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農地改革と和田博雄 [history]

春が来た。
医者から余命三年を言い渡された、と親父が電話してきて、その3年も無事やり過ごしたか、と思っていた昨年の春、母から電話があり、親父が入院したことを伝えてきた。それから一年が過ぎた。親父は去年7月に死んだ。

親父が入院した病院は、母等が戦時中、女学生時代、連日、モッコとテミを手に開墾した場所に立っている。

親父を見舞いに行った折、その病院の食堂で、母の思い出話を聞いた。
終戦で物価は100倍以上も高騰したころが一番大変だった。しかし、農村を一番大きく変えたのは農地改革があったからである、というのが母と私の間の結論であった。田畑の所有関係は変わっても、地主対小作という主従関係は、子供目に見てもしばらく残存していたように思う。

戦後改革。とくに農地改革は、抵抗する地主らに対し、GHQの命令により、実施した、と考えていたがとんでもないことであった。今日何気なく、戦後改革をキーワードに検索していたら下記の記事に当たった。
http://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0138.html

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小作料が収穫物の半分を占める地主制のもとにある小作人の地位向上、自作農創設は戦前の農林官僚の悲願だった。それを実現したのが和田博雄(1903-1967)である。和田は戦後経済復興の政治舞台に彗星のように現れた。
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和田博雄、など名前を聞いたこともない人物である。わたしは、農村の出身であるのに、なんとしたことか。

英国から終戦後まもなく日本の調査に来た社会学者ロナルド・ドーアも著書で次のように述べている。
「農地改革の勲功をどう割り当てるとしても、相当の分け前は、日本の官僚のなかの用心深いがしかし進歩的な意見をもっていた人々にあたえられなければならない。(中略)…さらに、世論の支持なしに、また、数多くの農林省職員、農村の農地委員会の委員、職員を動かした改革の情熱ともいうべき精神なしには、この法律の運用がかくも徹底的ではありえなかった」
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我が実家は数年前、稲作を全廃してしまった。一町歩あった田圃は売り払ったり、他人に安く貸し出して耕作してもらっている。親父は養子だが、先祖代々継続してきた稲作を止めることにかなりの葛藤はあったろう。私と弟はなにも、しなかった。稲作を止めた頃、稲作から得られた純益は、年間数万円であった。

親父は病院じゃなく、自宅の離れにあるベッドから転がり落ちて死んでいたそうだ。病院でなく、自分の部屋で死ねたことがただ一つの救いである。

私は中学を卒業した後、あっち、こっちの学校にいったため両親と過ごしたのはたまの帰省のおり、なのだ。いつかは親は死ぬ、と想定していたから、死んだら、返って自分の胸にもどってきた、という安堵感がないでもない。親父は帰省のたびに広島にもどってこい、とよく言っていた。口に出さなくてもそれは伝わってくる。親を喜ばすことをあまりしていないから、その負担を考えるのを避けている、のは自分でもわかっている。いずれそのツケがドサッとふりかかってくるのだろう。


フランス革命 [history]

フランス革命、について。 知識は、とんと持ち合わせていなかった。関連本を何度も読もうとトライしたのだが、頭に入らないのである。中学高校の歴史教科書に書いてあること、年表と出来事、くらいしか私の頭にない。なぜ、大衆が動いたのか?ギロチンというような残虐な手法を取ったのか?なぜ、革命、クーデター、革命、クーデター、革命。。。とせわしなく、その後半世紀も、痙攣したのか?

大きな誤解もあった。なぜか、米国独立革命、がフランス革命に遅れて発生した、と勘違いしていたが、米国革命のほうが先だった(これ、年表を見れば当たり前のことだが)。
米国革命の独立宣言はトマスジェファーソンが参考文献などみずに、鉛筆なめなめ書いたらしい。
(もっとも、ロックやルソーなど読んではいたんだろうし、兄貴分の英国革命の歴史も知っていたろう)。
最近図書館で借りてきた岩波ジュニア新書、遅塚 忠躬「フランス革命」はたいそうわかり安かった(だいぶんはしょって書いてあるのだろうが。この本の対象は大革命から、1799年のナポレオン即位、まで)。この本で参考文献にあげているルフェーブル「フランス革命序説」(岩波文庫)はもちあわせていたのでハラホラ、と眺めたら、記述はこの本によるところが多いようだ。遅塚氏はこの文庫本の訳者でもある。

