脱がして強姦したんじゃ。ズボンひとつでパンツみたいなものははいておらんで、すぐにできた。やった後、「やめたれ」って言うたんやけどな、銃で胸を撃って殺した。暗黙のうちの了解やな。後で憲兵隊が来て、ばれると罪になるから殺したんじゃ。それを知っとるさかい、やった後、殺すんじゃ。
 だいぶたって治安がよくなるとな、部隊のみんなを並ばせて、憲兵隊が強姦された女を連れてきて、誰がやったと調べたこともあった。平時と違って罪にはならんかったが「やめとけよ」と怒られる程度じゃった。罪にも何もならへんかったけど、叱られたくらいじゃ。悪いことし放題やった。十人おって九人まで強姦しとらん者はおらん。自慢話にもなっとる。
 慰安婦、慰安婦いうて三十人くらいの女をたいがいの部隊では連れ歩いておった。ほとんど朝鮮人の女じゃった。わしらの部隊でも慰安所を作ったわな。中隊やなく、野田部隊の連隊で作っておった。南京でも(駐屯していた)光華門の近くで作っておったで。
 街の中でも女が隠れとる所を良く知っとるわ。若いもんも、お婆あも、みんなやった。それからばれたらまずいから殺すんじゃ。南京に入る前から、南京に入ったら女はやり放題、物はとり放題じゃ、と言われておった。「七十くらいのお婆あをやった。腰が軽うなった」と自慢しよる奴もおった。町中に女はぎょうさん残っておった。大概穴の中に隠れておってね。慰安所作っても強姦は減らんわ。慰安所の女はだいたい朝鮮人やった。将校用、一般用と分かれておった。料金は一円か二円くらいやったかな。一般の兵隊の給料は八円やった。わしは伍長で十五円くらいやった。わしの分隊はまだましやったけど、他の兵隊は無茶苦茶や。分隊の兵隊は、ほぼみんな(強姦を)やっとった。街に行ったら”ただ”やからな。
 ほとんど女ばっかりの難民区にも行って、部屋に入ったらこれとこれ、指差して、女は選び放題やった。その場でやってしまうんや。わしの部隊でだれがやったか、やってる最中に中国の敗残兵に頭を殴られたもんがあったので、見張りをつけて強姦やった。昼夜お構いなしじゃ。だいたい一個分隊で行った。十数回は行ったやろうかな。 (略)

 倉庫のような部屋に中国人を詰めこんで機関銃で殺しよった。部屋の中やさかいどれかには当たるわな。何百人も入れてやったんじゃ。小さいところで三百人くらいやった。わしらが捕まえた奴をこうして殺したんじゃ。男という男はつかまえて倉庫に放り込んだ。兵隊も何も関係なかった。処分した後はどうしたか知らんわ。三十分かかるかかからんかじゃ。中から凄まじい叫び声が聞こえてきた。こんなこと、部隊がそこら中でやっておった。手榴弾は危ないのであまり使わんかった。投げ損ねると破片が飛んでくるよって。
 南京大虐殺はあったんじゃ。無茶苦茶やったんや。『軍恩新聞』なんかには”デマ”や言うてるけど、今から言うといろいろあるけど間違いなくあったんじゃ。

●東雅雄(仮名)1915年生まれ p278~
聞き取り 2000,6月

(略)

みんな襟章(所属によって色分け)を外して、物を奪うのさ。腹へってくたくたになっても女を見るといきり立って捕まえよったわ。恥ずかしいからもうこれ以上言わさんでや・・・・・・。部隊のもんはみんなやっとったわ。黙認じゃ。女は殴って半殺しにしたわな。抵抗されるからじゃ。若い女は腰振って入れさせんようにするからじゃ。嫁(既婚者)はやりやすかったわな。恥ずかしいからこれ以上は勘弁してください。
 抵抗するから殴りつけたんじゃ。させたもんは殺しはせんかったが、させんもんは殺したわな。
 慰安所の朝鮮人の娘は、ピー屋(業者)から、軍需工場や看護婦にするいうて騙されて連れてこられた言うとったわな。馴染みになった朝鮮人の娘から、前線に徴用され、将校にやられた後、慰安所に払い下げられたという話もきいとるわな。兵隊には立派なことを言いながら、こんな将校もおったわな。

(略)

 大東亜戦争の時、スマトラでオランダ人の女とも寝たよ。慰安所やのうて、捕虜収容所やった。そこの(収容されている)女とやったんじゃ。支那みたいにいやらしいことやったんじゃ。腹がへっとるさかい、食べ物で釣ったわけさね。日本が負けて日本に帰るとき、その二~三十人の女から”首実検”されたわな。悪いことした奴はどれかちゅうことですわ。わしは髭剃ったりしてばれんかった。ひやひやした。

 支那では村に入る前に、抵抗されたことのある村などは放火したわさ。復讐心さね。殺した支那人は十人から二十人、それ以上は覚えておらんわ。銃で殺したのは一人だけで、ほとんどは銃剣で刺し殺した。ほとんどは男じゃが、女も二、三人おったな。女を出さん言うて殺したわな。突いてもなかなか死なんもんじゃ。一時間くらいして見ると、血をぶくぶく吹いていた。「オラ、恨むんなら蒋介石恨めよ」と言うてやった。(殺すことは)何とも思わんかった。わしだけやない。みんなやっとった。若いもんばっかしじゃ、女がほしいわな。一回内地の水を飲みたい、内地の女を抱きたいと思うとった。支那の女は臭いが違うとった。台湾は台湾の臭い、朝鮮は朝鮮の臭いがあった。食べ物の違いじゃろか?(強姦した中国の女性は)十人じゃきかんわさ。三十人くらいじゃろうか、ようは覚えとらん。それは勘弁してくれ・・・・。(略)
 今、そん時の支那人が夢に出てきよる。七十歳になってからじゃ。気が弱くなったせいかねぇ。人を殺したとは言うても、他のことは誰にも言うとりゃあせんよ。戦友会でも言わん。

●田所耕太 (仮名)1916年生まれ p281~
聞き取り 2000,6月

(略)
12月15日まで攻略戦、16日から1月31日まで南京付近の警備についた。南京郊外の駐屯地にも慰安所ができた。とうもろこしの皮で編んだアンペラ小屋で寝台が置いてあるだけの狭いとこだった。女の子は十五人か十六人くらいおったなあ。みんな朝鮮の女の子やった。兵隊はみんな外まで並んで待っとった。私は下士官だったから兵隊が帰ってから行った。一円五十銭位から二円くらいしたなあ。軍票で払った。日本の金なんてひとつもなかった。分隊で訓練しているときは駐屯したところへ女を見つけてきて分隊で飼うとんや。一週間か二週間したらもう帰して替わりを捕りに行くんや。寺へ行ったらなんぼでもおるんや。寺は大きな家やから逃げて来るんや。行ったらおるんや。民家でも二階を壊したら隠れとる。二階に置いてあるわらの中なんかに隠して女の子の親が食べ物を運んでるんや。

南京入城(東京朝日新聞 37/12/8)

●三木本一平  1913年9月生まれ p286
取材、2000年11月、2001年11月

(略)
南京では、暇でほか何もすることないから、女の子を強姦した。部隊の兵隊が、勝手に出ていって、クーニャン徴発していると知っていても、将校は何も言わず黙認やった。男だったら、半年も一年も女の子と寝てないと我慢できないわな。男やったら当たりまえや、そりゃ人間やもの女の子と寝たいもんや。家に入るとな、女の子はいろいろなところに隠れてるんやで。家の中におったり、畑で隠れているのもいた。たいていの女の子は、鍋墨で顔を黒く塗っていたな。支那の女の子は風呂にもはいらんので汚いが、南京のような都会の娘はきれいにしている娘が多かったな。「ピー、カンカン(性器を見せろ)」と言うと、たいがい、どの娘も服を捲くって、おとなしく見せてくれた。国際赤十字の旗が立っている所に、南京の女の子はみんな逃げ込んでいたな。町の中には女の子はいないので、女の子捜しは、たいがい郊外へ掃蕩などに行くと見つけられる。点々とつながっている部落で悪いことをしたんや。

クーニャン捜しは分隊や数人で行くことが多いな。見つけるとな、分隊の何人もで押さえつけたんや。それで、女の子を強姦する順番をくじで決めた。一番のくじを引いた者が、墨を塗っている女の子の顔をきれいに拭いてからやった。交替で五人も六人も押さえつけてやったら、そらもう、泡を吹いているで。兵隊もかつえ(餓え)ている。女の子は殺される恐ろしさでぶるぶる震えている。南京で、二三人でクーニャン捜しに行った時、きれいな中国服を着た、国民党の偉いさんの奥さんと思うが家の中に隠れていた。「ピーカンカン」と言うと、殺されるのが恐いから全然抵抗せんで、大人しく裾を持ち上げたので、わしらはさせてもらった。

(略)

