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涙なしのアソシエーション  世界共和国へ [Politics]

                                           

『地域通貨がうまくいけば、かならず税務署が出てきますからね。国家にとって、それは脱税に見えるのです。しかし、逆に言うと、国家の保護のもとでは、それは簡単に成立するのです。一般に、こうしたオールターナティブエコノミーは現在の資本主義国でも許容されるものだし、事実、政府が積極的にやっているところもあります。そう考えると、オルタナティブエコノミーのような運動は大切ではあるが、それだけでは国家や資本主義を乗り越えるものにはならないということがわかります』
柄谷行人、インタビュー@文学界8月号p120

『では、どのように国家に対抗すればいいのでしょうか。その内部から否定していくだけでは、国家を揚棄することはできない。国家は他の国家に対して存在するからです。われわれに可能なのは、各国で軍事的主権を徐々に国際連合に譲渡するように働きかけ、それによって国際連合を強化・再編成するということです。たとえば、日本の憲法第九条における戦争放棄とは、軍事的主権を国際連合に譲渡するものです。各国でこのように主権の放棄がなされる以外に、諸国家を揚棄する方法はありません』
柄谷「世界共和国へ」岩波新書、p225

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1 軍事的主権と 主権、は異なる
2 軍事的主権を日本は放棄しているとわたしは思っていない。戦争をしないことと、主権を放棄するとは別物である。

3 軍事的主権はもちろん、侵略に対する自衛的軍事行為であることは自明であるのだから。もちろん、日本国憲法もこれは放棄していない。したがって、国連に自衛権の一部は委ねている(これが現在の状態)が、これを 「主権の放棄」というのはおかしい。それでは民主主義とは、主権を代議員あるいは政府に譲渡し、構成員は主権を放棄した、ということになるのか? ちがうでしょ。国連を通じて、国民(あるいは国家)の主権を実現するのだろう?

国連は国家を安定運営する制度であり、国家を揚棄する制度ではない。国連という制度により国家も個人も変質を受けるのは当然である。

世界共和国になるための制度的条件。
各国市民が 国家の庇護を前提とせず、国連の庇護を受けることができること。簡単にいえば、国家発行のパスポート以外に、国連発行パスポートで人間としての権利を受けることができるようにすることだ。これが世界共和国=アソシエーションだ。

もちろん、国連United Nationsは国家から支出によりまかなわれており国家のコントロールにある。国家を介さず、世界市民からの支出、寄付により成り立つ民連、United World Citizens、と、名称変更しなければならない。

カソリックの保護や権力が国家とは独立に存在する(一種のアソシエーション)、国は多い。宗教対立が容易に溶けぬ現在、考慮する意味はあろう。無宗教のアソシエーション。

<参考> 柄谷『世界共和国へ』岩波、p181から。
カントは「世界市民的な道徳的共同体」は政治的・経済的な基盤が根底になければならない、という。
カントの具体的プラン:
1: 小生産者達のアソシエーション、富の格差が生じないシステム。
2: 諸国家がその主権を譲渡して成立する「世界共和国」=「神の国」


官僚の真実 [Politics]

朝日新聞、6/27夕刊。杉田敦の論壇時評。
「生かす」国家、というタイトル。
月刊誌各誌に登場している佐藤優の言い分を取り上げている。

佐藤は「国家には「国策」をふりかざして恣意的な逮捕をする暴力性が明確にあるという。。また官僚達は、したたかに利己利益を図る存在であり、国家は官僚に私物化されやすいと指摘する」

重要なのは「仕事に意義を見出している官僚」ほど「一般論として遵法意識が低くなっていく」という事実である(杉田)。

「 」内は佐藤の言い分である。笑ってしまった。佐藤自身は「仕事ができる」(と自分では思っている)のだろうから「遵法意識も低い」ということだろう。自分でそれを、証明している。

杉田敦は、西山太吉元毎日記者の「日米密約」暴露を取り上げ、米側資料の公開にもかかわらず日本の政治官僚が事実関係を認めようとしないことを告発している、ことを 論壇で述べている。

佐藤優は近著『日米開戦の真実』p103で、
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-06-14
「筆者は、外交の世界では時には真実を語れない場合があることもやむをえないと考える。。。このような密約(沖縄返還時)がなければ沖縄返還自体が実現されなかったかもしれない。」
こういう男がソ連との4島返還交渉の「真実」を国民に語り得るであろうか?

