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遠山啓 『代数的構造』 [Book_review]

                                     

日本評論社、1972年刊行。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4535601224/sr=1-1/qid=1163980805/ref=sr_1_1/250-4394691-2059415?ie=UTF8&s=books

いま品切れのようである。

内容は。。
第一章 構造とは何か
第二章 数学的構造
第三章 群
第四章 環と体
第五章 ガロアの理論
第六章 構造主義

とりあえず、本論2,3,4章を除いた概論である第一章、二章、六章を読む。素晴らしい。

さっそく、この本の元本である、筑摩書房の数学講座10『代数的構造』を古書店に発注した。

第六章で遠山は現代思想としての<構造主義>に言及し、数学的<構造>、とその限界についてコメントしている:

「。。これまで述べたように数学的<構造>は現代数学のきwめて強力な武器であることがわかった。しかし、はたしてそれは万能であろうか。
 まずそれは時間的というよりは空間的である点に最大の特徴がある。ブルバキ(フランスの数学者集団)がそれを建築物にたとえたことからもわかるように、それは空間的であり静的である。
 構造に限界があるとしたら、まさにその点にあるといえよう。時間的なものを完全に空間的なもののなかに解消してしまうことができないかぎり、時間的なものは構造からこぼれ落ちる他はあるまい」

。。として、構造主義者でありながら、構造間の発展に注目(したと私には思える)フランスのピアジェの構造理解を示す。p230

「。。この(思想運動としての)構造主義がややもすると陥りがちな硬直からそれを救い出し、その生産性を回復するために書かれたと思われる心理学者のピアジェの構造主義論を紹介しておこう。
 彼は構造の条件として、つぎのような3つの条件を提示する。
1 全体性
2 変換性
3 自己制御
ピアジェは1の全体性についてつぎのように述べている。
「構造固有の全体性の性格ははっきりしている。というのは、すべての構造主義者たちが一致して認めている唯一の対立は、構造と集合体 -- すなわち全体とは独立した要素から成り立っているもの -- との対立だからである。

(略)

 しかし、このように、全体と部分とを氷炭相容れない対立概念にみることは、誤りであろう。そのことについてピアジェは次のように述べている。
「あらゆる領域で、認識論的態度が、構造的法則をもった全体性の承認か、それとも要素から出発する原子論的合成かといった二者択一に記せられると思い込むのは誤っている」

 簡単にいうと、要素無き全体か、全体なき要素か、という問題設定そのものが誤りである、というのである。事実は、全体が要素への分解をどの程度まで許すかという問題になるだろう。化合物を元素に分解することは一つの全体を要素に分解することに他ならないが、さらにそれらを合成することによって元通りのものが得らることもあり得る。
 この場合は、全体と要素が互いに移行しうるものであり、したがって、両者を排他的に分離することは正しくない。
 もちろん、いちど分解してから合成すると、元にもどらないものも少なくあるまい。そのような場合には全体と要素は互いに移行し得ないものとなる。
 だが、このような非可逆性も、技術の発展によって可逆的となることもやはり少なくないだろう。」

↑私(古井戸)は、この箇所で、レヴィストロースが『野生の思考』で、非難、揶揄した論敵、サルトル(『弁証法的理性批判』)を思い出した。レヴィストロースのサルトル観は現在に至るも変わっていないのだろうか?

ピアジェと構造主義の関係は(さらに、レヴィストロースの数学知識の不十分、フーコーの数学知識は皆無。。であること。しかし、レヴィストロースの仕事には歴史的な価値があること。。)最近ちくま学芸文庫になった、山下正男『思想の中の数学的構造』の まえがき、に略述してある。

山下『思想の中の数学的構造』(80年)は、山本義隆『重力と力学的世界 -- 古典としての古典力学』(81年)と並んで、70年代、雑誌『現代数学』に連載されたあと単行本化された。

山下正男は文庫版あとがきに、出版時の時代背景を知るため、としてつぎのような簡単な年表を付けている:

1962年 レヴィ=ストロース『野生の思考』出版(仏)。      構造主義ブームを起こす。
1968年 フランス五月革命起こる
 68-69年 日本の新左翼学生運動起こる
1970年 日米新安保自動延長。以後学生運動退潮。

1989年 ベルリンの壁崩壊
1991年 ソ連解体

山下は、同じく、文庫版あとがきで 「。。。1980年という年の思想的状況はマルクス主義と構造主義が対立していた時期だといえる。本書はそうした対立する二者のうち構造主義にすり寄ったかのように思われるかもしれない。しかし事実はちがう。本書は構造主義の意味を認めながらもその不徹底さを厳しく批判したものだからである」とし、思想史上の人物として 哲学者と数学者を兼ねていた、タレスとデカルトをとりあげている。


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