十九や二十の娘を引っ張り出すと、親がついてきて頭を地面にぶつけてな、助けてくれという仕種をするんや。助けてくれと言われても、兵隊はみんなかつえているから、だれも親の言うことを聞かん。まだ男と寝たことのない女の子を、三人も五人もで押さえ込んだら泡を吹いて気失うとるで。親がやめて!と言っても、やらな仕方がない。わしもしたけど、こんなんしても何もええことなかった。日本中の兵隊がこんなことをいっぱいしてきた。言うか言わんだけのことや、男やもの、分隊十人のうちみんなやっとる。戦争が長引くから女の子が恋しくて、他の部隊も同じことをやっていたんや。人間やったらみんな同じことをやる。

(略)

南京を守っていた中国の兵隊は一杯おってな、捕虜になった兵隊は、みんないなくなったんや。そりゃそうやで、中国の兵隊は捕虜になって殺すのは当たり前やんか。捕虜に飯食わすのは、もったいないさかい。「南京を守っておった兵隊はどこへいったんや」と嘘を言ったって、実際いたのを全部殺してしまったんやから。南京大虐殺はあった。ワシはこの眼で見たんや。わしらはどういうわけで戦争しているのかわからんで、一銭五厘で召集されて「チャンコウなんて殺してしまえ」と言っていたんやから。あの時は、中国人をなめてかかっていたな。

揚子江の港、下関に行ったときやった。港とは名ばかりでな、河に桟橋がつき出ていた。捕虜を収容している倉庫のような建物から、五十人くらいの捕虜を引っ張り出し、幅があまりない桟橋に並ばせてた。そこを重機関銃でドルルルルーと水平になでていた。やられた中国人はみんなそのまま河に落ちよった。河のそば、桟橋があるところにわしは行って覗いて見たんや、川底からすぐ足下の岸まで人間が積み重なっていた。大きな船の着く桟橋や、そうとう深いのと違うやろか。ちょうど河に浮いているボラの死体のようにぷかぷか浮いて流れて行った。始末することないわな。

南京大虐殺はあった。自分がこの眼でみてきたことや。今から振り返ってみても、南京の虐殺については、中国人をチャンコウといって下に見ていた。そんなのに自分の戦友や村の者がやられて死んでいったのを見て、かーとなって、殺して当たり前と考えていたんやな。強姦についてはな、男やから二年も女の人に接していなかったなら我慢できないもんや。それは仕方のないことや。自分の部隊も、となりの部隊もみんなやっていた。兵隊はみんなやっていた。それを人に言うか言わんだけのことや。

●大田俊夫 1913年8月生まれ 293頁
取材 2000年7月、2001年1月、11月

(略)
紫金山から降りて来た日、13日やな、揚子江の川縁で人いっぱい撃った。「殺せ」言う命令や。そんなかわいそうなことはもう言わんとくわ・・・・・。
今言う中国の婦女子が日本人にえらい目に遭わされたと怒っとんやろ。
そら命令とはいえ「掃蕩して殺してしまえ」やろ。向こうの人に本当に惨めなことしたわ。
城内に入って、男も女も引っ張ったんや、男やったら手と足を見て「これは軍隊や」言うて殺るんや、親死なして、子どもがいたら、生かしておいたらためにならんで、処分してしまうんや。わしらは、それでおかしな者をみんな川岸べりの大きな倉庫、いっぱいあるんや、そこにみんな放りこんだんや。外の部隊はどんどん刺し殺しとるんや。わしら捕まえて連れて行くだけやけどな。外の部隊そうしてるんやからやらんわけにいかんわな。倉庫満タンや。何日かして、工兵がそれに火をつけたんや。命令や言うても気の毒に皆殺しや蒸し焼きや。向こうの倉庫は煉瓦とトタンでできてるんやから、あちこちの倉庫の窓からえらい炎が出てたわ。倉庫には中国人でいっぱいでもう(入れる倉庫が)ないから、今度は、川岸べりに中国人を四列に並べて何十メートルやないわ、もっと長いわ。ものすごい数の人がびっしり並べられてたんや。こっちから重機を何機も並べて軽機も並べて、撃て!でバラバラと撃ったんや。うちの中隊だけと違う。そこにいた(連隊)全部や。生かしといたらためにならんということで、女も子どもも一緒に混じっていたのを撃ち殺したんや。全部やで。こっちから撃つとばんと飛び上がって河に飛び込むんや。岸辺は死体が折り重なっていっぱいや。そしたら、向こう岸から駆逐艦が撃っているんや。揚子江を泳いで逃げる人をみんな撃ち殺したんやで、そら惨めなことやった。わしら命令やさかいやらなしゃあない。

(略)

淋病や梅毒になったら軍医さんにしかられるんや、病院に入れられてかなんから、自分で治すのには、人間の脳みそがいいんや。 (略) 淋病言うたら小便したらじっとしてられへんぐらい痛いんや。それで、どこかでニイコの子どもを殺すんや。支那人の頭をゴンボ剣でこじ開けて飯盒(はんごう)で脳みそを炊いてたのを分隊長や分隊の者は知っていたけど、知らんふりや。食ってるのを見たんや。「これ食ってみるか」て言われたわ。女の子にいらんことやっているのは、えらいさんでもやっているのに、部隊でいっぱいやっているのは当たり前や。

(略)

南京大虐殺はあったで。ない言う人は後から入った人や。東京から来てちょっと見て回って南京に行きました言うんやか、兵隊でいた人は見てるわ。
今、中国や韓国から賠償という問題が出ているが、気の毒な人がいっぱいで、日本がえらい目に合わしたんや。文句言うのは当たり前やな。南京大虐殺はあったんやから。わしらが、揚子江川縁で、何万という支那人を撃ち殺したんやからな。

●井上益男  1915年6月生まれ  298頁
取材 1998年3月、2000年5月、2001年5月

(略)
南京陥落後、金陵女子大学の警備に入った。警備に入ったら十人で一週間交替制やった。女子大学は女の人の避難所や。そこに日本の将校たちがよく来て「ちょっと入るで」と言って、女子大の構内に入って行っては女の子を連れて出て行った。将校たちはむちゃくちゃで、女の子を連れて行って強姦した。 (略) よく出入りする部隊は三十三連隊だけではなく、それ以外の九師団と十六師団の三十旅団もいた。あの人らはトラックで来た。昼間はあまり来ない。一日だいたい二三台ぐらい来るかな。将校を含め兵隊四五人で来て、三人は銃を持っている。一日五六台来るときもある。一台に二十人ぐらいの女の子を乗せて行くこともあり、嫌がって泣く子もいた。トラックの荷台に引き上げられ、上からシートをかけるとおとなしくなった。送り返されてくる娘は少なかったな。慰安所のことは聞いたこともないし、行ったこともない。たぶんわしらの中隊が出てからできたと思う。

(略)

南京の手前で中隊長が「南京に入ったら、強盗、強姦、殺人を許す」と命令を出したのを聞いたので、わしの中隊が入城して荷物を降ろし、ぐずぐずしてるとさ「何してる、早く盗りに行かんかい」と兵隊に言われた。皆早く実施しなければならない気持ちですぐ掃蕩に入った。わしは銀行に行くのが一番良いと思って、三人一組で行った。

(略)

●坂田貞一 1915年9月生まれ p308
取材 1997年11月、1998年4月

(略)
慰安所は早くからありましたで。男は最初行くのが女の子のいる所で、下関には二か所、城内にも十か所か十二か所あったでね。対岸の浦口にも慰安所が三四カ所ありました。女の子を世話してくれるところがなかったら、もっと暴行がひどかったやろ。下関の慰安所には朝鮮の人が多かった。中国人も十二、三から二十五、六歳までの人がいました。中国人は中国人の子ばかりの建物、朝鮮人は朝鮮人の建物に集めてました。南京城内でも日本人の女性がいる慰安所は一カ所ぐらいでしたで。日本では売れない四十代の小母さんの女の人が、何人かいたようです。慰安所の女の人をピーと呼んでました。町の裏通りに入ったら、軍の許可を取ってない闇の慰安所がたくさんあってね。裏通りで立っている女の子はだいたいそんな商売淫売やった。日本人が女の子五人位連れてって、闇で商売していた。

●下山雄一郎 1916年5月生まれ 319頁~
取材 2000年11月

(略)
揚子江を上海から船で南京へ行った。
(略)
女の徴発をする者もおった。家内がある者ほど我慢できひんのか強姦してた。騎兵でもおった。女をつかまえて民家でもやっとったし、道の真ん中でもやっとったのを見た。わしらの中隊でな。やるから「やるな」と師団命令があったんや。憲兵もはいっていたと聞いてたけど、おらんやった。
女をやってしまってから殺したりしよったな。うちらの師団でもあったと聞いたし、自慢話も聞いた。道の真ん中でひとりで強姦しているのを、支那人も見ていたな。 (略) 
連隊長が「婦女子には戯れるな」とよく言っていた。婦女子はようけおった。普通の家に隠れとるわけさ。顔に鍋墨塗ったりしてな。わしらが占領したところへ入ったらな。鍋墨を塗っていれば、年寄りに見えるが、こっちには若いのだとわかってました。部落へ四五人で徴発に行くと、女が驚いて動けずにいた。敵が入ってくるからやな。部屋におるのを代わる代わる強姦していた。

