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養老孟司は科学者か? [Book_review]

毎日新聞の書評欄『今週の本棚』は一冊の本を原稿用紙4~5枚で書評する。日本の新聞書評ではこれでも長い方である。

本日6/21の書評をじっくり読んだ。

今週の本棚:養老孟司・評 『稲作漁撈文明…』=安田喜憲・著
 ◇『稲作漁撈文明--長江文明から弥生文化へ』
 (雄山閣・5040円)
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20090621ddm015070005000c.html

この書評中、肝腎の『稲作漁撈文明…』の内容に触れるのは全体の1/4だけ、書評全文を読んでもらうと分かるが、あとは本書の内容とは関係のない養老の持論の展開あるいは垂れ流し。こんな書評ならラクチン、本を読まずに書けるだろう。これを読んで、全国の図書館司書は、うちの図書館でも、税金五千円を使って、是非本書を購入しよう!と思うのだろうか?


次の記述はミスリーディングではないか?

「物的根拠の利点は、間違ったときに原因がわかることである。当たり前だが、人は神ではないから間違える。しかし物的証拠に基づいていれば、訂正が可能である。最近の裁判でDNA鑑定の問題が生じたが、物的証拠だから誤りの訂正が可能だった。物的証拠の利点は確実さではない。訂正可能性である。そこをほとんどの人が誤解している。反証可能性こそが科学の基礎である。」

養老は足利事件の問題点を知っていたのだろうか?あるいは今、知っているのだろうか?知っているなら

<物的証拠だから誤りの訂正が可能だった>

などと簡単に言えるわけがないはずである。

「物的証拠という科学の衣装を纏った迷信があるから、多くの検察官、裁判官、取り調べ担当者、証人に誤りの訂正ができなかった」、というべきではないか。

そもそも、20年経過してやっと誤りを認めたことをもって、誤り訂正が可能だった、と言えるのか。

一般に捜査で誤りが訂正されうるのは、証拠が万人に公開され(検察に独占されず)、誰でも検証でき、実際審理に当たる裁判官が検察に従属していない公正な判断力の持ち主であることが、最低限必要である(これ以外に、いくつものハードルがある)。

狭山事件には犯人が書いた脅迫状が残っており、弁護側証人はこの脅迫状は石川容疑者が書いたものではない、と認定したが採用されなかった。

新聞報道によれば足利事件の場合、

1 容疑者のDNA型特定がそもそも誤っている。
2 被害者の衣服についていたというDNA型特定も、90年当時の鑑定法では疑問点が多く、とても、容疑者の型と<一致>と断定できない。

しかも、DNA型が一致したからといって犯人とは断定できないことは血液型の一致と同じである。無論、異なっておればその時点で無罪となる。そういうものである。DNA型は無罪の証拠にはなるが、有罪の証拠にはなりえない、ということである。

養老は
<そこをほとんどの人が誤解している。反証可能性こそが科学の基礎である>

とまで言っている。誤解しているのは一部の人間だけ、足利事件においては<検察、裁判官>だけではないか?あるいは養老も、だろう。一般人だって、証拠の危うい用い方にもとづく推論のおかしさは直感的に気づくものである。養老は勢い余って<反証可能性>までもちだす。なにをか言わんや、である。足利事件は<反証可能性>の問題以前の、偽証、無理解、偽造、誤判断が引き起こしたのであり、裁判所も検察の偽造と予断を見抜けなかった。つまり科学以前の問題なのだ。科学的知見そのものと、現実社会における科学的知見の正しい運用、の間には制度(誤りやすい人間が運用する)という巨大な溝がある、ということ。運用を誤った制度化なら、<科学の捜査への適用>はない方がマシどころか、権力に悪用されるのがオチなのである。


(注)反証可能性とは哲学者カール・ポパーが発案した概念だが、そのポパーは人間は誤つものである、人間から可謬性(fallibility)は絶対に除去できない、という理由をもって死刑に反対している死刑反対論者なのである。反証可能性くらいなら言及するが、死刑反対などとは養老は絶対に言わない、安全なひと、である。足利事件では判決が<無期懲役>だったから再審への道が開けた。<死刑>だったらこういう訳にはいかない可能性もあった。<反証可能性>を真剣に考えるなら、<死刑反対>という思想に真っ直ぐ結びつくのである。




