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高田明典 『世界をよくする現代思想入門』 ちくま新書 2006年1月刊 書評 [Book_review]

現代思想とはなにか。哲学とどう違うか? p29

現代思想の目的は、哲学の目的と異なる。前者は「目的を離れて、正しいとか正しくないとかを議論することはできない」とする。「色々な目的をもっている人たちが全員完全になっとくできるようなものの考え方」というものは「考えられない」p29
つまり、現代思想は「普遍的真理の存在を否定する」 p29

現代思想の特徴は「目的と方法は分けて考えることができない」という立場を取ること。現代思想は哲学と異なり、「初学の学」という立場を放棄する。

まとめると:
1)世界認識は目的により異なる。
2)目的を達成するための方法も、目的により異なる。

したがっていかの枠組みが生まれる。
1)対象領域を限定し、対象となる事物事象を明確にする
2)対象となる事物事象をどのような状態に誘導したいか、と言う意味での 的(まと) をおく。
3)その目的を達成するための方法を、対象となる事物事象の観察を通して構築する
4)その方法を実践する。 p32

何らかの目的を達成しようとするとき、まず、対象とは何か、対象となる世界がどのようなものか、を考える。「世界がどのようなものか」を深く考えたのはフッサールである。フッサールは、目に見えたものを そのまま、人間は認識できない、とする。解釈がかならず介在する、解釈は目的に従う、その従う方向性のことを、「志向性」と呼んだ。

意識が、世界、を把握しようとする。この意識が、志向性である。(ニーチェでは、「力への意志」) この志向性により世界は分節化される。文節化は言語記号により行う。この過程で重要なのは、
       最初に意志が存在する
ことである。人間の言語は、世界を ありのままに みることはできる道具ではない。(フィルター=眼鏡を掛けてしか見えない、脳に支配された網膜を経由しなくては見えない)。

言語の登場。。。。

使用する言語により「世界の認識の方法が別々である」、つまり、「言葉の世界の主人は、もはや、人間であるとはいえない」ということ。言葉は人間が作り出した物であり、個人の言語使用(パロール)の蓄積が言語体系(ラング)であるにもかかわらず、人間は、言語に束縛されるということになる。

人間は、自由に自分の意志を表現し、自由に世界を認識する、ために言語を使っていると感じているが、その実、思考や世界の認識を方向付けているのは言語である。。。つまり、「言葉の世界の主人が言語になっている」=言語の専制。

よい、わるい、の定義:
善悪というものは、事前にではなく、事後に、毎日の生活の繰り返しにより形成されるものである。毎日の営みとは、この社会に既存する様々な制度(=言語)により規定されている。

制度は、人間が、人間社会をよりよく運営するために生み出したもの。しかし、その制度が人間を疎外し、束縛、苦しめる。これは言語も同様。ウィトゲンシュタイン(以下Wt)によれば、言語もまた制度である。
(このねじれを、矯正し、主人の座を人間にとりもどそうという実践が、デリダのいう脱構築)

言語ゲーム by Wt
Wtの言語ゲームが明らかにしたのは、『主体』は存在しない、ということ。存在するのは言語制度である、しかし、「他者は存在する」ということ。私、は存在しない、存在するのは「超越確実性言明の束」を無根拠に引き受ける機能としての自我のみである。この自我(=私)は言語制度の機能により発生するものであり決して「超越的に存在するものではない」
p188

さて。。そろそろ結論に。。

p193
。。世界を良くする上での行為をしたり、思考をしたりする主体として自分が存在する。世界を良くすることを考える(一種の行為)の行為者(主体者ではない)は「私」である。<<しかし、その世界は、他者が引き受けているものでしかありえません。 自分(自我)は誰かの「他者」として、世界を引き受けているという立場を持っているにしかすぎない>>
この状態を「利他的な行動こそが、正しい行動である」と読み誤ってはならない。「利他的な行動」というのは「私にとっての利他」である。「世界を<よく>する」という行為の主体者は世界そのものである。そして 世界 とは 言語、である。

p193 今、「たいへんな地点」に向かいつつあるということにちょっと注意して読み進めてください、と著者(高田)は念を押す。。。

p205 
問題がすこしずつ明らかになってきた。。。これまで私たちは「主体は個体に存在する」という「個体というドグマ」にとらわれるあまり、「言語制度の発生する場所」と「言語制度に従う個体」を同一なものと考えてきた。しかし、「個体は言語制度に従う存在」だが、言語制度の発生する場所は「個体・個人」ではない。「言葉が生まれる場所」は共同体である。

著者いわく「この考え方は、おそらく即座には受入れにくいものだと感じられるでしょう。「言葉は個人の知的機能である」と考えられる場合が多いからです。しかし、ここまでの思想家・研究者の考え方を綿密に精査するならば、上記の考え方が妥当なものであることがわかるとおもいます」

唖然。急転、納得せざるを得ない結論。

懇切なブックガイド、用語説明、それに索引まで付いて、260ページ、780円プラス税。

結構な読書タイムでありました。

本書の続編のようである高田の『私のための現代思想』光文社新書も購入。

著者は、広松渉の『科学の危機と認識論』を基礎文献中の基礎文献として推奨している。私の持っているこの本の購入日付を見ると74.7.25とある。かき込みなどがあるから一応読んだことにはなっているのだが。広松全集版で再読しよう。全集版第三巻『科学哲学』の巻に収録。この巻には広松のマッハ論、相対性理論関係論文(アインスタイン論)、も収録。


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コメント 5

すずめ

《世界とは言語である》 とても結構だと思います(*^_^*)

で、《解釈は目的に従う》も妥当に思えるが、解釈には「自己保存」が働いている、その意味で存在の《目的に従う》と言える。では 保存しきれない時自分が瓦解してしまう時、それを理解と言う。目的を見失い、自らの大転換を強いられ、それをくぐりぬけた後にこそ 「理解」は完了する。ゆえに 解釈は自己変革を伴わない、いわば外部の出来事なんだろうと 思う。
by すずめ (2006-10-07 18:14) 

相田ミスお

まあ、上の方法(すずめさんの)で世界を認識するのに最も適切なのは<恋>ですな、恋(笑)。<自らの大転換>を強いられてこそ、男は精神的童貞から抜け出すわけだから。相手のことを理解しているなんていうのは、ようは自己保存のための<解釈>であって、女とは何をするかわからない生き物だと学ぶには、圧倒的な<瓦解>が必要なわけです。
by 相田ミスお (2006-10-08 00:10) 

古井戸

コメントありがとう御座います。
一応、著者のストーリを忠実かつコンパクトに再現したつもりなんだが。
最後のどんでん返し、どこが、ドンデンなの?と突っ込まれるかと思って。。冷や冷やしておったんだが。。
わたしとしては、わたしなどいない、われわれしかいない、とおもっておったから。

構造主義をちょっくら勉強し直します。(レヴィストロースを買い込んだ)。
by 古井戸 (2006-10-08 00:17) 

すずめ

《圧倒的な<瓦解>》が 恋に必須なら、思い出した
σ(^^)って 恋をしたことがあるんだぜ。。
by すずめ (2006-10-08 19:45) 

古井戸

> 解釈には「自己保存」が働いている、その意味で存在の《目的に従う》と言える。では 保存しきれない時自分が瓦解してしまう時、それを理解と言う。

瓦解=理解ね。壊して再構築。

そういえば、私たちのこと、脱構築としましょうね?と言われた。別れ際。
by 古井戸 (2006-10-09 06:54) 

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