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蔵本由紀『非線形科学』 自然理解の「述語的統一」 [Book_review]

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先日、夜、近所の書店で偶然手にした蔵本由紀『非線形科学』(集英社新書、2007年10月31日)は、ページをめくるなり著者の熱気が伝わってくる、胸の熱くなる書物だった(新書でこのような本は最近めずらしい)。どのページの、どの行も<流して書いたような>記述がなく、著者の意気込みが伝わってくる。主張つまりメッセージを持った人の書である。襟を正して読まねばならぬ、とはこういう本のことだろう。

内容は次の通りである。

まえがき

プロローグ

第一章 崩壊と創造

第二章 力学的自然像

第三章 パターン形成

第四章 リズムと同期

第五章 カオスの世界

第六章 ゆらぐ自然

エピローグ

全体は250頁。参考文献と索引が付いている。

目次から明らかなように線形的科学---わたしの理解によればニュートンあるいは量子力学の運動方程式、に初期条件を与え、積分すれば回答が得られるような世界を明らかにする科学、あるいは、この法則を基に観測対象を宇宙からミクロに設定して描ける世界--- ではなく、日常我々が特別の観測機器を使用することなく目にしている等身大の現象(非線形現象。それがいかに複雑であるか、従来の手法によっては捕らえがたい現象であるか)を、数式を用いずに分かり易く説明している。

わたしが強い印象を受けたのはこの本の端々にあらわれるが、とくに、エピローグに集中的に記された著者の科学観である。あるいは従来の科学観への違和感。

著者のメッセージは明確である。現在の科学の主流たる要素還元主義(超ヒモ理論もそのひとつだろう)への叛逆である。エピローグで著者は次のように述べている。

p244『このような自然観の信者たちは、科学という知識体系を一本の樹木のようにイメージしがちです。樹木の根もとには物質と時空の根源を探求する素粒子物理学があります。そこからはじまって、次には根本原理の応用、そのまた応用による大枝小枝が広がり、複雑多様な経験世界が末端にあります。しかし、このような見方は一部の信者のものというより、大多数の人たちが漠然ともっているイメージに近いのではないのでしょうか。そうだとすれば、ますます恐るべきことと私にはおもわれるのです』

p245『「不変構造」は「普遍構造」とも言い換えることができます。「普遍性と多様性」とは物理学者もしばしば口にする言葉ですが、前者が素粒子物理学の諸法則に、後者が物質科学レベルの諸現象に対応するのが、ごく当然であるかのごとく語られているのを見るのは、とても残念です。科学者はもうそろそろ脱してもよい頃ではないでしょうか』

これは強烈なメッセージである。

 p244『樹木の根にさかのぼることなく、枝葉に分かれた末端レベルで横断的な不変構造を発見できるという事実を、非線形科学は確信させてくれました』

 p246『よく考えてみますと「不変なものを通じて変転する世界、多様な世界を理解する」というのは何も科学に限ったことではなく、私たちは日々そのようなパターンにしたがってあらゆるものごとを理解し判断していることに気づきます。そうした理解や判断は何よりもまず言葉を通じてなされるわけですから、日常の言葉そのものが「不変なものを通じて変転する世界、多様な世界を理解する」という基本構造をもっていなければなりません。じっさい、私たちは「何がどのようにある」という基本パターンにしたがって、ものごとを理解しています。「何」と「どのようにある」という基本パターンにしたがって、ものごとを理解しています。「何」と「どのように」が変数になっていて、そこに値を入れる、つまり可変部分を不変にすることで知識が確定するわけです。あるいは、「何」を表すタテ軸と「どのように」を表すヨコ軸の交差によって知識を確定するといってもよいでしょう。このように、主語的不変性と述語的不変性の両軸があり、いずれを欠いても認識は成り立たないわけですが、特にここで注目したいのは述語的不変性です。

「愛犬が走る」「マラソンランナーが走る」「新幹線が走る」というように、「走る」ものの実体はさまざまです。「走る」という述語面にさまざまな主語が包まれるといってもよいでしょう。さまざまな実体が一つの述語的不変性によって互いにつながること、これはまさに非線形科学がカオスやフラクタルという概念を通じて、モノ的にはまったく異質なものを急接近させるという構造に酷似しています。とはいえ、これは単なる粗っぽいアナロジーですから、ほどほどのところで満足しておかなければなりませんが。』

p247~248『非線形科学で見出された現象横断的な不変構造は、単に述語的というよりも比喩、とりわけ隠喩に近い働きをもっているようにみえます。隠喩とは、たとえば「玉虫色」とか「氷山の一角」という表現に見られるように、元来何の関係もない異質な二物が突如結びつくことで新鮮な驚きを誘発する表現技法です。それに似た意外性が、非線形科学における現象横断的な不変構造にはあります』

