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いじめは重大な人権侵害 [Education]

今日(10/19)、午後3時頃、NHKラジヲを聴いていた。
子供の問題を扱う視聴者参加(相談)番組である。局には子供のケアをするコンサルタントが控えている。

ある母親からの電話があった。せっぱ詰まっている。母親が言うには、子供が学校でイジメに遭っているらしいことを、最近知った。。。PTAの委員もしているこの母親が中学校の体育館をふと覗いたらムスメ(1年)が隅にじっとたたずんでいる。体育の授業。跳び箱だ。(後で、母親がムスメに尋ねたら、列に並んでいても、他のみんなが無視して列の前に割り込み、いつまでも順番が回ってこず、飛ぶことができない。だから体育館の隅にいたのだ、という)母親は体育館で教官に尋ねた、これはどうなっているんですか?先生「ええ、いつも、こうなんですよ」

なぜ、授業を中断して、注意、叱責しないのか!?信じられないことである。 しかしこれが、イマの学校の実態なのである。 これが、学校、といえるか?

<追記:こういうとき、今のワタシがかりに教師であれば、どうするか?隅にいた生徒だけに体育館で跳び箱をやらせる。他の子供は体育館から追い出して校庭で遊ばせる。それで不満なこどもには、国語の教科書を最初からノートにヒッキさせる。放課後全員を居残らせ、これ以後、イジメを発見したら、放校する、と告げる。校内に立入りを禁じる、と。先生がこういった、と親に言っておきなさい:イジメは学校でも社会でも許されない、と。
眼前で、いじめを目撃しながら、放置する教師の頭はどうなっているのだろうか>

このムスメさんは小学校の時からイジメに遭っていたらしい。親を困らせないように、ガマンして登校しているのだ。母はこんな状態なら学校に行かなくても良い、とおもっているが、父はそう思わない、父母の争いになる、それがイヤな子供は親に話さなくなる。。(通常の反応である。昔の私がそうだったように。。) 。

各地の学校で起こっている事態は、悪ガキどもが平気で弱い子供をいじめっぱなし、先生がそれにお手上げの状態、ということ。なぜ、悪ガキを放校しないのか?クラス全員が悪ガキなら虐められている子供を除いて、クラスをロックアウトして、イジメに遭っている子供だけに校門を開けばいいのである。

NHKの相談番組は、あ、時間が来ました、といって、ばかばかしい映画音楽リクエスト番組に切り替える。なぜ時間延長してでも母親の意見を「シッカリ」聞き取り、コンサルタントもありったけを話さないか。キット、話すコントロールなど何もないのだ。立ち往生なのである。せめて、あとで折り返し電話を差し上げます、となぜ、言わないか。それで息を潜めてこの番組を聴いている全国のイジメに遭っている子供の母親は少しは慰められ元気づけられよう。味方が欲しいのだ。

コンサルタントは、あ、時間が無くなりました、結論だけ手っ取り早く言いますね、とアドバイス。母親に無理に登校させなくてはいいのですよ、と話す。NHKの♂アナはこれはひどい、といいながら怒りをあらわすでなく、ダンマリ。なぜ、それは学校が悪い。こういう学校を放置して良いのか、と、コンサルタントも怒らない。 怒りを忘れたニッポン。

母親は闘いの真っ最中である。なぜ罪のないムスメと母親が苦しみ、肩を寄せ合って生きなければならないか?なぜ、いじめている奴らが大手を振って歩けるのか?そのうち虐めたことなどけろりと忘れて優秀な受験生となり大学合格して、ノーノーと社会を渡るのか?

狂っているニッポンでいかに、狂わずにおれるか。

虐められているこどもと、その母親、家族に連帯の挨拶を送りたい。

                         ###

教師一人を非難すれば虐めでしょう。
しかし、教師だけではなく、じっさいにイジメをやった生徒が何十人何百人おり、反省のない父兄も何百人います。
教育委員も真実を話せ、虐めに荷担した生徒を閉め出せ、といいましたか? 虐められて当然のことをやるのを虐めるのはイジメではありません。 罰、であり報復です。
自殺したコドモや、上記の母親の娘に(放送を聞く限り)どんな罪も認められない。

虐め、ではなく、 犯罪を犯したものは罪に問われる、ということです。

キムジョンイルをよってたかって非難するのは、拉致ゆえです。

核は、罪でも何でもありません。
中国ロシヤアメリカフランス英国、印度パキスタン、ジャカスカ実験をやっているではないか。劣化ウラン弾、という放射性は弱いが、市民を無差別に殺す非人道的武器を、核をもっている(だからどうだとういのか?けっきょくもっていなかった)だけでしないにぶち込む。 

件の入院した教師は、口がきけるのであればベッドの上からでも、病院からはい出ても、マイクの前ですべてばらさなければならない。

しかし、この教師ではなく、同じことをやっている教師はたくさんいる。権力侵害という犯罪を犯した生徒も放置されている。万引きなら店のオヤジにつかまって警察に通報される。万引きより重大な罪(権力侵害)を犯した何百人という生徒と教師は、学校という、治外法権(ではない)という領域で見逃される。

いいたいのは、正義を教えろ、ということだ。教師と生徒に。

核拡散防止条約に 正義は少ない。正当性は疑わしい。 虐めは 人間の絶対的権利保護の問題だ。 <重み>が違う。どちらを、重視しているか? でその人間のタチイチ、が決まるだろう。

