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民族という虚構  自壊する帝国  丸山真男講義録  書評 [Book_review]

この3連休(7/15-17, 2006)、親父の一周忌で田舎(廣島)に戻った。途中新幹線で読むための本を何冊か持って行った。

小坂井敏晶『民族という虚構』 東大出版会 1999
丸山真男講義録第二冊  東大出版会 2002
佐藤優 『自壊する帝国』 講談社  2006
佐藤優 『国家の崩壊』 (+宮崎学) にんげん出版 2006

小坂井の本は既に読んだのを再読するつもりだった。
丸山講義録は全部で七冊ある。わたしはそのうち最初の五冊を買ったがまだ一部しか読んでいない。この講義録は1949-67にかけて丸山が行った講義を、丸山自身の講義メモや資料、聴講生の筆記ノートを元に再編したものである。講義録全体に「日本政治思想史」、という総タイトルが付されているがこのうち、第三巻は「政治学」を扱う異色なもの、他は日本の政治思想史を扱っている。ただし、第二巻(1949年)だけは、幕末から明治初期のナショナリズムに話題を絞っている。この第二巻がおもしろそうだったので今回持って帰った。その序説p15-45は次の構成を取る。

序説 国民(ネーション)および国民主義(ナショナリズム)についての若干の予備的考察
1 ネーションとナショナリズムの定義 
2 近代的国民主義の特性
3 ナショナリズムの構成要素
4 ナショナリズムの変容
  国家(至上)主義
  人種的民族主義
  帝国主義
5 ナショナリズムの諸類型

本巻のまえがき(p1-13)とこの「序説」を車内で読み、まさにこれは巨匠の講義、という感を深くした。先年読んだ、小坂井『民族という虚構』に述べてあることが、終戦から数年もたたない、今から50年前の講義でズバリズバリと(アドリブを交えて)指摘されているのである。

『ネーションあるいはナショナリティという社会的統一体を可能にするエレメントを支えているものは究極において、矛盾するようだがナショナリティの意識、いわゆる民族意識以外にないということである。ここに国民あるいは国民意識なる範疇の最大の歴史的特色がある。つまり民族(国民)という基体がまずあって、それのイデオロギー的反映として民族ないし国民意識があるのではない。民族とは、民族意識--つまり共通のネーションに属しているという意識--によって結合している社会的実体なのであって、国民意識を除き去れば国民というものは存立しえないのである』p17

(わたし、古井戸、流にいいかえれば、存在が意識をけっていするのではなく、意識が存在を決定する。あるいは、意識->存在->意識->存在->意識、という限りない増殖。もちろん、存在、といっても、物理的存在ではなく、意識される限りの存在、に昇華されていく)。

そこで、国民や民族に実体はなく、
『民族意識が民族(ネーション)をつくるのであって、民族が民族意識をつくるのではない』(オッペンハイマー)
ということになり、結局、
『国民とは畢竟、国民たろうとする存在に他ならない』p18
ということになる。

小坂井の本は、このテーゼ(民族は実体ではなく、人間がつくりあげた虚構)を社会心理学的な実証データにより裏付けたものであり、重要なことは、民族(国家)を虚構として退けるのでなく、それを、人間は虚構なくしては生きていけない存在、民族概念も不可欠なものとして位置づけているのだ。

小坂井は、民族は虚構の物語であると一貫して主張し、
『個人心理の機能から社会的秩序成立の過程まで、あらゆる次元において虚構が絡み合って人間生活は可能になっている。しかし人間生活の虚構性を繰り返し確認したのは、虚構から目を覚まして自由な存在として生きよと主張するためではまったくなかった。逆に、人間の生にとって虚構がいかに大切な機能を果たしているかを説いたのだった。』

『差別が客観的な差異の問題でないことは部落差別を考えても分かる。いかなる文化的、身体的基準によっても判別できない人々を、その「家系」を探ることによって執拗に異質性を捏造する作用力が問題なのであり、何らかの異質性が初めにあるのではない』 おなじことをユダヤ人差別に、あるいは天皇制(万世一系)についても適用できる。

『象徴的価値を通して主観的に感知される民族境界が保持されるおかげで、他の集団の文化価値を受け入れながらも自らの同一性感覚を失わずにすむ。そしてまた、自らの同一性を維持しているという感覚が保証され、無理矢理に変身させられる危惧がないときに、影響あるいは異文化を抵抗無く受け入れることができる』

『言語、宗教、道徳価値、家族観などをはじめ、どんな文化要素でも時間と共に必ず変化してゆく。民族や文化に本質はない。固定した内容としてではなく、同一化という運動により絶え間なく維持される社会現象として民族や文化をとらえなければならない。あるいはこういってもよいだろう。もし文化と時代を超えて人間存在を貫く本質があるとすれば、それはまさしく、本質と呼ぶべき内容が人間には備わっていないということに他ならない、と。』p191

あとがきで、著者は次のように言う:
『世界が虚構によって支えられているということは、我々は無根拠から出発するしかないことを意味する。般若心経に 「色即是空、空即是色」という誰でも知っている章句がある。本書が力点を置いたのはこの言葉の前半部よりも、後半部であることはもうすでにあきらかだろう。世界は夥しい関係の網から成り立ち、究極的な本質などはどこまでいっても見つけられない。しかし、その関係こそが強固な現実を作り出している』

『人間は他者を根元的に必要とする他律的存在である。しかし、この他律性を自律性として感じとる他に人間の生きる術はないという否定性から出発しつつも、それを積極的な意義に転換する道を探ることを本書は暗黙の願いとしている』

「転換する道」を、個人の倫理としてだけでなく、共同体の、そしてグローバル社会の倫理として確立できるだろうか?

