SSブログ

中島岳志 『パール判事』 [戦争・原爆]

                               

 

中島岳志『パール判事』(白水社、20007/8/15)の内容は次の通りである。

序章

第一章 前半生 – 法学者として

第二章 東京裁判

第三章 パール判決書

第四章 パール判事へのまなざし

第五章 再来日

第六章 晩年

終章 

パール判事の主張を「日本無罪論」として日本の一部論者が利用しまくっていることや、パール博士の生涯はすでに周知のことであり、ネットで検索すればこれに関する記事は無数に得られる。本書の特長は一般にあまり読まれていないであろうパール判決書そのものを著者が要約した第三章にあるとおもう。

第三章の小見出しを列挙する:

反対意見書/裁判所の構成の問題/通例の戦争犯罪

どの戦争の犯罪を裁くのか? -- 管轄権の範囲の問題

罪刑法定主義の原則 – 事後法という問題/裁判所憲章の性質

戦争は国際法違反か?/魔法にかけられた冒険者/連合国の欺瞞

世界連邦の理想/原爆投下は国際法違反か?/共産主義批判

共同謀議という問題/張作霖爆殺事件/満州事変と満州国建国/帝国主義の時代

日米開戦への道/日本の指導者は「過ちを犯した」/「厳密なる意味における戦争犯罪」

南京虐殺/戦争中の残虐行為/俘虜の虐待/勧告

第三章だけで著者は約100ページを費やしている(本書全体は300ページ)。この小見出しをみれば著者による要約の枠組みは把握できるだろう。わたしのブログ記事(パール判事の冒険、その他)で家永三郎によるパール判決書の評価と批判を、とくに『家永三郎集第12巻』(岩波書店)から抜粋して紹介した。上記小見出しのうち「共産主義批判」に関して著者は以下のように家永三郎によるパールに対する批判を参照している(本書、p140)。パールのこのような記述は、のちに歴史学者の家永三郎から「極端な偏見にみちみちた見解」と批判され、「反共イデオロギー」という政治的立場からの演繹的解釈として問題視された。法律家としての中立性を強調したパールであったが、共産主義に対しては、一貫して厳しい立場を堅持した。

パールは、この後も日中関係や日ソ関係の歴史解釈の中で、「反共主義」という立場を明確にしつつ、分析を展開する

パール判決書中の「反共イデオロギー」は家永三郎でなくても異様に感じる記述であるとおもう。むしろ、家永三郎のパール批判は判決書中の下記の二点において取り上げるべきだろう。

・罪刑法定主義の原則 – 事後法という問題

・ 戦争は国際法違反か?

この二点は日本の「日本無罪」論者が好んで取り上げる論点だからである。家永三郎は著書『戦争責任』(岩波書店、1985年)の第六章「戦争責任の追及はどのようにしてなされるべきであったか」において、この問題を取り上げている。もっとも家永の論点はヨリ広く、東京裁判に限定することなく、章名のとおり、連合国側の対日責任はしばらく措き、私たち日本人にとっていちばん大切な日本国家および日本国民の戦争責任をどのように処置するか>を問うている。そして<何よりも遺憾なのは、日本国家も日本国民も、自らの自発的反省に基づいて戦争責任の始末を正しくつけなかったにとどまらず、戦後40年を経た今日にいたるまでその始末をつけるのを回避しようとする傾向が顕著であり、それが戦後の日本の歴史の方向を大きく歪める要因となってはたらいている事実であると述べている(p349)。が、いまは論点を上の二点に絞る。まず、パールが判決書で述べているところを著者中島の引用カ所(『パール判決書』講談社学術文庫、上下から)をそのまま、孫引きする。

 <検察側が行われたと主張する諸行為に、犯罪性があるかないかは、それらの諸行為のなされた当時に存在した国際法の、諸規則に照らして決定しなければならない>(上257)