書評の見出しは、「自然界の証拠に基づく大胆な推論」。大胆な推論、が必要であるのなら、この自然界の遺物がまだ<証拠>と言えるまでには人間の知見が成熟していないこと、そう専門家集団に認定されていないこと、すなわち、<証拠>とは言えないということではないか。こういうケチをつけてみたくなるほど内容のない書評であった。  内容のない書評であったが混入されたノイズにはいろいろ考えさせるところがある、という点でたいへんヨイ書評であった。
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タツ

古井戸さん、お元気そうではありませんか。

うち毎日新聞なので、この書評、おっ、出てるなと読みました。
図書館に購入を奨めるのが書評の目的であるなら、養老氏は、さすがに上手と思います。だって、安田喜憲氏の著作は、「神の手」事件の影響で開架できなくなったものがあるから、高い本を買って大丈夫だろうかと、購入担当者は躊躇するでしょう。
問題の起こったとき、この書評を上司に見せればいいから、ええい、買っちまえと…。(ならんかな?)

それはそれとして、「物的証拠という科学の衣装を纏った迷信」に、だまされやすい人は多いですね。
最近では、拉致被害者の偽遺骨のDNA鑑定というのがありました。あれ、いったい、裏で何があったのか? わたくしの推理では、遺骨は偽だと別ルートから情報が入ったのに、その情報源を明かせないから、鑑定データを捏造したんじゃないかと…。別ルートの情報が、天の声とか占い師によるものだったら、あとから訂正できないので、ほんと、ヤバイです。

by タツ (2009-06-21 14:26) 

古井戸

> この書評を上司に見せればいいから、ええい、買っちまえと…。(ならんかな?)

ならんでしょ。金欠ですから、最近。
もっとも、いい書評だったらいま金欠のわたくしは、書評だけで安心して本を買いません。ツマラン書評だから、えぇい!図書館で読んで、マトモナ書評をしてやろう!という人がいない、とも限らない、とはいえますね。

安田喜憲 「神の手」。。わたしは知りませんでした。検索しても分かり易い記述が出てきません。
by 古井戸 (2009-06-21 16:16) 

タツ

安田喜憲の本は、高校生が図書館で借りて読むにはお奨め――向学心を刺激するから――だけど、金欠人が購入して心酔しないほうがいい。その特性を、養老はうまいこと書いています。自分は、けさ読んで、ニヤッとしました。
安田喜憲については、「環境考古学 大丈夫か?」で検索してみてください。神の手については、「藤村新一 旧石器捏造」です。毎日新聞の有名なスクープをご存知なかったですか?

ネットの盲点、感じます。

by タツ (2009-06-21 20:32) 

正義の悪漢

養老氏が東京大学医学部の解剖学教授を務めていた間、彼の解剖学科から発表された論文の数を調べてみてください。
異常な少なさです。
学者の価値は、その発表した論文数にある程度よります。内容は勿論大事ですが、論文を多く出すことはその学科自体の活動を物語るもので、とても大事です。
解剖学なんて、もうやり尽くして新しい論文を書く意味もないのかも知れませんが、それなら、解剖学科は、医学部の他の学科に吸収させればよい。
しかも、単なる解剖学者が、どうして、脳の働きについて語ったり出来るんですか。
「バカの壁」以来、彼の書いた物の中に一つでも、人の心を打つ物があるでしょうか。
日本という国は不思議な国で、彼の解剖学科教授という、普通ではない経歴、それも東大という箔付き、それだけで彼の言うことを有り難いと思いこんでいるんです。
彼の言っていること、書いていること、全て無内容です。
古井戸さんが、取り上げるような人間ではないと思います。
by 正義の悪漢 (2009-06-23 21:10) 

古井戸

「藤村新一 旧石器捏造」

これは知っていますよ。講談社は、捏造石器に基づいて記述した<日本の歴史シリーズ>の該当巻を廃棄し、再刊しました。読んでヤッテください。
by 古井戸 (2009-06-23 21:21) 

古井戸

>「バカの壁」以来、彼の書いた物の中に一つでも。。

文学者でも科学は語れるし、科学者でも文学を語ってよい。しかも、まともなことを言う場合もあります。内容次第でしょう。養老の、唯脳論、とか「かたちを読む」は愛読しました。

脳のミクロ理論ではなく、脳のマクロ理論であれば解剖学者でも十分語れるでしょう。ただしいことをいう、という保証がないことは、脳科学者(歴史学者)が、脳(歴史)について正しいことを言うとは限らない、のと同じです。
by 古井戸 (2009-06-23 21:25) 

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