(略)

戦争については、どうも思わんな。侵略とも思わん。みな外国もやっとる。英国人でもフランス人でも、支那の上海あたりにおったやろ、いろいろ。戦争はやって当たり前。
 あの時はいつ死ぬかわからへんから、あまりやられる側のことなんか考えたことはない。長々と生きたかった。生きたいわ。

●山岡敬一 1916年2月生まれ 321頁
取材 2000年12月

(昭和)11年兵ですねん。(略)連隊長は野田謙吾でしたな。(略)

十三日陥落の日、紫金城から下りてきて、わしらは中国人を捕まえると、女も男も列車の中、いっぱいになるまで詰めこんだ。貨車はようけあったな。一分隊はこれ、二分隊はこの貨車というように、分隊に貨車が割り当てられるんや。
次の日になって貨車から女も男も子どもも出して、揚子江の側の大きな広場に四列ほどに並べました。自分の分隊に割り当てられた貨車は何杯分かありました。「殺せ」と小隊長が言ったので、軽機関銃や小銃で並ばせて中国人を撃った。女の人はひとつの貨車に十人位いました。ほかの分隊も並んで撃っている。南京城を出るとすぐ河へ出られる門のところを出てすぐやった。
撃たれて死んだのもいるし、倒れているのもいる。それを兵隊が河に投げ込むんや。自分は手と足を持って生きてる人を河へ放り込んだ。また中国人を並ばせて射殺や。どんどんどんどん揚子江へ放り込みましたで。
南京では揚子江の端にずっとおりましたので、死体はようけありました。河べりにごみみたいに折り重なって浮いてたな。わしは気が弱いさかい、あまりよう見んかった。

(略)

徴発で物を盗って、中国人を殺した者も多かったです。中国の女は気がきついというか、主人が殺されても、女の人は日本兵が盗った牛なんか返せ言うて、後ろからついてくるんや。女は返せと言う、それでもわしらは運ぶものないんで、みなボンと撃ち殺した。
(略)
家の中で分隊の者が強姦して、わしは、外で歩哨、見張りやな。立たされた。きつい女で抵抗して強姦できない時は、腹立てて胸など撃って殺してましたな。射撃の目標にしたこともありました。命令やからしょうがない。木にくくりつけて射撃の練習でみんなで撃ちました。かわいそうと思いましたが命令やからな。

●中田清次 1915年生まれ p342~
取材 2000年7月

昭和10年兵です。現役は機関銃中隊にいました。昭和12年に除隊です。
(略)

中島師団長という人は剛胆な人で「支那の家を全部焼いてしまえ」と言いましてな。(略)「ここは抗日の一番ひどいところやから各部隊の家は全部焼け」とも言いました。

(略)
日本の兵隊は無茶なことしてますわ。強姦は南京戦より徐州の方がひどかったくらいです。南京でももう乱れてましたな。
(略)

日本軍による掃蕩を報じる新聞(1937/12)

### 抜粋終了 新聞記事(写真)も原著からの引用

大辞林によると:
【従軍】 軍隊に付き従ってともに戦地へ行くこと「軍医として従軍する」
【従軍慰安婦】  日中戦争や太平洋戦争中、朝鮮などアジアから「女子挺身隊」の名で動員され、兵士相手に慰安所で性の相手となることを強要された女性たち。1991年韓国などの元従軍慰安婦から補償と謝罪要求が提起された。

戦後生まれの、歴史教育を受けていないニッポンの首相やアホ議員らが <強制連行の事実>はなかった(家屋に押し入り連行した、ことはない。)などと誤魔化し言辞を吐いている(屋外ならやり放題かい?)。横行したのは強姦である。強姦と部隊による強姦目的の囲い込み、と、強制連行による「従軍慰安婦」、どちらが問題か? あったのは、当時、合法であり業者が営んでいた売春のみ、というつもりであろうか。 臍が茶を沸かす、とはこのこと。

英語においても当初、「慰安婦」を直訳のcomfort womanが使われたが、93年のウィーン世界人権会議以降は、性奴隷(sexual slave)や性奴隷制(sexual slavery)が使われるようになった。

奴隷、は近代日本ではなじみにくいコトバだ。奴隷、は19世紀なかばまで米国では制度、であった(奴隷は貴重な財産として売買された。上記証言のように、強姦した後、殺すような例を 奴隷、とも呼べまい?)。使用していても罰せらなかった、ということ。 従軍慰安婦の 実体をあらわす、適当なコトバが日本にはまだ、ない(歴史家の怠慢)。これをいいことに政治屋がコトバをもてあそんでいるのである。戦争に伴う強姦はニッポンだけにとどまらず、事例は多い、らしい(たとえば、終戦直前の満州へのソ連軍侵入に伴う日本子女のソ連兵による陵辱。これらの調査、謝罪を要求するのならまず、おのれのやったことを明らかにしなければならない)。この戦争に伴う陰の歴史を、闇に葬ってはならない。

敗戦時、証拠記録はすべて処分したのだから、その報いに政府が元兵士から証言をとり、記録を残すべきではないか。急がないと元兵士は、すべて死んでしまうぜ(それを待っているのだろうが)。

記録が残っていないのなら(強姦や軍隊による強姦目的の女性囲い込みなどを、記録に残すとおもうほうがどうかしている)、この証言録などを参考に隠された歴史を暴くべきだろう。戦後生まれの日本人に対する、政治屋、元軍人、軍官僚の、これは義務である。もし、わずかばかりでも<愛国心>、それに、個人の名誉、というものが彼らに残っておれば、の話だが。政治屋、元軍人、軍官僚らに利権以外の愛国的所作を求めるのは無理というものだろう。歴史家は、存在しない記録を嘆かず、未だ生きている兵士を訪ね回り、やった側、の証言を収集し、国民と世界に示すべきである。

なお、本書初版では、証言した元軍人の生年に誤植があり、南京従軍時12歳?前後となる!ことを根拠に、アマゾン書評で<この証言録のすべてが、したがって、虚偽>とウヨクから評されていた。第二版以降では修正されている。こういう本を製作する場合は編集者の 念入りな校正を求めたい。

上記の抜粋は本全体のわずか、の部分でしかない。
図書館で全文を読んで欲しい。無い場合は、図書館にリクエストしてください。

リンク:
南京事件の真実
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm

関連記事: 
映画『蟻の兵隊』試写評
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-05-24
十五年戦争とパール判決書
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その他、カテゴリ=福澤諭吉におさめた脱亜論・福澤諭吉関連記事。


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熊野

大いに蒙を啓かれました。関連のブログを含めて。
 中学生の頃に親しかった叔父さん(既に死去)から聞かされた話を思い出しました。中国戦線で捕虜三人を日本刀で打ち首(試し切り)にした話、刀が首に入ったとき血が刀の鍔近くまでしゅーっと上がってきてその血糊が残って刀の根元が少し錆びているその刀を見せられました。従軍慰安婦を筵小屋に入れて、兵士(数十人)を外に順番に待たせ、入り口で曹長が軍刀を抜いて立ち、時間を計る。3分毎に「つぎ!」「つぎ!」と号令をかけ、時間通り女性から離れない兵士がいると蹴っ飛ばして剥がしたそうです。将校には将校用のもう少し綺麗な別の女性があてがわれたそうです。その叔父さんは迫撃砲で脚をやられ、「名誉」の負傷で少尉から中尉に昇進して帰国しました。頭の良い人でしたが徹底した人間蔑視・人間不信の持ち主だったように思います。戦争経験のせいかも。
日本人は、まだ戦争責任・戦後責任(歴史認識の問題)について国民的総意を形成できていないというか、ほとんど話題にすらなっていないように思います。
戦後世代(私も入りますが)は、自分たちの生まれる前の戦争だから責任ないし、関係ない、と大多数が考えている。従って、余り議論にすらなっていない(私が知らないだけかもしれないが)。中々結論の出ない難しい問題ですので深入りはいたしません。眠いんで。古井戸さん、失礼いたします。
by 熊野 (2007-03-12 01:39) 

古井戸

証言、追加した。3/12
by 古井戸 (2007-03-12 19:04) 

海外逃亡者

この話題、偶然にも、今、私が取り掛かっている研究テーマに大きく関係しています。戦時中に、旧日本軍が南京侵攻時にどれだけ残虐な行為をしでかしてきたかは、様々な意見があります。個人的には、中国側のいう43万人殺害説は余りにも大げさすぎますし、かといって虐殺否定派のいう残虐行為はないという見解も、はっきりいって単なるこじつけで滅茶苦茶です。ただ、数はともかくとして、当時の日本軍の南京での残虐行為は決して正当化できるものではなく、虐殺(massacre)とみなして全く差し支えないと思います。

それよりももっと最悪なのが日本政府。日本はなんでこれまで諸外国から軍国主義の蒸し返しと散々非難されているのか、全然認識できないまま、過去に何十回と中国に謝罪行為を繰り返しているんですから。謝罪すれば過去のことは許してもらえるとでもおもっているのでしょうか?そんな甘えの精神が(favor-charming for forgiveness/exonoration) 通用するのは日本国内だけです。