本法廷は一つの国際軍事裁判所として設置されたものである。ここで意図されたところは、明白にこれが「司法裁判所」であることにあり、「権力の表示」であってはならないのである。その意図は、われわれが法律による裁判所として行動しかつ国際法の下に行動することにある>(上268)

かような裁判を行うとすれば、本件において見るような裁判所の設立は、法律的事項というよりも、むしろ政治的事項、すなわち本質的には政治的な目的に対して、右のようにして司法的外貌を冠せたものである、という感じを与えるかもしれないし、またそう解釈されても、それはきわめて当然である。儀式化した復讐のもたらすところのものは、たんに瞬時の満足に過ぎないばかりでなく、究極的には後悔をともなうことはほとんど必至である。しかし国際関係においては秩序と節度の再確立に実質的に寄与するものは、真の法律的手続きによる法の擁護以外にありえないのである>(上268-269)

勝者によって今日与えられた犯罪の定義に従っていわゆる裁判を行うことは敗戦者を即時殺戮した昔とわれわれの時代との間に横たわるところの数世紀にわたる文明を抹殺するものである。かようにして定められた法律に照らして行われる裁判は、復讐の欲望を満たすために、法律的手続を踏んでいるふりをするものにほかならない>(上p268)

 

著者中島はこの引用の直後で、つぎのように述べる。

この部分は「パール判決書」の中でも、パール自身の文明観が率直に表現されている重要なカ所だ。彼は、東京裁判を「文明の裁き」とした検事側に対して、「事後法」による裁判の実施こそが「数世紀にわたる文明を抹殺」する行為であると、逆に厳しく非難した。彼にとっては、政治的意図によって法の原則を踏みにじり、復讐の欲望を満たすために裁判を行うことこそが、野蛮な非文明的行為そのものだったのである。ここには、彼が古代インド法の専門家として議論してきた法観念や文明観が、色濃く反映されているといえよう。為政者が政治的意図に基づいて法を変更させることは、インド人法学者パールの目には反文明的行為としか映らなかったのである>(p114)

以下、本論点に関する家永三郎の見解を『戦争責任』(p359-363。参照先などの挿入注は省略する場合がある)から引用する。

 <東京裁判で法律上いちばん問題とされるのは、有罪の理由となった「平和に対する罪」を犯罪として処罰する国際法が戦時期に成立しておらず、連合国軍最高司令官マッカーサーの制定した極東国際軍事裁判所条例により創設された事後法を遡及適用するのは、法の一般原則である罪刑法定主義に反するという点にあり、法定において弁護人高柳賢三はこの条理に基づいて裁判所に管轄権がないことを主張した。>として、横田喜三郎(国際法学者、最高裁判事)および戒能通孝の見解を援用する。

 <これに対しては、まず「大きな変動期には、とくに古い秩序が破壊され、新しい秩序が建設されようとする転換期には」罪刑法定主義に文字どおり従うのは「不可能なことがあり、望ましくないことすらある」ので、「かならずしも絶対の、無上命令的な要請ではない」とする横田喜三郎の見解(『戦争犯罪論』1949年)、さらに一歩を進め、「判決は既存の国際法によったというよりも、むしろ民主主義革命戦争の一部として、革命の敵に当る一部の人を追放する企てであったことは自然である。けだし革命裁判の場合には、それまで一種の政治犯罪人として追いまわされていた人が、今度は正統権力の地位につき、反革命分子を除去する行為に過ぎないので、事後法による裁判、換言すれば罪刑法定主義によらないことは、まったく避けられない道である。(中略)もし革命による裁判に事後法裁判ができないならば、反革命分子の反抗を容認し、革命自体の崩壊を徒に傍観しなければならないからである」と、事後法の適用がこの裁判では不可避かつ必要であったことを積極的に主張する戒能通孝の見解などがある

