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広島vs長崎問題 あるいは 戦略爆撃の思想 [戦争・原爆]

   

東京大空襲 3/10/1945

 

 

広島vs長崎問題というのをご存じでしょうか。史上初めて原爆を落とされた広島が世界で脚光を浴びるのに対し同等な被害を受けた長崎がどうしても小さく扱われることに対する、長崎関係者の嘆きです。

ずいぶんくだらない、とわたしはおもいます。さらに誤解がありますが、原爆を特別に大きく取り上げることに私は反対します。広島の原爆追悼式も取りやめるべきだと思っています。

原爆は、当時のニッポンのほとんどの大都市が受けた無差別爆撃のひとつでしかありません。45年3月10日深夜の東京空襲はその手口の悪質さからすればハルカニ原爆をしのいでいます。死者も10万人です。ニッポン全国でなぜ、東京大空襲を追悼しないのでしょうか?東京だけではありません。大阪、名古屋、工業都市と言われた都市はほとんど爆撃を受けています。

東京は焼け野原になったのにまだ戦争をやめようとしなかった、まさにキチガイです。天皇と軍部は大きな責任があります。天皇=国体を維持するためだけに、半年以上の間ニッポンを焼け野原にしてしまったのだから。8月15日は、天皇が国民に謝罪する日でなければなりません。この日、広島東京長崎その他の諸都市で亡くなった100万以上の人々に謝罪せねばなりません。

重ねて言いますが、原爆を特別扱いすべきではありません。

さらに、広島では中国からの強制連行者が働いて被爆死、死者もたくさん出たのに、広島市は追悼しようとしなかった。追悼名簿にも記載されていません。このような仕打ちをした広島市民に原爆を非難する資格は全くありません。中国、亜細亜で犯した蛮行を当時ニッポン国民はまったく知らぬか知っても当然のことと無視した。

さらに、ニッポンで米国が行った無差別攻撃の(当時の国際法違反であるが。。。米国は現在に置いてもこれを批准していない)起源は、ニッポンが中国戦線で一般市民を攻撃して戦意阻喪させるという<戦略爆撃>思想に従ったものです。ニッポンは世界で初めて重慶でこれを実施し多数の一般市民を殺した。このようなニッポンに原爆を非難する資格は全くありません。血で血を洗う戦いであった、というだけです。

現時点で原爆を非難したいならば、核兵器とか通常兵器かを区別することなく、あらゆる戦争に反対、軍備に反対する、という原理をかかげなければなりません。それ以外はまやかしです。広島は核を売り物にするのではなく(核だけに注目してもなんにもならない)あらゆる戦争に反対するという運動に変じていかねばなりません。

重慶無差別攻撃
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/jyuukei.htm

東京大空襲、3/10/1945: 史上最大の虐殺、原爆より悲惨、悪質。
http://www.ne.jp/asahi/k/m/kusyu/kuusyu.html
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu-kusyu.t.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~rk8h-od/kusyu.htm
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tokyoudaikuusyuu.htm
http://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/c/af4ce59de6dc6fd0b31c238b385a06bc
↑3/10の日記。

#####

原爆にこだわっているのではなく、原爆クラスの被害を国民に与えなければ降伏という道を取りえない国家制度を持ったニッポン、それに異議申し立てできず黙認し、あろうことか、亜細亜を侵略し蛮行を繰り返し数千万という死者をもたらしたニッポンという国を、嘆いているのです。 

ニッポンが中国亜細亜で蛮行をしているのを連合国は知っていました。中国亜細亜だけでなく国内はすでに食糧もなく政府や天皇は国民の生存など屁ともおもっていなかったのです。

終戦後45~46年にいたるも、ニッポン国民が何十万、餓死したかご存じですか?

あれ以上戦争が長引いたらニッポンジンのほとんどが餓死します。たとえば、7月以降、連合軍がニッポンを封鎖したらどうなりますか? おまえらが、降伏、というまで本土攻撃はしない。全国民が飢えるのを待つ、という作戦もありえたでしょう。
軍部、天皇の食糧が底をついてくる頃にやっと白旗を立てたでしょう。

原爆はそれを早める効果をもたらした、と言う事実を私は言っています。

原爆がまだ開発されず、そのの代わりに東京と同じく、焼夷弾で無差別爆撃を長崎、広島に実施して20万の死者を出せばよかったのでしょうか?

あるいはそれ以外にどのような道があり得ますか?
傍観ですか?
連合国(米国)の、本土上陸作戦を待ちますか?

##

やすらかにおねむりください
あやまちはにどとくりかえしませんから。

こういう言葉が広島の慰霊碑にきざまれ、右翼からよく攻撃を受けるという。原爆を落としたのは米国なのになぜ、(おれたちの)あやまち、なのか?

これは、おれたち、のあやまちなのだ。つまり天皇と軍部という(明治維新以来のつくりもの)を壊すことなく信奉し、亜細亜を侵略し蛮行をおこない、さらに自国民の餓えを放置する国体に異議もいうことのできないシステムを放置したことが あやまち、なのである。 こういうシステムを二度とわれわれはつくらない、という決意が上のメッセージである。

被害を受けたことだけを強調し、亜細亜に対して加害したことに目をつむれば天罰受けるのは当然のことである。

ニッポンに必要なのは、被爆国としての自覚だけではない。なぜ、被爆を招いたか、の追及であり、国中焦土と化すまで戦争を続け、敗戦後も数十万という餓死者を出した人間無視の国家をつくったことにたいする、加害国としての自覚である。

 

 

日本兵は中国で何をしたか:  松岡環編著 『南京戦』閉ざされた記憶を訪ねて、(社会評論社)から
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2007-03-11

日本国家は中国と日本兵になにをしたか: 映画『蟻の兵隊』試写、評:
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-05-24

 1945初冬


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ほっと一息

古井戸さん
始めまして、こちらのブログを拝読して、本当に”ほっと一息”つけました。

しかし、多いですよね。日本は悪かったが、原爆を落とす程ではなかった論者が・・・
パール判事も批難しているようで、実際は8・9割支持すると取れる文面にほとほと厄介な人達だと思ってしまします。

*今、天皇の戦争責任や原爆投下肯定はタブー視する空気がありますよね。
これをほっておくと、安倍・つくる会・・・極右翼の応援団になってしまいます。それにき気ずかせる作業をやっているのですが、大変です。

パールも駄々っ子みたいですよね。
自分は国連憲章規約を了解して参加したのに、それを指摘されると、「名指しと受け取れる内容で脱会をうながされた」と答えになってない反論したり
「日本は過ちを犯したとしながらA級戦犯は無罪」と矛盾した意見を平気で出したり、
裁判の構成員が勝者だと批難するだけで、代案も出さず、本当に大人なんだろうかと思います。

私はこの「無罪」とした点に、彼のイギリスへの復讐(鼻をあけてやる)を感じ取れるのです。

いろいろ参考になりました。
今、美しい壷日記で*作業をやっています。
by ほっと一息 (2007-08-24 15:53) 

古井戸

>イギリスへの復讐(鼻をあけてやる)。。

反=西欧ですね。おまえらにアジアを裁く資格があるか!

大川周明の生まれ変わりのような人です。 しかし、第一次大戦後、世界は戦争の愚かさを悟り(ニッポンは被害がなかったから分からない)、不戦条約を結んだ。侵略と戦争は悪、とされる風潮はあったのです。 結果、おのれの判決は、侵略、植民地OKと言っていることに自ら唖然、としなかったのか? 木を見て森を見ず。しかし、木も見ていない。。
by 古井戸 (2007-08-25 07:26) 

海外逃亡者

>>原爆追悼式も取りやめるべきだと思っています。

私は、取りやめるべきだとは思いませんが、追悼式の意味と位置づけを、根本から見直すべき時期に来ているような気がします。原爆の追悼式は、
一体、誰のために行われているのか?市や政府によって、徐々にdramatize及び私物化されはじめているように思えます。

原爆投下による大被害は「一結果」で、被爆国というイメージは、あくまでも日本の過去の戦争における文化観の一つにしか過ぎません。


>> 天皇が国民に謝罪する日でなければなりません

強いて言えば、昭和天皇は、戦後、日本国民全員に謝罪するだけではなく、彼等のために、自分の名前を利用し、一連の蛮行を正当化してきた軍幹部を、自らの手で、全て裁くべきでしたね。本来ならば、国民に奉仕すべきはずが、政治的な利害や打算の亡者達(軍幹部)に散々利用され続けたのですから。そのこときちんと認識できず、韓国に謝罪(84年、当時大統領だったChun Doh Hwanと会談し、侵略戦争中に危害を加えたことに対して)しても、まともに信じてもらえるわけがありません。これは中国への謝罪においても同様ですが。
by 海外逃亡者 (2007-09-04 10:20) 

古井戸

>私は、取りやめるべきだとは思いませんが。。

とりやめないのなら、ニッポンが加害者として亜細亜各地で行ったことそれによる一般市民死者(戦闘した兵士ではなく)をまず追悼すべきでしょう。いつ、追悼していますか?