当時日本が犯した戦時中の最大の罪は、南京をはじめとする非道行為の報道を当時の日本国民に対して一切知らせてこなかったことです。いいかえれば、軍国主義浸透のために、日本軍の侵攻報告や兵士たちの手柄や戦況などの吉報を中心に伝え、一般市民の死傷者や残忍行為は一切無視してきたということです。南京での日本軍の行為は当時国際的に非難されましたが、当時の政府はこれを完全に無視し、戦後まで平気な顔してました。

日本では、これまで戦争責任と戦後責任を二つに分けて議論がなされてきましたが、前者に該当するのは、紛れもなく当時の日本政府です。なぜなら彼等は天皇の名誉を名目に、国民全員に軍国主義を浸透させ、他国国民に対する残虐行為をそのまま正当化してきたからです。つまり、天皇のためなら、一般国民の痛みは一切無視するというもので、当時の政府は日本国民に対しても適用したのです。その結果、東京大空襲や沖縄の悲劇、そして広島・長崎への原爆投下という計り知れない大被害を蒙ることになりました。

これは、まさしく当時の政府が軍国主義を浸透して、一般国民の声を封じて招いた結果で、将来絶対に繰り返してはいけない大きな罪といえます。この意味での戦後責任(つまり過去の醜い軍国的主義精神の蒸し返しを防ぐ義務)があるのは、今の日本政府と国民ということになるのでしょう。

それだけに、今の日本の現状は、理想と余りにもかけ離れているといわざるを得ません。なぜなら、今の日本政府は、当時の日本(政府)のどこに問題があるのかすら全くわかっていない状態ですから。結局、日本政府は、当時の政府の罪を認めるのが怖いのでしょう。それは、つまり日本の名誉を大きく傷つけることと履き違えてしまうのですから。本当に情けないですね。
by 海外逃亡者 (2007-03-13 15:34) 

古井戸

海外逃亡者さん。
戦争責任は熊川さんへの回答通り、政治責任、説明責任といいかえるべきですが、戦前の体制では無理ですし、必要ないのでしょうね。天皇に説明すればよい。しかも、天皇は神聖にして犯すべからず。立憲君主でもない。明治天皇はまだ、君主であったが、大正、昭和になって指導力がなくなりましたね。軍部は独走するし、国家の体をなしていなかった(国体、とは呼んでいるが)。丸山真男のいう 無責任体制だなあ、とつくずく思います。これはいまでも継続している。加藤周一の言う、天皇制民主主義。正確には、天皇制無責任民主主義。
最近、昭和天皇の発言メモが発見されたといいます。敗戦は覚悟したが、軍部を止められなかった、と。こんな国に生まれたくなかった、とため息が出ます。民主主義と言っても、戦前の体制を引きずった、官僚制社会主義のようなもの。どこでどう、まちがったのだろうか? 幕末・明治維新から再度歴史をレビューせにゃならん、とおもっているこのごろです。

東京裁判、天皇制、脱亜論。。などに関するブログ記事を関連記事として追加しておきました。
by 古井戸 (2007-03-13 19:52) 

古井戸

熊野さん。
その刀、よく残ってましたね。我が家にも軍刀がありました。押入の奥。オヤジに内緒で友人をつれてきて、見せていました。とても重かった。これで人など切れんなあ、とおもった小学生の頃。
蟻の兵隊のなかでも書いておきましたが、親父が死ぬ前、病院のベッドで突然、中国の話をしだした。農家から牛を徴発した、という話。この証言集でもでてきます。あの後、その農家はどうなったか。オヤジも百姓だったからよくわかる。逆に、牛を徴用されたら?母は気が強いから、牛を返せ~!と敵の兵士の後を追っかけて、ボン、と撃たれて死ぬんだな。。と。

戦争責任、というのは曖昧な言葉で使うべきではない、とおもいます。政治責任で十分。戦争は政治行為のひとつです。必要なのは、戦争犯罪の処罰です。これを日本は自主的にやらなかった。支那の戦争でおかした膨大な犯罪行為(強姦、殺人、物資徴用など)をほったらかしにして、それで済むわけがないでしょう。なんらかの国民的規模の歪みがいつか将来、来るだろう、と考えないのは精神の麻痺です。それに、政治の説明責任。いまでもまったく国民に対してハタされていません。戦前と同じ。説明は天皇にすればよい、とおもっているのでしょう。
by 古井戸 (2007-03-13 20:51) 

熊野

コメント有難うございます。

刀の話をしますと、私が中学生で剣道を始めたときその叔父さん(剣道4段)から手ほどきをを受けました。竹刀はなぜ雑巾を絞るように上から握るのか、竹刀と違って刀の柄は丸くないから上から握らないと刀を振ったときに刃先がまっずぐ対象に当たらず、反れる。実演としてその日本刀を持ち出してきて、抜き方、振り方を教わりました。

鞘から刀を抜く時は、刀の峰を鞘に押し付けるようにして抜け。そうしないと鞘を握った手を鞘ごと切ってしまうことになる、と言われました(その後の人生で刀を抜く機会があろうとはまったく思いませんでしたが)。大円をえがいて振り、当たる瞬間に脇を締めて手を雑巾のように絞る。その指導の中で中国戦線の話になり、捕虜を切ったときの話、この刀は備前金光(長船の弟子か?)で大した刀ではないが今(昭和30年代後半)100万円位だとちょっと自慢気でした。

それから実際に人を切ったときの話になり、素人が人の首を切ると大概反れる。頭蓋骨に当たると目隠しされ後ろ手に縛られた捕虜はびっくりして血を流しながら闇雲に走って逃げる、それを鉄砲で撃った、とか。自分は腕に覚えがあるから捕虜を苦しめることなく?チャンと?切った、とか。切られた首から心臓の鼓動に合わせて血がドッドッと噴出してきたが、しばらくしたら身体の痙攣も血も止まる。

少し苦しげな淡々とした表情で叔父さんはその話をしました。それまで尊敬の念を持っていた(今も敬愛の念を持ってますが)私がびっくりしたように(非難の目ではなかった)その人を見た為か、その後二度とその話はしませんでした。ただ、戦争が人間を人間でなくすとんでもない行為だと言う強烈な印象を子供心(私の心)に残したと思います。

また、こんなこともありました。
戦後、成功して金持ちになったり偉くなったりした人の話が出ると、決まってその人が嘗てどういう悪事をしたか述べ、だから表向きと違ってロクデモない奴だと言うことを吐き捨てるように言うことがたびたび有りました。

その叔父は戦後は警察署長、銀行支店長、保守党の地方選挙の選対部長とかいろいろ経験したようなので、裏の話や人の悪事を良く知る立場に有ったのかも知れません。その割りに本人は少なくとも金持ちでも、いわゆる成功者でも、なかったと思います。人間を徹底して蔑視し、犬と子供だけを可愛いがった。だから、子供の私は可愛がられた。私と仲の悪かった犬も可愛がられた。

年の所為か少年時代の一こまを鮮明に思い出しました。
2,3日前に会った人の名前を忘れてよく恥をかくのに。

酔いと眠気でボンヤリしてます。明日からまたサバイバルしなくっちゃ。
古井戸さん、お休みなさい。
by 熊野 (2007-03-14 00:42) 

海外逃亡者

どうも、ありがとうございます。
結論からいいますと、日本語の「責任」という言葉自体、多義語で意味が曖昧になるのに、日本人の多くは、きちんとした定義をしないで議論して、話を非常にややこしくしているのがうかがえます。

「戦争責任」と「戦後責任」の二つがありますが、「責任」と定義は果たして両方とも同じでしょうか?仮に同じであれば、なぜ分割する必要があるか説明する必要がありますし、もし違っていれば、「双方の責任の定義の違い」を明確にする必要があります。さらに、「責任」といっても戦犯者などを法廷で裁くことを目的とした「法的責任」と戦争原因などの説明要求を目的とした「道義的責任」というふうに、分かれるのでなおさら注意が必要なはずです。

よく、日本語で「僕の責任」、「わたしの責任」ととか「責任を果たす・取る」
という表現がなにげなく使われますが、責任とは一体何をさしているのかを明確にせずに、勝手に解釈する人が非常に多いですね。それ故に、お互いに非難したり、誹謗中庸したりという醜いコミュニケーションを繰り返すのをたびたび目の当たりにします。

話をもどします。政府の「謝罪」という行為は「戦後責任」つまり同義的な責任(同じ過去の過ちを二度と繰り返さないというcommittment)を果たす試みの一種といえます。しかし、私の見解では、最初に謝罪を行わなければならなかったのは、政府よりもまず先に昭和天皇だったということです。私は、昭和天皇が日本国民と中国やアジア各国に対して、過去の戦争のことを正式に謝罪したということは聞いたことがありません。