『現象を支配する数理構造というものは外見からはうかがい知ることはできないものですから、共通の数理構造という深層でのつながりが表層では意外性をもつのでしょう。新しい不変構造の発見によって、個物間の距離関係が激変し、新しい世界像が開示される。このような機能が科学にはあるという事実は、もっと広く知られてよいことだと思います。そして、複雑な現象世界には、数多くこのような不変構造がまだ潜んでいるに違いありません。その発掘は、今世紀の科学の主要な課題の一つです』

これが本書の締めくくりのメッセージである。

著者は1999年に同じことを別の表現で語っている。岩波講座『科学/技術と人間』第四巻「科学/技術のニュー・フロンティア(1)」に収録の論文『開放系の非線形現象』。

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p174『地上の現象は概して複雑である。その多くは惑星の規則正しい運動とは違って、一本の因果的連鎖をたどることで理解できるようなものではない。多数の因果的連鎖のからみや非線形効果のために予測は容易に裏切られ、突然のカタストロフィーが訪れたり、思いがけない美しい調和が生み出されたりする。近代科学は残念ながらこうした複雑現象を記述する言葉を充分に発達させてこなかった。とりわけ物理学は人間的スケールからかけ離れた世界の探求にはたいへん熱心であったが、そこから主力を撤退させてしまった。 (略) たしかに、物理学は自然の基本構造を説き明かすことをその身上としているが、近年の非線形科学が明らかにしたように、経験世界のまっただ中にも目を凝らせば自然の基本構造が見えてくる。「基本」や「普遍」の意味を少し広く解釈すれば、生身に感じられる自然の「質」を剥奪しないことでかえって見えてくる「基本」や「普遍」があるのだ。』

p180『メタファは、具体的事実を説明するための実体的モデルとは異なり、個別現象の中に自然が潜ませているある普遍的な「仕掛け」を見ようとするのである。したがって、実体的なモデルが確立した後でも、メタファの存在理由は大いにある』

『モノを「主語」とすればコトないし現象は「述語」である。したがって、物理学の体系は自然の「主語的統一」にもとづいた知識体系だと言えるであろう。主語的統一にもとづく意味体系は基本的に樹状の構造をもつ。ある科学的知見は、この階層構造のしかるべき位置に組み込まれたとき、あるいは近い将来組み込まれることが期待されるとき、物理的知見として認知される。ところが、樹状の知識体系の大きな欠陥として、末端に行けば行くほど細分化されるということがある。末端の多様性はすべてアトムから演繹できるとしても、アトムまでさかのぼらず、あくまで複雑な現象世界にとどまりながら統合的な世界像を描こうとすると非常な困難に遭遇する。考えられる唯一の解決法は「多様な現象の中の不変な構造こそが自然のリアリティである」という自然観に立つこと、つまり「述語的統一」にもどづいて自然を理解していくことであろう。そこでは対象の物質的成り立ちは重要でなくなる。 (略) このような述語的な場を発見し、それに明確な数学的表現を与えることが非線形科学の最大の使命ではなかろうか』

##

この分野にはまったく素人であるが、わたし自身の小さな疑問、それに課題:

著者の言う「多様な現象の中の不変な構造こそが自然のリアリティ」であるとする自然観が、なぜ「述語的統一」にもとづいて自然を理解すること、になるのかということである。たとえば、「雨が降る」という現象は文法的には<雨>が主語だが、われわれは主語たる<雨ツブ>が、述語的な<落下する>運動すると、雨現象を理解しているのではない。窓を開けたとき、眼前にひろがる <降雨>という現象を(降雨がある。。という現象が眼前に広がるだけである。なにが主語でなにが述語、というのは恣意的であってよいはず)、西欧からもらった主語・述語図式を強引に適用して <雨> が <降る> と記述しているだけにしか過ぎない(対象がそのような構造をもっているのではなく、さらに、理解する必要もなく、偶然にある時期に発生した(西洋)言語の文法をそのまま保存しているに過ぎないのに、である)。げんに英語であっても、 It rains. と意味のない帳尻あわせの主語=It を強引に記述上(文法上)の理由で登場させている。日常言語における主部・述部パラダイムと、認識における主部・述部パラダイムはレベルの違う話で、前者を保存しても後者に影響は与えないし、後者を崩すのは前者に比べれば遙かに容易のハズである。著者は従来の要素=実体還元的な物理世界観に抵抗しているはずなのだが、「述語的統一」、と従来型の世界把握に戦線を後退?あるいは妥協させているのはなぜか、というのがわたしの疑問であり不満である。

この「述語的統一」は、廣松渉のいわゆる「コト的世界観」とどういう風に関連するのだろうか、さらに、非線形現象ともいえる経済や、政治の世界にこの「述語統一的」記述は適用できるのだろうか。こういうことに興味がある。

(注) 上記の引用中、「不変」と「普遍」は、誤変換ではない。著者は区別して2つの語を使用している。


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