原爆や、大都市に対して行った米軍の無差別爆撃は大犯罪だが、それと同様なことをニッポンもやった。原爆があるゆえに、加害責任はまったく忘却されています。いったいだれが、広島で働いて被爆していた強制連行労働者のことを一瞬でも想起したろうか?

喧嘩両成敗、米国も悪い(もちろん、中国、東南アジアで西欧諸国は人権など無視して暴利をむさぼった)、でニッポンの犯した罪を忘れようとしている。そのような、装置として、原爆があります。原爆の罪を言うなら、毒ガスとか、生体解剖とか(731部隊)などの事実をすべて暴露してからでしょう。

それまで中止すべきです。

アジアやアフリカの人身売買、奴隷と労働と資源の略取により西欧の今日はあります。西欧はこれに全く無自覚だが、アフリカなどはその罪を追求し続けています。アフリカ、(アジア)=後進国、という巨大な常識をまったく自然に与えられた事実、として受け止めています。これは人為的な巨悪です。

最近やっと、NHKが亜細亜各地の戦場の状況を、生き残り(80代後半から90代の老人)の兵隊からの証言により明らかにしつつある。ニューギニアなど(どこも似たような状況だが)出兵した師団の90%が餓死しています。戦って死んだ兵はほんのわずか。その間、民間の人間を殺している。

BC旧戦犯として裁かれ20年の刑期を課された飯田進というひとの証言を聴いた。ニューギニアで現地の独立運動を圧殺していたオランダ軍から裁判を受ける、ということは全く納得できないことだ、しかし、これで我々が無罪放免になったら、自分が殺した全く罪のない市民の怨恨はどうなるのか。誰かが罪を引き受けなくてはならない、として従容と罰を受けなければならないのだ、という認識に達した。飯田氏はそれにしても、ほとんどが餓死した悲惨な兵士を、名誉の戦士ともちあげて、何の責任をとろうともしないのは赦せない。この62年間だれも責任をとらず忘却しようとしている。同じことは必ずもう一度起こる、と警告を発している。おそらく80代後半とおもわれる飯田氏のコトバにわたしは感動し、こういう兵士もいたのかと救われるオモイだった。
わたしの父も志願兵として日支戦線に参加した。死の3ヶ月前の病院で深夜、ある農家に押し入って牛を奪った、ことを問わず語りにうわごとで告白した。おそらくさまざまの略奪行為をやったにちがいなかろう。それにしても、当時、参戦させられた兵士は90歳ちかくになる。生き残って帰還した兵士は周囲から白い眼で見られ外出もできなかったそうである。いまごろになって証言をとり、いかなる戦いであったのかを白日に晒すのは結構だが、遅すぎる。証言をとるのはNHKの責任でもあり、政府や国会の責任である。

      臭い物に蓋。
by 古井戸 (2007-09-06 09:36) 

海外逃亡者

あらかじめ誤解のないように申し上げておきます。以下の返答は、決して反論(disagreement)ではないことをくれぐれもご了承下さい。

私が、「追悼式を取りやめるべきだとは思わない」と前述で申し上げた理由は以下2通りです。

1.追悼するに値する人たちが現存するから。

2.追悼を行う儀式・行為自体(原爆とか大空爆とかは別として)が、コミュニケーション上、非常に意義深く、重要なメッセージを供給する役割をなすから。


 まず、1ですが、これは、天皇や軍幹部、日本軍や米軍との因果関係がなく、理由もなく、自分たちの町を、核兵器で破壊され、地獄を間の当たりにした人たち、つまり広島・長崎の一般市民を指しています。彼等の多くは、戦後も被爆の後遺症(post-traumatic syndrome)を引きずったまま、60年以上生き続けています。彼等の心身的外傷は、戦争によって受ける被害(空爆・飢餓や及び非国民弾圧によって受けるtraumaやwound)、及び核兵器によって受ける壊滅的な損害(catastrophic damage)や人身大災害(carnage)と、同時に形成されたもので、それ自体、彼等の体験を特殊なものにしています。学術専門家の中には、nuclear holocaust cultureと名づけて取り扱う人も少なくありません。
 
 勿論、被爆者(the bomb-afflicted)は、一般住民のほかにも、韓国人・及び中国人強制労働者やアメリカ人捕虜も含みます。おっしゃるとおり、彼らが被爆者の中にいたことが殆ど取り上げられていないのは、非常に大きな問題といえます。しかし、だからといって、そのことに対して、一般市民を非難するのはフェアとはいえないし、原爆などの核兵器を非難する権利を奪うことは出来ません。少なくとも、歴史的背景や理不尽な理由で、大被害を蒙った広島・長崎の一般市民に関しては、それだけの権利はあると考えられますし、追悼するに値するものがあります。日本国内での認識度と社会的重要性を考えると、追悼式そのものを中止にすることは、現実として難しいのではないでしょうか?気持ちは十分わかりますが。


 こうなりますと、「じゃあ、東京や大阪・名古屋などの大空襲による死者や沖縄での強制集団自決による死者は一体どうなるんだ!」という疑問も出てくると思います。個人的には、まさにおっしゃるとおり、それぞれ個別に追悼するべきでしょう。 ただし、原爆追悼と、どっちが先かという議論をここでするつもりは全くありません。それ自体、不毛な論争に終わることが予測されるからです。

 2番目の理由は、どちらかというと、文化的儀式(cultural ceremony, commemoration)から生じるコミュニケーション価値観や概念に焦点を当てたもので、多少専門的になります。追悼式が原爆による被害であろうと、東京大空襲であろうと、沖縄集団自決であろうと、文化的儀式行為そのものは、
存在上、修辞的コミュニケーション(rhetorical communication)として社会的に重要な役割と果たすと考えられるからです。これはアメリカ国内にても同様で、9/11やオクラホマビル爆破事件やHarricane Katrinaなどの追悼行為もそれぞれ奥深い意味が込められ、様々なsymbolやmessageを生み出し、社会的コミュニケーション現象を作り出しています。これらを研究の対象にしている専門家の文献を数多く読んでいるので、本件が、どういうものか、大方、察しがつきます。この件は、靖国神社存続や天皇制の是非、戦争責任に関する議論が戦後の日本の平和・戦争観をどのように形成しているかを知る上で重要なのと同じと捉えています。これらは、将来、専門的に研究したいと考えている分野の主な対象で、私が、こうして、古井戸さんのブログを見ているのも、何らかのつながりがあると感じたからです。

追悼行為や儀式自体には、それなりの社会的・文化的意味が交錯しながら込められ、様々なコミュニケーション現象を生じる。従って、どっちが先で、どっちが後というような議論は、非常にriskyというのが私の見解です。


繰り返しになりますが、これは、決して反論ではありません。文頭にて、句点を打たれていますが、私が前述で意図したのは、追悼式の「あり方」です。やめろとまでは言いませんが、追悼式の存在意義を、根本から問題視するべきと考えます。その理由は、古井戸さんが、ここで述べられていることとほぼ一緒です。
by 海外逃亡者 (2007-09-07 17:25) 

古井戸

1.追悼するに値する人たちが現存するから。

2.追悼を行う儀式・行為自体(原爆とか大空爆とかは別として)が、コミュニケーション上、非常に意義深く、重要なメッセージを供給する役割をなすから。

#

追悼とは死者のためにやるモノでしょうか?
わたしは生存者の慰め、としかおもわれない。しかし、実際慰められているわけでもない。
原爆で殺されたモノも、東京大阪の大空襲で殺されたモノも、苦しみは同じです。死者も家族も(死者だけ見れば東京大空襲の人のほうが苦しかったろう)。
なぜ、強姦された上突き殺された中国や東南アジアの女性を弔うとか、亜細亜各地に派遣され、栄養失調と餓死で90%が死ぬ(死なせた)日本政府と軍部への怒りに向かわないのか? その代償として、敵が落とした原爆と大空襲を恨むことなく、悼む、というカタチで 加害責任も帳消ししているだけです。