天皇を法的に裁けなかったのは、宗教的地位のほかに、戦争に直接関わっていないことも主な理由になるのでしょう。ですが、軍幹部の重大な意思決定になんらかの影響力を持っていたことも事実です。彼等の暴走を止めなかったのですから、その非は免れることは出来ないはずです。その意味で、昭和天皇の謝罪は、「過去の日本の戦争に対する非をきちんと認め、その責任を果たす」という点で、非常に大きな役割を果たしていたのではないかなと思うこのごろです。それだけに非常に残念ですね。
by 海外逃亡者 (2007-03-14 12:04) 

古井戸

最後から私の感想を言うと、法的に天皇は有罪であったかどうか、ということですね?明治憲法は、テンノウハシンセイニシテオカスベカラズ、と言っているのだから、憲法の範囲内で有罪を問うのは難しいのではないでしょうか。機能的には天皇を補弼する政府や軍に責任はある。ただし、それを最終決定するのは天皇だから、ちょうど米国の大統領のように政治責任が本来はあるはずですが、<天皇>はいわゆる近代現代の政治概念からはみ出ているローカルなモノです。東京裁判でこれを戦勝国が裁こうとすれば超法規的になるし、日本国民が戦後裁いたとしてもこれは革命裁判になります。わたしは、戦勝国のいわば戦争の一部として行われた東京裁判以外に、日本人民の名前で革命裁判を開くべきだったと思います。当然、天皇は有罪であり、敗戦の責任を軍部、政府にとらせなければなりません。これはいわゆる失政、の枠をはみ出る、犯罪行為、としてとらえねばならない。それは、敗戦がわかっている(天皇には分かっていた)のに国体(天皇の地位)を保全するための連合国交渉、取引にうつつをぬかして、死ななくてよい生命、失わなくてヨイ国民の財産を失わせたからであり、とくに南洋や東南アジアに展開した多くの兵士に食糧も提供せず大部分を餓死させた責任、さらに、終戦から戦後の国民に十分な食糧を供給できず餓死させたこと、などです。つまり、統治責任を担っていなかった。戦後、45~46年にも数十万の国民が本土で餓死しています。

戦争責任、の責任はもう少し哲学的な分析が必要と思います。いわゆる戦争責任であれば、家永三郎などが、詳細な分類定義をなしています(岩波の『戦争責任』)。このなかには、当然、国民の責任もあるし、戦勝国の責任も当然ながら問われます(原爆投下、など)。

さらに、45年以前の政治(戦争)責任をなぜ、戦後生まれの我々が問われなければならないか?という根本問題があります。つまり、法律的には、親の借金を子どもは払う必要はありません。ただし、このとき親の遺産も引き継ぐことを放棄しなくてはならない。現代の法律は 国家、というものを想定しています。会社の責任は、個々の従業員に直接の責任はなくても、いわゆる法人として対外的に、各種の民事責任を背負わないと同じく、世代が代わっても法律に従って負担しなくてはならない。国も同じである、と。こういうことが意識に上らないですね。ブログで論じている『民族という虚構』小坂井敏晶はこれを根本敵に論じています。人間は本来個々人でその行為責任をとるべきである、が、共同体の一員として他者の責任も引き受けなければならない、という仕組みを作った(国家)。これは漠然として意識することではなく、教育によって自覚的に同意させなければなりません。
by 古井戸 (2007-03-14 12:33) 

熊野

「責任」の意味を明確にしないと説得力に欠けるのはその通りです。異論は有りません。概ね、古井戸さん、海外逃亡者さんのお考えに共感を覚えます。

通常、「責任」という場合、その行為が非難可能かどうか(法的または道義的に)を言うと思います。非難可能の前提として、その行為が違法であることが必要です。違法でない行為は何ら非難さるべきでないから。

 違法行為とは、他人の人権(生命、身体、自由、財産)を侵害する行為であり、その行為を避けることができたのに避けずに侵害行為をしたからその行為主体が非難可能(責任あり)ということになるのでしょう。

戦争は国家行為であり、他国人の人権(生命、身体、自由、財産)に対する組織的侵害行為です。
違法の意味を実定法(明治憲法、法律等)違反に限定すれば、古井戸さんの仰る通り国家の戦争行為を違法と断ずることはできないでしょう(自国の憲法に戦争禁止規定が無い限り)。
 しかし、違法の意味を天賦人権の侵害であるとすれば、国家による他国の人の人権侵害(戦争行為)も違法ということになります。しいて言えば自然法違反か?人道に対する罪か?

 従って、その戦争行為が回避可能であったにも拘らず、その国家行為を決断した場合は、決定者、遂行者、立案者、助長促進者などが戦争行為への関与の度合いに応じて責任がある(非難さるべき)というべきでしょう。
一般国民は徴兵・命令を拒否できない状況にあった限りで非難可能性は低いでしょうが。

米国の東京大空襲・広島長崎への原爆投下も非戦闘員に対する大量殺戮(人権侵害)で違法であり、回避可能といえるので非難可能・責任があるというべきでしょう。

戦後責任・戦後世代の責任とは何か?
国家の同一性を基礎とする考え方も有る程度論理的に納得できます。
心情的に説得的かというと、どうもシックリこない気がします。
中国人、在日朝鮮人、台湾系日本人の友人(相手はそう思っていないかもしれない、酒を飲んで議論する程度の関係)がいますが、戦後世代の責任については余り議論に乗ってこない。靖国参拝には批判的あるいは冷笑的でした。

 個人として思うことは、自分の親や祖父達が隣の家に押し入って強盗殺人強姦殺人をしたという事実があったとしたら、隣人の子孫とお付き合いする場合に、まずその事実を認め、親達の行為を詫びる事は大前提になるでしょう。自分の親達は食うに困って入ったんでやむを得なかったとか(他国・満蒙が日本の生命線)、ほかの人達(欧米諸国)もやってるでしょうとか、言うべきではない。人として恥ずかしいし、立場が逆であれば、相手を利用することはあっても、お付き合いはしたくないと思うでしょう。当然友好関係は築けない。


お二人の議論を十分に理解できてないかもしれませんが、
仕事外のことで錆びた頭を悩ませるのは大いに気分転換になります。
有難うございます。
by 熊野 (2007-03-15 23:42) 

古井戸

>従って、その戦争行為が回避可能であったにも拘らず、その国家行為を決断した場合は、決定者、遂行者、立案者、助長促進者などが戦争行為への関与の度合いに応じて責任がある(非難さるべき)というべきでしょう。

戦争行為自体は違法ではないのだから、誰の責任も問えません。(問えるのは、犯罪行為。捕虜や市民にたいする残虐行為など。)しかし、戦勝国の違法~原爆など~は問わなかった、だから、東京裁判は戦争過程の一部とおもっています。

東京裁判では、戦争を起こしたこと自体を裁いている(共同謀議)がこれは、ナンセンス。では、イラク戦争などどうなるのか。共同謀議などつみにもならないと思います。したがって、戦争責任というのは、プラスでもマイナスでもありません。政治行為には責任が伴う、ほどの意味しかありません。犯罪ではないと言うことです。

>戦後責任・戦後世代の責任とは何か?

こういう概念は存在しないと思います。
企業と社員を考えればよい。 あの製品は先々代社長の指揮で作ったのだからそれ以後の会社や役員社員の責任ではない!などという言い分は通りません。 国家がもしこれをやれば国際的な信用はなくします。企業はマーケットから信頼されない(法律もこれをみとめない)。

>隣人の子孫とお付き合いする場合に、まずその事実を認め、親達の行為を詫びる事は大前提になるでしょう

これは、全く間違いだと思います。 なぜ親の行為を子どもが詫びる必要がありますか? 親の借金をこどもが支払う必要はありません。(ただし、遺産相続を放棄する必要がありますが)
国家と国民を、親と子の関係になぞらえるのは大間違いだと私は思います。 国民が国家の責任を放棄できません。 <遺産>相続を放棄する、ことが論理的に不可能だからです。 後の世代が国家の土地や資産(文化資産など)を放棄するとことが考えられますか? 国家において。 考えられません。20年前の決定だからといって、遵守しないような国家は国際社会から認知されません。
by 古井戸 (2007-03-16 02:15) 

中国共産党

小銃、機関銃、日本刀、野砲・・・これらの武器で30万人を殺すのは、不可能です。

30万人の死体を処理するのに数ヶ月かかるはずです。
ユダヤ人収容所を見た事がありますか?ドイツ軍が計画的に、虐殺だけを目的とした施設と部隊、道具があったのに、あれだけの死体が未処理のまま放置されていました。

日本軍は30万人の死体を処理するだけの、能力はありません。数万人でも難しいでしょう。

当時20万人しか南京にはいなかったのに、どうやったら30万に殺せるのでしょう。
しかも占領後25万人に人口が増えています。大量虐殺があった場所に普通誰も戻ってこないでしょう。

南京は国際都市で、西洋人も多くいました。報道も多くいました。
当時ライカなどのカメラが、多く普及し西洋人は大抵カメラを持っていました。
またフィルムをまわす人も多くいました。
なのに、30万人が殺されたというのに、虐殺を示す写真、映像が一切ありません。
何故でしょうか。

アイリスチャンのレイプオブ南京に掲載されている、日本軍の写真は全て嘘です。
国民党軍宣伝部が捏造したものや、日本の雑誌から転用しキャプションをすり替え多ものなど、まともな写真は一つもありません。

南京大虐殺を信じている人は、結果的に独裁組織中国共産党の手のひらで踊っているのです。言論統制と言論弾圧の国から、まともな情報が出てくると思っているのでしょうか?
by 中国共産党 (2007-03-16 02:51) 

古井戸

30万人がウソ、とゆう証拠は?
それに誰も30万とゆうていません。中国の言辞にまどわされないほうがいいですよ。

30万人がウソ、ゆえに、ゼロ、ですか?
ウヨクの言辞にまどわされず、元兵士の証言を読みましょう。
数千人でも虐殺です。

建物に詰めこんで丸焼きにすれば一度に千人は死にます。複数の元兵士証言がそう言っています。揚子江川岸に並べて機銃掃射、河では駆逐艦で掃射したというているではないですか。 証言読んだのかな?