団藤重光もまた、戒能に比べればもちろん、横田に比べても緩和された語調ではあるが、「国際平和の確保」のためには、事後法の適用も「現在の国際法の発達段階としてやむを得ない」ばかりでなく、A級戦犯犯罪人のなかには「国内刑法の理論では、無罪とされるべき」ケースもあると思うけれど、「国際平和の確保」という「まず実現すべき」最優先の目的のためには、「責任理論にいろいろの修正が加えられることも、やむをえない」と説いている。>

上記の横田喜三郎の解釈を(たとえばネット検索すればわかるが)日本人学者による「自虐的」な見解とするものがいるが、これに対して家永三郎はつぎのように述べる。

 <ことに戦時下の1933年(昭和8年)発行の著書『国際法』において、国際連盟規約・不戦条約等によって、自衛の戦争と制裁の戦争を除き、「普通の戦争は今や一般に禁止された」「禁止された戦争は国際法上の違反行為である」と論じていた横田が、「戦争責任者の処罰においては、罰こそ前もって定められていないが、罪は前もって定められている」、したがって「違法な戦争について、具体的に制裁が定められていないとしても、これを引起したものを処罰することは、かならずしも非難すべきではない」(『戦争犯罪論』)と論じたのは、戦中・戦後を通しての一貫した信念の吐露にほかならず、占領軍の裁判という現実への追随ではなかったのである

 さらに、事後法の適用は第二次大戦期までは国際法上みとめられていた、と述べている。第二次大戦期までは、戦争の法規慣例の違反行為の処罰に関する実体法(罪と罰を定める法規)を各国が国内刑法として平時から制定するよう国際法上義務づけられておらず、戦争の法規慣例に違反することが明らかであれば、そのこと自体を根拠に死刑を含む刑罰を科することが国際法上認められていたし(略)通常の戦争犯罪のほかに、例えばスパイ行為とか戦時叛逆のように、必ずしも戦争の法規慣例上禁止されているとはいい得ない行為も「戦争犯罪」に含めて処罰できるとするのが英米における通例の戦争犯罪処罰の制度として発展してきたのであり、日本の国際法理論もその影響を強く受け、統帥権によって軍律会議を設け、敵国人の「戦争犯罪」のおこなわれたあとに定めた罪と罰に関する規定を遡及適用して処罰を実行していたのである。このように、通常の戦争犯罪について事後法の適用が広く国際法として確立していたのであるならば「平和に対する罪」という新しい戦争犯罪(略)について事後法が適用されても、ことさら「革命による裁判という法理を援用するまでもなく、戦時国際法における罪刑法定主義不適用の一変種として評価する余地もあり得るのではなかろうか

 

 勝者による裁判、という非難について、家永三郎は次のように言う。そのような一面のあることはたしかであるが、日本国民が自らの力によって戦争勢力を打倒し責任者の責任追及をなしえなかったのであるから、占領軍の処理に委ねられたのを非難する資格が日本人にあるとは思われない

そのような一方的性格にもかかわらず、この裁判がなかったならば、日本の侵略戦争の実態とこれを遂行した権力者たちの言動がこれほど具体的に暴露されることはなかったであろうし、裁かれた人々がその責任を問われることもなく、そのまま支配層のなかでの地位を保持し続けたかもしれないのであるから「日本国民が其の無力の故を以て無し能わざる所を」、外国の軍隊の「圧力に依て」(内村鑑三)実現したものという一面のあることを、やはり評価しないわけにいかないであろう

家永は、つづけて、極東軍事裁判所裁判官であったオランダのレーリンクの言葉を引用する:

東京裁判は若干の欠陥があるが「人類が緊急に必要としていた法の発展に貢献したことも否定できません。国連は、ニュルンベルクと東京の判決に定められた諸原則を採択しました。こうして、平和に対する罪は、国際法の一部として公認されるに至ったのです。今や戦争の禁止は強行法規となりました」(略)とも言って「東京裁判の積極的な側面を評価する」必要を説き。。

 

家永三郎はまた、原爆投下に関する日本政府の態度にかんする事実を示している: 

