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イッセイ・ミヤケ、米紙に原爆体験寄稿 大統領演説が触発 [戦争・原爆]

朝日新聞記事:

三宅一生さん、米紙に原爆体験寄稿 大統領演説が触発
http://www.asahi.com/national/update/0715/TKY200907150116.html
【ニューヨーク=田中光】世界で活躍するデザイナーの三宅一生さん(71)が、14日付の米ニューヨーク・タイムズ紙に寄稿し、これまで多くを語ってこなかった自らの原爆体験に触れながら、オバマ米大統領に広島を訪れるよう呼びかけた。オバマ氏が「核兵器のない世界」を訴えた4月のプラハでの演説に触発されたという。

 寄稿によると、三宅さんは広島にいた7歳の時に閃光(せんこう)を目撃。黒い雲があがり、人々が逃げまどう光景が「今も目に浮かぶ」。母親は放射線を浴びて3年後に亡くなった。

 一方で「原爆を生き延びたデザイナー」といったレッテルを張られるのを嫌い、「いつも広島に関する質問は避けてきた」という。

 しかし、オバマ氏が「プラハ演説」で、単なる核の削減ではなく、廃絶に言及したことが「自分の中に深く埋もれていた何かを呼び覚ました」といい、「体験者の一人として個人的、そして倫理的な責任をかつてないほど感じるようになった」という。

 そして、8月6日に広島市である平和記念式にオバマ氏が参加すれば「核の脅威とは無縁の世界に向けた現実的で象徴的な一歩になる」と訴え、訪問を呼びかけた。

 三宅さんは、「ヒロシマの心」を表現している芸術家に贈られる「ヒロシマ賞」(広島市など主催、朝日新聞社共催)を90年に受賞している。



NYT opinion
http://www.nytimes.com/2009/07/14/opinion/14miyake.html?_r=1

記事の全文。イッセイ・ミヤケ氏の和文原稿を彼のスタッフが英訳したものである。いずれ原文が公開されるのだろうが、この英文記事を和訳してみる。

July 14, 2009
Op-Ed ContributorA Flash of Memory By ISSEY MIYAKETokyo

IN April, President Obama pledged to seek peace and security in a world without nuclear weapons. He called for not simply a reduction, but elimination. His words awakened something buried deeply within me, something about which I have until now been reluctant to discuss.

4月、オバマ大統領は核兵器のない平和と安全を希求すると誓った。単なる削減ではない、廃絶を求めたのだ。大統領の言葉は私の内部に眠っていた何かを呼び覚ました。その何か、それを今まで話すのをずっとためらってきた。


I realized that I have, perhaps now more than ever, a personal and moral responsibility to speak out as one who survived what Mr. Obama called the “flash of light.”

大統領が『閃光』と呼んだ原爆を生きのびた一人として発言する個人的な、かつ、倫理的な責任を私は、今、恐らく初めて、自覚したのである。

On Aug. 6, 1945, the first atomic bomb was dropped on my hometown, Hiroshima. I was there, and only 7 years old. When I close my eyes, I still see things no one should ever experience: a bright red light, the black cloud soon after, people running in every direction trying desperately to escape — I remember it all. Within three years, my mother died from radiation exposure.

1945年8月6日、最初の原爆が私の住んでいた広島に落とされた。そのとき七歳の私は広島に住んでいた。目を閉じると、いまでも、誰も見たことがないはずの光景が目に浮かぶ。明るい赤色の光。直後の真っ黒な雲。苦難の表情を浮かべて逃げまどう市民の群れ。すべては私の記憶に焼き付いている。放射能を浴びた母は、三年たたずして死んだ。

I have never chosen to share my memories or thoughts of that day. I have tried, albeit unsuccessfully, to put them behind me, preferring to think of things that can be created, not destroyed, and that bring beauty and joy. I gravitated toward the field of clothing design, partly because it is a creative format that is modern and optimistic.

あの日の、私の記憶と思考を他人には決して話さなかった。うまくいかなかったが、黙っていようとつとめた。破壊ではなく創造の可能性を考えたかったのだ。美しいこと、歓びをもたらすものを思考したかったのだ。衣服のデザインの道を進んだのも、それが現代的かつ楽観的な創造の形式であったのが理由のひとつだろう。

I tried never to be defined by my past. I did not want to be labeled “the designer who survived the atomic bomb,” and therefore I have always avoided questions about Hiroshima. They made me uncomfortable.