中国共産党のゆうことは信用できんな。
by 古井戸 (2007-03-17 07:29) 

古井戸

『南京大虐殺否定論13のウソ』。。という本を本日仕入れた。

概略は↓。
http://www.jca.apc.org/nmnankin/ohtani1.html

上記『南京大虐殺否定論13のウソ』。。に対する反論がある↓。

読み比べるのも一興:

http://www5b.biglobe.ne.jp/~nankin/page022.html
by 古井戸 (2007-03-17 19:15) 

あずーる

はじめまして♪ミクシィのたーちゃんところで、この記事を知り、私のブログにも転載させてもらいました。TBさせてもらいました。ほんとうに読み返すたびに、想像を絶することを戦争中とはいえ、日本軍はしていたんですね。
by あずーる (2007-03-18 03:48) 

古井戸

あずーるさんへ
米議会の議決は、ほかっておくべきのものとおもいます。肯定、否定じゃなくニッポンはニッポンで、ニッポンの名誉のために事実を調査すべきです。

原爆投下を謝罪せず、イラク戦開戦に賛成し、何万、何十万殺戮した後、どの面さげて、反戦!と叫ぶのでしょうか。血塗られた、傲慢な米国議会からの謝罪要求など、ちゃんちゃらおかしくも、せつないですね。バグダッド市民からみれば、ニッポンが原爆反対、なんてちゃんちゃらおかしい、ということになるでしょう。

一般市民への威嚇、強姦、強奪、殺害はいかなる国、民族がやったり、うけたりしても同等に扱うべきです。そうしないのは軽蔑すべき差別主義者です。
by 古井戸 (2007-03-18 09:05) 

ビルト

創作が疑われます。

著者は本当に「取材」したんですかね?取材したとして証言の裏づけをとったのでしょうか?
by ビルト (2007-03-18 10:06) 

古井戸

>取材したとして証言の裏づけをとったのでしょうか

無茶ゆーてはいけません。証言、と、ウラとは関係ありませぬ。
当時の強姦した少女、殺した市民を特定でき、生き返るなら、裏をとれましょうね。

 証言、そのものが第一次資料なんですよー。
 しかも、目撃証言、じゃなく 自分で強姦した、ゆうてるんですよ。強姦した、というひとの 裏、をどうやってとるんでしょ? 実現可能であれば、バヤイにより、出版社にかけあってみましょ。

証言そのものが、でっち上げ(つまり、証人など存在しない。。取材などしていない、など)ということであれば、出版社はつぶれるでしょうし、松岡という編集者の社会的存在は抹殺されるでしょう。

創作でない、と判明すれば(本人確認、テープの確認などができる)、どうなるんでしょ?

「このクルマがあのとき、赤信号を無視して通過したのをみました」
「このひとは、痴漢などしていません。あたし、ずっと、みていました!」
↑ どうやって、裏、とりますか?。。。70年前の出来事だったとしたら。
by 古井戸 (2007-03-18 10:44) 

あずーる

古井戸さん、私も米国議会で議論されているからというのは、どうでもいい話だと思います。日本のことは日本自身が回答をだすべきだと思います。

しかしながら、国連やアムネスティーからの戦時中の人権に関する勧告をだしているということは、米国議会での議論のニュースで初めて今回しりました。古井戸さんもご存知だと思いますが、記者クラブ制度で政府よりの大手マスコミが長年、人権意識もなく、また、なぜ戦争につきすすんだかなどの責任も長年うやむやにしてきた。海外情報にもつよい大手マスコミの国際的人権意識と、ネットの力で世界から尊敬される平和国家になるよう、日本政府が動くように願います。
by あずーる (2007-03-19 00:47) 

古井戸

日本の政治屋の見解など、ニッポン国内でしか通用しません。

国連総会の演壇で同じことをいうたら、馬鹿だと思われるでしょう。
それを知っているから、オツムが同じレベルのニッポンの記者相手にしか喋りません。

ちゃんと歴史教育を受けなおしてほしいもんです。
『南京大虐殺13のウソ』を読んでいます。これまで数カ所でウヨクと本件について議論しましたが、ウソかと思われるほど、この本に書いてあることそのままを繰り返しています。笑いました。是非ご一読を薦めます。
by 古井戸 (2007-03-19 01:54) 

ビルト

裏とれますよ。戦闘詳報や弾薬の補給に関わる記録が残されているはずです。民間人にむけて機関銃を使用した?漫画かよ、と思いました。
でっちあげはどのメディアでも珍しくないけど、出版社がそれでつぶれた例は知らないですね(笑)
by ビルト (2007-03-19 11:29) 

古井戸

ビルトさん。
ここでいう、ウラ、とは 本証言集、の、該当発言者の、該当事実のことで、一般的な(別のカ所の) 事実ではダメですよ(それなら山ほどアルでしょう)。 そういうコメントであると私は思っています。

裁判で、この証人に対し、弁護人から反対尋問がなされた場合、こういう事実です、と出せる事例は少ないでしょう(自分が強姦している写真をみせますか?それでも、演技だろう?といわれるでしょう)

たしかに出版社がつぶれた例はしらないですが(サンケイや、文芸春秋、中央公論、新潮社。。)。。森村誠一の悪魔の飽食(731部隊)では、たった一枚の写真がニセとわかり、差し替えればいい者を、ウヨクの猛烈な攻撃により絶版になりましたね(今、別の出版社からでているそうだが)。

証言にうそがまじるのは証人自体の信頼の問題ですが、でっち上げ証言(証人がいない)の場合は、出版社はつぶれるのではないだろうか。
編集者の社会的声明はなくなるでしょう。ヤラセ写真の非意図的混入とは性格が違います。
by 古井戸 (2007-03-20 10:41) 

海外逃亡者

南京大虐殺に関する論争は、基本的に米国議会は無関係です。おっしゃるとおり、原爆投下に対する謝罪をせずに、アフガニスタン・イラクに戦争をしかけ、大量の市民殺害やイラク兵への虐待行為が明るみにでている中で、
日本に謝罪するよう圧力をかけるなどもっての他です。もっとも今の米国議会は、Democrats(民主党)主体(反ブッシュ政権で、イラク戦争反対派多数)で、撤退要求を迫っていますけどね。たしかに米国議会は、幼稚な日本政府よりはずっと信用できます。しかし、テロや戦争となると基本的に話は別です。
by 海外逃亡者 (2007-03-20 14:52) 

おさふね

こんばんは。いつも興味深く読ませていただいております。
最近は良い本が少なくなりましたねえ。
まあ、陳腐なナショナリズムを煽る四流出版社の本はセンセーショナルかつ読みやすく薄っぺらいので読む気にもなりませんけどね。
その点、岩波などの近現代の考証本はしっかりしてます。
浪人時代通っていた予備校の講師が言っていた言葉を思い出します。
「(南京大虐殺で)30万人は多すぎるとか3万人くらいしかやってないとかいう話じゃない。やったことは事実なんだから」
あと、平岡正明の「日本人は中国で何をしたか」「中国人は日本で何をされたか」なども読んできたクチですので、なおさら今の薄っぺらナショナリズムの風潮は鬱陶しいと感じます。
それにしても南京大虐殺に関して否定される方々は、シンガポールの華僑大虐殺に関しては何も騒いでおりませんが、この華僑大虐殺事件も否定してるのでしょうか? それとも知りもしないし知ろうともしないのかな? そこんところが薄っぺらナショナリズムの方々の不思議ですねえ。
by おさふね (2007-03-21 03:14) 

古井戸

虐殺は日清日露でもありますね。日露では既に報道管制が敷かれていますから一般国民は、以後、軍から貰った報道しか知りません(新聞やNHKは反省していない)。

なぜ、アジア蔑視が始まったか?江戸期幕末はそんなものはなかったはずです。白人に対するコンプレックスもなかった。アヘン戦争や日清戦争で中国がおもったほどのパワーがない、ことがわかり、積年の恨みを一挙に返そうと、暴走したのか?脱亜論、を書いた福澤らに洗脳されたのか? その起原が知りたい。いまだに国民は捕らわれています。義和団の乱で実質、指揮を執った日本軍はまだ規律を守っていましたからね。軍の規則もどうして乱れたのか?支那事変(15年戦争)以降の日本兵と、大正以前の日本兵では別物のような気がする。軍の世代が二世代ずれていますからね(政治家も)。