かりに、大空襲と原爆がなければどうなるのでしょうか?なんの追悼もやらずにケロリとあの戦争を忘れているでしょう。

弔いたければ、個人がやればいいのです。追悼碑は大阪にも東京にもあります。3月10日には東京で、6日には広島で、9日には長崎で、8月14日には大阪で、その他無差別爆撃はニッポンの諸都市で行われ数千から万の市民が死んでいます。どこの都市の死者がより悲惨だということはまったくない。 中国や亜細亜の市民への加害は全く忘れている国民をおもうとわたしはニッポン人をやめたくなる。公式追悼をやらなくても、義理で参加しているエライさんは追悼しなくても、爆撃場所に来ずとも、今いる場所で、いつでも追悼はできます。

2 儀式的行為の価値をまったくわたしは認めません。精神のガス抜きをしているだけです。これをとりやめてごらんなさい。年中、戦争とはなにか、を考えなければならなくなるでしょう。年一回、同じ日に、というのは全く意味のない行為です。こんなものをやらなくても、核兵器はドンドン拡散してのつけられないほどになっている。戦争は毎日くりかえされているのに全く反応しようとしない。

儀式を取りやめ、毎日を追悼日にすればいいのです。せいぜい、市長がHPにメッセージを海外に向けて発信すれば十分でしょう。中国や韓国の人々にとって原爆が落とされた日は快哉を叫んだ日でしょう。当然のことです。

ニッポン軍が亜細亜でやった虐殺、ニッポン軍が自らの軍の半分を栄養失調と餓死で失い、多数の国民を餓死させ、人間らしい生活を送らせなかった、これは巨大な犯罪行為です。それを抵抗もなく受け止めた当時の国民も犯罪の片棒を担いだのです。彼らに弔う資格はありません。

8月15日がイカサマであることは小田実が講義で述べています。大岡昇平『俘虜記』などにも書いていますが10日にはすでに政府はポツダム宣言受諾を決定していたのに、ヒロヒトの命乞いのために15日まで正式メッセージを出さず、その間、多数の国民を爆撃に晒した。8月15日の終戦記念日もとりやめるべきです。やるのなら、天皇と政府だけが亜細亜の諸国民に謝罪のメッセージを発表すればよい。国民にも謝罪しろ、といいたいところだが、それに受けるに値する国民などいやしません。

http://www1.doshisha.ac.jp/~kasano/FEATURES/2006/report-oda.html
小田実と玄順恵(ヒョン・スンヒエ)の講義@同志社 2006/6/29
by 古井戸 (2007-09-08 02:21) 

ほっと一息

横レスさせて下い。
お二人の見解を読んでいて、僭越ながら私なりに整理させていただきました。
お二人の加害責任と被害者のボーダーラインの違いがこの論争の大元だと思うのです。
他のブロブでもよく見かけるパターンです。
特に原爆がその人のラインが解る踏み絵となるようです。
古井戸さんは加害者を当時の日本人全体とくくり、*最たる被害者を強制連行された上に被爆し、追悼名簿のものせてもらえない人とし、その下が侵略され無差別殺害された国の人、その下が侵略された国全体、
その下がが日本の被爆した国民や東京大空襲原爆の市民・・・

海外逃亡者さんは加害者は日本人の上層部でくくり、次が日本の被爆者
のようです。

従って、海外さんは、原爆被害者追悼を通して被爆者が日本の戦争責任者へ、反省からくる教訓を毎年思い起こす機会となる意義を重視するのでしょう。

もしこのようなラインであるとすれば、私は古井戸さんの方が、正義感が
強く、共感いたします。

ただ私と違うのは原爆を落としたトルーマンアメリカの存在が入ってない点ですね。

踏み絵といったのは、アメリカを加害者なのか、被害者なのか、その他なのかです。
極右は、トルーマンアメリカは日本にとって加害者であり、日本はその被害者だとしています。よって東京裁判も否定し、河野談話も従軍慰安婦も沖縄集団自決も南京大虐殺も否定できるのです。

その根底にあるのが、アメリカや西欧の植民地・侵略と日本の侵略行為を50歩100歩的感覚で捉え、なのに日本は原爆をおとされたのだから、被害者だとの展開になるわけです。
古井戸さんも、当初、日本は大罪を犯してはいないが、原爆投下は肯定するとしていらっしゃたので、ご指摘いたしました。

私は、トルーマンアメリカは警察官であり、日本は凶悪的加害者であり、被害者は上記の*ですが、もう一つは日本軍によって殺害されたアメリカ兵が含まれます。
また、当時参政権がなかった日本人は被害者でもなく、加害者でもなかったとしています。
勝手な分析にて失礼だったでしょうか?





私は加害、被害の他に殉死者も加えて考えます。
by ほっと一息 (2007-09-09 15:54) 

古井戸

海外さんとわたしの差は 追悼式の政治的効果ですよ。
客観的な戦犯(戦犯とはなにか、は家永的定義でよろしい。家永も連合国にも戦犯あり、と当然いっている)ならニッポンと同等に連合国にもあります。しかし、戦勝国が敗戦国の戦犯をさばく、という枠組みは現在にもありません、もちろん当時もありません。したがって、
1 戦勝国が敗戦国を裁くという枠組みは歴史的な限界として受け入れる
2 その限界を破るのは敗戦国の倫理的な課題とし戦争裁判所あるいは国際司法裁判所の構築のリーダーをとなる。
この1,2は当然やるべきことです(勝者の裁判、として、両者無罪、などとパール判事のあやうい判決にのっかるのはトンデモないことです。
このための心理的機構として(あるいは事実でもありますが)ニュルンベルク裁判や東京裁判は通常の意味の(平時の)裁判ととらえるな、ということです。革命裁判ととらえよ、戦争の一部であり終戦処理であるととらえよ、ということです。(これは敗戦国、つまり日本やドイツの国民の 対戦勝国向けの態度です)。

しかし、ニッポン国民には加害者あるいは亜細亜国民(とくに中国韓国、東南アジア)への倫理的犯罪があります。日清戦争以後の亜細亜国民への差別感です。政治的には韓国や台湾の市民を日本兵とし、強制労働で数多くの人間を殺しています(これはもちろん戦犯です)、しかも、BC旧戦犯として刑死され、戦後は、日本人兵士なら得られる恩給ももらえない。とんでもない差別を現在も裁判所は政府意見を体現して継続し国民やマスコミははまったくの無関心です(もちろん、国民のこの無感覚は、天皇の鈍感さ、天皇を利用した米国の作戦にもよります)。ほっと、さんはニッポン国民を無罪、といっているようだがとんでもないことです。これで平気な理由が原爆を落とされて無差別爆撃をされた、という被害者意識であり、ガス抜き装置としての原爆追悼式であり、終戦記念日です。終戦記念日など天皇の命乞い成功日でしかありません。月刊現代の10月号は、天皇の人間宣言も自主的なモノでなく、米国の作文を読まされただけ、ということをあきらかにしている(立花隆)。

>また、当時参政権がなかった日本人は被害者でもなく、加害者でもなかったとしています。

意味が全く分かりません。東京裁判は純粋な地点から論じることはできません。事後法による裁判である。。などとのんきなことを言っていては歴史的な大事件は裁けませんよ。戦勝国でもない敗戦国でもない中立国から判事を選ぶべきという意見もありますが、これも空想としてしか意味を持たない(戦勝国の裁判を非難する人間が、なぜ、イラク裁判を非難しないのか?わたしは非難揶揄し続けています)。

>極右は、トルーマンアメリカは日本にとって加害者であり、日本はその被害者だとしています。よって東京裁判も否定し、河野談話も従軍慰安婦も沖縄集団自決も南京大虐殺も否定できるのです。

誤解してはならないのは 戦争行為中の両国に起こったことである、ということですよ。 平時にズドンと原爆をおとしたり無差別爆撃を落としたのと同一には論じられません。戦時である、ということは、
 勝者の犯罪は帳消しされ、敗者の犯罪のみが裁かれる
ということでありしたがって平時裁判の論理が通用しない政治裁判で裁くことになる。敗者としては倫理的に、別の決着をつけてやり過ごすしかありません。このときのやり過ごし方の問題です。双方無罪!などと言っていては、歴史の進歩というものはありません。
by 古井戸 (2007-09-10 09:18) 

古井戸

(つづき)

想定の話として、かりに日本が勝利した場合、米国の無差別爆撃と原爆は当然裁き、トルーマンを死刑にしたろう。では、日本人が行った毒ガス、生体実験、強制連行と強制労働による死者、も裁くのか?参謀本部の無策による自国兵士の無駄死には?(考えたことも無かろう)。天皇陛下ばんざ~い、となるのだろう。近代以前の天皇軍部体制がそのまま維持される。。(東京裁判はこの制度を覆すための革命裁判でもあるだ、というのがわたしの視点です。明治革命につぐだいぶ間延びした、第二革命です。外圧による。しかし、天皇制がのこるなど、不完全革命・反革命要素がのこってしまった)

