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フランス革命 [history]

フランス革命、について。 知識は、とんと持ち合わせていなかった。関連本を何度も読もうとトライしたのだが、頭に入らないのである。中学高校の歴史教科書に書いてあること、年表と出来事、くらいしか私の頭にない。なぜ、大衆が動いたのか?ギロチンというような残虐な手法を取ったのか?なぜ、革命、クーデター、革命、クーデター、革命。。。とせわしなく、その後半世紀も、痙攣したのか?

大きな誤解もあった。なぜか、米国独立革命、がフランス革命に遅れて発生した、と勘違いしていたが、米国革命のほうが先だった(これ、年表を見れば当たり前のことだが)。
米国革命の独立宣言はトマスジェファーソンが参考文献などみずに、鉛筆なめなめ書いたらしい。
(もっとも、ロックやルソーなど読んではいたんだろうし、兄貴分の英国革命の歴史も知っていたろう)。
最近図書館で借りてきた岩波ジュニア新書、遅塚 忠躬「フランス革命」はたいそうわかり安かった(だいぶんはしょって書いてあるのだろうが。この本の対象は大革命から、1799年のナポレオン即位、まで)。この本で参考文献にあげているルフェーブル「フランス革命序説」(岩波文庫)はもちあわせていたのでハラホラ、と眺めたら、記述はこの本によるところが多いようだ。遅塚氏はこの文庫本の訳者でもある。

明治維新の前後、には日本でも一揆や打ち壊しが頻発した。地方の地主、庄屋、領主などが襲われ、江戸幕府にもそうとうのインパクトは与えたようだが、決定的な政治力にはならなかったらしい。シカルニ、フランス革命時の、革命地図を見ると、ほぼフランスの全域で農民らが動いている。なぜ、このような統一的な運動となり得たのか、がわたしにはよく理解できない。数年のレンジで時間をずらせながら起こる、というのならわかる。きわめて短期間に国王や取り巻きに対してインパクトを与えられるほど、議会を支配できたのか?現在のように通信技術はむろんなかったろうに、全国で呼応した動きがとれたのはなぜか?

当時、国王を頂点として、厳格な身分制度があった。
国王 + 貴族、聖職者(アリストクラート) + 平民、農民
当時のフランスの全人口は、2300万。
貴族聖職者は30万人。農民は7割以上だろう(どこかに書いてあったがどこか、わすれた)。
もひとつ、わからないのは、ブルジョアというくくり方だ。農民を除く、都市部の役人、金融業、商人。。その他、勃興期の資本主義から恩恵を受けていた人々が営業の自由を求めていた。こういう人々をブルジョア、とでいう。 アリストクラート、というのはデモクラートに対立する概念だ。貴族、というわけでもない。当時、圧倒的な力を持っていたのは聖職者だ。免税特権もあったし、なにせ、国の全領土の1/10を所有していたらしい。徴収する税金の1割が自動的に教会に落ちていたという。
また、聖職者は町や村の町長のような権限ももち、おまけに、裁判官も兼ねていた。やり放題、なのである。 この宗教者に権威がある、というのが日本人のわれわれには理解しがたいのではなかろうか。日本の仏教寺院は 京都の本店、を別にすれば、支店、出張所並みの寺に生臭坊主がいるだけ、とても、権威にはなれないし、政治ががっしりと頭を抑えていたのだろう。

で、ルフェーブルらの言うには、革命のきっかけは、農民や平民ではなかった、まず、ブルジョアジ(法制的な身分はない、要は、成金。大小の、ホリエモンや損正義、ミキタニのようなものだろう)が商売の自由を求めて議会を開くことを要求し、そこで、国王の権限を抑えた。王権を麻痺させた後で、都市民衆(プチブルジョアだろう)の反乱に、それに続いて、農民が反乱を起こした、という段階的反乱であったようである。このあたり、グラフィカルに説明してもらえるとわかりやすかろうが。

ルフェーブルの本の目次はこうなっている。
第一部 アリストクラートの革命
第二部 ブルジョアの革命
第三部 民衆の革命
第四部 農民の革命

もうひとつ、わからないのは、ロベスピエールなど優秀なイデオローグが次々とギロチンになっていることだ。1999年までの10年間、革命で名をはせた20人くらいのうちほとんどがギロチンで命を落としている。畳の上で死んだのはわずか2,3名である。

