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三木清の死     9月26日はニッポンジンの無責任を記念する日 [history]

三木清の死については、ともにハイデルベルクに留学し、三木を兄と慕った羽仁五郎がつとに悔み怒っていたところです(羽仁自身も終戦時獄中にあった)。昨日、日高六郎『戦後思想を考える』(岩波新書)を読んでいたら冒頭で三木の死にふれていました。日高によれば、三木獄死の直接の原因は疥癬、栄養失調と不眠のようだが、疥癬になったのは疥癬を病気に持つ囚人の毛布を三木清にあてがったうたがいがある。。ということのようです。それは巧妙に仕組んだ殺人である、と。

引用します。p3~4

「9月26日の朝、看守が三木の独房の扉をひらいたとき、三木は木のかたい寝台から下に落ちて、床の上で死んでいた。干物のように。

 日本政府は、敗戦後にも、三木清を釈放しなかった。そして日本人民は、三木清を救い出すことができなかった。。。日本は、戦後、おそらくもっとも重要な思想的な仕事をしたであろうひとりの思想家を失った。

(中略)

 三木清の死が東久邇宮内閣を崩壊に導いたと話したとき、そして、ひとりの人間の人権が蹂躙されたことにたいする一人の人間の怒りが、ひとつの政府を倒した。。

三木清の獄死のニュースを聞いて、ロイター通信の記者がすぐに事情を調べた。そして政治犯のすべてがまだ獄中にいるということを知った。おどろいた外国人記者は、山崎巌内相に面会を求める。すると山崎内相は答えて「思想取り締まりの秘密警察は現在なお活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する・・・さらに共産党員であるものは拘禁を続ける・・・政府形体の変革、とくに、天皇制廃止を主張するものは、すべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕する」と語る。そのインタビュー記事は『スターアンドストライプ』紙(日本占領軍将校向けの新聞)の10月4日に発表された。これが問題となりマッカーサー元帥は、4日夕刻に「政治、信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃、政治犯の釈放」を指令した。なすすべを知らない東久邇宮内閣は、辞職。9日に幣原内閣誕生。10月10日に獄中18年組をはじめとする政治犯が釈放される。

敗戦後二ヶ月半たって、山崎内相は平気で、しかもおそらくマッカーサー司令部によってさえ支持されるだろうと信じて、こうした信念を吐露したというのはひとつの喜劇である。その喜劇のおかげで、三木清の獄死という悲劇がある。

8月15日、敗戦と同時に、あるいは数日後に、あるいは1ヶ月後に、だれひとりとして、政治犯釈放の要求を掲げて、三木やその他政治犯の収容されている拘置所・刑務所におしかけなかったということは、いうまでもなく日本敗戦の性格を物語っている」引用終わり



三木や戸坂潤の獄死はニッポンジン無責任の象徴です。三木清の死を記念するなら、9月26日を『日本人無責任の日』と命名すべきでしょう。象徴天皇制が日本国民無責任の象徴であるように。


戦後、憲法は変わったが、刑法、刑務所、警察の捜査・取り調べシステム、司法行政(裁判所人事支配による間接的な判決支配)はどれほど変わったか?
内務官僚、警察、軍(防衛)官僚はそのまま戦後も生きのびた。

GHQにより与えられた象徴天皇制、
GHQにより与えられた人権、と、民主制。

ごちそうさまです。


戸坂潤 Wikiより:
また、彼は1932年に設立された唯物論研究会の創始者の一人であり、同事務長等を務めたが、治安維持法によって特別高等警察に捕らえられ、栄養失調から全身疥癬に苦しめられ、敗戦の直前(8月9日)に長野刑務所で獄死した。
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タツ

三木清は、「赤とんぼ」の三木露風と近い親戚ではないけれど、同じく播州龍野の出身です。
自分が、ポストコロニアルに関心を持ち始めたころに買った上村忠男著『ヘテロトピアの思考』(未来社1996年)という本のなかに、「絶対の無はいずこに 三木清『構想力の論理』における超越の問題」というのがあるので、また読み返しておきます。
そのあたりから、引きずっているんだと思います。

トンボは英語でドラゴンフライ。。。空飛ぶ龍の矮小化?

龍野は、薄口醤油と、“揖保の糸”という素麺の産地で、関西人の味覚の故郷です。
これからの季節、いいところですよ~。夕焼~け小焼けの~♪

by タツ (2009-09-10 21:59) 

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