NHKが最近放映している 兵士の証言がこの戦争は、ニッポンの参謀本部(裁判で全く裁かれず生き残って自衛隊の建設に米国とともに当たった)の大犯罪であるといういことを言外に言っています。南方で戦った何十万とう兵士のほとんどは、栄養失調と、餓死で死んでいます。盾、として犬死にしただけです。天皇の盾、国体の盾。

>アメリカや西欧の植民地・侵略と日本の侵略行為を50歩100歩的感覚で捉え、なのに日本は原爆をおとされたのだから、被害者だとの展開になるわけです。
古井戸さんも、当初、日本は大罪を犯してはいないが、原爆投下は肯定するとしていらっしゃたので、ご指摘いたしました。

50歩100歩はそのとおりです。悪の総和としては英国オランダをはじめとして旧宗主国のほうがもっと悪いでしょう。そのオランダにBC旧戦犯は死刑にされた。それをいかにして、納得するかに、良心的兵士は苦しんで死んだり、巣鴨で懲役刑に服した(良心的兵士、というのはたとえば、飯田進氏。ニューギニアで現地人の殺害に反対しながら上官に抗しきれず殺した。亡くなった市民の怨念は自分が罪に服さなければおさまらない、として刑に服す)。しかし、両方無罪にしては、歴史の進歩はありません(日本を裁いたからこそ、米国もベトナムでソンミなどで村民大虐殺を命じた軍人を軍事裁判にかけることができた。自縄自縛的な規則にもなった)。

>原爆投下は肯定するとしていらっしゃたので、ご指摘いたしました。

この肯定、というのを理解しておられないようです。
       しょーがなかった
ということですよ。では、6日と9日の原爆がなかったら、歴史はどうなりますか?米国は毒ガスを使ってニッポン全国に上陸する、ということはすでにわかっています(先日、NHKの毒ガス特集で米国の計画を明かしていた)。かりに、本土上陸がなく膠着状態でほかっておかれたら、日本人は数百万人が餓死しましたね、半年で。食糧などありはしないのだから(海軍や宮中は除いて)。国体護持のため国民や兵士の命など省みないトンデモナイ国においては、原爆もやむを得なかった、と認める、ということです。したがって、<やすらかにおねむりください、あやまちはくりかえしませんから>は、自己の罪を自覚した日本国民の、死者に対するだけでなくおのれに対する誓いと覚悟の声、としてきかなければなりません。

原爆は許さない、それなら、8月5日以降のどういうストーリを描きますか?
by 古井戸 (2007-09-10 09:19) 

ほっと一息

 >しょーがなかった<

と肯定の違いがよくわかりませんが、私がご指摘したのは、日本が凶悪犯でないなら>しょうがない<にしてはいけないのでは?と言っているのです。
あなたはアメリカ・西欧・日本・中国や侵略されてた国々というくくりで考えた場合と日本の戦争責任者(天皇、軍・政府・兵士・一般市民)とをごちゃごちゃにして論じるので、相手が理解しにくいのではありませんか?

原爆追悼式は生き残った日本人が死者に「あなた達の死は、日本の再犯防止の大きく役っています。今後もその死を無駄にしません」と誓う式典です。

そこから、誰が犯罪者で誰が被害者で誰が警察かが浮かび上がってきます。
それを極右はアメリカが犯罪者で日本が被害者とした見解で、関わってきますし、極左も非人道的いう視点から極右と同じです。

古井戸さんが西欧と日本が侵略に関して50歩100歩とするなら、アメリカ
が日本だけに原爆を落とした事は不当である・・つまり>しょうがない<と言ってはだめでしょう・・・と言っているのです。
by ほっと一息 (2007-09-10 11:04) 

古井戸

> 日本が凶悪犯でないなら>しょうがない<にしてはいけないのでは?と言っているのです。

凶悪犯であるし(米国が凶悪犯であるかどうかはこのさいどうでもいいこと)、原爆をおとさないと(落としても直ちに降伏しなかったが)、降伏しないような国だから、しょうがない、のですよ。

白い猫でも黒い猫でも鼠を倒すのはよい猫です。
なんであっても、ニッポンを降伏させるのが、よいことなのです。さらにいえば、戦前体制を破壊するのがヨイ猫。日本国民にそれをやれ、ってのは無理でしょう?

もっと大きい目で見れば、原爆は必ずどこかでどこかの国が使わなければならなかった運命にある兵器だと思います。これは、第一次大戦や第二次大戦をなぜやったのか、と嘆くのは意味がない、ということ。人類はやってみて、はじめてその無意味に気付いてアクションを起こす。原爆も同じです。

これは一種の諦観ですが、二度の大戦、それに核兵器を経験したあとの世代はこのように考えるのが一番妥当でしょう。かりに二度の大戦がおこっていなかったら、。。核兵器さえ科学者が開発しなければ。。などと夢想することは意味がない。


>原爆追悼式は生き残った日本人が死者に「あなた達の死は、日本の再犯防止の大きく役っています。今後もその死を無駄にしません」と誓う式典です。

ヤッテもかまいませんが、その効果として加害責任をスッポリ忘れるという重大なマイナス効果を担っています。終戦記念日も同じ。亜細亜に散った日本兵の大部分は死ななくてよかった。兵を人間と思わない軍部や政府が国民に詫びる、という視点がまったくない。こんなものを続けても無意味だと思います。

>そこから、誰が犯罪者で誰が被害者で誰が警察かが浮かび上がってきます。

警察、というのはほっとさんの独自用語で意味がよくわからないが。

純粋な意味で犯罪者(市民や捕虜に対する暴行)という意味なら、ニッポンと連合国(亜細亜を除く欧米国)は同罪です。 賠償を求めるとか、戦犯を裁く、という政治レベルのはなしなら、戦勝国が敗戦国を裁く、というシキタリしか存在し得ません。中立国が判事、検事を務め、戦勝国、敗戦國ともに公平に裁く、というシステムは現代でもできていないのだから当時、それを適用するのは無理。 もちろん、やってもかまわないが(ニッポンにその気があるのなら、堂々と国連で議論を再開すればよい。猛烈な反論を引き起こすことを覚悟で。当然ながら、東京裁判で遡上に登らなかった、ニッポンの毒ガスや、生体実験、米国による原爆や東京などへの無差別爆撃、米国やオランダがやった日本市民への暴行虐殺、捕虜への虐待なども再審されることになる。米国や中国も、賠償を求める、といいだすだろう。ニッポンは堂々と受けて立てばよかろう。中国に対しては賠償額はおおきかろうが、西欧国に対してはその逆になるでしょう)。

>古井戸さんが西欧と日本が侵略に関して50歩100歩とするなら、アメリカが日本だけに原爆を落とした事は不当である・・つまり>しょうがない<と言ってはだめでしょう・・・と言っているのです。

不当である、という意味の問題です。
倫理的には問題がある。市民に対する無差別な攻撃はゆるされない。

しかし、法的には 敗戦国が戦勝国を裁く仕組みはない(当時も、今も)ということです。 しょうがない、とあきらめるしかありません。文句があれば、勝つか、少なくとも戦争をしなければよかったのです。

もちろん、しょうがなくはない、徹底的にそれを突っ込む、というやり方はあります。上記の通り<再審請求>をやる。しかしこれをやるなら、ニッポンが加害国となった中国や台湾、朝鮮、亜細亜。。。とすでに締結した平和条約(停戦協定、賠償放棄。。)なども見直す必要があります。 サンフランシスコ条約までも。。ということになれば大混乱です。つまり、ありえないこと。事実の問題(倫理の問題)ではなく、政治決着の問題です。この程度の理不尽さは歴史の常です。

<しょうがない>といわないのであれば、米国に対し国際司法裁判所に加入させるように説得し、さらに、戦争裁判所(仮名)を設立して、敗戦国、戦勝国に関係なく公平に戦犯を裁く、というシステムを率先して提案したらどうか? イラク戦争裁判(フセイン裁判)などを非難したらどうか?
by 古井戸 (2007-09-11 02:58) 

ほっと一息

もう一度
>しょうがない<と>肯定<の違いをおしえてください。

>米国が凶悪犯であるかどうかはこのさいどうでもいいこと<
>純粋な意味で犯罪者(市民や捕虜に対する暴行)という意味なら、ニッポンと連合国(亜細亜を除く欧米国)は同罪です<

どちらなんですか?