原爆投下直後、日本政府はスイス政府を通じて米国に対し、ヘーグ陸戦法規を援用し、「米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別かつ残虐性において、従来かかる性能を有するが故に使用を禁止せられたる毒ガスその他の兵器を遙かに凌駕しをれり。米国は国際法および人道の根本原則を無視して(中略)従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性残虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪状なり。帝国政府は自らの名において、かつまた全人類および文明の名において米国政府を糾弾すると共に、即時かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す」という、あたかも東京裁判での検察官の日本の戦争犯罪告発を連想させるきびしい口調でその違法性を非難していたにもかかわらず、1957(昭和32)年に原爆被害者が、原爆投下の違法性を問い、講和条約で対米請求権を一切放棄した日本政府からの賠償を求める訴えが起こされると、これに対し、「原子爆弾の使用は日本の降伏を早め、戦争を継続することによって生ずる交戦国双方の人命殺傷を防止する結果をもたらした。かような事情を客観的にみれば、広島・長崎両市に対する原子爆弾の投下が国際法違反であるかどうかは、何人も結論を出し難い」と、あたかも米国の代弁のような言を弄し、前引スイス政府を通して発した対米抗議の事実を認めながら、「しかし、これは当時交戦国としての新型爆弾の使用が国際法の原則及び人道の根本原則に反するものであることを主張したのであって、交戦国という立場をはなれて客観的にみるならば、必ずしもそう断定することはできない」という、原爆投下弁護論を裁判所に提出して、原告の原爆違法の主張に基づく請求の棄却を求めた(『判例時報』355号1963年)>

さきごろニッポン国の某防衛大臣が「原爆投下はしょうがなかった」、と発言し某首相が発言に気を付けろ、と諫めたがすでに、日本国政府が 1957年頃、「原子爆弾の使用は日本の降伏を早め、戦争を継続することによって生ずる交戦国双方の人命殺傷を防止する結果をもたらした。かような事情を客観的にみれば、広島・長崎両市に対する原子爆弾の投下が国際法違反であるかどうかは、何人も結論を出し難い」 。。と、日本国民に対して弁明しているのである。

 

 さて、パール判事は長い議論の末、最終的につぎのような勧告を提示する。

以上述べてきた理由にもとづいて、本官は各被告はすべて起訴中の各起訴事実全部につき無罪と決定されなければならず、またこれらの起訴事実の全部から免除されるべきであると強く主張するものである>(下727)

パール判決書のしめくくり:

時が、熱狂と、偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう」(下745)

 

                          

 

著者中島はあとがきでつぎのように述べている:「パールについて書いているときは、その論理の鋭さと孤立を恐れない高貴な精神に圧倒され続けた。遙か上の高いところにいるパールを仰ぎ見るという感覚が、私を支配し続けた」「本書ではパールの主張の全体像を提示することを、第一の目的とした。パールのご都合主義的利用が横行する現代日本において、まずはパールの発言を体系化しておく必要があると考えたからである」「断っておくが、私はパールの見解や政治的主張のすべてに賛同しているわけではない

 著者はいう。「パールは東京裁判の構造を痛烈に批判したものの、日本の指導者たちは「過ちを犯した」と明言し、刑事上の責任とは別の道義的責任があることを示している」(p296)。これは著者の判定である。わたしはこれをそのまま肯定することができない。是非、著者の<政治的意見(パールとは独立の)>を知りたいと思う。もちろん、わたしは家永三郎等のいうように刑事責任を問える、とおもっている。刑事責任を問えるのは、本来ならば戦勝国、敗戦国に関係なく、である。かりに、判事全員がパールと同意見であるのならば、敗戦国(ニッポン)の刑事責任もとえず、もちろん、戦勝国の刑事責任も問えないだろう。パールは判事としてこの事態に満足するのだろうか?彼の結論はほとんど「日本無罪論」そのものと誤解されてもしようがないものである(事実、判決で刑事責任は問えない、といっているのだから)。道義は、いつ、だれが、法に転化させるのであろうか?(もちろん、軍人に対して道義を説いてなんの効果ないし規制を与えないことはアキラかである)。裁判官は法に照らして判断する人であり、<道義>に口出しすべきではなかろう。彼の<勧告>は、審理の果てに出た結論でなく、彼の出自(インドという英国に長年虐げられたアジアの出身であり、かつ、中国や東南アジア国のように、日本に独立支援国としての親しみを感じている)から、あらかじめ定められた結論であるとおもう。パールが晩年意欲を燃やした世界連邦の機能を私はよく知らないが、すくなくとも、反戦、不戦を標榜する国際組織であり、戦勝国、敗戦国の区別無く戦争責任を問えるシステムであると理解している。家永が述べている(引用している)ようにその足がかりを東京裁判は築いたのであり、その根拠は東京裁判で突如提示されたものではない、というのが家永三郎の主張である、と私は理解している。 

