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朝吹真理子 『流跡』 [Book_review]

  
中篇小説『流跡』を読んだ。朝吹真理子著。 

先日、NHK-BS番組「週刊ブックレビュー」に著者がゲスト出演し、自作について語っていた。そのおしゃべりがずいぶん刺激的で面白かったので、早速近所の書店数軒に照会したらいずれも在庫がなかった。図書館に所蔵があったので借り出して読んだ(今年10月発売なのだが。。こんな評判の新刊小説が待ち合わせることなくスンナリ借り出せるのは珍しいことだ)。

この小説に要約できるストーリはない。ひたすらイメージが氾濫する小説だ、といってよい。冒頭、海中にせり出した神社が登場する。能舞台も備えている、というから私は地元の厳島神社を想像した。海中に大きな鳥居もあるのだから。そのうち、川の話になる。ゆいつ主人公らしき男は会社員を数年前やめて(同僚を殺したからか、勤め先の金を盗んだからか、判然としない)渡し船のナガシをやっているらしい。川にプカプカと水死体が浮かんでいる(よくあることだ、という。。。わたしは広島市の太田川に浮かぶ原爆死者を想像しながら読んだ)。この男、妻と一人の息子がある。妻とのコミュニケーションも儀礼的、息子には愛情を注いでいるが多分に計略的。計画的に愛情を注ぐ自分を客観視している。

しかしストーリなどどうでもよいのだ、この小説にあっては。ひたすらコトバ遊び、といってもイイ、細部の描写に精を出す。虫眼鏡を持って世の中を見ている、という感覚になる。

川の排水の臭気、腐った魚、生魚、腔腸類のぬめぬめした肌。倦怠。

BSインタビューに答えて、著者はあらかじめストーリなど考えず、一行一行をパソコンに打ち込み、打ち込んでは考え、また、打ち込む、という作業を継続した、という。終盤20~30頁の文章の流れ、リズム感はすばらしい。こういう具合。。(p80~81から引用)


。。。自分が死んだときの骨の焼き方ばかり考える。高熱によって皮膚のうちにたたえられていた液体がいくらかの水蒸気となり、清潔な燐酸カルシウムと細胞のかすもいっしょに煙として吐き出され、誰かがそれを吸う。空気といった流体にこまやかにまぎれ、光の粒子といっしょになったそれを知らずに吸い込む。この身体を構成していた有機的ななにもかもがこまやかに砕けて、目にもとまらない粒粒になってほうぼうに拡散してゆく。それが誰かの唇や頬をなぞったりとりこまれたりして肺にはいったりする。そうしていくつもの生体をとおりぬけてゆく。骨片もそのへんに撒いて腐葉土にでもなるか、海や川に流れて魚や腔腸動物にはまれたり、あるいは蒸発し積乱雲になって市に落ちるのもいい。やわらかいほとんど蒸気のような小糠雨となってはじめはゆるやかに髪を巻いた女のその一筋一筋の輪郭をなぞるようにすべりおち、皮膚のうちにしのびこんでゆく。血液にまぎれ、液胞としてうちにとりこまれながらたゆたう、身体のうちを浸す多量の液体のうちの、その女を構成するわずかなわずかな構成素としてしばらく流れてはふたたび体外にはみだし、海にそそがれる。終わりがない。そんな腑抜けなことばかり考える。死んだら記憶もみな無くなる。少年期の記憶も、今日の記憶も。記憶も燃えて、どこかにとんでゆくんだろうか。誰かがまるで自分の夢か自分の記憶であるかのように、この身体の体験のようなものを骨粉を吸いこむごとにみたりするんだろうか。この身体がいままで実体験としていた、いくつもの記憶も、誰かの細胞のかすを吸いこんでそれをふくめて自分の記憶のように思っているんだろうか。。。(引用終わり)

特段、深い思想が埋め込まれているわけではないが、ストーリもなく、登場人物の誰かが語っているというのでもない、こういう描写が長く続く。

この小説で頻繁にあらわれる文字は、流、水、海、川、死、雨。。などである。見たこともない漢字が使われる。オノマトペも多い。ケータイメールでしか使われないコトバも混じるから著者が誰かを知らなくても、若い女性、であることは容易に想像が付く。深刻な文章が続いた後、。。