やすらかにおねむりください
あやまちはにどとくりかえしませんから

の「過ち」は古井戸さんは「犯罪を犯した」との解釈ですか?
それとも他の解釈ですか?

家永氏はなぜ15年戦争としたのでしょうか?
彼は不戦条約や国連に関わりだした頃の日本の柳条湖事件からを問題にし始めているのはご存知ですよよね?

当時のトルーマンアメリカや西欧がどのような行動をとっていたか、またその他の締結国や加盟国が下した判断はどのようなものだったかもご存知ですよね?

それらを総合的に考えて結論を出していますか?
by ほっと一息 (2007-09-11 10:02) 

古井戸

アヤマチを二度と繰り返さない、とは戦争を二度と繰り返しません、という意味に私は解釈しています。(この、原文を起草した人が何を意図したかどうか、ということはあずかり知らぬことです)。

あやまち、とは戦争のことです。原爆とか無差別爆撃とか狭い意味に解してはならない、とおもいます。

この主語は明記されていないが漠然とニッポン国民(あるいは人類全体)ととればいいでしょう。主語が明記されていないのだから(たとえば広島市長、とか国連事務総長、とか。市議会や国連総会で宣言として可決されたわけでもない)、政治的には効果のない文言であることにはまちがいありません。

15年戦争、がここにどう絡むのでしょうか?全く関係ないですね。戦争一般を否定しているのだから。(15年戦争とは鶴見俊輔が言い出した言葉で家永氏はそれを追認している、と理解しています。日中戦争と太平洋戦争は一連のものである、といういまとなっては普通の考え方です)

>彼は不戦条約や国連に関わりだした頃の日本の柳条湖事件からを問題にし始めているのはご存知ですよよね?

問題とはなんでしょうか?家永がそもそもなぜ、この件にかかわるのでしょうか?

>当時のトルーマンアメリカや西欧がどのような行動をとっていたか、またその他の締結国や加盟国が下した判断はどのようなものだったかもご存知ですよね?

意味不明の質問です。主題と関係ないことを述べないで下さい。いいたいことがあれば具体的にお願いします。

原爆を落とされてもしょうがない、とは、原爆を悪と前提した上での言明です。原爆が善、とみとめられているのに、しょうがない、というのは日本語として意味をなしません。なにがしょうがない、かというのは何度も言いますが、当時の露西亜とか米国の(ほんとかどうかもわからない)後付けの理論をそのまま押し頂いているのではない(久間とは違う、ということ)

ニッポンの天皇・宮中一派や政府、軍は国民の生命や財産のことは全く考慮していない。そういうニッポンに降伏を決断させるには原爆が大きく寄与した、したがってこれを追認する、といっているのです。愚劣な政府を持てば、国民は余計な出費を強いられる、苦労をする、ということですね。

>それらを総合的に考えて結論を出していますか?

総合的に考える必要などありません。新しい歴史の事実はドンドンでてきます。原爆投下にはトルーマンは関与していない、という最近の事実を読んだ記憶もありますが、そういうことも関係ありません。

ほっとさんが、<総合的>に考えるのは自由です。ニッポン国民は当時総合的に考える余裕などナカッタし現在もない。原爆(あるいはそれ相当の被害)を受けなければニッポン政府(天皇)は降伏しなかったろう、ということです。すでに、8月10日にポツダム宣言受諾を受け入れておきながら(連合国はすでに勝利を発表している)、国体護持交渉だけのために時日を費やして、多数の国民を見殺しにした。もし、原爆がなければ、半年も降伏は延びその間国民の餓死は数十万に及んだでしょう。
by 古井戸 (2007-09-11 11:52) 

ほっと一息

>あやまち、とは戦争のことです<
絶対平和主義者(極左)が日本の戦争責任をあいまいにしてしまっている。(もちろん極右と戦っている人達ですが)
「戦争がいけない、すべて戦争のせいにする。」
日本の戦争責任資料センターの方々の文言を知ってますか?まさかこの人達の足を引っ張るような人ではないですよね。

人質をとってたてこもり抵抗してくる凶悪犯を警察が警察官の犠牲や人質の命を優先して、やむなく凶悪犯を撃ち殺すことも一種の戦争ですが、そんな戦う争いもだめなんですか?平和無き正義より正義なき平和派ですか?

まさか正義あり平和なんて空想的理想主義者ではないですよね?

過ちを→戦争と変えますか?
そうしなかったことに現地の人の当時の思いを感じませんか?

私の知り合いの被爆者は、「原爆を落としてくれてありがたかった」
とまで言ってました。
詳しくお知りたければお教えしますよ。
by ほっと一息 (2007-09-11 19:41) 

古井戸

まったく。。どんどん勝手にずれていなさるね。

>過ちを→戦争と変えますか?

>そうしなかったことに現地の人の当時の思いを感じませんか?

いったいどうかされましたか?御身になにかあったのですか?。。

 あやまちとはなんのこと、とあなたがたずねたから、解説したまでです。あやまちはあやまち、というしかないですね。そういう反論をなさるのなら。 
その背後には、もう戦争はイヤだ、という考えがあるのは明らかでしょう。

>私の知り合いの被爆者は、「原爆を落としてくれてありがたかった」とまで言ってました。
詳しくお知りたければお教えしますよ。

驚くべきことでしょうか?その発言が。わたしの母は原爆直後、ヒロシマ市内に入り、赤ん坊を背負って親戚捜しをやったが、その会社は原爆破裂の直下だったため行方不明。しかし、親戚含め、原爆に恨み言など聴いたことがない。小さい頃から私にはこれが大疑問。(母はその翌年結婚し、最初に身籠もった私の姉となるべき人は死産だった。わたしは原爆直後市内を歩き回ったのが関係しているのじゃないかと疑っている(母に尋ねたことはいまだにないが)。なぜかというと、私と同年代で、同じような境遇の人を何人も知っているから)

まさに、わたしのいう「しょーがない」の世界ですよ(しょーがない、の内実はひとさまざまだろうが)。戦争が終わってよかった、というのが当時の人の正直な感想でしょう。

あやまち? 母さん、そりゃ母さんらの責任だよ、とまで私は言わない。あやまち、とは過去を詮索せず、他人任せにするのではなく、ワレないし我々がすべてを引き受けるという無言の思想です。わたしは、それを尊重します。
(BC級戦犯の一部に、納得詰めで罪を引き受けた人々がいるがその人々と同じ)

戦後生まれのわたしは多少の歴史本を読んだり、母などはしりもしなかったろうポツダム宣言受諾だの、戦争で国土や国民の生命財産が破壊されようが無頓着な天皇の命乞い、だのを知っているつもりになっているから、後付けの解釈を貼り付けているだけです。

これでおわります。
by 古井戸 (2007-09-12 05:40) 

ほっと一息

>どんどん勝手にずれていなさるね<
どのようにずれてます?
>いったいどうかされましたか?御身になにかあったのですか?<
バカことをいわんで下さい!・・・と続くのですか?

>東京裁判は「無法の正義」革命<
としていらっしゃるのになぜ国際連合規約に反するか否かの調査団(リットン)の判断を重要視するのですか?

A級裁判で唯一納得して処刑台に上った広田 弘毅は外務大臣と総理大臣をやった人ですが、その理由を「日本は国際法違反だった」としています。

>母さん、そりゃ母さんらの責任だよ、とまで私は言わない<
日本人全部を戦争責任者としている古井戸さんは言わないと、身内びいきな不公平な見解となってしまいます。

私は中国のいう2分論(日本人の一部の人が加害者でその他の日本人はその被害者)は有り難いけれど、日本人としてそうだ、そうだとは言えない。
なぜなら、反省が薄まるから・・・
被害者でも加害者でもない。。。しかし参政権をもっている現在は、どちらかになることの重みをいつも意識しながら生きていこうと思うのです。

家永氏が「アメリカに戦争犯罪がある」とする文面はどこに掲載されてます?

家永三郎集12巻 評論1(15年戦争)という本が手元にありますが・・

原爆投下の責任を読まれてのことですか?
原爆の無差別爆撃も日本が中国の重慶に5年間(215回・・・これは他の資料)無差別爆撃をやったことが端を発しており、その延長線に原爆投下がある。
また非人道的残虐行為も731部隊やアウシュビッツを引き合いに出し、
日米開戦を始めた日本が原爆投下を招いたやハルノートを拒否したことや天皇の戦争継続責任などを上げ、つまり日本国家は自らの主体的決定の為に原爆投下をまねいた・・・などなどからアメリカを戦争責任国当然的な判断をしているとは思えないのですが・・・
by ほっと一息 (2007-09-14 16:56) 

海外逃亡者

なんだか、いつの間にか激しい議論になっていますね。念のために、お二人に対して確認したい点がいくつかあります。

まずは、古井戸さん。

>>追悼とは死者のためにやるモノでしょうか?