 

パールは東京裁判結審後、数度請われて来日し、講演を行っている。19532月、東京弁護士会館で行った講演のタイトルは「戦犯釈放の法的根拠」。中島氏の著書から引用する。これ以後『 』内がパール博士の発言である。

彼(パール)はここで東京裁判の問題点を指摘しつつ、完全独立を果たした日本は自由裁量で早急に戦犯の釈放を行うべきことを訴えた。

パールはまず、東京裁判の裁判所条例を問題視する。彼は「パール判決書」と同様、裁判所条例が国際法に基づいていない点をきびしく批判し、『征服者がそういうような犯罪のワクを勝手に法的にきめて、そのワクに被征服者の行為をあてはめて裁判をしたということが果たして正義であるか』と論じる。また、マッカーサーが日本の主権を代行する形で裁判所条例を制定し、これに基づいて刑罰まで加えた点を問題視する。

しかし、パールはこの連合国側の論法を逆手に取り、議論を展開する。

彼は言う。

もし、日本の主権を代行するマッカーサーが裁判所を設置し、刑罰を加えたというならば、日本が主権を回復した今日、『巣鴨拘置所たちにたいして、自由な裁量をもって、日本国家として釈放してもいいという結論が生み出されてくる』。よって、独立国家日本は、アメリカの意向に左右されることなく、独自の判断で戦犯の釈放を行うべきである』(『平和の宣言』1953)(中島、p232) 

 

これは、東京裁判をともに審議した同僚判事(もっともパールは、ホテルで判決書執筆に費やすことが多く、判事席に座ることがもっとも少なかった判事であるが)への冒涜であり、自身の判決書さえその信頼性を自ら落とすような発言である。たしかにパールは判決書(Dissentient Judgment of Justice Pal)の冒頭で、極東国際軍事裁判所の構成(判事が戦勝国のみから選出)について意見(異議)を述べているが、本書のp102で中島が要約しているとおり、<いかに判事の属性が戦勝国に偏っていても、彼らが本国政府から独立した個人の立場で判決を下す以上、その国籍は問題の本質ではない。そのため、裁判所の構成を問題視した『被告の異議は容認するに及ばない』(パール判決書、上242)>と、パール自ら執筆した判決書を忘れたのか、といいたくなる。パール判決は少数意見として採用されなかったが、多数意見にもとづく本法廷の審決に被告が服すのは当然であり、判事であったパール自身がその判決を軽んじるような<釈放>勧告をするというのは「法は政治権力に屈してはならない」という彼の信条から離反する行為である。東京裁判の審決をその程度のものと軽んずなら(もちろん、自動的に彼の判決書も軽んじてヨイということになる)、パールは最初からこの法廷を無効とみなし、判事として列することを拒否スベキなのである。(パールの非難した米ソ間冷戦対立により、第二次起訴が予定されていたA級戦犯容疑者の児玉や岸信介が、昭和23年12月、すなわちA級戦犯絞首刑のあった翌月にGHQにより釈放されたのは皮肉である)。

 

