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秋葉原連続殺傷事件を考える 高村薫 大澤信亮 瀬川勝久 [Ethics]


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7月4日、毎日新聞<論点>は、『秋葉原連続殺傷事件を考える』。高村薫 大澤信亮 瀬川勝久の意見を掲載している。

1 瀬川勝久 元警察庁生活安全局長

ネット規制検討急げ
ダガーナイフの所持は絶対的に禁止を
公共の場所での犯行予告も警戒怠るな

瀬川の言っていることはこれだけ。 防犯すれば、このような犯罪が防げるわけでもないし、防犯活動で防ぐには膨大なコストがかかることは自明である。 何が問題なのか、が分かっていない。 いかにも、元警察庁、である。


2 高村薫 作家

少しの偶然で起きた
変わらない参入困難な一般社会の現実
気弱な青年が17人も殺傷できる異様さ

(ネットへの犯行計画を書き込んでもダレにも相手にされない、。。他者は他者でありつづけ、そうでなければ成立しないのがオタクである。。と、述べたあと。。)
「こうした社会環境は、個人を他者の身体から切り離すような先端技術から必然的に派生してきたものである。。。ひとつ間違えばそこにも無視と排除はあり、相手がいないゆえの怒りと孤独は、そこではいよいよ行き場を失うほかはない。自分が背を向けたはずの一般社会の現実が、あらためてのしかかってくるのは、そういうときである」

「学校の成績や就職の成否で人生が分かれてしまう社会のゆがみは小さくない。しかし、若者の爆発を生み出しているのは、社会という共同体の体系それ自体が、変わりようもなく強固に、彼らの外にあること、そのことである。消費文化をひた走り、売れたものが勝ちという単一の価値観を蔓延させる一方で、その一般社会への若者たちの参入を困難にしている私たち大人には、彼らの暴走を大声で憂える資格はない」

「くだんの青年をほかの青年たちから分けたものは、ほんの少しの偶然に過ぎない。もともと十分に反抗的ですらなかった気弱な青年が、強固な意志もなく勢いで17人も殺傷できる、この都市空間と消費生活のありようそのものを異様だと思うべきである」


異様だろうか?わたしにはチットモ異様ではない。派遣法=奴隷法、を可決してあとは野となれ山となれ、とほったらかしているほうがよほど異様なのであって、こういう労働環境から加藤容疑者に代表される若者が出るのは因果関係に沿った、当然の帰結である。現代の都市空間と消費生活、は原因ではなく、このような生活も空間も現代技術と ニホンの風土、のもたらしたひとつの帰結である。 数十人の殺傷事件などに驚いてはならない、織り込み済みとしてシュクシュクとこの道をニッポンは歩めばよい。。と、国家と社会の設計者なら言うだろう。

怨念や凶行は人間につきものである。今の時代に特有ではない。経済環境、労働環境が変わった。その変化が人間個人の行動と家庭、共同体にどのような帰結をもたらすか。そんなことはシッタコッチャねえ、というならその結果にもしったこっちゃねえ、でよいのではございませぬか?


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3 大澤信亮

絶望招く非正規雇用
凶行英雄視と個別的な原因追及に亀裂


大澤信亮とは?

http://www.ihatov.cc/blog/archives/2007/10/post_501.htm
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%E7%DF%B7%BF%AE%CE%BC


「もうファシズムか革命しかないんじゃない?」以前取材した自動車工場で働く青年の言葉だ。

(略)

(性格や家族関係など個別的原因の追及がなされているが。。)
最低限、共有すべきは、事件の背景に非正規雇用という雇用形態の問題があるということだ。わたし(大澤)が得た情報では、容疑者を派遣していた会社は、突然の解雇、労災の認定拒否、給料の天引き、労働者への蔑視など問題企業として知られていた。この種の劣悪な労働環境の横行は派遣法の改正以来常態化している。全労働者の三分の一が非正規雇用、再チャレンジもままならない現状で、これは一企業だけの問題ではない。
(略)
私は容疑者の境遇に同情するが、だからこそ、彼がやった事は絶対に認めない。ただしそれは彼を「身勝手」と一方的に切り捨て、社会の在り方を疑わない人たちへの危惧と矛盾しない。責任を個別に切り詰め性急に裁断する思考が、犯行前の容疑者と同型に思えるからだ。彼の憎悪は、自己と近しい他者の間をシーソー的に往復するだけで、ついに社会へは向けられない。
(略)

容疑者の感性は「極端な富裕層よりも正社員という近い存在こそが敵」と述べた「希望は戦争」の赤木智弘氏を連想させる。差し伸べられた手をも払いのける彼らに、届く言葉はあるのだろうか。そもそも彼らはなぜ近しい存在を憎むのか。心理の問題ではない。人間性の回復という問題でもない。容疑者のさらされた環境が、トヨタ - ネット - オタク、という「三重のグローバリゼーション」だった以上、必要なのは、個人を分断し構造的孤独に追い込む現実それ自体への冷徹な眼差しである」

大澤の現状認識にまったく違和感はない。これは大澤より二世代若い高村薫の認識と基本的に同一である。目の前にあるのは一世紀半まえ、マルクスが観察したのと同じ状況である。。。企業は、労働者のあらゆる血穴から生き血を吸い取る。。といった状況の再来である。違いは何か?いま労働者の手にはケータイがあることくらいだろう。

今朝の新聞の一面には、『生保十社に改善命令』、とある。オドロキもしないニュースだが。。十社合計の不払いは約800億円。金融庁は、保険業法に基づく業務改善命令を発動した、という。ハケン業法違反の企業に対しても、行政指導か注意だけ、あるいは、最高100万円の罰金だけ。

一世紀半前、マルクスが言ったように、労働力は特別な商品であり、需要の増減によって供給が増減するものではない(それを、マルクスは恐慌の根拠とした)。ニッポンのクルマ製造会社が機械部品の余剰在庫をゼロにするために編み出したジャストインタイムは、下請け会社と社会の犠牲により成り立ってきた。いまや、機械部品にあらず、人間労働力のジャストインタイム化を合法とする法律=派遣法が大手を振ってまかり通り、しかもその派遣法さえ骨抜きにする違法派遣があっても、違反企業に注意と行政処分にするだけ、たかだか100万円の罰金という甘い処分。マルクスが生まれ変わってニッポンにでもあらわれたら、腰を抜かすだろう。

今学校で何を教えているのか?人間の尊厳、人間は存在することだけでその価値を肯定されるのであり、いくら金を稼ぐかで価値が決まるのではない。社会的に有用な労働であればそれに差別はない。こういうことを教えているのだろうか?


クルマ産業と情報産業。先進国をリードしてきた企業群、企業だけに色目を使って労働者を労働力商品としてしかみなさない労働政策と法律しか生み出さなかった官僚と国会。国民から預かった金に利息を一切付けず、海外ファンドで損を出しまくってきた銀行保険業界。彼らの目標は利潤であり、税収であり、国民の幸福と厚生ではなかった。クルマも情報もカスでありクソであった。その帰結を巻き取らねばならない時期は近かろう。


「もうファシズムか革命しかないんじゃない?」  



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