しかもp104で、
「。。。(沖縄)密約問題で明らかになったように、大本営発表の体質は現在の日本政府にも存在するのである。しかし、現在でも大多数の国民は政府に騙されていると憤っているわけではない。この感覚から、戦時中の日本人が大本営発表の嘘に対する感覚を類推することができると思う」

なにをとんちんかんなことをいっているのだろうか?「現在の大多数の国民は政府に騙されていると憤っているわけではない」のではなく、あきれてものが言えない状態なのだ。(米国の属国状態になった現状に落胆しているにすぎない)。外務官僚は米国にヘイコラして、コイズミになんとか狂牛を輸入してくれ、と泣きついているではないか。65年前の軍部、官僚は日米開戦を断固主張したが。その後輩たる佐藤優はそんな蛮勇はなく「長いものには巻かれろ。負ける戦はするな」という小賢しさを身につけた。これが 歴史から学ぶ教訓、だというのだからあきれる。佐藤は、150年前清国の属国であった朝鮮を笑えまい。それとも脱亜論、もう一回やる?脱亜論=脱亜米利加論。

大本営発表の体質は 現在の日本政府に存在する、というが正確には「官僚」に存在するのである。

ホリエモン、村上の逮捕劇も官僚同士の利権争いにしか過ぎない。 外務省に未だに所属する(休職中)は自分の立場を旗幟鮮明にしたらどうか? 政治屋やマスゴミの低能化がドンドン進行し、こざかしい官僚のやりたい放題言いたい放題の時代になった。政治学者がお追従していたんでは困るんるんルン♪

http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-03-15

生体解剖を行った731部隊の記録は終戦後米国に没収されたが、すでに防衛庁に返還済みと米国政府は述べている。しかし、防衛庁は知らぬ存ぜぬの一点張り。

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ソ連の共産党政治を倒したのは党官僚の非合理主義であった。
資本主義、民主政治を骨抜きにするのも官僚組織である。ソレが目立たないのは日常社会に「合理化、ロボット化、奴隷化」が蔓延しているからだ。


「公」考   寺島実郎の団塊論 [Politics]

                                                                  

4/4朝日新聞夕刊。思潮21 「団塊の世代へ」

寺島実郎が、団塊の世代をシッタ激励している。
 いわく、 老成を気取る前に 「平和」「公」自問を。

寺島の団塊世代認識:
1 団塊の世代が身につけたのは「他人に干渉されたくも、したくもない」という程度の私生活重視のライフスタイルのようなものだった。

2 ミーイズムの裏側で、私生活を越えた時代とか、社会の抱える不条理に対する問題意識は刻々と希薄化しており、ここに課題を残す。

3 われわれ(団塊の世代)は、独立国に外国の軍隊が長期に駐留し続けていることは不自然なことだ、という常識さえ見失いつつある。

ここまではよかろう(異論はあるが、我慢しよう、という意味ね)。問題は次だ。

「団塊の世代に問われるのは「新しい公共」への思想軸である。我々の世代は「公」というコトバが嫌いだった。「滅私奉公」といわれた時代を思い出したくないために、全体による個への抑圧を拒否した。今日でも「官から公へ」などとして官から民の二元論でことが運ばれがちだが、官と民との間には「公(パブリック)」という概念が存在する。いかなる社会でも、誰かが公的目的性の高い分野を支えて、利害損得を超えて汗を流すことをしなければ、社会システムは安定しない」