私は過去に制約されたくなかった。原爆を生きのびたデザイナと呼ばれたくなかった。だから、広島に関する質問を避けてきた。不快だからである。


But now I realize it is a subject that must be discussed if we are ever to rid the world of nuclear weapons. There is a movement in Hiroshima to invite Mr. Obama to Universal Peace Day on Aug. 6 — the annual commemoration of that fateful day. I hope he will accept. My wish is motivated by a desire not to dwell on the past, but rather to give a sign to the world that the American president’s goal is to work to eliminate nuclear wars in the future.

だが、今、世界から核兵器を消滅させうる条件を論点とすべきであると悟ったのだ。運命の日を毎年記念する8月6日の世界平和記念日に、オバマ氏を広島に招待しようという運動がある。私の希望は、過去に留まりたいという望みによるのでなく、米国大統領の目標が核兵器を将来、廃絶することにあることを世界に示すことにあるのだ。

Last week, Russia and the United States signed an agreement to reduce nuclear arms. This was an important event. However, we are not naïve: no one person or country can stop nuclear warfare. In Japan, we live with the constant threat from our nuclear-armed neighbor North Korea. There are reports of other countries acquiring nuclear technology, too. For there to be any hope of peace, people around the world must add their voices to President Obama’s.

先週、ロシアと米国は核兵器削減合意に署名した。しかし、われれはナイーブではない。だれも、どの国も、核兵器を止めることはできないのだ。日本は、核武装した隣国北朝鮮につねに怯えながら生きている。さらに核技術を保有する国々がほかにもあると報告されている。平和の希望があるところ、世界の人びとは大統領にむけて大きな声を届けなければならない。

If Mr. Obama could walk across the Peace Bridge in Hiroshima — whose balustrades were designed by the Japanese-American sculptor Isamu Noguchi as a reminder both of his ties to East and West and of what humans do to one another out of hatred — it would be both a real and a symbolic step toward creating a world that knows no fear of nuclear threat. Every step taken is another step closer to world peace.

大統領が広島市の平和大橋(その欄干は、東西の橋渡しと、憎しみを克服した人間同士にできるものを祈願して日系米人彫刻家イサムノグチが設計した)を渡るとき、大統領は核の脅威のない世界をつくるための、現実の、そして、象徴としての一歩をきざむことになるだろう。その一歩一歩のあゆみのぶんだけ、世界平和を引き寄せるのである。


Issey Miyake is a clothing designer. This article was translated by members of his staff from the Japanese.





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イッセイミヤケは、戦時中、ヒロシマで2万人以上の朝鮮人(強制連行者も含む)が働いており、被爆したことを知っているのだろうか。そしてその朝鮮人爆死者を広島市民は慰霊碑で追悼することを拒んだ。広島市民に原爆反対を叫ぶ資格があるか。

広島市民が米国にわたって、原爆反対と言いつのっているのを聞くと私は顔から汗が噴き出るほど恥ずかしい。

重慶、上海にたいして世界で初の無差別爆撃を行ったのはニッポン海軍である。朝鮮人中国人その他のアジア人が日本軍から受けた仕打ちに比べれば原爆など屁のようなものである。原爆投下はアジアの民衆からは歓呼をもってむかえられた。当然のことである。

オバマに、ヒロシマの平和大橋を渡れ、とイッセイは言う。

では、ニッポンの首相には、中国、韓国、フィリピン、香港、タイ、シンガポール、マレーシア。。のどこを歩ませればよいのか?




オバマがヒロシマに来たとき、記者会見で

本日は私の人生で最も感動した日であった。長年の夢が実現した。ついては、
ニッポンにある米国基地の弾薬庫に格納しているxxxx発の核弾頭をすべて3年以内に廃棄することに決定したい。

と<爆弾宣言>すれば、日本国民と政府・外務省のオドロキと感動がいや増すであろう。





オバマが生まれる前の戦争について、オバマが謝罪してもニッポン人に誤ったメッセージを与えるだけだ。それより、多数の市民を無差別攻撃で殺したイラク戦争、アフガン戦争の誤りを認めさせるほうが先である。オバマも国会議員として係わったはずである。


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コメント 3

kyoka_nk

asahi.comの記事もNYT opinionの記事も拝見してきました。英文和訳をありがとうございます。...特に「オバマが生まれる前の~」ではじまる三行について、考えさせられました。いろいろなケースでギャップが生じ得ることを文章を読むときには意識していなければいけないのかもしれませんね。

by kyoka_nk (2009-07-19 17:54) 