わたしらも小学生のころ近所のマレイやシンガポールから戻ったオッサンらにいかに現地人を騙したか、を話してもらっていました。
by 古井戸 (2007-03-21 08:45) 

古井戸

>編集者の社会的声明はなくなるでしょう。

 ーー> 。。。社会的名声、はなくなる。 出版人としては再起不能になるでしょうね。

昨晩考えていたのだが、南京大虐殺できまってもちだされるのが、便衣兵の問題です。兵士が一般市民に紛れて逃げ込んだ場合、殺してかまわない、とする説。これは既に破産していますが。映画にあるような追いつ追われつの撃ち合いをしているのなら別だが、戦闘意欲無く隠れているのを引っ張り出して殺すなどもってのほか。軍規にも国際法にも違反でしょう。便衣兵であっても、裁判によってそう認定する必要があり、その場合でも兵士であるというだけで死刑などにはできません。本証言にあるように、婦女子や無抵抗の成年男子(兵であろうと無かろうと)を無差別に殺した、と複数の兵士が語っている。

南京侵入に先立って始まった無差別空爆、といい、これでは 各都市への無差別の焼夷弾攻撃、原爆に対しても文句は言えない、とおもいますね。37年の南京事件はじめ、ニッポンの蛮行はすでに世界で知れ渡っていたのだから(報道管制で知らないのは(いまだに)ニッポンだけでしょう)。NHKさえビビッテ、南京や上海重慶でニッポンがなにをやったか、報道していないでしょう。
by 古井戸 (2007-03-21 08:56) 

おさふね

重ね重ね申し訳ありません。
部屋の発掘中にこんな文章を掘り出しました。
虐殺を免れた当時17歳の少年兵の話です。
平岡正明「平民芸術」 虐殺幻化工作をつぶす作業 より
駱中洋の例
(洞富雄、藤原彰、本多勝一編「南京大虐殺の現場へ」朝日新聞社)
~上海で戦い、南京まで撤退し、南京で隊が壊滅し彼は永寧門付近の民家で中国軍の軍服を捨てて平民服に着替え、投降兵の群れに混じったがこれが処刑を待つ集団で、順送りをして河原に引き出され刺殺される。彼は民家の泥壁に穴を開けて隠れた。渡河して逃れ、紅卍社から「南京難民証」をもらい、日本軍に人夫として徴される。川辺に散乱する同胞の死体を川に放り込む仕事である。作業中、彼が着ていた国民党支給のTシャツが日本兵に見つかった。日本兵は、そんなものを着ていると残兵狩りで殺されるぞ、と他人にわからぬように脱がせてくれた。
「こんな日本兵も中には居たのです、と駱さんは言った」-本多勝一記

いい文章です。こういった事実が出てくれば南京大虐殺幻化工作をつぶすこともできるのではないでしょうか

薄っぺらナショナリズムの方々の一番の問題は「日中戦争で日本が中国に負けた」という認識が「完全に欠落」していることではないでしょうか? 経済戦でも負けていたし(当時の円ブロックレートではドル、ポンドに変換できず大陸での価値レートは暴落状態)政治戦でも負けてたのにねえ…
by おさふね (2007-03-21 10:38) 

古井戸

おさふねさん。
洞さんのその本は現在注文中、まもなく到着予定です(手ごろな本を何冊か注文しました)。ラーベ『南京の真実』も否定本が頻繁にとりあげていたから敬遠していたのですがキワモノ、というわけじゃ全然なさそうなので注文した。上記の証言のなかで。。

。。国民党支給のTシャツ。。

という箇所、ですが。否定派なら、当時ニッポン人は、英米文字は使用していなかった。Tシャツではなく、丁シャツのはずだ!この証言はニセだ!といいがかりをつけられるかも。

こういうとき、この書物全体が偽書だ!というのが 否定派のロンリです。
この証言集(南京戦)でも、ある証言者が、慰安婦のことを パンパン、と呼んでいるのを 「パンパン」は戦後使われ出した言葉だ、この証言は信用ならない!などと言い立てているらしい。否定派のいいがかりパターンはほとんど、<一部を否定して全体を否定した気になる>というやつです。

狭い南京で30万人も殺せない。。といういいがかりもいまだに多い。30万という数は証明されたと私は思っていない。ただし、南京、という場合、南京城内(市街)だけじゃなく、兵士は郊外に出かけて強姦、徴発、虐殺をおこなった、ということを忘れています。この書物で兵士はしきりに農村を掃蕩した、といっている。範囲は東京、神奈川、埼玉を合わせたくらい広くなる(関東大震災ナミです)。 この証言集(でっちあげでないかぎり)をなぜ信用しないのが不思議。

便衣兵問題も、この証言集を読めば吹き飛ぶと思います。成年男子だけじゃなく、婦女子まで建物に詰めこんで焼き殺したり、機銃掃射して揚子江に投げ込んだり、泳いでいる人々を軍艦(駆逐艦?)から機銃掃射を浴びせた、と言っているのだから。刃向かっている便衣兵ならともかく、捕虜を殺してヨイ、など論外じゃなかろうか。

捕虜を大量に虐殺したのは、食糧問題も大きいでしょう。食糧や調理道具・施設を持ち込まずに大陸侵略、を考えたているのだから、あきれたもの。徴発をやったにしても、みずから飢え死にすることなくよく戦えたな、とおもいます。

『13のウソ』に頻繁にでてくる田中正明(このひとがパル判決をもちあげているんだから、パルもたまらない)、東中野、渡部。。など社会的信用を失ったとわたしはおもっている。ニッポンだけでしょう、こんなアホ論理が通用するのは。

各国記者は本国に記事を送信しているのにそれを日本が知らない、というのもそうとうなもんです。また、米国はこの暴虐を意図的に無関心を装った。さらに731部隊問題もしらん顔を決め込んでいる。日本軍・政府の記録廃棄なども含め、証言・記録は政府のものは怪しく、個人のものが信用できる、というのが私の印象。
by 古井戸 (2007-03-21 16:51) 

海外逃亡者

田中正明は、虐殺否定派(殆どが社会的に信用されていませんけどね)の中でも非常に悪名高い人物といわれています。というのは、この人、1985年に、南京戦の大将だった松井岩根の陣中日記の記録を捏造した、という問題をおこしているからです。にも関わらず、彼がなぜこれまで、歴史研究家として、しぶとく生き延びれたのか、不思議でしょうがありません。これが海外なら、彼のキャリアは22年前にとっくに終わっています。

このほかにも、自称歴史研究家の板倉由明や、西尾幹二や藤岡信勝のように教授と肩書きがありながら、無神経丸出しの発言を繰り返している人物が多いですね。この中でも、藤岡は最悪です。彼は、米大統領のハリー・トルーマンが広島・長崎に原爆を投下したことを擁護し、さらにそれぞれの平和記念館に対しても根も葉もない批判をしています。

私はMasahiro Yamamotoの"The Nanking Massacre: An anatomy of atrocities" (2000)を過去に読みました。彼はどちらかというと反対派ですが、肯定側の意見も理解しながら、独自の論理を展開しており、少なくとも日本にいる否定派よりはずっとまともなことをいっています。ただ彼の見解でさえも、海外の読者の多くからは、あからさまな歴史修正派とみなされています。これは、彼が虐殺の存在を最初の方で述べておいた上で、後から虐殺の状況を軍事的観点にのみ収束させる方法をとったことが主な原因のようです。それでもIris Changの"the Rape of Nanking" (1997)より完成度は上です。

これに対して、日本での英訳版は田中正明の"What really happened in Nanking:The refutation of a common myth" (2000)や竹本忠雄・大原泰明共著の"The alleged 'Nanking Massacre': Japan’s rebuttal to China’s forged claims" (2000)がありますが、
正直言って読むのもアホらしいです。タイトル見るだけで中身がわかっちゃいますからね。
by 海外逃亡者 (2007-04-09 09:38) 

古井戸

否定派が通用するのは日本国内だけでしょう。
コイヅミ、という首相だった男が、いつぞや。。
 自衛隊がいるところが安全な所だ。。@イラク
などとアホ発言をしましたが、これと同じレベルの論理にもならない論理をふりかざしています。(米国の政治屋にも同じレベルのはいますが。。)。

田中正明は、パール判事の東京裁判における弁論をニッポンに紹介した人、として名が通っているのだから、パールも迷惑でしょう(まあ、パール本人の責任もありますが)。

南京虐殺否定派、従軍慰安婦否定派の使用する論理はパターン化しています(記事で紹介した本に書いてあるとおり)。 書店に並んでいる新刊も懲りずにこのパターンをくり返しているのだから。。

