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月日は百代の過客にして [diary]

 

「先日、「松尾芭蕉の『奥の細道』のドイツ語訳を読んだが、訳がおかしいのではないか」と、ドイツに住む日本人に言われた。前にも同じことを言っていた人がいた。「やっぱり、分かっているようで分かっていないんですよね」とこんな時によくあるコメントが付く。日本人でなければ日本の古典は本当の意味は分からないという思い込みがあるから、こういう発言が出るのだろうと思う。国外の優れた日本学者たちとつき合ってみれば、この思い込みはすぐにくずれると思う。

 『奥の細道』に話を戻すと、最初の「月日は」の訳がそもそも間違っているとその人は言った。自分で読んだ時には、間違っていると感じた記憶が全くないので、気になって確かめてみた。「月日は百代の過客にして」の月日がSonne und Mondと訳してあるのを見て、その人は、「月日」というのは時間という意味なのに、太陽と月と訳してしまうなんて、初歩的な間違いだ、と言うのである。それが一般的な考え方かもしれない。」



以上、多和田葉子のエッセイ「月の誤訳」の冒頭部分である(単行本『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』2003年、岩波書店、に収録)。

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図書館で借り出した『エクソフォニー』を駐車場に止めた車の中で読んだ。タイトルに惹かれてこの短文から読み始めたのだが、引用した冒頭部分を読み、私は深く感動した。


この訳者は<月日>という日本語を知らなかったのだろうか?そんなことはないだろう。われわれが長いドイツ語単語を分解して語源を探るのと同じように、このドイツ人訳者も、月日というコトバを漢字に分解し、通俗的な意味(時間)ではなく、その元の意味(月と日と)に還元して翻訳したに違いない。日と月とは人類始まって以来人間生活の根元、さらにいえば、時間(意識)の根元にあった。

月、とは古語辞典によれば夜空に浮かぶ月、の意味に続いて、「月が全く見えない夜から、次の見えない夜までの期間の称。二十九日間または三十日間で、一年は十二ヶ月または十三ヶ月となる」(岩波古語辞典)。

おなじく日とは、「太陽をいうのが原義。太陽の出ている明るい時間、日中。太陽を出て没するまでの経過を時間の単位としてヒトヒ(一日)という。。」。


太陽も月もない、どこか遠い星に生活したと仮想しよう。そこではもはや時間は存在しないのである。


月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也

奥の細道、この冒頭の一句、上は李白の漢詩(夫レ天地ハ万物ノ逆旅、光陰ハ百代ノ過客。。。)を踏まえ、下は来ては去り去っては来る年々をいう、と現代語訳は云う。李白の詩を、「宇宙空間(天地)は万物の容れもの、時間(光陰、日と月と。月日)は永遠に留まることのない旅を続ける旅客である」と解してもわかったようでわからないという気分が残る。空間も時間も科学用語、つまり、わからないことをわかったような気にさせる気休め言葉にしかすぎない。

「時間とは何か?人が私に問わなければ、私はそれを知っている。問うひとに説明しようとすれば私はもはやそれを知っていない」 アウグスティヌス


多和田葉子は上の引用に続けて次のように云う。

「。。。この『奥の細道』のドイツ語訳は美しい。しばらく考えているうちに、こんな気もしてきた。中世の人間が「月日」と言ったとき、実際の太陽が出て沈み、月が出て沈む情景が、比喩としてではなく、具体的な生活感覚としてあったのではないか。わたしのようにコンピュータのスクリーンの隅に出た数字を見て、今日は五月十八日か、と思ったり、もう十時か、と思ったりするのとは全然違う。もちろん、太陽や月が現代もないわけではないが、時間を計る道具ではなくなっているので、月日というのが、一種の比喩になってしまったと言うことができるだろう。しかし、誤訳と思われるまでの直訳は、わたしたちを言葉の原点に立ち返らせ、言葉を比喩という老衰から救う役割を果たしてくれることがあるように思う。

 『奥の細道』が「月日」という単語で始まるのが美しいのと同様、そのドイツ語訳がSonne und Mondで始まるのは美しい。Zeit(時間)では抽象的すぎる。。。(以下略)」



月日を、<日と月>の意味に訳したのは訳者の意図的誤訳かもしれない。原文を「ときは百代の過客にして」としてしまっては李白の漢詩ほどの感興も湧かない。ニュートンの運動法則を表現するときに使う宇宙を支配する時間、T(= Time)ではなく、人間生活の染みわたる地上の<とき>を表現するには<月日>でなければならなかったし、これをドイツ語で表すにはSonne und Mondでなければならなかった、翻訳者はそう考えた。

ドイツ語のZeitは、英語のtime と同じく、tide(潮の干満、寄せては返す波)が語源である。潮の干満、つまり潮流は月と太陽が無ければ起こらない。 ゲルマン民族あるいはアングロサクソン族の後裔であっても、コトバの成り立ちに敏感な詩人であるなら、Zeitやtimeの響きから、潮の満ち干を、さらに、月と日を想起するのだろうか。月日、というコトバから日本人が流れゆく時とともに、満ち欠ける月とのぼり沈む太陽を思い浮かべるの、と同じように、である。




追記、12月15日 12:17。

昭和42年に刊行(初版は昭和27年刊)された角川文庫『新訂 おくのほそ道』(訳注:潁原退蔵、 尾形 仂)、冒頭の一句の現代語訳は、
「月日は永遠にとどまることのない旅をつづける旅客であり、この人生を刻む、来ては去り去りては来る年もまた同じく旅人である」
となっている。

今朝チェックしたのだが、平成15年初版刊行の全面改訂版角川文庫『新版 おくの細道』では、この旧訳は次のように変更されている。

「大空を運行する月や日は永遠にとどまることのない旅を続ける旅客であり、この人生を刻む、来ては去り去っては来る年もまた同じく旅人である」

ドイツ語への翻訳者は、この新訳に示される尾形仂の解釈をどこかで知ってそれにならったのだろうか?そうではなく、おそらく独自の解釈により訳したのだろう。

 

さらに追記。12/16 07:50

「おくのほそ道 解釈事典」 東京堂出版(2003)によると。。。

従来は、「月日」を一語と見て、単なる「時間」の意として解釈するものが大勢を占めていたが、近年では「月」「日」の二語に分け、宇宙観にまで及ぶような深い解釈をするもの、もしくはその両方の意味を重ねて読み取る説、などが出ている。

。。。ということらしい。次のブログから(冒頭部分の英訳各種を載せている。有用)。 http://english-sea.at.webry.info/200807/article_21.html ドナルドキーンは、月日をmonths and days と訳しているらしい。月並み。

さらにさらに追記、12/17 12:00

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらへて老いをむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり

歌人・佐佐木幸綱は次のように解している。(『芭蕉の言葉』2005年、から。)

「月も太陽も、歳月もまた旅人である。船頭や馬方のように旅そのものを生きて死んでいく者たちもいる。古人にも旅に生き、旅で死んだ人がたくさんいた。」

と訳し、次のように解釈している。

「月や太陽をはじめ、宇宙のすべては動き続けており、人間をはじめとする地球上の一切も、また旅を本質としている。留まっているものはない。常なるものはない。一切が無常。無常こそが世界の本質である。そういう世界観です」


これにて、打ち止め。決定版、だとおもう。



多和田葉子HP
http://yokotawada.de/japanese-nihongo%e3%80%80%e6%97%a5%e6%9c%ac%e8%aa%9e


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