> 結局「イジメ」の連鎖ではないんでしょうか。。。

この認識は間違い。そうでないと、死刑囚の縁者は、国に対して恨みを永久に持つ。 国に死刑にされたのではなく、正義という名、で死刑にされたのだ。もちろん、正義とみとめられなければ、国は永久に報復の対象になり、連鎖は続く。やむを得ぬことだ。宗教にでも逃げ込む以外にない。
人間社会の宿命だ。

イジメ事件が発覚した後、のこのこと調査に当たっているのはすでに事実をよく知っていたのに隠している教師や教育委員会である。こいつ等に、事後、調査を任せているのは愚の骨頂。教師や教育委員会は、犯人たる生徒と同じく、共犯者なのである。犯人候補に調査を任せているなど、お笑いである。 外部(できれば他の地域)から民間の第三者調査機関が調査に当たるべきである。それができないなら、自殺した親は被害届を提出することになる。 

                       #####

『いじめを苦に子供が自殺したというニュースほど胸が締めつけられるものはない。そして言いようのない恐怖と不快感に身震いする。子供が子供に対してこれほどまで卑劣で陰惨で酷薄になってしまったわれわれ日本人という種には、もう未来がないのではないか。これは種が絶滅へと向かう序曲ではないか。。。。。。。。

(略)

いじめは常に集団で行われ、この集団から排除されることを極端に恐れる子どもたち。「少数派排除と異端者狩り。強いものへの迎合」という、まるで大人社会の縮図のような寒々とした子供たちの世界が立ち上がってくる。その背後には効率一辺倒を追及してきた戦後日本の経済至上主義がある。「お宅の子の自殺騒ぎでうちの子の受験に差し障りがあって迷惑している」と言い放つ親たちの心も同じ病に蝕まれている。

しかし、文字通り血が逆流し、はらわたが煮えくり返るような憤りを覚えたのは、学校側の対応に対してである。まず、判で押したように「いじめはなかった」と否定する。当初反省していたいじめっ子側の口封じに狂奔する。遺族がやむを得ず遺書を公開すると、「いじめられた子の性格や家庭の問題」にすり替えようと躍起になる。最優先されるのは「学校の名誉」と校長や教師の保身、住む地域も職業も異なる14人の親たちの目に映った学校の姿のこの驚くべき相似は、これが局地的な問題などではなく、現行の日本の学校制度そのものの致命的な病であることを示している』

これは、ノンフィクション作家、鎌田慧『せめてあのとき一言でも』(草思社)への書評、米原万里の文章である。抜粋しようとしたのだが、8割がた引用することになった。 米原万里『打ちのめされるようなすごい本』(文藝春秋、p359-360)から。

発表は、読売新聞、1996年12月1日。10年前である。十年一日、というべきか。
米原万里がまだ生きていたとしても、現在の事態を見て憤死したかも知れない。早く死んで良かった。

書評は次のように終わる:

『これでは死んだ子は浮かばれまい。暗澹たる気分一色に染まりそうな本書の唯一の救いは、我が子を自殺に追い込んだ実態を知ろうとする親たちの真摯な姿である。私憤を越えた透明な眼差しには死んだ子への切々たる愛情がある。日本人よ、何を急ぐ。立ち止まってしばしこの透明な眼差しを共有せよ』


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コメント 2

海外逃亡者

本当に深刻ですね、いじめの問題は。

思えば、私が中学生だった20年前、いじめは非常に深刻な社会問題になっていました。そのときは、生徒の数がピークで、新聞やニュースでは、毎週のようにいじめによる暴力や自殺が取り上げられていました。今では、生徒の数はだいぶ減り、学校での教育方針も改定され、ここ数年でいじめはだいぶ下火になってきたのかなと思っていたのですが...。

私も小学校から高校までの約10年間、執拗なまでのいじめに遭い、非常に嫌な思いを沢山しました。今でも、いじめたやつらが何をしたのかを憶えています。でも、今では、赤の他人としかみていません。今後会うことはまずないでしょうし。

私の学校でのいじめの経験や日本の学校はいかに生徒1人1人に対するケアがなっていないかが感じられます。学校は、生徒が差別・暴力・受験勉強などの重圧に圧迫されず、快適に学べる環境を提供する義務があるはずなんですけどねえ。それが全然わかっていないのでしょうか。もし、私が、今、12、3才だったら、日本の中学校を飛び出して、海外に転出していると思います。それくらい、生徒に対する安全や自主性が保証されていませんから。悲しいですね。


 
by 海外逃亡者 (2007-01-05 06:22) 

古井戸

私は団塊世代ですが、わたしたちの小さいときと現在はまったく環境が違います(おそらく、文部省・教育委員会の締め付けも昔と今では違っているでしょう)。現在の先生の不幸は、校長、教育委員会の目を気にしながらでないと教育できないことです。自己責任で、教育内容を決められたならばもっと首尾一貫した教育をできるでしょう。さらに、家庭(とくに主婦)もドップリと産業社会の輪の中にとりこまれ 家族は教育環境としてはゼロの役割しか果たせません。 国家あるいは社会が教育に人とカネを使わねば人間は育たない、そう言う時代だと思います。
by 古井戸 (2007-01-05 21:35) 

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