SSブログ

生き残った日本人へ~高村薫 復興を問う~ [diary]

CIMG0198 s.jpg 

腐った日本のなかで宝石のように輝く存在。作家の高村薫である。

NHKのクソ番組など見てもしょうが無いのだが。。。震災から一年後に放映したETV、高村薫へのインタビュー番組を再放送したので見た。
この番組を見た後の感想を記した昨年のmixi日記3/18。何も付け加えることは無いのでこれを再録する。

タイトルは<復興を問う>だが、鈍感な日本人視聴者のために<日本人の理性を問う>としたほうがよかろう。


NHK職員も、「理性」の有無を問われているのだよ。意味わからんだろうが。



ETV特集「生き残った日本人へ~高村薫 復興を問う~」
チャンネル :Eテレ
放送日 :2012年 3月18日(日)
放送時間 :午後10:00~午後11:30(90分)

--------------------------------------------------------------------------------

震災発生直後、作家・高村薫は、これが日本を根底から変える契機になると熱く語った。少子高齢化、農業の衰退、地方と中央の格差などの課題に初めて向き合う機会になると考えたのだ。しかし、夏には期待が落胆に変わっていた。原発再開をめざす動き。現実性のない除染計画。目先の事にとらわれる政治。高村は怒った。日本人には「理性と覚悟」はあるのか。復興に向かう日本をみつめ思索を続けた作家の1年間に密着した。

【出演】作家…高村薫, 福島県立博物館館長…赤坂憲雄

###

エネチケが311の直後から収録し始めた高村薫の発言、と現地取材のまとめ。

TVを見ながらメモを取り、さらに、検索して貼り付けた。

#################### メモ&検索

(災害とは)、地震が起こる前の問題が顕在化したもの。

復興とは、たんに、元の状態に戻すのではダメである。

1995神戸震災と、2011災害は時代と状況が全然異なる。
今、日本には金がない。

東北のある漁師の語った言葉:
 教育第一。
 財を残すことは第二。
 瓦礫を片づけたってしょうがない。
 以前の状態に戻すのが復興ではない。 

   ーー> 期せずして高村薫と同じ意見。(わたくし、とも。。)
         (除染、などとんでもないこと)

理解していないのは政治家だけ、あるいは企業人も。。
 一般人は分かっている。

      
地震が起こって情況が起こって状況が変わったわけではない!
 過疎、高齢化、赤字国債。。以前の問題が、災害により、浮き彫りになったのだ。

##

昨年4月の高村発言:
世論として、コレまでと違う、第一歩を踏み出す、という意志を表明しなければならない。。

電力、なんて、安全に暮らしてこその、電力。
いつ大地震が来るかも知れない日本で、生命の危険を危うくする状態でなにが電力か。

計画停電などされて、日本人が怒らないのが不思議でしょうがない。
このざまはなんだ、誰がこういう状態にしたのだ!

##

南相馬市:

同じ部落でも避難指定された家屋(仮設住宅割付があり、補償が受けられる)とそうでない家屋がある。コミュニティが壊れる。

鉄道も分断、道路も分断。。。若者は出て行く、過疎化は進む。。。

今までの生活を取り戻せ、というのは不可能。

震災前から米が余っていた。この時代に米作りを目指して復興などあり得ない。。のではないか?

##

2011夏。
高村: 福島の状況を見てクーラーを付けよう、という気にならないですわ。

2011-05-04 09:27:19
活断層の真上で暮らす私たちは原発から脱却すべき(作家・高村薫さん)http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10880835385.html

キリギリスは蟻にならない。キリギリスは何が起きても蟻にならない。。
        これが、ニッポン。

##

感情ではなく理性で判断せよ。

##

2011年5月13日 (金)
高村薫の原発廃絶論
http://professor-snape.txt-nifty.com/investors_eye/2011/05/post-d57a.html

原発廃絶論の裏にはイデオロギーの影がちらつき、原発容認論の周りには地域利権が臭う。だが高村薫はそのどちらをも一刀両断の下に切り捨てた。5月3日のNHK・News Watch 9に登場した高村薫は、原発の是非はこれまでイデオロギーの問題として議論されて来たが、純粋な科学技術としてのコンテクストにおいて議論すべきだ、とした上で、賠償も含めた莫大な事故コストと、日本が地震国であるという地政学上のリスクを理由に、原発の経済合理性を明快に否定したのだ。「神の火」と「新リア王」で原発問題を深く掘り下げ、原発を細部まで熟知している高村ならではの見事な切れ味だった。(関連して以下別ログも参照)