パールは判決書のこのカ所で、敗戦国だけでなく『戦勝国もまた戦争法規に違反した自国の国民にたいする裁判権を独立公平な国際裁判所に進んで引き渡す用意があって然るべきである』とする>。このカ所はわたしも同意である。たとえば、ベトナム戦争、イラク戦争などにも同じ原理を適用した<戦争裁判所>を設立して、戦争犯罪の有無に着目した戦勝国、敗戦国を公平に扱うシステムを構築スベキなのだ。

 

本書p240、中島の要約によれば国際法の原則とはなにか?とパールは問い、パール自身の答えとして、それは法が政治権力の上位概念であるということである。その時々の覇権国家の意向によって法が蹂躙され、都合よく解釈されるならば、国際法による世界秩序の維持という構想は崩壊する>。であるなら、国際法廷で結審した判決を、一国の政治主権が回復したから直ちに廃棄していいわけがあるまい。こういうことをすれば主権国家としての信頼が問われるであろう。さらに、大きな問題は、家永三郎も『戦争責任』で詳述しているように、戦時中の日本政府や軍部、官僚には国内法に照らしても日本の一般市民の生命と財産を保護する公的責任を放棄したという重大なる過失がある。(昭和20年の敗戦から21年にかけて国民数万人が栄養失調、餓死で命を落としていることを忘れるべきでない)。文春新書『あの戦争になぜ負けたのか』で、


nice!(1)  コメント(18)  トラックバック(4) 

nice! 1

コメント 18

古井戸

本記事は書評ではない。パール判決書要約に家永三郎などの意見(反論)を併置し、愚見をのべたもの。

1952年以後、パール博士の国連活動には不可解な点がある。
彼に委嘱された役割は、「人類の平和および安全に対する犯罪」法案の成立のようである。しかし、東西対立のイデオロギ対立の激しい折、本法案への議論を放棄し、投票も棄権した。国連の脆弱な体制が改善されず、イデオロギで二分されている現状で、理想化された刑法を導入することはむしろ危険である、というのが彼の主張。

しかしこれは、かれの別の主張である『法は政治体制の上位にくるべき』と、どう係わるのか?法の存在が、その適用の公平、徹底を保証するものでないことは自明ではないか。安定した政治システムの登場を待って、刑法が意義を有する、という理屈は倒錯におもえる。

紛争の可能性(戦争の危険)がある状態では国際刑法は制定できない、といっておれば永久に戦争を公平にさばける時代はこない、ということにならないか?
by 古井戸 (2007-09-24 17:35) 

ほっと一息

>ということにならないか?<

>愚見をのべたもの<・・・・ではありません
問題提起か、疑問提示です。
あなたの意見ではあいませんよ。
by ほっと一息 (2007-09-25 10:42) 

TB恐縮です♪

TBをたどってきましたら、こんなに奥深いブログとは…
お恥ずかしい~
by TB恐縮です♪ (2007-10-03 17:53) 

ほっと一息

>パールなどよりはるかにものの分かった大人の意見である。わたしは浜井市長の意見を支持する。<
私は支持しません。
なぜなら、この市長は第二次世界大戦の戦争責任を「戦争」にしているからです。
A、極右は戦争責任をアメリカとし、B、極左は戦争(アメリカと日本)とします。
C、中道の日本(軍、政府、天皇、市民とさまざまですが)とする人の日本の戦争責任追及の足を引っ張ります。
古井戸さん、あなたはも浜井市長を支持するのでしたら、反Cとなってしまします。
よろしいのですか?
by ほっと一息 (2007-10-10 14:30) 

gallery

どうも初めまして。
&TBどうもありがとうございます。

思い出したように更新しておりますので、以後よろしくお願いします。
by gallery (2007-10-10 23:55) 

nagara

はじめて書き込みます。
「やったらやり返す」の連鎖を断ち切るという苦渋の決断によって、戦争にまつわる全てのしがらみを断ち切り、戦争や戦争を起こしてしまったという人間の本質を糾弾する浜井信三市長の姿勢は、ボクにもいくつかの同情すべき点があります。中国新聞に掲載されたコメントからも、その考えがうかがい知れます。
by nagara (2007-10-21 18:41) 