明治維新の前後、には日本でも一揆や打ち壊しが頻発した。地方の地主、庄屋、領主などが襲われ、江戸幕府にもそうとうのインパクトは与えたようだが、決定的な政治力にはならなかったらしい。シカルニ、フランス革命時の、革命地図を見ると、ほぼフランスの全域で農民らが動いている。なぜ、このような統一的な運動となり得たのか、がわたしにはよく理解できない。数年のレンジで時間をずらせながら起こる、というのならわかる。きわめて短期間に国王や取り巻きに対してインパクトを与えられるほど、議会を支配できたのか?現在のように通信技術はむろんなかったろうに、全国で呼応した動きがとれたのはなぜか?

当時、国王を頂点として、厳格な身分制度があった。
国王 + 貴族、聖職者(アリストクラート) + 平民、農民
当時のフランスの全人口は、2300万。
貴族聖職者は30万人。農民は7割以上だろう(どこかに書いてあったがどこか、わすれた)。
もひとつ、わからないのは、ブルジョアというくくり方だ。農民を除く、都市部の役人、金融業、商人。。その他、勃興期の資本主義から恩恵を受けていた人々が営業の自由を求めていた。こういう人々をブルジョア、とでいう。 アリストクラート、というのはデモクラートに対立する概念だ。貴族、というわけでもない。当時、圧倒的な力を持っていたのは聖職者だ。免税特権もあったし、なにせ、国の全領土の1/10を所有していたらしい。徴収する税金の1割が自動的に教会に落ちていたという。
また、聖職者は町や村の町長のような権限ももち、おまけに、裁判官も兼ねていた。やり放題、なのである。 この宗教者に権威がある、というのが日本人のわれわれには理解しがたいのではなかろうか。日本の仏教寺院は 京都の本店、を別にすれば、支店、出張所並みの寺に生臭坊主がいるだけ、とても、権威にはなれないし、政治ががっしりと頭を抑えていたのだろう。

で、ルフェーブルらの言うには、革命のきっかけは、農民や平民ではなかった、まず、ブルジョアジ(法制的な身分はない、要は、成金。大小の、ホリエモンや損正義、ミキタニのようなものだろう)が商売の自由を求めて議会を開くことを要求し、そこで、国王の権限を抑えた。王権を麻痺させた後で、都市民衆(プチブルジョアだろう)の反乱に、それに続いて、農民が反乱を起こした、という段階的反乱であったようである。このあたり、グラフィカルに説明してもらえるとわかりやすかろうが。

ルフェーブルの本の目次はこうなっている。
第一部 アリストクラートの革命
第二部 ブルジョアの革命
第三部 民衆の革命
第四部 農民の革命

もうひとつ、わからないのは、ロベスピエールなど優秀なイデオローグが次々とギロチンになっていることだ。1999年までの10年間、革命で名をはせた20人くらいのうちほとんどがギロチンで命を落としている。畳の上で死んだのはわずか2,3名である。

外国からの反革命軍も次々フランスを攻略しに入った。それにフランスは義勇軍を結成して立ち向かった。

まあいろいろジグザグはあったが、とにかく、ナポレオンの即位まで、一筆書きできれいに説明しているのが、上記、ジュニア新書だ。最近の研究(といっても半世紀前だが)によると、フランス革命で達成された、といわれている制度も、絶対王権ももとで、79年以前に着々と整備された、とフュレ著「フランス革命を考える」(岩波)に書いてある。

英国 -> 米国 -> フランス、と民主革命が連続して起こった。世界史の本によると、これを、環大西洋革命、と呼ぶ向きもあるようだ。

18世紀ヨーロッパとはどのような時代であったか。遅塚 忠躬の「ヨーロッパの革命」からデータを掲げておく。欧州では18世紀前半まで人口の増加はほとんど無かった、という。なにせ17世紀までは、戦争や疫病が相次いでドンドン人が亡くなった。18世紀のフランスでは夫婦で平均、5人子供を作ったが、1/3は3歳までに亡くなり、無事二十歳を迎えられるのは、50%であった。だから、5人子供を作っても、人口は全然増えないわけだ。産業発展とともに人口は増えるものという常識は19世紀以後の産物らしい。とりわけ死産が多かった。母子共に死ぬ例も多かった(1000年前、弥生、縄文、さらに石器時代。。。出産、というのはどれほどの恐れ、と、喜びであったのだろうか?)

