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小出裕章 『放射能汚染の現実を超えて』 [Ethics]

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小出裕章 『放射能汚染の現実を超えて』

 

この本は1992年発行された書籍の復刊である。復刊にあたって著者はまえがきをつけている。

 

短いまえがきの中で、福島第一原発の事故に言及した後、次のように言う。

 

「原子炉の心臓部である炉心が大規模に溶け落ちる「メルトダウン」を防いでいるのは、生身の人間たちの苦闘である。そして、この苦闘は今からまだ何ヶ月も続かざるをえない。運良く、その苦闘が実を結んで破局的な事故を防いでいたとしても、破壊された原子炉を始末するには、何十年もの苦闘が待っている」

 

続ける。

 

「本書は1992年に刊行された。主要な内容は旧ソ連チェルノブイリ原子力発電所の事故と、そこから噴き出してきた放射能に人々がどう立ち向かうべきかを記したものである。今現在、福島原発から噴き出してくる放射能が土地を汚染し、海を汚染し、そして野菜などの食べ物を汚染している。私たちは否が応でもその汚染に向き合わざるを得ない。原子力を推進している国や電力会社は微量な被曝なら安全であるかのように言うが、被曝に安全量はない。誰だって放射能など食べたくない。しかし、消費者が汚染された農産物・海産物を拒否すれば、農業と漁業は崩壊する」

 

「日本には現在54基の原子力発電所がある。それらは「絶対安全」と言われながら、都会を避けて過疎地に立地されてきた。特に都会に住む消費者は原子力発電に向き合うこともないまま安穏な生活を送ってきた。そして、今回の事故である。このような事故は絶対に起こらないとして原子力を推進してきた国と電力会社、原子力産業などには無論大きな責任がある。正確な情報を与えられずにきた消費者は騙されてきたのだと言えないことはない。しかし、騙された者には、騙されたことに対する責任がある。子どもたちは放射線感受性が高いので、汚染された食料を与えてはならない。何よりも子どもたちに原子力を許した責任がない。しかし、私を含めた大人には、責任のない者は一人もいない。農業・漁業を崩壊から守るためには、私たち大人があえて汚染食品を食べるしかないというのが、20年前に本書で私が書いたことである」

 

わたしにとっては全く異論のない主張である。目次を見れば分かるように著者は歴史の現実に材料を探り、チェルノブイリ事故、反原発運動、放射能汚染と環境問題などを論じている。しかし、この本で最も重要なのは第4章である。章のタイトル「放射能汚染の中での反原発」p113~138、であると私は思う。この章で著者は、まえがきの主張をさらに詳細に論じている。この本の唯一章だけを読め、というならこの章である。

 

何点かをとりあげてみる。

 

1 国の規制値にはまったく根拠がない。さらに国が依存しているICRPの規制にも根拠がない

ICRP(国際放射線防護委員会)勧告は、放射線の危険度見積もりの何等の根拠も示していない。もともとICRPは単なる任意団体に過ぎないのに、原子力を推進する世界各国はそれをあたかも国際的な権威であるかのように宣伝し、原子力の推進に都合のよいようにICRPを利用してきたというのが真相である。ゴフマン博士(米国)はICRP勧告値は40倍も危険を過小評価しているといっている。いまこそ、許容量の大幅引き下げが必要なのである。

 

2-1 原発の恩恵を受け入れている国は汚染も受け入れよ

2-2 弱者にしわ寄せされる放射能汚染食料

2-3  国が恐れていることと、(反原発)運動に必要なこと

 

まえがきで著者が述べている「消費者が汚染された農産物・海産物を拒否すれば、農業と漁業は崩壊する」、という主張に対する厳しい批判(反原発運動からの)に対して著者は答えている。その詳細は、P117~126を読んでもらいたい。小出は反原発運動家、ではないし活動家でもない。あとがきで述べているように著書を出すのはわたし(小出)の仕事ではない、そんなヒマがあれば研究に時間を投じたい、という人である。しかし、活動家からの批判に丁寧に応じている。このような例は希である。小出自身の言葉を抜粋しておく。これから小出の発想が伝わるだろうか?