ほっと一息

nagara さんへ

中国は不戦条約を破り、しかもで中国がしかけたと嘘をつき(謀略)侵略戦争を始めた日本を懲らしめてほしいとアメリカに泣きついた国ですよ。連盟にも泣きついいます。

(連盟は調査し、日本に侵略を止めるよう勧告したのですが、日本はそれを不服として脱退した。)

しかも中国は連合軍に加盟して、東京裁判で日本を裁いた国ですよ。
原爆を落とした共犯です。

その中国が「原爆を落とした者の手は清められてはいない」などとアメリカを批難できる立場ではないのではないでしょうか?
by ほっと一息 (2007-10-23 11:53) 

ほっと一息

古井戸さんへ

国際刑事裁判所(ICC)に10月1日、日本国加盟
「戦争犯罪は一国家の法体系を超え、国際正義の名の下に起訴されるべきである」

戦争責任を「戦争」とする・・・つまり正義無平和主義者=絶対平和主義者の方々がこの加盟の足をひっぱらない事を願います。
by ほっと一息 (2007-10-23 13:03) 

nagara

ほっと一息さん、ボク、中国に言及した書き込みしてませんよ。
浜井信三市長の見解を掲載した新聞社は中国新聞という日本の中国地方
に本社を置く新聞社ですけど。。。
それとボク、以前、ほかのブログで管理人さん以外の人と議論して、そこの
管理人さんに「他のトコロでやれ。」と言われたことあるんですけど、こういう
流れって、古井戸さんに迷惑かけるんじゃないのでしょうか。
by nagara (2007-10-23 18:08) 

ほっと一息

nagaraさんへ

中国新聞の件は、私が無知でした。

では改めて

浜井信三市長=中国新聞=古井戸さん=nagara=正義無き平和主義者
の方々がICCの活動や日本の戦争責任資料センターの方々の活動の邪魔をしないで下さいね。
極右の攻撃だけでも大変なんですから・・・・

>古井戸さんに迷惑かけるんじゃないのでしょうか<
古井戸さんがそうおっしゃるなら、従います。
by ほっと一息 (2007-10-25 11:34) 

nagara

じゃあ、ボクも古井戸さんの御寛大さに少し甘えましょうか。
ICCや日本の戦争責任資料センターのこと、ほっと一息さんの書き込みで
初めて知りました。ボクはそうした団体やその活動、主催する集会、website等に対して邪魔とみなされるような接し方をするつもりはありません。肩を持つわけじゃないですが、古井戸さんも同様だと思います。
別の言い方をすれば、前述の団体の存在を、web上で今まで以上に多くの人々に対して知らしめてしまったがゆえに、けしからん事を画策する邪悪なヤツ等(極右とか)による攻撃が、入りやすくなってしまったと憂慮するべきじゃないかと。。。
by nagara (2007-10-25 18:52) 

ほっと一息

nagaraさんへ
浜井市長を支持するnagaraさんは極左です。

A極右は太平洋戦争の戦争責任をアメリカといい、
B、極左は戦争(アメリカと日本)とします。・・・正義無き平和主義者
C、中道は日本(軍、政府、天皇、市民とさまざまですが)

どちらも日本の戦争責任追求を否定したり、あいまいにする点で足をひっぱっているのです。
自民党の中道右派・・河野洋平議員や石破防衛大臣より中道の人達の足をひっぱっていることのなるのです。

>前述の団体の存在を、web上で今まで以上に多くの人々に対して知らしめてしまったがゆえに、極右とか)による攻撃が、入りやすくなってしまったと憂慮するべきじゃないかと<