基本的には死者と生存者です。

>>(追悼は)生存者の慰め、としかおもわれない。

現在、未来を生き抜いていかなければならない彼等にはhealingが必要です。これを取り除いたら、彼等には一体何が残るのでしょう?

>>実際慰められているわけでもない。

それはどうでしょうか?肉親や親族・友人を失った人でないとなかなかわかるものではないですよ。9/11やHurricane Katrina、Oklahoma Bombingのような壮絶な事件を体験した人達に直接聞くとかしないかぎりは。

>>中国や亜細亜の市民への加害は全く忘れている国民をおもうとわたしはニッポン人をやめたくなる。

だから、過去の歴史(南京大虐殺や三光作戦をはじめとする日本のアジアに侵略戦争)を一から学び、正しく認識する必要があると考えます。これは、家永風にいえば「戦後責任」になるかと思いますが。本多や家永のみならず、Takashi Yoshidaの"Remaking of Memory of 'the Rape of the Nanking' "(2006) のようなqualityの高い作品を一体どれだけの日本人が読んでいるのでしょうか?


>>精神のガス抜きをしているだけです。

私は単なるガス抜きとは思いません。追悼や賛辞に関係なく、儀式的行為というのは、過去の出来事を、現在に反映させながら、政治的及び文化的意味を追求していくのが、本来のねらいです。これは、John Bodnar(1992)の"Remaking America:Public Memory, Commemoration, and Patriotism in the Twentieth Century"やKendall Philips(2004)の"Framing Public Memory"にもはっきりと書かれています。どちらも学術的な本ですが、機会があればページをめくりながら読まれて見ることをお勧めします。

>>日本政府と軍部への怒りに向かわないのか?

当時の日本国民に、歯向かいたくても、政府に逆らいうるだけの力があったのかどうかは疑問です(私はなかったと思いますが)。戦時中、周りや政府から非国民呼ばわりされ、売国奴などと誹謗・中傷され、処刑される危険性がはらんでいれば、歯向かえなくても無理ありません。この点に関しては、実際にどのような状況だったのかを裏づける資料がまだ不十分のような気がします。

>> その代償として、敵が落とした原爆と大空襲を恨むことなく、悼む、というカタチで 加害責任も帳消ししているだけです。

この結論を導き出している論拠が、いまひとつわかりません。国民が政府に歯向かわなかった、だから、戦後、政府にいいように騙されたいう論理に聞こえます。

>> 年一回、同じ日に、というのは全く意味のない行為です。

儀式的行為に関する見解を前提としますが、個人的にはそうは思いません。では、なぜ、当時から十年以上たった阪神・淡路大震災や東京サリン襲撃事件を、日本国民やメディアは今でも振り返るのでしょうか?これは、9/11やHurricane Katrinaなどの追悼行為に関しても同じ様なことが言えます。

>>とんでもない差別を現在も裁判所は政府意見を体現して継続し国民やマスコミははまったくの無関心です (もちろん、国民のこの無感覚は、天皇の鈍感さ、天皇を利用した米国の作戦にもよります)。

括弧内のお言葉ですが、おっしゃっていることと矛盾を引き起こしますよ。

>> それを抵抗もなく受け止めた当時の国民も犯罪の片棒を担いだのです。

ここが曲者ですね。「犯罪の片棒を担ぐ」とはいったいどういう意味でしょうか?

最後ですが、古井戸さんは、下の2件のうち、どちらを強調したいのでしょうか?

1.日本(政府・メディア・及び国民全般)に原爆を非難する資格はない。
2. 原爆を結果論として取り上げるのではなく、被爆を招くまでの過程をつ追及していくことで、無謀な戦争を続け、大多数の死者を出すという人権無視の国家を作ったことに対する代償を償っていくべきである。

私には2の方が強いように感じます。1はcase-by-caseで追っていかないと判断できませんが、2に関しては全く異論ありません。
by 海外逃亡者 (2007-09-15 05:55) 

海外逃亡者

>>>>>>

<以下続き>

次にほっと一息さん。

>>お二人の加害責任と被害者のボーダーラインの違いがこの論争の大元だと思うのです。

あなた、なにか勘違いなさっていませんか?私と古井戸さんの違いは、古井戸さんがおっしゃっているように、(追悼式を始めとする)儀式的行為の社会文化的役割と効果ですよ。私は、古井戸さんとは基本的に対立していません。大論争を作っているのは、むしろあなたですよ。

>> 日本の戦争責任者へ、反省からくる教訓を毎年思い起こす機会となる意義を重視するのでしょう。

これは何を元に判断なさっていますか?原爆の追悼が戦争責任者への反省を思い起こすために必要とは、どこにも書いていませんよ。第一、追悼式を行っているのは政府です。儀式的行為に問題が生じるとすれば、それは「誰が」が行っているのかによると思います。Bodnar(1992)曰く、"Public memory creates a tension between 'official account' and 'vernacular account.' "つまり、政府と民間レベルによる効果的意図の違いが浮き彫りになるということ。私が懸念しているのは、前にも書いたように、被爆のmemoryが政府によってdramatizeされ続けること。だから、根本から考え直す必要がある。古井戸さんは、中止する。これが違い。

>> 海外逃亡者さんは加害者は日本人の上層部でくくり、次が日本の被爆者のようです。

ここでいう、日本人の上層部とは誰をさしています?軍幹部あるいはそれに従属する軍の高官?被爆者や基本的にどこに所属していますか?この質問の意図は、単に日本人といっても、社会的地位や身分などの階級によって、根本的に果たすべき政治的及び社会的役割が大きく異なることを思索したものです。さらに、加害者は、誰が誰に対して「何の危害」を加えたのでしょうか?

>>加害者を当時の日本人全体とくくり、*最たる被害者を強制連行された上に被爆し、追悼名簿のものせてもらえない人とし、その下が侵略され無差別殺害された国の人・・・

強制連行して被爆したことと、追悼名簿への記帳を拒否される...。 日本国民がこれらをやったのですか?これらの行為と日本国民の因果関係が不明確です。さらに、「侵略され無差別殺害された国の人」とありますが、アジア諸国に侵略したのは日本軍ですよ。

>> 私は古井戸さんの方が、正義感が強く、共感いたします。

 ここで、あなたのいう「正義感」の定義が全くわかりません。何に対する正義でしょうか? 


最後に>

以上、こちらとして必要なことは全て述べました。あとは、お好きなようにご討議ください。それでは。
by 海外逃亡者 (2007-09-15 05:56) 

古井戸

長くなりそうなので分割する:

まず、ほっとさんへの反論:

1 アヤマチは二度と。。という追悼文の解釈だが、まず、ほっと、さんの見解を述べたらどうか?わたしの解釈への異議をのべてもしょうがないとおもうが。このような短い追悼文(誰が起草したのか知らないが)に、当時の日本人から現代の日本人がさまざまな解釈をするのは避けられないこと。ほっとさんが、どのような解釈をするのか参考のために知りたい。原爆投下直後からさまざまな(当時の誰も知りえない事実)が公開されたとしてそのような事実を解釈に持ち込むのは必須の要件ではないとおもう。

で、わたしはこれを起草した人は、あやまち、を単に
           ひろしまに原爆が落とされたこと
だけに拘泥しているのではなく、国と国が戦争をし、兵士(兵士の過半数が栄養失調や餓死、人間同士の食い合いまでおこった、などということは知っていなかったろう。日本がアジアで行った暴行も知らないだろう)が死ななくていい死を死んだ、ということを指している、と解釈した、ということです。もちろん、全国で怒った無差別爆撃も含まれるし、中国で日本がおこなった無差別爆撃も含まれる。起草者が、あ、それは対象となっていません、というだろうか?もしそうならこんな メッセージなど糞喰らえ、である。

>>東京裁判は「無法の正義」革命<
としていらっしゃるのになぜ国際連合規約に反するか否かの調査団(リットン)の判断を重要視するのですか?