こういう人々は現行犯を目の前にしても、ない、ない、ない!と言い張るでしょう。強姦をやった、やられた、見た、虐殺を見た、やった、という兵士や目撃者の証言を 無視し、自分に都合のいい証言だけを拡大解釈する。

従軍慰安婦は強制されたものではjない、と、いいながら、河野談話を踏襲、という首相の分裂脳も相当なものです。これでよく日常生活を送れるのう、とただ感心。
by 古井戸 (2007-04-10 02:59) 

なるほど

あなたの敵?のサイトで皮肉としてみつけましたが、まあ、酷い無いようですね。随分多くの人が殺されたり、慰安婦というか、強姦されて殺されたわけですね(じゃあ、どうしてアイリス チャンは自殺したんでしょう?他殺か?)
私は、日本政府が慰安婦の問題で1993年から謝っているのに、謝っていないとする慰安婦側の言い分は嫌です。だって、日本人ですから。それに戦争中だから、戦後補償としては、日本はアメリカに比べたらかなり保障したことになりませんか?
また、個人的に意見をいうと、私の曾祖母は、満州で中国人に殺されたので、中国人達が日本は酷いというのと同じ気持ちです。
私は慰安婦がいなかったとは思っていません。戦争中はなんでもあり。でも悪いことをした人達の証言は、自分が悪かったから誰でもみんなやていた、これは嘘だと思います。後から中国に着たひと達、強姦や慰安婦を一切つかっていない隊の人の自伝も読みました。彼はクリスチャンでしたけれど、東京の人で、一文字山の星空というHPを作成、私もクリスチャンだから、彼の気持ちが嘘ではないことが、よく理解できました。

自分の罪を軽くするために、誰でもやったというのは事実を理解するのに、余計な言葉だと思います。冷たいようですけれど、事実の数を把握していくのは、どの隊の誰というふうに特定していくことが必要です。
ちなみに、私のサイトは英語で、日本兵の生態実験の、強姦の独白、慰安婦と無関係だった日本兵の独白、両方のせています。

その上で、戦時中の日本の被害も紹介しており、現在においてすべきこととして、日本政府の謝罪を受け入れられな気持ちはわかるのですが、日本政府が一度も謝罪していないとする特定団体の言い分は嘘と言い切ります。APもその嘘を記述していましたが、嫌いであろうと、日本政府が謝罪したことが事実なので、その一度も謝罪していない と何度も書かれていた記事が、ちょっと最近変わった気がします。日本は謝ったが、慰安婦側が拒否したと書いてある。
これは、事実です。
被害者も歴史を知らない人達もどちらもムキになっている。
どっちが頭が悪いとか、そういうことではなくて、どちらにも言い分があると思いますよ。
体験者によって違うんです。
ただ、さすがに、無かったと言う人達の気持ちは理解できません。
更に日本政府、特に安倍さんは、情けないと思います。
それから、戦争関連の裁判は、戦後の東京裁判が終了しているので、日から却下されてしまうのですが、考え直す予知はあるでしょう。

しかしながら、日本人も被害にあっている。その遺族などが訴訟を起こすと、大変な額になるでしょう。
日本の裁判所が特別に非道とも思えません。

アメリカは現在のイラクでのイギリス兵などの誤射でもさけています。私は日本は謝罪したと思うし、して当然と思います。
完全な謝罪じゃないことは理解できるし、被害者の気持ちは生きているだけに、仕方がないことです。
でも、いくら被害者でも嘘はいけません。
証言がものすごく食い違っている人がいます。
日本兵の証言の中に、電気で拷問したという内容はないですね。
知ってますか?
そういう嘘には厳しくしていくべきです。
それが、きちんと告白した日本兵のためでもあると思います。
日本人は、中国で殺されている家族がいるのに、訴訟をしませんでした。(満州事変)満州は当時ロシア領で、中国領ではなかったのに、日本が中国に侵攻したとする英語の年表があります。

ちょうがくりんの暗殺が、関東軍ではなく、ロシアのスターリンによるものだったという文章がKGBに残ってもいます。
だから、歴史を調べることは、悪いことでは無い音思います。
いかがですか?
by なるほど (2007-06-17 13:13) 

サティバ

中国のプロパガンダに踊らされているだけでしょ
南京戦の資料をろくに調べず事実の裏づけもせず発行した本で内容は作者にとって都合のいい証言のみ、しかもその証言すら歪曲している節があります。
実際、南京大虐殺肯定派からも内容が疑問視され
両方から叩かれるだけでほとんど売れていません。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm1677333
の動画で著者本人が出演していますがひどいです一度ごらんあれ
by サティバ (2007-12-21 16:13) 

古井戸

一部偽造であるから、全体が寄贈である、というのは右派のいつものやりくちです。文句があるなら証言者全員にわたって国会が調査団をつくって再調査すればいいこと。箝口令が敷かれているから極めて困難、真実を語れば仲間から叩かれる。したがって、匿名でしか証言を出せない。

体験者の証言は第一次資料です。

NHKが生存者の証言を今年放映していましたが、どういうわけか、南京事変は除かれています。

もう、そろそろ南京で闘った兵隊はほとんど死に絶えているのだから、政府も、安心して調査団を設立できるのではないかな?
by 古井戸 (2007-12-21 19:55) 

チビ

日本人が悪いと言えませんね!
日本の軍国主義は歴史を隠して国民の目と耳を閉じされます。
何時か学校の教科書が正しい歴史を記録されますかな。。。

by チビ (2008-07-12 23:40) 

海外逃亡者

日本の歴史認識観をめぐる問題には、戦後の米国の占領政策が背景として大きく関わっています。

天皇制(国体)の存続や大量の元戦犯(容疑)者に対する犯罪、及び日本軍(軍閥政府)の一般国民に対する不当な弾圧・脅迫・威嚇行為などの責任追及は、戦後における民主化と経済復興などの大義名分を元に、全て不問(忘却)にされてきました。そう、日本はアメリカによって救われた、だから過去の戦争までの複雑ないきさつは(太平洋戦争以外)全て忘れよという論理的見解ですね。

事実、米国を主体とした連合軍は、日本国民に平和と人権の重要性を強調する反面、戦時中に暗躍した輩(天皇及び皇室とつながりのある軍関係者や権力者たち)たちの、一般市民日本及びアジア諸国)に対する暴力や戦争犯罪行為には殆ど目を向けませんでした。戦時中、日本を牛耳っていた権力者や軍閥関係者の多くは、戦後生き延び、冷戦中は、連合軍の手先となって、中国に対する軍事戦略・諜報などを行っています。

米国の占領政策後は、戦犯容疑者、戦前の国体擁護者や支持者・旧財閥関係者など、旧大日本帝国時代の史観反映に暗躍した輩の多くが、政界に続々と復帰し、過去の侵略戦争を擁護し、日本軍の戦争行為(太平洋戦争も含めて)を美化し続けてきました。彼らの多くが、世代を超えて、戦後何十年も政界や教育界などに闊歩し続けながら、現在に至っています。戦後このような土壌の基盤が出来上がった要因は、紛れも無く米国の占領政策にあります。

戦後、米国に丸めこられたことは、市民側からしてみればはなはだ複雑(ある意味で迷惑に近い?)でしょう。原爆投下や大空襲による虐殺だけではなく、一般市民による弾圧・迫害・強制自決などの行為を強要し続けた軍関係者や権力者達を恩赦したという点で特に考えさせられるものがあります。このような国家による過去の犯罪行為は、戦後、超大国に守られ、何十年もの歳月を経て、世界第二の経済大国となった国に住む日本人の多くは、忘れがちになるものです。ここでは、これを罪とするしないの議論をここでするつもりはありませんが、日本の歴史認識に関して以下二つのことが言えます。

1) 戦時中に暴力や虐殺などの非人道的犯罪を経験しながら、戦後不問にされてきたまま現在に至っているという人たちは、アジア諸国にいまだにいるという事実を、日本はまだよく解っていない。解っていないどころか、そういった悲惨な経験をした人たちの人格や威厳を完全に見下している。

連合軍、共産主義下に関わらず、彼らが戦時中に旧日本軍によって受けた非人道的犯罪行為の数々は、冷戦中、及び冷戦後は全くといいほど問われていない。2000年12月の女性国際法廷になってようやくその機会が訪れたが、日本は相変わらず政府や某メディア・否定論者たちが性懲りも無くバッシングを続けている。

2)基本的に、アジア諸国に住む戦争被害者たちは、戦争観に関して戦後の日本人と同じような態度を取ることはできない。日本との基本的な文化の違い・国民性が異なる。かつ、各諸国の戦後政策が米国占領下の日本の政策と同一ではない。共産圏に入った国やカンボジアやラオスなどの独裁国家では、国民はさらに圧迫を強いられ続けるのだから、超大国に守られて生きていくという人たちとは状況が全く違う。従って、過去の戦争犯罪に対する忘却する行為は、戦後の日本と非常に似たような文化的状況を経験した国でない限り(台湾?)、望むこと自体全くの無謀。









by 海外逃亡者 (2008-07-15 13:56) 

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