外国からの反革命軍も次々フランスを攻略しに入った。それにフランスは義勇軍を結成して立ち向かった。

まあいろいろジグザグはあったが、とにかく、ナポレオンの即位まで、一筆書きできれいに説明しているのが、上記、ジュニア新書だ。最近の研究(といっても半世紀前だが)によると、フランス革命で達成された、といわれている制度も、絶対王権ももとで、79年以前に着々と整備された、とフュレ著「フランス革命を考える」(岩波)に書いてある。

英国 -> 米国 -> フランス、と民主革命が連続して起こった。世界史の本によると、これを、環大西洋革命、と呼ぶ向きもあるようだ。

18世紀ヨーロッパとはどのような時代であったか。遅塚 忠躬の「ヨーロッパの革命」からデータを掲げておく。欧州では18世紀前半まで人口の増加はほとんど無かった、という。なにせ17世紀までは、戦争や疫病が相次いでドンドン人が亡くなった。18世紀のフランスでは夫婦で平均、5人子供を作ったが、1/3は3歳までに亡くなり、無事二十歳を迎えられるのは、50%であった。だから、5人子供を作っても、人口は全然増えないわけだ。産業発展とともに人口は増えるものという常識は19世紀以後の産物らしい。とりわけ死産が多かった。母子共に死ぬ例も多かった(1000年前、弥生、縄文、さらに石器時代。。。出産、というのはどれほどの恐れ、と、喜びであったのだろうか?)

           17-18世紀の年齢階層別死亡率(出生児100人のうち死ぬ者の割合)
     オーヌイユ               サンローランデゾー
     (北フランス:経済比較的良好)   (中部フランス:経済状態悪い)
満一歳未満      28.8            32.6
1-4歳         14.5            22.4
5-9歳          3.8             5.1
10-19歳          4.0             3.3
            -------------- ----------------
計              51.1            63.4
             1656-1735年        18世紀前半
遅塚 忠躬「ヨーロッパの革命」から。p49

ところで、なぜ、フランス革命の本を読み始めたか、というと、トクヴィルに関心を持ち出したからである。岩波文庫で アメリカのデモクラシ、が新訳になって出だした。図書館で、トクヴィル伝、という大部の本も借りてきた。トクヴィルが30歳チョイのコロ、フランスを抜け出して米国に渡り、1831年5月から翌年2月まで米国の北部から南部それにカナダを回ってもどり、この本を書いた。そこで、米国のデモクラシの特徴をしっかりつかんで帰った。トクヴィルは1840年代、外交官や、代議士になったがコミューン発生と共に逮捕されたりした。代議士を辞めて、旧体制と大革命、というフランス革命(79年の大革命)のレビュー、その第一部を書いて未完のまま、死んだ。

日本にも中江兆民らフランス革命の影響を受けた人々はいる(岩倉具視らが世界一周したのはコミューンが終わった直後だ)。トクヴィルは学生時代に歴史家ギゾーの講義を聴講した。ギゾーの著書に基づいて、福澤諭吉は、文明論の概略、を書いた。

英国、米国、フランス、と過去のしがらみのある国無い国、宗教の権威の有無、自由の程度、革命、とその後遺症(よきにつけ、あしきにつけ)と、ニッポンの準革命(革命の定義にもよるが、同列には論じられない。明治維新、と、昭和維新=1945年)の差、を考える必要があろう。

トクヴィルの「米国におけるデモクラシ」。原本はもちろんフランス語だが、英訳を買ってみた。岩波文庫和訳とみくらべているのだが、微妙なニュアンスの差がある。

たとえば、アメリカインディアンを論ずるところ。

インディアンは土地を「占有した」が所有はしなかった、と和訳にある。

英訳ではどうなっているか?
Although the vast country we have just described was inhibited by countless native tribes, it is justifiable to assert that, at the time of its discovery, it formed only a desert. The Indians took up residence but did not possess it. It is though agriculture that man makes ownership over the soil and the first inhabitants of North America lived off the products of hunting.
第一巻、第一章の最後に近い部分。

