立松和平と宮崎奕保禅師の対話 [魂]
作家立松和平は、かい離性動脈瘤破裂で都内の病院に入院し、緊急手術を受けたがこの2月8日多臓器不全で旅立った。享年62歳。
立松和平は、2004年宮崎奕保禅師(みやざき・えきほ=曹洞宗大本山永平寺貫首)にインタビューを行った。この対話番組を2月6日NHKが再放送したのを偶然、観た。そのおりの録画から二人の対話を書き取った。禅師は2008年、106歳で御遷化なされた。
禅師の言葉は、吐く息にのって、長い間をおきながら、一句一句ゆっくりと刻まれていく。
道元禅師様はおっしゃっておるんや
「座禅をすれば善き人となる」
その善き人となかなかなれん
人間は名誉とか地位とか見栄とか我慢(わがまま)とか
そんなもんでいっぱいだ
欲は克服するすべを覚えんといかん
それが座禅だ
立松和平 「禅師様は坐られるとき頭の中、心の中でなにか考えたりなさいますか」
なにも考えない
妄想せんことや
いわゆる前後裁断や
その時その時一息一息しかないんだ
何か考えたらそれはもう余分や
座禅ということはまっすぐということや
まっすぐというのは背筋をまっすぐ 首筋をまっすぐ
右にも傾かない 左にも傾かない
まっすぐということは正直ということや
立松 「からだもまっすぐ、心もまっすぐですね?」
身心(しんじん)は一如(いちにょ、一つ)やから
体をまっすぐにしたら心もまっすぐになっとる
立松 「坐ることが座禅と言うことと理解しますけれども、すると、禅というものは生活の全てを禅ということですね?修業のひとつですね?」
そういうことや
スリッパを脱ぐのも座禅の姿や
立松 「スリッパを脱ぐのも修業のひとつですね?」
スリッパをそろえるのが当たり前のこっちゃ
例えばスリッパがいがんでおったら
ほうっておけないんだ
スリッパがいがんでおるということは自分がいがんでおるんだ
自分がいがんでおるからいがんだやつが直せないんだ
だから物を置いてもちぐはぐに置くのとまっすぐに置くのと
すべて心が表れておるんだから
心がまっすぐであったらすべての物をまっすぐにする必要がある
立松 「それが座禅の姿ですね?」
そうや
人間はわがままが自由やと思っておる
ちゃんと型にはまったものが
平生底(へいぜいてい、日常)でなければならない
立松 「こうやって鳥が鳴いていて。。。永平寺はいつも自然に包まれていて一般的にもいいところだと思うんですが、禅師様は大自然のことをどのようにお考えでしょうか」
自然は
立派やね
わたしは日記をつけておるけれども
何月何日に
花が咲いた
何月何日に
虫が鳴いた
ほとんど違わない
規則正しい
そういうのが法だ
法にかなったのが大自然だ
法にかなっておる
だから
自然の法則をまねて人間が暮らす
人間の欲望に従っては迷いの世界だ
真理を黙って実行するというのが大自然だ
誰に褒められるということも思わんし
これだけのことをしたらこれだけの報酬がもらえるということもない
時が来たならばちゃんと花が咲き
そして黙って
褒められても褒められんでも
すべきことをして黙って去っていく
そういうのが
実行であり
教えであり
真理だ
故郷の家の築山に一本の梅の木が生えている。高さは二メートルと少し、くらいか。築山は40年前に母屋を新築したとき、4年前に亡くなった親父が大改造したのだが、そのとき、この梅の木を移植してしまった。この梅の木はわたしの曾婆さんが本家から分家したとき記念に植えたものだ、と母が教えてくれた。現在、樹齢は100年をゆうに越えている。40年前に移植したとき(いや、私の生まれたときから)すでに、木の幹は苔むして真っ黒、老木然としていた。植え替えには耐えられまい、枯れるのではないか?と、母は心配していたがあにはからん、以後、春になると花を咲かせ続けている。今年もまもなく花を付けるだろう。わが家系の最長老である。あとは、わたしと、どちらが長く生き残るか。
近所に自然公園がある。昔からこの地域にあった林の原木をできるだけ残しながら人工の池や川、歩道や芝生を配した公園である。冬には芝は枯れ、広葉樹は葉を落とし、花は葉、茎もろとも朽ち果て、すべてが肥やしとなって土に回帰する。先日、散歩したとき、梅の蕾は大きくなり、なかには花開いているのもあった。桜の蕾も目立ってきた。後二ヶ月経てば木々は緑に染まる。やがて葉は色付き、枯れ、落ちる。この繰り返しを何十回も見てきた。その間に年長の知人、親戚が何人も死んだ。おのれも知らぬ間に老いてくる。同年代、同輩の死を伝え聞くことが多くなる。そのたびに、意識の薄皮を一枚一枚積み重ねるように、あるいは霧の降るように、こころとからだは死の受け入れを準備する。いや、意識の表層では自覚できなくても深層では死をいかに受け入れるか、という準備が始まっているはずである。意識ではコントロールできない世界がある。 人類始まって以来、死の恐怖を回避、緩和し、死を最終的に受容する仕組みを体内に、社会に、人間は配備してきた。ひとは、死ぬことを前提に生まれてきた。太古の昔より、ゆっくりした季節の移り変わりとそのくり返し、交互に訪れる昼と夜のリズムは、そこから、経過する時間、すなわち死への接近を、眼、耳、肌で感じ、学習し、悟るためにあった。
初めまして。
奥日光が大好きでよく歩いています。
古井戸さんは、中禅寺湖”北岸”を散策なさったことはありますか?
先日、まだ雪深い中で春を告げるマンサクをここで見たとき、
「自然は偉いね。」 この一言を思い出していました。
自然界の営みに重ねて、人はどう生きるべきか。
普段はちっともそんな事考えもしない、ミーハーなアラ還の私なのですが。
・・・確か、立松和平さんと名前はわからないけど永平寺トップの偉い方、
NHK対談だった・・・
それだけで検索したところ、こちらに。
さすがですね!!
私も偶然見ていたのですが、古井戸さんはきちんと書き取ってらしたのですね。私の覚えていた言葉は、間違っていました。(^_^;)
どうしても、この事をコメントしたい大好きなブログが有り、とても助かりました。ありがとうございました。
http://okunikkou.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-c772.html
この中禅寺湖北岸は、とても静かなエリアです。夏は木陰で一日中本を読んでいたい位・・・。 おススメです♪
by rose (2014-04-06 10:20)
コメント表示が遅れて済みません。
中禅寺湖には行ったことがありません。日光には何十年か前社内旅行で訪れましたが。
いいところのようですね。人生終末前に訪れたいが。。
by 古井戸 (2014-12-11 07:19)
ずっと何年も前にNHKで見て、これだ私に必要なのは。と思った大きな衝撃を受けた言葉でした。何度かyoutubeでみたのですが、今日は検索しても英語の映像しか見当たらず、こちらのサイトに辿り着きました。
一番、心に響いた部分の言葉がそのまま、残してくださってあり感謝です。
写させていただいてよろしいでしょうか?
by たきはら (2016-08-03 09:22)
たきはらさん、返事が遅れました。どうぞご自由に。禅師の言葉です。私のほかにも番組を見たかたが文字越ししておられるかも知れません。
by 古井戸 (2017-08-31 16:10)