正義の悪漢

広島市民が米国にわたって、原爆反対と言いつのっているのを聞くと私は顔から汗が噴き出るほど恥ずかしい。

その通りですね。
日本は大東亜戦争で沖縄を除いて自分の領土で戦争が行われなかったので、皇軍がアジア各国でどんなことをしたか知ることがなく、アメリカ軍の空爆で被害を受けたことばかり意識に残って、日本人はアジアに対する加害者意識はゼロなのに、被害者意識ばかりで過去の戦争をとらえています。
それが、日本の戦後責任の取り方、被害者に対する保障を難しくしている一因でしょう。
私は、韓国、マレーシアで、原爆は神が日本人に下した罰だ、と言われました。
日本に原爆が落ちたと聞いたとき、アジアの人間はみんな喜んだのだそうです。
たしかに、アメリカの原爆投下は人道無視の残酷な行いですが、アメリカに原爆投下を決意させたのは、日本政府責任でしょう。
天皇制維持の國體護持にこだわっているばかりに、1年も前に戦争遂行不能が分かっていたのに、降伏できなかったのです。
昭和天皇は「もう一度、どこかで戦果を上げてから」と降伏を引延ばしました。どこかで戦果を上げることで降伏条件を有利にし、國體護持が円滑に進むと思ったのです。

日本が中国で殺害した人間の数は、控えめに見て1500万人、大目に見ると3500万人だそうです。
控えめに見て1500万人と広島・長崎の被害者の数を単純に比較するのも問題があるかと思いますが、マレーシアなど他の東南アジアでも日本軍が殺した人間の数をきちんと捉えてから、日本人に長崎・広島のことも考えて貰いたいと私は思います。
by 正義の悪漢 (2009-07-23 09:23) 

古井戸

>それが、日本の戦後責任の取り方、被害者に対する保障を難しくしている一因でしょう。

原爆はケシカラン!と、あまり大声でいうのも対米関係をこわす~、という政府。だから、反核を広島市長が国連で演説するのを妨害したりする。股裂き状況がオカシイ。

>アメリカの原爆投下は人道無視の残酷な行いですが、アメリカに原爆投下を決意させたのは、日本政府責任でしょう。

原爆がケシカラン、というのは、戦争がケシカラン、人殺しがケシカラン、という一般論です。まさか、日本刀で首をちょん切るのは問題ないが、核、で殺すのはケシカラン、というハナシではないでしょう。

>昭和天皇は「もう一度、どこかで戦果を上げてから」と降伏を引延ばしました。どこかで戦果を上げることで降伏条件を有利にし、國體護持が円滑に進むと思ったのです。

天皇の一途の望みを実現したのが(天佑)、原爆の開発と、投下です。鬼塚英昭の著書などがそれを明らかにしています。

原爆の秘密 by 鬼塚英昭
http://satehate.exblog.jp/9318506/

白洲次郎のプリンシプルとは? by 鬼塚英昭 原爆ホロコーストへの道
http://satehate.exblog.jp/9332877/

見棄てられた被爆者たち
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-date-200808.html

>、マレーシアなど他の東南アジアでも日本軍が殺した人間の数をきちんと捉えてから、日本人に長崎・広島のことも考えて貰いたいと私は思います。

本日の記事でも書きましたが、アジア(フィリピン、シンガポールその他)の住民を人間とみなしていませんね。おっしゃるように政治の一部としての戦争であるのに、国民に対してまったく説明責任もしない。これは現在に至るまで同じです。米国でも、まがりなりに、ベトナムでの住民虐殺(大量のものに限られるが)に対してそれを命じた上官の責任を問うた。

8/15の終戦後も、餓死者が絶えることがなかった。46年春にも、京浜地方だけで1300人も餓死者が出たという記録があります。20年前後にニッポンで何が起こったか、原爆がなかったら、何が起こりえたかを問うのは歴史家の趣味の問題ではなく、国民が、そして小中学生が歴史の時間にシミュレーションして学ぶべきです。いまに通じる問題が続々あぶり出されるでしょう。資料は官僚達が焼却し尽くしているから困難ではあるにしても、です。政府にとっては都合のよいことに兵士たちは高齢であり、あと5年もすれば体験者は死に絶える。
by 古井戸 (2009-08-09 12:41) 

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