追記: 当初一定の秩序と規律を守っていた民衆蜂起が、94年以後、血まみれの暴力行為になったのはなぜか。上記「フランス革命」の著者は4つの原因を想定している。
1)敵に対する疑心暗鬼。 敵にやられるのではないか、という不安と危惧から、やられるまえにやっつけろ!「貴族側の陰謀」に対する防衛的反作用。無辜の集団に対する虐殺をやった。
2)リーダーの不在による、自然発生的テロル。計画性無し。
3)大衆の絶対的貧困。貴族や領主への屈従。物価や税金のつり上げに対する不満。大衆の怨恨と復讐。
4)おそらく最大の原因は。。大衆たちがこぞって、自分たちこそ正義の担い手、と確信していたこと。  (聖職者=インチキをやる、に対する信頼感がうすれ、信仰心もゆらいでいた。性道徳も乱れ、未婚の母になる例なども増加している)
  
93年3月から94年8月までに各地の裁判所で死刑宣告、処刑された者は1万6594人。裁判無しの処刑、獄死を加えると3万5千から4万人。農民の都市ブルジョアに対する反乱も西部フランスで激しく、死者総数は20万から40万。なぜこれほど多数の農民が参加したかは、不明、とされている。

参考: 日本では明治維新前の慶応2年(1866年)後半、一揆打ち壊しが全国的に広がり、江戸市中も10日間無法状態になり、幕府倒壊に決定的な一打を与えた(遠山茂樹「明治維新」)。


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おたかさん

興味深い記事でした。
日本の中江兆民に関する記事を期待しています。
by おたかさん (2006-03-14 23:04) 

古井戸

ども。
先日、幸徳秋水の「兆民先生」を読んだばかりです。明治の思想家、で誰が好きか、といわれると、やはり兆民、ということになりますね。もひとり、馬場辰猪も好きですがかなり個性が強い(兆民も、相当だが。。)。同じ土佐出身で、友人同士らしい。福澤諭吉も偉い、のだろうがどうも好きになれない。先日図書館で、馬場辰猪伝を書いた萩原氏の遺著らしき評論を読んでいたら、「福澤にはあった品格を、辰猪はもちあわせていない」という意味のことが書いてありわたしはビックリ仰天。品格なら辰猪のほうが遙かに有している、と考えていたから。福澤にあるのは、要領の良さ、でしょう。こう言えば世間はこう動く、という勘。ベストセラー作家であり、政府をも動かす人気思想家。

フランス革命は福澤にも兆民にもかなりの影響を与えたはずだが、兆民に大きな影響を与えたのがルソー、であり、福澤はギゾーなどの歴史家であるのも象徴的であるように思います。兆民は志に生き、代議士もスグに辞め、商売に打って出た。大もうけするチャンスもあったのだが志のゆえ、あえて、大損した。演説も上手ではなかったらしい。馬場辰猪も、日本を脱出して、英国にわたり、米国で客死した。

むつかしいところです。
兆民は、中公の「日本の名著」シリーズがいいですね。ルソーの翻訳、民約訳解も河野健二が現代語訳しています。原文は漢文なので手も足も出ません。
by 古井戸 (2006-03-15 09:34) 

古井戸

そうそう。「象徴」という訳語は、翻訳家=兆民の創作です。
by 古井戸 (2006-03-15 11:16) 

おたかさん

「日本の名著」シリーズ、ですか。
読んでみたいですね。
私の貧しい知識でも、明治の知識人の中では兆民が一番肌に合います。
松本清張の著作に「象徴の設計」というのがありました。
by おたかさん (2006-03-15 22:26) 

古井戸

日本の名著シリーズは古書店で手に入ります。いま、世界の名著もペーパーバックで出ていますが、ちょっと読みにくい、ぺらぺらするので。探せば、500円程度で購入できます。神戸のでかい古書店に電話したらいかがでしょうか。
河野健二の編集です。なんと、象徴の設計、も、参考文献に載っていましたよ。

名著シリーズ、幸徳秋水の巻に、「兆民先生」が入っています。秋水は、大逆事件でコロされたが、あの管野スガ(これは天皇を暗殺しようとしたんですかね)に関わりを持ちすぎた、と言う感じがしますね。
志ある人間は、政治家に向かず、政治家は利権に走る。
なかなかうまくいかんもんです。
by 古井戸 (2006-03-16 01:11) 

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