http://professor-snape.txt-nifty.com/investors_eye/2009/12/post-588a.html

どんなリスク・マネジメント論のテキストにも最初のほうに書いてあるが、損害の原因となる事象のうちあらかじめ生起が予想されており、その損害の程度と確率が予測可能であり、事前の対策が可能であるものを「リスク」(Risk)、そうでないものを「不確実性」(Uncertainty)と言う。「リスク」はコントロールすることができるが、「不確実性」はコントロールが不可能である。すなわちリスクと期待リターンは連動するから、確率(信頼区間。通常、分散の平方根であるσを単位として2σ、3σなどのように表示する)を選択してリスクとリターンの組み合わせを決定すればよいのだ。もしリスクをゼロにしたければリスク・エクスポージャーをゼロにすればよいが、この場合の期待リターンはゼロとなる。ところが「不確実性」は信頼区間の外側で生起するから、コントロールすることが不可能であり、その損害を予測するにはストレス・テストによるほかない。また通常その損害規模は期間キャッシュフローの範囲に収まらず、ストックの取り崩し(コーポレートであれば純資産の取り崩し、国レベルでは国富の毀損や国民生活水準の切下げ)が避けられない。

リスク管理の基本は「不確実性」を「リスク」に変換してゆく事であり、それを可能にするのは技術進歩である。例えば巨大隕石の衝突は「不確実性」であるが、将来技術革新によって隕石の軌道を変える事が可能になれば、それが「リスク」に変わる。原発はこれまで期待リターンと信頼区間との兼ね合いでコントロール可能な「リスク」であると考えられて来たが、今回の福島の事故は、現在の科学技術水準の下では原発がコントロール不能な「不確実性」の領域にかなり足を突っ込んでしまっている事を証明した。だが巨大隕石の衝突と違って、原発の場合は損害を完全に避ける方法がある。言うまでもなくそれはリスク・エクスポージャーをゼロにする事、つまり原発の完全廃棄であり、それ以外の方法はない。チェルノブイリでは、飛び地とはいえ260キロ先まで永久居住放棄地となった。東京は福島原発から240キロ。もし炉の冷却に失敗すれば、福島の事故規模は1機だけの事故だったチェルノブイリを超える。来るべき東海地震のタイミングによっては、それは現実のシナリオになり得る。高村が指摘する通り、日本が地震国である以上、東海地震であろうと他の地震であろうと、次の大震災が来る前に全原発を廃止してしまわない限り、国そのものがメルトダウンする危険があるのだ。原発を存続させれば、我々の世代は将来の世代に対して背負い切れない量のリスクを負わせる事になる。

原発を全廃する場合、一つだけ注意しなければならない事がある。それは北朝鮮の例でも明白なように、原発がいつでも核兵器に転用できる技術だと言うことである。日本の原発がこれまで安全保障上戦争抑止力として機能してきたことは疑いなく、この抑止力は別の意味で国家の存続に関わっているから、放棄するわけには行かない。原発を廃絶し、なお核抑止力を維持するためにはどうすればよいのか。おそらくその答は日米安保条約の改訂、非核三原則の見直しだろう。だがそこに辿り着く前に国がメルトダウンしてしまわない事を、今は祈るばかりである。

2011年5月13日 (金) 07時01分

##

作家・高村薫さんの「原発を捨てるかどうか決断の時」に賛同
http://hakodadi.iza.ne.jp/blog/entry/2271683/
2011/05/05 22:30

高村薫女史が辛らつな「原発廃止」論。さすがのNHKもいつまでも政府よりの<中立>報道というわけにはいかなくなったか。

http://bit.ly/iC4WAF  

実は2週間ほど前の道新での高村さんの論調はもっと凄絶。「天変地異が起こるかどうかは神のみぞ知る」「だから国民はいまこそ原発がいるのかいらないのか覚悟して選択するべき」。安全基準がどうとかいう議論はもう超越すべきと。その論調に比べればNHK的に多少ソフトになっているのかも。ちなみに映像は真性のNHK配信。

さて、作家として「神の火」などで原発を猛勉強したという高村さんは、07年の時点では

「私たちは、将来も原発と共存せざるを得ないのである。」と書いた。

その高村さん、今回の道新の論壇では、

「日本の商業原発は、もはやどんな理由をつけても、存続させるのは無理だろう。」と断言するに至った。

2007年から2011年、日本の原発に何があったのか。2つの論考を読み比べてみる。

高村薫さんの原子力に関する2007年4月の論考①。
日付を隠して読んでいくと、まるで今回のフクシマの事故のことかと見紛うのだが、なんとこれは4年前、2007年4月5日の記事。(朝日新聞)。東電刈羽原発などで相次いで原発の検査データの改ざんや小規模(?)事故の報告漏れがあったことが発覚し、全国的なニュースになったあとのものだ。

