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女の鏡 [diary]

昨日朝方、久し振りに地震があった。

直後に、東広島に住んでいる弟から電話があった。「地震は大丈夫ジャッタかいの」

なに、震度3は地震のうちに入らんよ。。

「母さんのことじゃが。。」 弟が切り出した。これが言いたいために地震を待っていたのか。

だいぶ弱ってきている。いままで離れに住んでいたのだが、出入り口で転ぶのが心配で今は、母屋に寝てもろうている。足~膝、が悪くなったので、風呂にも入るのが困難になった。認知もだいぶ進んだ。

そうか。くるときが来たか。

おまえも昼間は仕事で大変だろうが。

とりあえず、土間と座敷の段差が心配(田舎の家だから、70センチくらいの高さがある。階段が一段あるのだが、これを踏み損ねたら転んで頭を打ったり骨折したりする)

市役所の福祉課にいって、車椅子のレンタルができるのか。無料で貸してくれないのか。家の改造(スロープにする)の補助はどのくらい出るのか。尋ねてみてくれんか。

(。。これと同じ電話を弟と交わしたのを、いま、思いだした。父の死んだ年の今頃の季節のことである。家を改造する前に、父親は忽然と死んだ)


姪夫婦が直ぐ側に住んでいるので心強い。母は近所の誰からも好かれており、誰も気に掛けてくれているはずだ。田舎は有り難い。民生委員を20年以上つとめた。報酬ゼロの仕事だが、年2回くらい慰安旅行があり、これを楽しみにしていた。

終戦時、家に男手はなかった。母の父親は早死にし、婆さんと母親の三人家族。母親は病弱、とても農業には耐えられない。わたしの母は勤めていた役場を辞め、農作業一筋に生きた。愛知の半田市に農業研修に行った。近所の人に牛の使い方を学んだ(戦後、復員してきた父を養子にもらった)。牛の扱い方は父より遥かに上手、おそらく町内随一ではなかったか。赤鬼のように働き、子供を育てた。

わたしは小学生の時、母に牛の扱いをならった。牛は大きく、なかなか言うことを聞かないから怖い思いを何度もした。子供をバカにするのである。母は黙っていてもニラミがきく。言うことを聞かないと、コラッ~、と牛を怒鳴る。鞭を当てなくてもバシッと従う。。。このコラッ~、は子供にも浴びせられる。わたしは母が怖かった。

母が怖くなくなったのは、私が二十歳前後の頃。母が脳溢血で倒れて数ヶ月入院し、生死の縁を彷徨った挙げ句、奇跡的に回復したあとである。



田舎の道を、母とゆるゆる散歩をしたい、という私の夢は潰え去った。では車椅子に乗せて辺りを回ろうか。。。弟によると、車椅子に乗るようなミツコさん(母の名)ではない、という。這ってでも自力で動こうとする性格。6月に帰って、母を車椅子に乗せるのが私の大仕事かも。あなたは。。どなたでしたかいの?だけはやめてくれよ、カーサンや。

テレビが映らん!といって文句を言っている。部屋に行くと、コンセントを引き抜いていた。こんなことがしょっちゅうらしい。



わたくしは結婚式を田舎の家でおこなった。父と母の希望であった。来賓として母が当時、アルバイトしていた地元企業(マツダの下請け、内装品を造っている)、S電機の社長が挨拶をしてくれた。

わたしは新郎に会うのは本日が初めてでありますが、きっと立派な人でしょう。母を見れば子が分かる。新郎の母親に私の工場で働いてもらっていますが、ミツコさんは、女の鏡です。だれにもやさしく声を掛け、笑顔で接しておられる。工場でいてもらわなければ困る人です。と、有り難い言葉をのべてくだすった。この言葉はいまだに私の胸から去らない。

母は数年前まで、一日も欠かさず日記を付けていた。戦時中からずっと、である。独特な達筆だから解読に骨折るだろうが。。どこに収めているのか確認しておかなければならない。弟が、製本しようか、と以前言っていたのだが。


まもなく、父が亡くなって6年目。七回忌を通常やるのだが、なにもしない、坊さんも呼ばない、と弟は言った。ええよ、それでええ。

時節は巡る。

人は老い、死ぬ。



六月には家に帰ろう。

父と違って、帰ってくれ~、とせがむような人ではない。

たわむれにははをせおいてそのあまり、軽きに泣きて三歩あゆまず。

母さん、どこに棄てようかの?と、背中におぶった母に声を掛けたら、ええッ?何を言うんなら! ははは、ははは。姥棄て山。

大正12年生まれ。

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