たいそう、わかりにくい議論をしている。なにがそうしているのか?
まず、寺島には、官とはなにかが、わかっていない(つまり民をもわかっていない)。つまり、官とは政府官僚のことであり、官は民に仕えるものである、ことを理解していない。滅私奉公、とは民主主義以前の概念であることを理解していない。公、とは、民、のことであり、断じて官のことを行っているのではない。これをしっかり抑えていないから自分でも何を言っているかおそらく寺島にはわからないだろう。

滅私奉公、というコトバは、近代以前、すなわち 国民主権、民主主義を国の前提とする時代以前に発生したコトバであり、お殿様が奴隷同然の農民等に、時代性を帯びた「民」の心得を示している「歴史遺産」的言語なのである。なにも、敗戦直後のハッピーカムカムやりまくり時代に生まれたベビーブーマー世代<団塊>だけに限らず、近代の市民がこんな 時代錯誤の標語に嫌悪感を示すのは、 あったり前田のクラッカーなのだ。 (公、の意味ががらり変わったのだよ。あるいは、滅私奉公->滅公奉私。まあ、革命が起こった(革命 by GHQ)のは1945年から数年の間のことだから、団塊代表寺島などに浸透していないのも無理ないか)

では、「官から民へ」という標語は、どういう意味なのか。どういう意味にとらえればいいのか?

官(僚の不合理かつ前近代的な組織運営)から

(官僚や政治屋の利権を許すことのない近代的な運営方法による国)民へ、

管理経営の主体を移管することなのだ。官とは上記のように、民に奉仕する官、なのだ。これを民(官)とあらわせば、官から民へ、は 民(官)から 民へ、なのである。

寺島は、官と民の二元論などと言っているが、もちろん、近代ではこんな区分はナンセンスなのであり、民一元論、が近代の民主主義精神なのである。 当然ながら、

            官と民の間には「公(パブリック)」という概念が存在する

などという、サンドイッチのオカズ(ハムと野菜のことよ)、みたいなお馬鹿な概念など存在するわけがない。「公」概念は 民に奉仕する、あるいは民が公に命令する、という形式としてのみ理解しておかないでおいて、沖縄や岩国で起こっている90%以上が基地設置に反対しているのに基地を強引に移設しようとするとんでもない事態を突破する論理を、どうやったら構築できるというのか。

 官と民の間には、官 --奉仕--> 民、という関係しかないのだ。 すなわち、公=民、ということ。
これをしっかり脳みそに焼き付けた後で、  思潮 してちょーだいね。

いまだに、戦争直後の敗戦国体制を引きずるニッポンの問題を解決しなければならない、という大きな課題を、団塊の世代<だけ>の問題、という世代論に収斂してどうするか。

「財団法人 日本総合研究所会長」たる 寺島実郎、より、 「芸人」永六輔のほうが、はるかに近代を理解していることがわかった(別の記事、9&99を参照して欲しい)、というお粗末な一席、これにて!

                       <幕>
ちょん!


天皇問題 [Politics]

最近のニュースで、皇室典範改正先送り、ほど、あっけにとられ、笑った出来事はない。
まるで、現在のニッポンの問題をぎゅっと煮詰めたような出来事である。
皇族の誰かさんが妊娠した、であるから、皇室典範改正(女系天皇を認めるかどうか)を「先送り」。。。なんだ、こりゃ?今時の技術なら男か女かは調べればわかる。皇族に人権などはないのだから早速男女のどちらかを、調べてみましょう、というのなら未だ話はわかるが。。

雑誌世界4月号で憲法学者横田耕一がこの件を論評している。同感するところ多し。

この記事では学者である手前、言っていないが、元々現在の憲法も出来が悪い、こと、天皇条項に関する限り。だいたい、民主主義、が第一原則であるにかかわらず、内閣総理大臣を天皇が任命する、最高裁判所長官を天皇が任命する。。などという規定がどーどーと憲法規定にある、ってんだから、これを大昔読んだわたしは、なんでこうなの?と疑問であった。任命する、ってことは、任命されるひと(国民が選んだ代表が選んだ人々)より、えらい、ってことなんだよ。天皇は国民よりえらい、のかい?そんなわけはない。