高村さんはすでにこの段階で、「そもそも原子炉とはどんなものかが分かっていないのだと言わざるを得ない。核分裂の制御ができない状態がいったい何を意味するのか、分かっていない人びとが、マニュアルを頼りにスイッチを入れたり切ったりしているのが原発の現状」と厳しく関係者の責任意識の希薄さを糾弾し、将来への大きな危険に警鐘を鳴らした。

その危惧は残念ながらあたった。

同じ年の10月中越地震で新潟・刈羽原発の制御棒が抜けなくなるという重大事故が発生。
そして、今回のフクシマの事故だ。

東電・政府・メーカーは、この4年間、こういう人為的なミスによる危険の予兆にどれだけ真剣に対処してきたのであろうか。

そして、2011年4月20日、道新に掲載された論考②で高村さんは 原発を捨てられるか否か 未来への選択 決断の時」と書いた。「どうしたら原発を安全に運転できるか」という議論はもう乗り越えて、「原発のリスクと共存するかどうか」の覚悟が問われると踏み込んだ。
今回のフクシマ原発の事故に関わる議論の中で、高村さんのこの主張はもっとも正鵠をえているように思えてならない。

論考① 

「 原発の不祥事  原子力利用の資格あるか」

高村薫

朝日新聞 07/04/05

原子力発電が、設備機器の設計・維持と操業の両面で非常に高い技術と厳しい管理を要求される事業であることに、21世紀の今日も変わりはない。その上使用済み核燃料や放射性廃棄物の処理も、簡単にはゆかない。にもかかわらず私たちが原子力利用を決断し、支持してきたのは、エネルギー資源確保のほかに、安全操業が技術的に保証されているとする国と電力会社の説明を信じたからだった。ところが今日のありさまはどうだ。    
 次々に明るみに出た原発の不祥事は、①検査漏れ②検査データの改ざん③検査中の原子炉事故④報告義務違反の四つである。いずれも深刻であるが、検査中に制御棒が脱落した事故については、改良前の沸騰水型原子炉の構造上の欠陥の可能性がある以上、現在稼働中の同型原子炉を停止して、対処方法があるのかどうかを徹底的に検討する以外の選択肢はない。       
                                   
 問題は、維持管理と運転にかかわる人間の、ミスである。「人間の技術に完全はない」という理性と「それでも原発の事故は絶対に起こしてはならない」という現実に立って、原子炉には何重もの安全装置が備えられている。 
にもかかわらず、定期検査を欺き、データを改ざんし、臨界事故まで隠していたとなると、人はもはやシステムが想定している以上に、出来が悪い生き物だと考えるほかはない。                       
                                   
 そして、人間の出来が悪いのであればなおさら、国と電力会社はミスが起こるたびにシステムを見直し、改善に改善を重ねて安全を確保すべきところ、それすらも怠り、隠蔽(いんぺい)し続けてきたのである。今日の事態は、日本人は原子力を利用する資格がないと言ってもよいほど深刻であると、まずは言いたい。                            
                                   
 半世紀前、原子力発電は国が主導して推進された。旧通産省と科学技術庁の二頭立てで責任の所在があいまいだった歴史は経済産業省が主導するかたちになった今日も尾をひいている。電力会社と重電メーカーと国はいまも時代遅れの巨大な産業体を構成したまま、時代の変化に即応することもできず、ひたすら思考停止している感がある。                  
                                   
 それだけ特殊な技術でもあるということだが、年々新たな立地が難しくなって四半世紀余り、エネルギー多様化や産業構造の変化の傍らで、原子力技術の担い手は確実に層が薄くなりつつある。原子力工学科を廃止する大学も
増えたいま、一度薄くなった層は簡単にはもとに戻らない。しかも、現状では著しい技術の発展も望み薄であり、私たちは年々原発の安全への不安を大きくしているのである。                        
                                   
