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姜尚中『愛国の作法』朝日新書、の書評を読む [Joke]




姜尚中『愛国の作法』朝日新書、の書評を読んだ。2006/11/19毎日新聞。

書評者田中優子(Tと略)センセは、。。

近年著しい市場のグローバル化は、個人のアイデンテテからも ナショナルなモノ、をはぎ取りつつある、が、しかし、そのグローバル化を推進しているのは、まさに国家なのである(正確に言えば、潜在=軍需産業、海外を含む企業群の圧力じゃね)。

つまり、政治改革こそが 国民国家の 墓堀人になりつつある。。(格差、はその、つまり 国際間比較優位のひとつの 帰結)

多くの国民はそれを 不安、と感じている。次世代、次々世代はどうなるんだろう~?

所得、雇用、自由、平等、非差別、つまり憲法で保障していた、公共的価値が 公的な領域から 私的な領域に 移し替えられつつある。公的保証 --> 自己責任。リスクの個人化。セーフチネットの剥奪。

社会保障の剥奪の代償として、不安の増大 ーー> 治安、公安への関心として あらわれる。
       では、なぜ、それが 愛、という言葉で表現されるか?

つまり、政治、経済、社会保障の問題であるなら、政治改革の方向を見定めることが真っ当であり、 愛、を告白している場合では無かろう? (と、Tセンセ)。

姜尚中は:
ほんとうは「意志的作為」としてしか存在できない近代国家に、日本人が感性的自然に基づいた民族共同体をもとめているからではないか、
と考える(Tセンセによれば)。

愛、とか、美、とか 意志的作為にふさわしくない言葉が首相から語られ、法律にまで盛られる。これはリアリズムを失った呪術的国家ではないか?(Tセンセ)

しかり。しかるがゆえに、伊藤博文は ドイツから憲法を輸入するに当たり、トッピングとして 呪術的「天皇制」を持ち込んだのである。国民は、意志すべからず。作為すべからず。あるがままの自然に従え。(しかじかをナス、ではなく、しかアル。)

姜尚中はそう考え、「自分なりの愛し方をもつしかない」と、この本を書いた(双六の、振り出し、でんな)。

姜尚中の「愛し方」:

愛を、「尊敬すること」つまり「対象のありのままの姿を見て、それを唯一無二の存在として知る能力」「ぎりぎりまであるがままの姿を知り尽くし、その上で信じること」
であるという。 リアリズムが必要であり、同時に国の理想を語ることが愛国だという。

その理想とは、「開放された個人の高度な自発性と主体性」つまり自由をもって、絶えず作りあげられていく国である。

Tセンセは、確かに、愛とは、自由と理性がなければ実現できないものだ、という。

しかし、愛とは多義である。漠然としている。人の数ほど愛し方はあるし、経験により愛し方も異なる。自由と理性がなければ、。。というけど、自由と理性も測りがたい。

古井戸の解釈を述べよう。

男女間に置き直せば分かり易い。これほど愛しているのにー。。といっても愛とは所詮主観的なモノ、測りがたい。形で証明してよ! と、sexを求めるバヤイもあろうし(ええなあ~)、ダイヤモンド買うて!というバヤイもあろう。この測定可能な物理的条件を満たさなければ、ケツコン、しなければよい。別れればよい。それだけのことだ。これが選択の自由。

憲法第22条の(2) 何人も外国に移住し、または、国籍を離脱する自由を侵されない。

(つまり、現在タマタマ日本国籍を有する人、に向かって、おねがいね。日本国民でありつづけてね!と、依頼する側が 愛して、というのである。選択する側は 憎かろうと(にくさアマって愛しさ100倍)、愛そうと、勝手である)

しからば、国家にこれは当てはまるか? 愛=国家、とは?日本人に限らず、国家とは生まれたときは選択できない(成人して日本国籍を有しない人間が、日本国を選択し、国籍をゲットするのでない限り)。 

国家愛、愛国にかぎっていえば、愛とは国を選択する前に、個人に働く感情にしかすぎない。ただし、愛が多かろうと少なかろうと、憎かろうと憎くなかろうと、国を選ぶ動機は 公の関知しないことである。これは思想信条の自由に属する問題、基本的人権である。

愛、と、憎。このふたつの感情は 基本的人権として保障されるのである。その結果、どの国を選ぼうと、棄てようと 個人の自由である。 これを保証するのが 近代的国家なのである。 たまたま生まれたところを 終の棲家、とするかどうかは個人の姿勢(めんどうくさがりかどうか)に依存するに過ぎない。

まあ、でも、ここまで覚れば、基本法に愛、が書かれようと書かれまいと、おたおたすることはないんだがね(愛国心などという語句を法にもりこみ、トンデモ国家ぶりをアッピールする価値はあるだろう)。

らぶみてんだー。

姜尚中『愛国の作法』朝日新書。積ん読中。読む手間が省けた。


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コメント 2

reiko

私は 日本に生まれたことを幸運と思っています。
古井戸さんのおっしゃる男女愛にたとえた場合、’puppy love’を卒業しましょう、というのが政治改革なのではないかなあ、と思っています。お互い成熟し独立した人間として状況を見ながら相手を見て考えないと。
相手を信じて 例えば納税、あるいは使い道に関して大らか過ぎるのも(特にサラリーマン)問題だし、相手を馬鹿にして 税金の使い道を勝手に決めてしまうのも問題(特に文化、福利厚生)。独立した同士だと 価値観も当然違うので もう少し不信の関係であるのも緊張感と主張があっていいと思っています。(文化に対する寄付で減税というのはその例でしょう)
>愛、と、憎。このふたつの感情は 基本的人権として保障されるのである。その結果、どの国を選ぼうと、棄てようと 個人の自由である。→でも、これは本当に知識認識があってかどうかというのが問題でしょう。そこの国の人たちが税金で築き上げてきたインフラを使うのですから、使い逃げはまずいでしょうから 都市間移動とはちょっと別問題でしょう。
友人が NYで 遺言弁護士をしています。彼女の顧客の何人かの機会均等法以前の能力のあるアメリカに働き場所をみつけた日本人女性が今直面しているのは 働いてきた 生きやすかったアメリカか 生まれた 自分が窮屈だった日本か、どちらを終の棲家にするか、だそうです。
千葉敦子さんを思い出します。。
付け加えれば 私は日本に生まれたことを幸運と思い、自分が日本で生きやすいと思うことが またさらなる幸運だと思っています。属する’国’の問題に関しては よほど強い意志と意欲がないかぎり’運’の問題かもしれません。。
by reiko (2006-11-19 13:23) 

古井戸

> そこの国の人たちが税金で築き上げてきたインフラを使うのですから、使い逃げはまずいでしょうから 都市間移動とはちょっと別問題でしょう。

90%が旅行者、というケースがあるでしょうか?旅行者も金を落とすでしょう?国家間移動はとくに入国側の障壁が高いのが普通です。障壁が高いかどうかは、 手続の問題。愛国の議論には影響しません。愛国心は、手続ではなく理念の問題です。
by 古井戸 (2006-11-19 13:42) 

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