この著者の前著である『異文化受容のパラドックス』(朝日選書)同様、注にも興味深い主張が盛り込まれ、200ページというコンパクトな分量だが密度の高い議論が行われている。
詳細な目次を下記サイトに掲載している。この目次によりどのような内容を議論しているかおおよそ想像できよう。
http://cse.niaes.affrc.go.jp/minaka/files/ArtifactualRace.html

##
佐藤優の『自壊する帝国』と、『国家の崩壊』は今年の5月、3月にそれぞれ相次いで出版された。扱うのはソビエト連邦の崩壊である。前著は外交官としてソ連に85年に赴任した佐藤個人の眼から見た崩壊の過程であり(外交官としてのソ連高官や、ソ連の友人知人との交渉が中心となる)、後者は、宮崎学らとの勉強会「いかにソ連は崩壊したか」をまとめたもの。前者が主観的な見解、後者は客観的な見解、であり、双方の著書に重複はない、と佐藤は述べている。

双方とも私は読むつもりはなかったが、雑誌文学界で、ロシア文学?の専門家らしい亀井郁夫が『自壊する帝国』をべた褒めなので気になって両方を買ってしまった。亀井は

「どれほど混沌とした時代にも、一つの状況、ひとつの現象を作り出してしまう天才がいる。そうした天才の類稀な「人間力」を見せつける凄まじい一冊、それが『自壊する帝国』である」

とのべている。凄まじい賞賛ぶりである。

わたしは、佐藤の著書『日米開戦の真実』を貶したばかりだ。『自壊する帝国』は出だしこそ、グレアムグリーンか、ルカレか?というような期待を抱かせたが、読み終わる頃になると失望を禁じ得なかった。佐藤は語学の天才とまではいかなくても優秀な語学力をもっているとはいえよう。大学(同志社)では、神学を専攻したらしく、外交官としても交渉相手に相当なプレッシャを与えることはたしかだし、信頼も得たろう。しかし、日本人だからそういえるのであり、英米など世界に眼をやれば佐藤程度の外交官ならゴロゴロいるはずだ。ソ連共産党の崩壊過程などを語るにふさわしい人間はそれこそ掃いて捨てるほどいたのであり、その、一つのエピソードとしての価値以上のものをこの本は与えていないとおもう。佐藤の身分は大使館における外務次官であり、交際費は使いたい放題に近く、その身分と学識を生かせばソ連のかなりの高官ともサシで会え、電話などにより多くの情報も得えられよう。日本国から佐藤程度の情報収集をやったのは、佐藤しかいなかったのか?という疑いをむしろもたせ、わたしなどはお寒い限り、と感じた。英米などは外交官はもとより、ジャーナリストでも佐藤以上に権力中枢に迫っていたはずだ、と考えるのが当然だろう。

ソ連の崩壊過程を描いたドキュメントとしてわれわれはジャーナリスト岩上安身の『あらかじめ裏切られた革命』(1996年講談社、2000年講談社文庫)をもっている。この本は10年前に書かれたものだ。佐藤の上記の本は岩上の本に比べて何を付け加えたか?岩上の本には、ゴルバチェフのつまらなさ、エリツインの狡猾さ(宮崎学はエリツインをこれでもか!と持ち上げる。なにか裏でもあるんじゃないか?)、はもとより、佐藤の本にない、マフィア事情、チェチェン紛争の詳しい状況がある。

すでに1996年、岩上はつぎのように言っている(文庫、836ページ)。
『。。ジョージオーウェルはスターリニズムのカリカチュアとして1984年を書いた。二重思考とはボリシャビキの思考と言葉のねじれに他ならない。脱共産党化をはかったはずのエリツイン政権が、あの嘘と欺瞞と矛盾だらけのボリシェビキの「二重思考」をそのまま踏襲しているのだ』