憲法第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

とある。この文章、どういう意味なのだろうか?解釈は様々にできよう(憲法解説書にどう書いてあるか、実はあまり読む気がしないのだ)。わたしなら、第一章の天皇(つまり第一条から第八条まで)をそっくり憲法から削除する。むろん、皇室典範も廃止だ。「総意に基づく」という意味は、総意がなければ解任、ということだ。であれば、4年ごとに信任投票すればよいではないか。空位になってもどうということはないのである。

横田喜三郎は終戦後まもなく発刊された「天皇制」でズバリ、上記の天皇問題を指摘している。(最近図書館で借りたのだが、この本、古書店でなんと、6万円の値が付いている。こういう本は安く手に入るようにして欲しいものだ)。天皇護持論者は天皇の伝統維持、をいいたがるが、終戦前の天皇の歴史は明治以来70年の歴史しかない(羽仁五郎が昔、指摘していた)。横田喜三郎も、戦後憲法の天皇、は、それ以前の「天皇」とは内容が全く違うのだからむしろ名前も変えた方が良い、といっている。明治維新直前まで、天皇はほとんどの期間死に体、であり、国民から見向きもされていない。暴力集団である武士階級が実権を握りその ハク、をつけるため 征夷大将軍職を 天子様から委任される、という形式を作った。むろん、政治的に、将軍を指名したり、政策にいちゃモンをつけるということは、あり得なかった。これは、明治以後も同じだ。利用されたのである。明治もそうだが、江戸期以前、デモクラシ、とか主権在民、とかいう制度の無かった時代の天皇概念、をそのまま伝統とか文化、という名目で維持する必要などさらさら無い。ある、という人々は、家元制度にして残しておけばいいだろう。妾などを仰山もうけ、男系、とするも自由だ。(そも、現在の技術からすれば、人工妊娠など簡単にできるのだから、私がかりに男系天王護持論者なら、じゃかすか子供を作るが。。人権など無いのだからバイオエシクス上の問題はそもそも発生しない)。

民主主義、とは、自由を尊び、それ以上に、平等を大原則とする。(いや、奴隷制もよろしい、小作人制度もあってよし、というのも1つの意見だろうが、それを主張する人々は社会に受け入れられない、というツヨイ覚悟で生きる必要がある)であれば、超国民(憲法でいう国民の権利は保障されていない)などの存在を許すのはそもそもおかしいのである。こういう機能の存在がなぜ生じたか?想像するに、江戸末期の武士集団の権力争い(=明治維新)で、武士らは 外国に対しおれたちは国家の主権を担っている。。という意識に欠けるところがあったのだろう(肩身が狭かった)。だから、昔からある(人民の代表ではないが)機能で当面の、recoveryをしたのだ。本来なら明治憲法をつくったところで、主権在民をてっていさせるべきだったのだがこれを行わなかった(だから、北一輝などは第2維新を主張した。結局、北一輝の主張の大部分は戦後、他力による「革命」で実現することとなった。。完全ではないが)。

さて、横田喜三郎は上記著書で、p260
「実際において、最近に、われわれはそのいちじるしい例を経験した。(略)太平洋戦争に至るまで軍部と官僚によって、わけても軍部によって、天皇制は極度に利用され、極端に悪用された。そのさいに、天皇の意志が弱かったことと、天皇制を含む神秘主義とは、非常に大きい役割を演じた。天皇の意志が弱かったことによって、軍部は容易に邪悪な目的を天皇におしつけ、その同意をうることができた。ひとたび、天皇の同意をうれば、天皇制を包む神秘主義によって、やすやすと国民の盲目的な服従と無条件的な追従を獲得することができた。」
と、述べている。