           17-18世紀の年齢階層別死亡率(出生児100人のうち死ぬ者の割合)
     オーヌイユ               サンローランデゾー
     (北フランス:経済比較的良好)   (中部フランス:経済状態悪い)
満一歳未満      28.8            32.6
1-4歳         14.5            22.4
5-9歳          3.8             5.1
10-19歳          4.0             3.3
            -------------- ----------------
計              51.1            63.4
             1656-1735年        18世紀前半
遅塚 忠躬「ヨーロッパの革命」から。p49

ところで、なぜ、フランス革命の本を読み始めたか、というと、トクヴィルに関心を持ち出したからである。岩波文庫で アメリカのデモクラシ、が新訳になって出だした。図書館で、トクヴィル伝、という大部の本も借りてきた。トクヴィルが30歳チョイのコロ、フランスを抜け出して米国に渡り、1831年5月から翌年2月まで米国の北部から南部それにカナダを回ってもどり、この本を書いた。そこで、米国のデモクラシの特徴をしっかりつかんで帰った。トクヴィルは1840年代、外交官や、代議士になったがコミューン発生と共に逮捕されたりした。代議士を辞めて、旧体制と大革命、というフランス革命(79年の大革命)のレビュー、その第一部を書いて未完のまま、死んだ。

日本にも中江兆民らフランス革命の影響を受けた人々はいる(岩倉具視らが世界一周したのはコミューンが終わった直後だ)。トクヴィルは学生時代に歴史家ギゾーの講義を聴講した。ギゾーの著書に基づいて、福澤諭吉は、文明論の概略、を書いた。

英国、米国、フランス、と過去のしがらみのある国無い国、宗教の権威の有無、自由の程度、革命、とその後遺症(よきにつけ、あしきにつけ)と、ニッポンの準革命(革命の定義にもよるが、同列には論じられない。明治維新、と、昭和維新=1945年)の差、を考える必要があろう。

トクヴィルの「米国におけるデモクラシ」。原本はもちろんフランス語だが、英訳を買ってみた。岩波文庫和訳とみくらべているのだが、微妙なニュアンスの差がある。

たとえば、アメリカインディアンを論ずるところ。

インディアンは土地を「占有した」が所有はしなかった、と和訳にある。

英訳ではどうなっているか?
Although the vast country we have just described was inhibited by countless native tribes, it is justifiable to assert that, at the time of its discovery, it formed only a desert. The Indians took up residence but did not possess it. It is though agriculture that man makes ownership over the soil and the first inhabitants of North America lived off the products of hunting.
第一巻、第一章の最後に近い部分。

追記: 当初一定の秩序と規律を守っていた民衆蜂起が、94年以後、血まみれの暴力行為になったのはなぜか。上記「フランス革命」の著者は4つの原因を想定している。
1)敵に対する疑心暗鬼。 敵にやられるのではないか、という不安と危惧から、やられるまえにやっつけろ!「貴族側の陰謀」に対する防衛的反作用。無辜の集団に対する虐殺をやった。
2)リーダーの不在による、自然発生的テロル。計画性無し。
3)大衆の絶対的貧困。貴族や領主への屈従。物価や税金のつり上げに対する不満。大衆の怨恨と復讐。
4)おそらく最大の原因は。。大衆たちがこぞって、自分たちこそ正義の担い手、と確信していたこと。  (聖職者=インチキをやる、に対する信頼感がうすれ、信仰心もゆらいでいた。性道徳も乱れ、未婚の母になる例なども増加している)
  
93年3月から94年8月までに各地の裁判所で死刑宣告、処刑された者は1万6594人。裁判無しの処刑、獄死を加えると3万5千から4万人。農民の都市ブルジョアに対する反乱も西部フランスで激しく、死者総数は20万から40万。なぜこれほど多数の農民が参加したかは、不明、とされている。

参考: 日本では明治維新前の慶応2年(1866年)後半、一揆打ち壊しが全国的に広がり、江戸市中も10日間無法状態になり、幕府倒壊に決定的な一打を与えた(遠山茂樹「明治維新」)。


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