リットンにわたしが言及しているのは、その融和的内容からですよ。満州における既得権は認めています。31年の侵略行為を認めない、といっている。当時、この内容を精一杯日本の立場を認めたものとする日本人はすくなくない。ここで侵略行為を凍結する、という立場もあり得たのです。日中戦争が本格化する37年までの間には中国との間には小康状態(平和的関係が訪れた)があった。15年戦争と呼ぶのはこの面では誤解を与える(小林英夫『日中戦争』現代新書の冒頭)。

>>母さん、そりゃ母さんらの責任だよ、とまで私は言わない<
日本人全部を戦争責任者としている古井戸さんは言わないと、身内びいきな不公平な見解となってしまいます。

そうでしょうか?では、日本人全体(治安維持法で刑務所に入っていた、たとえば、共産党系の人々などを除いて)を裁判にかけますか?市民は愚劣な考えをもっていたとしても裁判にはかけられないし、罪を問わない、というのが私の立場であり、歴史の流れではないでしょうか?どんなに愚劣であってもです。逆に、広田などはどんなに反戦、厭戦的思想をもっていても責任をとる立場にあった、ということです。身内びいきではありません。当時の国民はだいたいそんなものですよ。無差別爆撃を受けた70都市の市民や親戚が米国を訴えたりしていますか?あるいは政府補償をもとめて訴訟を起こしましたか?

>家永氏が「アメリカに戦争犯罪がある」とする文面はどこに掲載されてます?

著作集12巻をおもちなら、たとえば、p170からの「原爆投下の責任」がズバリそれでしょう。さらに、p176から178をシッカリ読んでください。日本の責任をのべています。その最後を引用すると、
「原爆投下は、アメリカによる非人道的残虐行為として厳しく糾弾せられねばならないのはもちろんながら、そのような惨劇を招き寄せた日本国自らの責任を忘却することがあったならば、歴史の教訓から何ごとも学ばずに終わる結果となるのを免れないであろう」これは1991年の文章。

さらにブログ記事にも書いた家永『戦争責任』にも、連合国の戦争責任に、一章をさいています。

>日米開戦を始めた日本が原爆投下を招いたやハルノートを拒否したことや天皇の戦争継続責任などを上げ、つまり日本国家は自らの主体的決定の為に原爆投下をまねいた・・・などなどから。。

どこまでさかのぼるかですが、15年戦争、として捉えるのではなく、リットンがくる前後は停戦にもちこむ大きなチャンスだった。日中戦争は作戦を誤っていた(これは小林の著書に詳しい)。

日米戦争が始まって1年以降、すでに戦いの帰趨は見えていた。米国の東南アジアでの反攻が開始され、日本本土への爆撃が始まった時点、1945年の始めが降伏のチャンスだった、ということ。国体護持、だけのために好き放題の攻撃を招いた。

小さなことだが、毒ガスを日本はもっていた(もちろん、英米は知っていた)が、東條英機は廃棄させた。それは日本がこれを使えば、英米も報復として対日戦線に大量に毒ガスを使用することを恐れたから。つまり、日本も国際条例違反などが問題ではなく、何でもあり、だということは自覚していた。
by 古井戸 (2007-09-15 08:51) 

古井戸

海外さんへ。まず前半。

何度も言うようだが、追悼をやるのは個人の勝手です。われわれは、交通事故にあった家族、自然死した家族を、家族で追悼している。それで十分ではないか。第二次大戦の場合、日本兵を殺したのは敵、でもあるが、日本自身だ、とわたしは認識している。天皇や政府軍部がお詫びを兼ねて追悼するのは彼らの勝手。もともと、靖国は天皇が、天皇のため(国体のため)に死んだ兵士(敵方は含まない)を祀った私的なものです。靖国はしたがって、皇居内に移設すべき。

これですべての回答は終わったようなものだが、気付いたところを:

>彼等にはhealingが必要です。これを取り除いたら、彼等には一体何が残るのでしょう?

healingなどは個人がやればよろしい。公的にやりたいのなら、まず、戦争の原因と大量破壊をやり、兵士でなく、アジアの市民に対して行った暴虐を詫びてからにしてほしい。

>どちらも学術的な本ですが、機会があればページをめくりながら読まれて見ることをお勧めします。

読んでいないが、加藤周一の親友である、精神科医Lifton氏や、ジョンダワーの「容赦なき戦争」の流れではありませんか?まず、西欧人に読んでもらいたいですね。

>阪神・淡路大震災や東京サリン襲撃事件を、日本国民やメディアは今でも振り返るのでしょうか?これは、9/11やHurricane Katrina。。

これらと、東京大空襲、原爆を わたしは、全く別物と見ます。天皇や政府の責任の有無、です。死者だけを悼むのなら市長などが出てくる必要はない。各家庭でやれば十分。公的にやるのなら、戦争行為、というものに対する責任をまず詫びてからしか、始まらない。

(英米のアカデミックな本ではなく、日本の元兵士、BC旧戦犯で裁かれた人の本が有益なことをわたしは知った。)

海外さんが、なぜ、このような追悼にいれこまれるのかわからない。
少なくとも、戦争防止には何の寄与もない。追悼式の翌日には、戦争のことなどケロリとわすれる。
by 古井戸 (2007-09-15 09:07) 

ほっと一息

海外逃亡者さんへ
>念のために、お二人に対して確認したい点がいくつかあります<
>こちらとして必要なことは全て述べました。あとは、お好きなようにご討議ください。それでは<

あなたの最初と最後の言葉です。
大人として、これは有りですか?
もし、有りならこのような議論に参加する資格はないと思いますが・・・
by ほっと一息 (2007-09-15 09:10) 

古井戸

ついでだが、先日、中島『パール判事』(白水社)を読んだが、予想通り、期待はずれの本だった。

p247.彼が何度目かに来日して、広島の平和記念公園をおとずれ、慰霊碑の『やすらかにおねむりください、あやまちは。。。』の文章の意味が明確になると、パールは憤りの表情を見せた、という。

「この碑文に「過ちは再び繰り返しませんから」とあるのはむろん日本人をさしていることは明らかだ、それがどんな過ちであるのか私は疑う、ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたのは日本人ではないことは明瞭である、落としたものの手はまだ清められていない(中略)過ちを繰り返さぬということが将来武器をとらぬことを意味するならそれは非常に立派な決意だ、日本がもし再軍備を願うなら、これは犠牲者の霊を冒涜するものである」(中国新聞、1952,11/4)

後半は正しい。前半はこの追悼文を起草したものの思考を全く理解していない。この報復思考、がパール判決文を貫いている。

当時の浜井市長(ながく広島市長をつとめた)は、次のようにコメントした。
「過去の戦争は明らかに人間のあやまちであった。私はあの碑の前に立つ人々がだれであろうと「自分に関する限りはあやまちは繰り返さない」という誓いと決意を固めることが将来の平和を築く基礎であり、また現在生きている人たちがそれを実践したときはじめて地下の英霊は安らかに眠ることができるものである、その意味のことを短い文章に書いたものである。碑の前に対してだれの罪であると個人をつかまえてせんさくする必要はないと思う。あの碑の前には世界各国の人が立つだろうと私は思う」(中国新聞、1952,11/4)

パールなどよりはるかにものの分かった大人の意見である。わたしは浜井の意見を支持する。これは絶対平和を希求したらしいパールなども共有していいはずなのになぜ理解できなかったのかフシギである。かれが奉じたガンジーなどであれば直ちに同意したろうに。この精神ゆえに、英米など核保有国は追悼式に出席しないのだろう。
by 古井戸 (2007-09-15 09:26) 

古井戸

つぎ。
海外さんから、ほっとさんへの意見にあらわれた、海外さん見解へのコメント。

>被爆のmemoryが政府によってdramatizeされ続けること。だから、根本から考え直す必要がある。古井戸さんは、中止する。これが違い。

政府によりdramatize というより、正確には、天皇と政府のアジア市民、それに、ニッポン国市民、そして重要なことだが、日本の兵士に対する軍の責任。とくに、この最後の視点をまったく逆転させ、日本の死んだ兵士があったゆえに今日の繁栄がある、などとごまかし言辞を吐いている。これは許せない。 国民がすっかりこの虚言に漬かっている。

原爆が広島、長崎におとされたのは偶然です。京都であっても新潟であってもよかった、落とす側にとっては。問題なのは、相手国の市民を、猿同然にしかみない(日米共におなじこと、中国朝鮮にたいしては今でもこの見方を広げるヤカラがいる)という戦争遂行の前提です。この戦争を引き起こす認識そのものを追放するのが反戦教育。げんざい、どこでこれを行っているか?
by 古井戸 (2007-09-15 09:56) 

海外逃亡者

お二人への最終コメント。

以下個別に返答いたします。


まずは古井戸さんへ

>>これらと、東京大空襲、原爆を わたしは、全く別物と見ます。天皇や政府の責任の有無、です。

>海外さんが、なぜ、このような追悼にいれこまれるのかわからない。


なぜ、別物に見えるか?それは基本的に視点による違いです。私は、戦争責任の追求よりも、むしろ、過去の出来事がどのように現在にて繁栄されているかに、より強い関心があります。それゆえ、追悼式の役割に着目した、それが一番の理由です。academic的な視点(特にコミュニケーション学)では、追悼式や祝賀といった儀式行為は、過去のmemoryが現在に影響力を及ぼす文化的産物として成り立つと考えられ、常に研究の対象になっています。サリン事件や阪神大震災、9/11、Hurricane Katrinaなどはその代表的な例として取り上げました。

一般的に、儀式行為を肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかは、人それぞれによって大きく異なるでしょう。おそらく文化的な違いも出てくると思います。9/11の追悼式や米軍兵士の(イラクやアフガン戦争による)追悼も米国内では、意見が真っ二つに分かれます。

 あと言い忘れましたが、上記に取り上げた文献は、いずれもコミュニケーション研究の分野に携わっている人達によるものです。


>>国民がすっかりこの虚言に漬かっている。
>>この戦争を引き起こす認識そのものを追放するのが反戦教育。げんざい、どこでこれを行っているか?