はれ。ひやらひやら

とか、

お客さん、どちらまで

とか

  がやがや
おなかすいたなう


。。のようなコトバが、突然、挿入され、ガラリと場面が転換する、この絶妙の間合。朗読に耐えるリズムがある。 (....突然、と言ったが、考えてみれば、すべての耳にする、目に映るコトバは本来、誰にとっても、すべて<突然>に現れるのだ。突然、でなくなるのは、記憶、予期、習慣による学習効果のなせるわざ、この<学習効果>に依存したままでブンガクができるか、と著者は問いかけている)。こんな言葉づかい有り?と思われる箇所も多々あるがそれでも読みとおすのに困難を感じないのは文体とイメージの流れに動的平衡(とでもいうべき一種の安定)があるのではないだろうか。局所的には、つまりセンテンスと次のセンテンスの間に時間の流れはある、ようにみえるのだが、広域的には時間の経過も、脈絡もない(認識できない。つまり、われわれの日常生活や人生のように。時空の認識や前後感覚は局所的にしかできない)、という停滞、あるいは、循環がある。

この小説は、冒頭と終局で著者らしき人がパソコンにこの小説を打ち込んでいる、という入れ子構造になっている(パソコン画面から読んでいる、のだったかもしれない)。しかし、この工夫は余計ではなかったか?入れ子を無くした方が、読後に謎と密度と印象が深まるのではないか(逃げ場を与えない)と思うのだが。

ストーリなど余計なものに神経を削がれることなく、ひたすら一行一行に身を委ねることができる小説。できあがったストーリに依存してそれを表現するだけなら誰にもできる。詩のような文字を百頁も紡ぎ出し、読者を飽きさせないのは言葉の貯蔵と運用が要求される力業である。

BS番組司会の藤沢周はこの小説を称して<小説以前の小説>と言った。(武満徹がデビューしたときその音楽を演奏不可能、音楽以前、と侮蔑した評論家がいた、というエピソードを思い出す)

わたしは読みながらドーキンス(生物学者)の、遺伝子が実体であり、人間はその遺伝子を載せて、遺伝子を発現させる入れ物=仮想体にしかにすぎない、という考え方を想起していた。文字、言葉、こそが実体であり、一時的に活動を休止しても再生されうる~永遠の生命を保つ。言葉で表現される人間を含む世界は言葉を運ぶ担体=虚構、仮構であり、発生し、必ず消滅する、生者必滅。人間と、それを取り巻く現実の世界、あるいは歴史、は文字という役者が演じる舞台にしかすぎない。。。




著者は大学院(博士課程)で鶴屋南北を研究している。この小説には古語や、難読漢字(フリガナがなければ読めないし、意味も分からない)が頻出。印象的なのは理工学用語(述語)が多いこと。著者は理工学書を読むのが好きなのだそうだ。タイトル「流跡」は流体工学の書物を読んでいるときに発見した述語。あ、これだ!と直感でタイトルに採用したのだそうだ。ぴたり、の言葉だ。ただし。。流跡は、古典力学の世界の述語。言葉は語られてしまった瞬間に、語ろうとしたことから、逸れてしまう(再度、そして永遠に、逃げた意味を追って言葉を継がねばならなくなる。。)、という人間の表現世界に内在する、コトバと実在(あるいは意味、表現対象)の間の不確定原理~量子力学的構造をこのタイトルでは表現しきれない、というウラミが残らないか。

 
著者は小学校4年生ころからほぼ毎日、日記ではなく、フィクションのようなものをノートに書き付けていたそうだ(誰もみんな同じことをしているのだろう、と思っていた、と)。辞典を読むのが好きだそうである、とくに角川古語大辞典など。大辞典には絶滅したコトバが用例を付けて多数掲載されている。当時の人々の、唇にのぼった感情の運動。。その痕跡をいま、再生してみたい、と著者は言う。

 

 

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。 (鴨長明)

万物は水 (タレス) 



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rothko

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