あなたのように考えるひともいますが、知る事によって支援者となる人も多くいます。

ま、とにかく支援までのぞみませんが、極左思想の啓蒙だけは止めてほしいですね。
by ほっと一息 (2007-10-26 19:03) 

nagara

ほっと一息さん、質問していいですか。すいません、理解のためにもう少しだけ。

ほっと一息さんのお立場はCですよね。
であるならば、米国を対日討伐軍とみなしているわけですか?
リトルボーイやファットマンは、そのための教鞭だと。。。
米軍が掲げるのが錦の御旗なら、赤の御旗を掲げたのがソ連とか。。。
by nagara (2007-10-26 20:21) 

ほっと一息

naguraさんへ
やはり平和主義者は、日本がどんなに極悪だったにもかかわらず、日本はどうすれば、抵抗をやめなかったのかを提示することなく、アメリカと日本を批判するんです。
対案無き批判は子どもでもできます。あるいは空想的理想論者

アメリカは、国内から侵略批判が巻き起こり、不戦条約以前からどこにも侵略してないんです。
なのに不戦条約を謀略でやぶり、アメリカや国連から侵略をやめるように勧告されても、無視して侵略しまくりの日本

アメリカは次に仏印と日本との仲介役までかってでたのです。
日本は条約拒否すると同時にアメリカに奇襲攻撃をやったのですよ。

何度もポツダム宣言されても、無視したり、本土決戦の持ち込むと返事した日本に一分の利も無いでしょうに!

無法者がナイフを持って抵抗していたら、ピストルで撃つしかないでしょうに
アメリカの兵士も守らなくはいけないからね。硫黄島でのアメリカ兵の被害を調べてご覧

ソ連は連合軍ですよ。

・・・
by ほっと一息 (2007-10-29 00:43) 

nagara

>アメリカは、国内から侵略批判が巻き起こり、不戦条約以前からどこにも侵略してないんです。

アメリカは;
米西戦争にてスペイン領フィリピンを侵略割譲
米墨戦争にてメキシコ領カリフォリニアを侵略割譲してます。


>無法者がナイフを持って抵抗していたら、ピストルで撃つしかないでしょうに アメリカの兵士も守らなくはいけないからね。

「かと言って、私は改憲論者ではありませんが・・・。」という一文が
抜けてますよ、ほっと一息 さん。


>ソ連は連合軍ですよ。

それはボクも知ってます。不可侵条約を破ったこともね。
by nagara (2007-10-30 20:43) 

ほっと一息

nagara さんへ
*米西戦争とは、1898年におこったアメリカ合衆国とスペインとの戦争である
*米墨戦争(べいぼくせんそう、Mexican-American War)は1846年から1848年の間にアメリカ合衆国とメキシコ(墨西哥)の間で戦われた戦争。


第一次世界大戦 1914年から1918年にかけて戦われた世界規模の大戦争である。

*不戦条約:1928年に締結された条約。パリ条約あるいはパリ不戦条約とも呼ばれる

>不戦条約以前<の以前をどのあたりか上記の年表を追ってかんがえててくだい。
また、第一次世界大戦のおいて、アメリカがどのようなかかわり方をしたか調べてみてください。

>不可侵条約を破ったこともね<
それが、>赤の御旗を掲げたのがソ連とか<
となりますか?

>「かと言って、私は改憲論者ではありませんが・・・。」という一文が
抜けてますよ、<

私は、安倍政権には改憲させてはいけない!派であり9条2項の改憲賛成派です。
ただし、核拡散防止条約推進派
by ほっと一息 (2007-11-01 18:37) 

yoshida

http://wikis.jp/PAL/index.php#r9fd2a93

資料をお貼りしておきます。ご参考までに。
by yoshida (2008-01-08 20:26) 

古井戸

中島氏の本は論破するとかしないとか、という本ではありません。
(パールの判決書ならばとっくに片づた過去の問題です)。
by 古井戸 (2008-11-18 16:35) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 4

パール判事の冒険餓死列島 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。