半世紀前の横田喜三郎の心配を受けたかのように、元自衛隊統合幕僚会議議長、来栖弘臣は『日本国防軍を創設せよ』(小学館、2000)の冒頭、改革すべき16の要点、その1として、

(1)天皇との距離を縮める、

と言っている。いわく、「自衛隊は天皇と疎隔されている。天皇が他の官庁や企業を視察されることはあっても、自衛隊をご視察にはならぬ。。。。国がこういう区別扱いをしておいて、首相が訓辞で、精強な部隊たれといくら要望しても無意味である。天皇を元首として身近に仰ぐことが、使命感を高め士気を鼓舞する所以である」。
来栖は、「自衛隊の法制度は不備である、有事には自衛隊は超法規的行動を取る」と発言し、時の金丸防衛長官から解任された(来栖氏は、2004年死亡)。
有事法、がない、というのはそのとおりだが、であれば、有事法を作れ、と主張すればよいダケのハナシである。そもそも、日本国の主権はどこにあるのか、とんと、ご存じないらしいひとであるようだ(もっとも、最近の国会議員にも同じような主張をするひともあるが)。自衛隊は、誰のための軍隊か?来栖は、有事の際、首相や国会の指揮を仰いでいたのでは間に合わぬ、独自の行動を起こす、と言っているのであり、シビリアンコントロールなのへのカッパ、だとおもっている。罷免されたからと言って自衛隊の思考法が一変するわけでもあるまい。国民の言うことなどきけるか!天皇という案山子、をたてて、自由に操ろう、という戦前並みの思考法を未だに隠し持っているのである。もちろん、これは保守系国会議員の利権的思考法、とも合致する。明治以来の、ニッポン的、あるいは、タゴサク的(宮台真司)立憲君主制がゾンビのように生きている。

 

こういう勘違いをスル人間がでてくるのも、現在の憲法第一章が存在するからである。皇族外交したい!などとだだをこねる皇族がいるのも、みても憲法における天皇のありかた、を理解していないのである。政治的行為はいっさいしてはならない、のだ。したければ、皇族を降り(注)、一般人として公務員になるなり、国会議員に立候補して一国民として、義務と責任をもっておこなえばよい。(自らの意志で退位する、という制度もちゃんと用意しておくべきだろう。)

(注)もちろん、憲法第一章を削除しすれば、「皇族」は一般名詞になるのであり、誰が皇族を名乗ってもかまわなくなる。雅子さんや現在の皇太子も一般人になるのだから、国会議員にも立候補できる。これは千宗室氏が国会議員や市会議員になるのと同じこと。子作りに励め、などと干渉されるような現在の、人を人と思わぬ扱いを受けるより(人ではないのだった。基本的人権無いのだからね。国民ではないのだ。。)、一国民として人生を全うされるのが良かろう、とおもう。千宗室が茶道を広めに海外に回るのはそれを待つ人がいるのなら、大いに結構な文化活動でありだれも止めることはできない。日本の元皇族、の訪問を待つ海外の人がいるなら親善訪問に海外を回るのも私人の行為だからだれもとめないだろう。

憲法第九条はそのままほうっておいても、自衛隊(現在の武力は多すぎるが)は残してもさしつかえはなかろう、と私は考えている。憲法というのは理想論を述べている、という点もある、から。あまりに国民の要求するところと隔離してきたら、選挙を通じて変更する道は残されている。主権在民、を徹底させる意味でも、まず、第一章を削除すべきだろう。国民が終戦直後に見せたようにすべてを軍部と天皇に政治責任に負わせたりせず、国民自身の決定に基づいて、その代表を通じて政治を行う、その結果は選挙した国民が負う、という体制を明確にするべきである。押しつけ憲法、というがマッカーサーが押しつけた象徴天皇制、天皇制民主主義こそ、真っ先に、謹んで返上し、完全な民主主義を実現すべきであろう。天皇家にとってもその方が幸せ、安楽な生活が送れるのである。


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