  「現在日本の国が輸入食品の規制という手段を借りて行っていることは、原子力開発がもたらした汚染の真実を隠すという作業である。それに対して反原発諸団体は、国に対して、より厳しい規制値をとって、日本に汚染食品がはいらないようにすることをすすめている。」 

      

「しかし、私にはそうした反原発諸団体の運動が理解できない。なぜなら、日本が輸入拒否して、汚染食料が日本国内に入ってこないことと、汚染食糧がこの世からなくなるということは、当然のことながら等しくないからである。(中略)日本の国に対して、汚染が国内に入らないように規制強化を求めることについては、私はどうしても同意できない。日本が拒否した食糧は、他の誰かが食べさせられるだけだからである。即ちこれまで原子力を利用してこなかった国々、それ故に汚染を検査することすらできない国々、貧しく食糧に事欠いている国々が汚染食糧を負わされるのである。」 

「原子力開発によるデメリットは、誰を措いても原子力を推進している国々こそが連帯して負うべきであって、間違っても原子力を選択していない国々に負わせるべきではない。従って、チェルノブイリ原発事故による汚染は、それが選択可能なものである限り、当のソ連は当然にしても、フランス、日本のような原理力開発に積極的な国々こそが引き受けるべきである」 

      

「放射能で汚れた食べ物を私は食べたくない。日本の子どもたちにも食べさせたくない。しかし、日本という国が少なくとも現在原子力を選択している限り、日本人は自らの目の前に汚染した食料を上らせて、原子力を選択することの意味を十分に考えてみる責任がある」

 

上記の主張に対して活動家からさまざまの批判が寄せられた。上の文章を読めば、「日本が拒否することと、飢餓に苦しむ国々に押しつけられることとは等しくない」等々の反論がよせられた(誰でも考えつくだろう、このような批判は)。しかし、小出の言うように「飢餓に苦しむ国々に押しつけられること」は現実に起こっていることであり、この現実を解決することはほとんど不可能に等しい、という<現実>を小出は知っている。知らないのは、適当に日和ってしまう活動家~一般人、のほうである。「食糧汚染問題を議論した国連化学委員会において、工業文明諸国からの代表が規制値問題を議論していたとき、アフリカ諸国からの代表は自分たちの国では汚染の検査すらもできないと訴えたという。工業文明国の基準が厳しくなればなるほど、逆に汚染をしわ寄せされる国が生じるという厳しい現実が存在している。」なにより、小出の主張しているように原発建設を都会から追放し、過疎地にのみ建設するという現実(ご丁寧に、法律によりその旨を規定)を放置している現実、軍事基地を沖縄のみに集中させておいて、しかも<安保は必要だ>と言う国民の意思が支配しているニッポンは、<活動家>にはどう映じているのだろうか。小出の主張を平たく言えば、東京都、大阪府に原発を建設しろ、本州の都会のそばに軍事基地を建設しろ、という主張である。こうする意外には、原発、と、軍事基地の非人間性を国民の大多数の骨身に沁みさせることはできない、と。反論できるひとがあるだろうか。

 

P126「。。この社会の現実はまさに矛盾だらけなのであって、その矛盾に初めから蓋をしてしまう運動よりは、矛盾を次々に掘り起こして行く運動の方がはるかに価値があると私は思うのである。なぜなら、仮に矛盾が視えないとしても、それは矛盾がないこととは異なるし、新しい矛盾が視えるようになるということは、運動自体の成長であり、次の矛盾を克服する力をも同時に獲得しつつあるだろうからである」

 

40年間も反原発の現実から数々の失望を直接体験した人による、人間理解の到達点である、と、わたしは理解し、小出に賛同する。

 

3-1 この現実を差別と呼ばずになんと呼ぶのか

ひとりあたりのエネルギ消費量を国別にみると、もっとも消費している国とそうでない国の間には千倍の開きがある。

 

3-2 「唯一の被爆国」と呼ぶ誤り

最初に原爆水爆が行われたのは米国であり、被爆者は米軍人。その後も、海洋や大陸での実験を英米仏、中国が行ってきており実験場となった各国住民が被曝し苦しんでいる。

 

3-3  朝鮮人被爆者をいまだに差別し続けている私たち

広島市で3万~5万人、長崎市では1万~2万人の朝鮮人が爆死した(数さえ明確でない)。しかも広島市は慰霊碑で追悼することさえ拒んでいる。今に至るまで、である。ヤンソギル(在日作家)のいうように「原爆に対して抗議する資格が広島にあるのか?」。当然の発言である。