岩上の本、2000年に文庫化されたがそれには政治学者カンサンジュンの解説が付く。
カンサンジュン『1991年8月クーデターに先立つ5月9日、著者の手の届く距離にいたエリツインは、絶大な群衆の歓呼の渦の中にいた。しかし、そのエリツインは「真っ青に青ざめていた」(岩上の引用)のである。「世界の主役」に躍り出て、「時代精神の体現者」にみえた稀代の英雄は、著者(岩上)の直感的なひらめきが正鵠を得ていたように、「戦車の上の世界精神」どころか、「嘘と欺瞞と矛盾だらけのボリシェビキの『二重思考』の忠実な後継者だったのだ』
『エリツインが進めた「脱共産化」の革命とは、実際には「空前のスケールの『マフィア資本主義』という怪物」の跳梁跋扈を招いただけだった』
カンサンジュンはさらにアンダーソン『想像の共同体』に言及し、
『もちろん、言うまでもないことだが、革命に成功した指導者達は、「旧国家の配線」 -- 官僚、情報提供者、ファイル、関係書類、公文書、法律、財務記録、条約、通信など -- を相続し、それをふんだんに利用したのである。この点で「裏切られた革命」より「あらかじめ裏切られた革命」の方がより罪が深く、またあさましいともいえる。。。エリツインは、。。。ロシアという「帝国」の恥も外聞もない「切り売り」を国際的なマフィア組織に委ねてしまうことになったからである』p846

岩上は、ロシアのチェチェン侵攻は決して容認することはできない、としてその理由を述べ、(p810以降)さらに、
『(西側諸国が)チェチェン人を見殺しにした代償は、いつの日か「共犯者」も必ず支払わなくてはならないだろう。「固有の領土」である北方領土の返還をロシアに求めておきながら、同じく「固有の領土」での独立した生活を望むチェチェン人へのジェノサイドを漫然と看過している日本政府に、果たしてその覚悟はあるのだろうか』岩上p830。

岩上のこの10年前の問いを、ソ連駐在元外交官である佐藤勝に、してみたい。
佐藤は、ソ連におけるバルト三国問題は、かつての日本における大東亜共栄圏問題、と気の利いたことを言っている。それならば、佐藤の称揚する大川周明が今生きていたら、チェチェン問題にどのような発言をしたろうか?ついでに佐藤に尋ねてみたい。

どうでもいい、過ぎ去った昔の問題には無駄口をタタキ、肝心の現在ただいまの問題には相手やおのれの「国体」に気遣って、触れようとしないのは、元外交官の麗しき習性か。

追記1:
「。。生物は過去と物質的に連続しているが、そのことをもって、ただ一つの生命が存在すると考えるのは誤っている。そのような発想をすると、次のような不条理に行き着く。父親の精子が母親の卵子と結びついて発生した胎児が成長することを通して人間は再生産される。私を構成した最初の細胞は両親の物質からできあがっている。すなわち私は両親の肉体の一部だ。今日私が生きているのは当然ながら両親だけでなく、彼らの両親、そしてまたそのまた両親というように、現在の私に到達する血統に属する先祖の誰もが、子供を残す前に死亡しなかったからに他ならない。そのうち一人でも生殖年齢に達する前に死亡していたら、この私はあり得ない。そういう意味では我々の誰もが必然的に「万世一系」である。

私は一つの受精卵が細胞分裂して生成した存在だから、現在の私を構成する細胞はどれも初めの受精卵との物質的連続性をもっている。そして私が発生してきた受精卵は両親の肉体の一部である。このアルゴリズムを繰り返していった時、アダムとイヴという一組の男女に行き着くのか、複数の人間集団に行き着くのかという点は別にしても、どちらにせよ最初の人間に行き着くだろう。したがって、我々人類はすべて同じ起源に物質的に連なっていることになる。

しかしここでもアルゴリズムが終了するわけではまったくない。人類はサルから進化してきた。そしてサルも他の哺乳類から進化している。突然変異という質的変化はあっても、物質的連続性がたたれているわけでは当然なく、先のアルゴリズムは人類を越えて貫通される。したがって、より原始的な動物を経て、細菌も越え、最終的には「原形質」のようなところにまで私は物質的に連続している。言いかえるならば、過去現在未来のすべての人間だけでなく、すべての動物、そして植物、すべての生きとし生けるものが物質的な連続性で結ばれる。

さらには現在の生物学の知見によると、生命がデオキシボリ核酸(DNA)というある物理化学的特性を持つ単なる物質に還元される以上、究極のところ、私と世界を物質的に隔離する境界は生物界でさえもなくなってしまう。単なる無生命物質とも私は結ばれている。それにまた、生殖以外による物質的連続性を考えることもできる。私という細胞群が死んで大地に帰り(それでも物質にあることには変わりない)、それが植物、動物など生態系の循環を経て、他の人間の抗生物質の一部になってしまう。このように、私は世界と切れ目無くつながっている、私は世界であり、世界が私であるという奇妙でかつ不毛な結論に帰結してしまうのである。」

以上、小坂井『民族という虚構』p55の注(9)から引用。

これは、般若心経、でいう 色即是空の世界である。柳沢桂子の般若心経、心訳で解説している世界。しかし、この程度の知見なら、高校の現代生物学で教えているだろう。人間であれ、動物であれ植物であれ、いや鉱物でさえもすべて当てはまる、したがって、何も言っていないと同じ議論になる。小坂井の議論はここから出発するのである。(空即是色)。


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