以前、別のところで書きましたが、本当に上記のような見解を反映させたいのであれば、日本国民が政府に対して立ち上がるべきでしょう。それが出来ないうちは、何をやっても効果なし。古井戸さんのおっしゃるとおり、日本人でいること自体、非常に情けなく、悲しくなってきます。
by 海外逃亡者 (2007-09-19 11:29) 

海外逃亡者

以下続き。

ほっと一息さんへ

>>大人として、これは有りですか?

こんなの有りかですって?私の知ったことではありませんね。
あなたに対して、個人攻撃しているわけじゃないし、侮辱しているわけでもありませんよ。むしろ、ことを大げさに書きたて、言葉を荒げて議論を展開している人に対して、直接たずねたくなりますね。

>>もし、有りならこのような議論に参加する資格はないと思いますが・・・

参加する資格って一体だれが決めるんですか?文句があるんなら、管理者の古井戸さんに、直接聞いてください。

以上
by 海外逃亡者 (2007-09-19 11:39) 

古井戸

>一般的に、儀式行為を肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかは、人それぞれによって大きく異なるでしょう。おそらく文化的な違いも出てくると思います。9/11の追悼式や米軍兵士の(イラクやアフガン戦争による)追悼も米国内では、意見が真っ二つに分かれます。
 あと言い忘れましたが、上記に取り上げた文献は、いずれもコミュニケーション研究の分野に携わっている人達によるものです。

これは通常のコミュニケーションではありません。電話や放送ならば話者と相手=聴者がいます。追悼の場合は、相手は自己の内部にいる、自分が自己都合でこしらえた他者です。(一方通行です)

すでに答えは出ていると思います。
誰が、何を、追悼するのですか?

1945年以後生きている日本国民のすべてですか?それとも、連合国の市民も含めて追悼するのですか?追悼するものには、朝鮮や中国の市民もふくまれるのですか? 朝鮮や中国、日本人によって虐げられたアジア人は原爆や無差別爆撃(日本への)を快哉をもって迎えたのですよ。(当然のことです)

ニューギニアでは20万の兵士が派遣され、生き返ったのは2万です。18万はほとんど栄養失調、や餓死で死んだ。人肉食いまでやった。骨も帰らない。 かれらは、参謀本部を怨みながら死んだ。 その家族は、いつ、追悼するのですか? 終戦記念日、にですか?天皇と一緒に?


>>国民がすっかりこの虚言に漬かっている。
>>この戦争を引き起こす認識そのものを追放するのが反戦教育。げんざい、どこでこれを行っているか?

>以前、別のところで書きましたが、本当に上記のような見解を反映させたいのであれば、日本国民が政府に対して立ち上がるべきでしょう

戦争も知らないような政府の誰に対して立ちあがるのでしょうか。
具体性のない提言です。
幸いにして親戚家族、や財産を戦争や爆撃で失わなかったものは追悼などしないでよいでしょう。
そうでないものは、戦争の実相を知り、個々に、不戦のちかいをたてるしかないでしょう。(それが抵抗の形です)。
8月になると、加害者であることをスッカリ忘れて、原爆による被害者面をした日本人が出てきて、米国に補償を求めろ!等と言っているのは愚劣です。こういう愚劣な思考を減らすために多少の寄与はするだろうから集団追悼式は辞めた方がいいでしょう。
by 古井戸 (2007-09-20 02:40) 

ほっと一息

>アヤマチは二度と。。という追悼文の解釈だが、まず、ほっと、さんの見解を述べたらどうか?<

前にのべたでしょうに!
過ち=犯罪=違法  なのに古井戸さんは”戦争”だとおっしゃる
だったら戦争と変えろ運動でもしたらいかがかと言ったのですが、私を正常ではない精神だ的な反論をしてごまかしたではないですか。

そこで、日本の戦争責任資料センターの林博史さんブロブをご覧になってください。
「日本の戦後の平和主義者が第二次世界大戦の日本の戦争責任をあいまいにしている。戦争が悪い、すべて戦争のせいにして片ずけてしまうからだ」・・・・・つまり極右と同じで、この人達の足を引っ張っている仲間入りを古井戸さんはするのですか?と問いかけたのですが、お返事がなかったと思いますが・・・・

古井戸さんは、15年戦争をどう捉えるかの自分なりの見解が、整理されて無いように思います。
ただ、いろいろな戦争による悲劇を記事にし、批判しているだけのように思えます。
1、一番わかりにくいのが、トルーマンアメリカを戦争犯罪国か否かをはっきりさせてない点、
2、日本全体を戦争犯罪国とするのか、日本2分論とするのかが明確ではないですね。それとも3分論(天皇、軍・政府、一般国民)なのかな?
そして一般国民を加害者とするのか、被害者とするのかもです。
私はどちらでもないですと申しましたよね。

家永氏の件ですが、352Pの「むしろ日本人が率直に日本国家の戦争責任の自覚をアメリカ人に示すときに、相互の戦争責任の自覚を新たにさせ、世界平和確保への道を開くに役立つことを学ぶべきではないだろうか」
とありますが、これはどのように解釈していますか?

私はトルーマンアメリカを正義の国としていますので、アメリカの戦争責任はないし、むしろ被害国と位置ずけています。

家永氏は、不戦条約前にアメリカは国内批判がおきて、植民地を独立させるようにしていたこと、不戦条約以降植民地をつくらなかったこと、ドクトリン勧告を出し、日本を改めさせようとしたり、日本の仏印侵略をハルノートをもって中立案をだして何とか日本と仏との間を取り持つ行為をしたりなどの功績を大きく認めるものですですので、家永しがそれを知らなかったのか、評価しなかいのかしりませんが、そこから私と家永氏のトルーマンアメリカへの戦争責任が違ってきます。
by ほっと一息 (2007-09-21 20:56) 

ほっと一息

↑の下から6行目の家永氏を私に変えます。間違いました。急いでいましたので・・・失礼いたしました。
by ほっと一息 (2007-09-23 14:48) 

runaway

"私はトルーマンアメリカを正義の国としていますので、アメリカの戦争責任はないし、むしろ被害国と位置ずけています。"

Geez... You sound exactly like one of those conservative Americans who grieve over the loss of their fellowmen in Pearl Harbor, while having less sympathy on the residents of the Hiroshima and Nagasaki in which the US dropped the A-bombs. Are you justifying the dropping of A-bomb as an excuse for ending the war, just like most WWII veterans and their sympathizers? You should carefully look into the voices of bomb-afflicted victims before you pass your own judgment upon this issue. It's not a simple yes-no, right-wrong question, you know.
by runaway (2007-12-08 03:13) 

古井戸

Knowing the enemy is of prime importance in the war, including what will happen if which won the war.
The enemy(i.e.Allies), like them, didn't care of citizen massacre under the war, though laughably they protested the indiscriminate attacks to the League of Nations soon after the air raid on Tokyo by US army.
There WAS no words, war responsibility, for victors.
The court was then a part of process of the war, not post-processing thereof.
by 古井戸 (2007-12-08 08:42) 

runaway

"私はトルーマンアメリカを正義の国としていますので、アメリカの戦争責任はないし、むしろ被害国と位置ずけています。"

>>You should carefully look into the voices of bomb-afflicted victims before you pass your own judgment upon this issue.

Please keep in mind that I DO NOT SAY the person who made the statement above(Japanese) is RIGHT or WRONG.
As you already know, this is a controversial issue. I'm not gonna argue which is heinous criminal during WWII (between Japan, China and the US?), but we should take both political and humanitarian perspectives into considerations to make value judgments on our past history.
by runaway (2007-12-08 10:59) 

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