  

      

    

小出裕章は、たまたま、原子力工学を専攻したために、反原発の道を歩むようになった。彼が原発研究以外の道をすすんだとしても、人間とは何かを追求し続け、反差別の道を歩いたろう。その地点から出発する以外に、原発を廃絶する目標にわれわれは到達することはできないだろう。これを予感させる本である。

      

    

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目次
まえがき『放射能汚染の現実を超えて』復刊にあたって

序 人命の尊厳と反原発運動
人類は自ら蒔いた種で、遠からず絶滅する/人類が滅亡しても、地球は新たな生命を育む/反原発の根拠/生き方の中にこそ生命の尊厳はある

I チェルノブイリの死の灰はどこに行ったのか
チェルノブイリ原発の大事故/野菜が汚染された/母乳にまで放射能が/今も続く食品汚染/放出された死の灰/ヨーロッパ・ソ連の汚染の深刻さ/チェルノブイリ周辺の汚染の恐怖/もし九州で事故が起こったら/100万~200万の人がガンに/子供たちに集中する犠牲/有機農業に集中する汚染/工業化で潰されてきた農業/エネルギー浪費社会の末路/人間差別の上にしか成り立たない原発/汚染食品とどう向き合うのか/第三世界の現実/私たち自身が加害者に

II 弱い人たちを踏台にした「幸せ」
放射能で汚れた食べ物/日本が拒否しても汚染は消えない/過酷な現実といわれなき差別/私たち自身が加害者になっている/子供たちの澄んだ瞳

III 放射能汚染の現実を超えて
チェルノブイリ原発事故/ソ連、ヨーロッパの汚染の深刻さ/日本の状況/本当に必要なこと

IV 放射能汚染の中での反原発
はじめに/国の規制値にはまったく根拠がない/安全な被曝量など存在しない/原発の恩恵を受けている国は汚染も受け入れよ/弱者にしわ寄せされる放射能汚染食糧/誰が立証すべきなのか/運動はどういう波及効果を持つか/国が恐れていることと、運動に必要なこと/多元的な運動と根源的な運動/運動の形成と目標/根源的な運動の具体像/この現実を差別と呼ばずに何と呼ぶのか/「唯一の被爆国」と呼ぶ誤り/朝鮮人被爆者をいまだに差別し続けている私たち/排外主義から国際連帯へ/国際連帯に至る日本人としての条件/反原発運動の飛躍のために/どういう人たちの立場に立つのか

V 多様な運動の根源における連帯
存在する無数の課題と連帯の地平/汚染測定の醜さと活路

VI 有機農法玄米のセシウム汚染が教えるもの
はじめに/汚染の強さを決める要因/チェルノブイリ原発事故による日本国内の汚染/玄米のセシウム汚染の主犯は過去の核実験にある/それぞれの玄米からの被曝量/汚染への向き合い方

VII 原子力開発と地球環境問題
原子力開発の看板の変遷/温暖化問題と化石燃料の浪費/日本による略奪的な森林伐採/温暖化問題の本質はエネルギー浪費/エネルギーを浪費しない社会への道/原子力はクリーンでも安全でもない/原発は石油がなければ動かない/おわりにいわれなき犠牲をさけること


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兵頭正俊

菅直人は浜岡原発を廃炉にするとはいっていないのです。ただ、一時期の停止をいったにすぎません。中部電力も、明確に「防潮堤が完成する2年後には運転を再開する。廃炉にするつもりはない」と明言しています。こんな中途半端な、その場しのぎの政策が、どうして「英断」なのでしょう。この「英断」によって各地の原発は存続が保障されたのであり、危険のままに放置されることが決まったのです。
愚かなマスメディア、無能な菅直人によって、各地に明日来るかもしれない大地震も、しばらくは来ないだろうと無為の闇に葬り去られてしまいました。
津波ばかりを喧伝し、ビルを転がしてしまう直下型大地震の怖さを忘れた、原子力村民のカルト教が布教され始めたのです。恐ろしい新たな原発安全神話の始まりです。
http://123mh.livedoor.biz/

by 兵頭正俊 (2011-05-22 13:54) 

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