 今日の原発関係者の質の崩壊は、「臨界事故を隠蔽する」という発想に如実に現れている。技術者であれば、検査中に制御棒が脱落するような事態に直面したとき、まずは原子炉の構造上の不具合を疑って青ざめるべきだろう。臨界事故など、まさに会社の体面や保身以前の恐怖であるべきだろう。そう でなかったというのなら、これは会社や業界の体質以前の問題で、そもそも原子炉とはどんなものかが分かっていないのだと言わざるを得ない。核分裂の制御ができない状態がいったい何を意味するのか、分かっていない人びとが、マニュアルを頼りにスイッチを入れたり切ったりしているのが原発の現状だとしたら、これ以上の悪夢はない。                 
                                   
 私たちは、将来も原発と共存せざるを得ないのである。まずは政治、監督官庁、電力会社、メーカーの間で責任の所在をはっきりさせ、次に、薄くなった技術者の層を回復する手だてを大急ぎで取ることである。 

==========================

次に、最新の論考を抜粋で紹介する。

論考② 

<時評 社会>原発を捨てられるか否か 未来への選択 決断の時

高村薫

2011/04/20, 北海道新聞夕刊

 未曾有(みぞう)。想定外。壊滅的被害。東日本大震災発生から1カ月余、私たちはどれだけこれらの言葉を繰り返したことだろう。地球規模の自然の前で人間の営みはときに為(な)すすべもないことを思い知らされてもなお、被害の大きさを捉えきれず、受け入れることもできない私たち日本人のいまの思いが、これら紋切り型の言葉に集約されている。

<中略>

今回の大震災では、福島第1原発の原子炉4基が冷却系の外部電源を失い、一部が炉心溶融に至るという最悪の原子炉災害が引き起こされた。水素爆発による原子炉建屋や、格納容器の損傷と、高濃度放射性物質の大気中や海への漏洩は、半径数十キロ圏の住民の生活を不可能にしたばかりか、飲料水や土壌、農畜産・海産物への放射性物質の蓄積が、周辺地域の生活経済を将来にわたって崩壊させようとしている。さらに、日本からの食料品の輸入禁止措置に踏み切る国が増え、観光客が消え、投資も縮小して、日本経済も当分冷えきってゆくだろう。原子力が安価な電源だというのは大嘘である。

 この世界有数の地震国で、チェルノブイリと比較されるほど深刻な事故を引き起こした日本の商業原発は、もはやどんな理由をつけても、存続させるのは無理だろう。今回私たちは、原発が安全か否かという半世紀にわたる論争がいかに無意味だったかを学んだ。問題は、安全か安全でないかではない。そんなことは神しか知らないのであり、要は私たちが受け入れるか否か、だけなのだ。将来的に原発を捨てて電力不足に苦しもうとも、次の大地震と原子力災害に怯えて生きるよりはいいと思えるか、否か。いま私たちは、未来のためのそんな選択を迫られるほど決定的な地点に立っていると思うべきである。

 このまま漫然としていては中途半端な復興と、経済の縮小衰退が待っているだけであれば、決断の一つや二つしないでどうするか。

 私たちはいま、16年前とは比べものにならない厳しい未来を予感し、不安と不透明感に包まれている。欲しいのは小さな安心である。原発の不安が一つ取り除かれたなら、代替エネルギーへの転換に向けて多くの新産業が動きだす。それが希望を生み、被災地にも仕事をもたらす。折しも統一地方選挙が行われているが、政治家はいまこそそうした希望を語るときだろう。

====================
(なお、②の道新の記事は残念ながら同紙のサイトには掲載されなかったので、やむを得ず一部抜粋で引用した。この論考はネット上でも数多く取り上げられたが、本文に接することができなかった読者も多かったことと思う。推測では共同通信からの配信であったと思われるのだが、残念ながら共同のほうでもネットでは取り上げなかったようだ)

#####

三陸海岸の集落 災害と再生:1896, 1933, 1960
山口弥一郎の三陸集落調査
http://d.hatena.ne.jp/meiji-kenchikushi/21001110/p1

大津波の危険性を説いておられた地理学者山口弥一郎先生
2011-04-06 07:49:17 | 思想家
http://blog.goo.ne.jp/ikeiketarou/e/228e85914308b21a3751fe3a897eb30e

被災地の集落移転分析 『津浪と村』山口弥一郎著、石井正己・川島秀一編
http://flat.kahoku.co.jp/u/bookreview/BxHF9mb4lXLpN0MhzqWD/

###

赤坂:

再生可能エネルギー自体は価値ではないが、。。。地方分権の手段となりうる

50年後、8000万人の日本

結論
「今回の災害は、災害前に存在した問題を加速的に露出しただけである。これから行うべきは復興ではなく、旧来の問題点の解決、である。もちろん、原発を含む」

さすが、リアリスト、高村薫。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。