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小熊英二 『1968 若者たちの叛乱とその背景』 上・下、(新曜社、2009/7) [Book_review]

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上下巻、合計2000頁(計1万五千円)の<大冊>であるが、日本の学生運動全体を描こうとおもえばこのボリュームでも不足だろう。下巻で扱われた連合赤軍(16章。この章が一番出来がいい)だけを詳細精密に記述するのにも2000ページの書籍が必要であろう(日本の書籍はだいたいにおいて記述の絶対量=文字数、が足りないのがおおい)。

わたしは図書館で借りて、昨日と一昨日の二日かけて読んだ。上巻を読んだ時点では不満が数々残ったが、下巻とくに、15章「ベ平連」(約200ページ)、第16章「連合赤軍」(約170ページ)の記述を読むにいたって、著者の執筆能力に感嘆した。ベ平連についてはすでに数巻にわたる資料集が出版されており、小田実自身もぶ厚い回顧録を残している。連合赤軍についても映画を含め多くの書物が出版されている(わたしはまとまった単行本を読んだことがない)、ということを考慮しても、これだけの限られたページ数で過不足無く説明しきる筆力はたいしたものである。こういう本は通常速読を許さぬものだがこの本(というより小熊の書いたものはいずれも)は速読が可能である、ということは日本語の文章がよい(読み返さなければ意味を把握できない日本語が最近多い)、ということなのだろう(内容も、というわけにはいかないが)。

わたしは1969年年1月19日当日、偶然にも、東大安田講堂陥落を某書店を訪れた際、店内に設置されていたTVで実況中継を見た。(TVを観るために本屋に出向いたわけではない。その日は週末であったはずである。暦を調べたら19日は日曜日。TVの視聴率が高かったワケだ)。



以下、読書中のメモから拾い出した感想をアトランダムに記す。

1 この本のタイトルにまず違和感がある。著者も日本の60年代~70年代の学生運動を総称するに、通称されている世界革命1968という命名はふさわしくない、と本書中でもたびたび異議を称え、説明している。であれば、内容に則して『60~70年代日本の学生叛乱』とでもすべきだったのではないか。私見では1968年という限定は出来ないが当時の世界の情勢、冷戦のなかの繁栄、ベトナム戦争の実態(日本の関与と関与を隠蔽する仕組み)、は陰に陽に学生の心理に反映しておりこれが背景にあると思う。つまり、高度成長期(から、現在に至るまで)の世界を覆っていた、藤田省三のいう人間を商品化する<全体主義>の蔓延が背景にある(著者は結論部下巻p777でいう「ひと言でいうなら、あの叛乱は、高度経済成長にたいする集団摩擦反応であったといえる」)。

2 学生の叛乱はなぜ起こったのか?著者によれば、60年安保を闘った学生(&労働者)たちとはあきらかに発端は異なる、という。経済的に一定の水準を達成し高度成長を謳歌し始めたニッポンで自己のアイデンティティを確立するためのアガキであると、著者は言う。しかし、1965年(慶大)から始まり、日大、東大全共闘の壊滅(1969年)、それに引き続く全国の多数の大学で起こった紛争の収拾の短い歴史を、自己のアイデンティティを確立とか、若者特有のニヒリズムからの脱出だけに求めるのは安易すぎるとおもう(それだけなら、近代に普遍的な年代的現象といったほうがよい)。各大学の闘争を子細に見れば、当局による学生のスポイル、学生の参加を認めない非民主的学内事務運営、当局と学生の間のコミュニケーション不全が原因としてあったはずである。小熊は、学生に問題を言語化する能力がなかった、と言うがこれは誤認ではないか。東大紛争の収拾に当たった加藤一郎(元東大総長代行、のち総長)は、当時を振り返って次のように言っている(下巻p854。結論の章から):

「大学が権力だと攻撃されたけれど、大学は権力なんかいくらももっていないんですよ。どうも国家権力に直接対決できないものだから、それに付随するものとしていちばん弱い大学を的にしたという面があったと思うのですがね。この点はちょっと学生のほうが卑怯だったと思いますね。文句があるんなら政府に言ってくれと言いたくなる」(1991年)

まったく「主体性」のかけらもない発言である(これは闘争後20年後経過した時点における発言である)。加藤一郎(に代表される大学当局)は大学に権限がないことをなぜ文部省に問題提起しないのか?学生に自治権を与えないことのいいわけに当局が文部省から権限委譲されていない、と言って済ませるこの退行的現象。<言語化>能力は、問題認知能力があることが前提。加藤ら、当局に言語化能力があるといえるか。この加藤発言を引用した直後に、東大安田講堂突入や連合赤軍浅間山荘突入を指揮した後藤田正晴(当時、警察庁長官)の次の(回顧)発言がある:

「結果として彼らの狙いは成功しなかったのですから、無駄だったなという見方をする人は多いかもしらんが、私は無駄ではなかったと思う。ああいう動きがあったからこそ[福祉制度や公害対策があるていど整備された]今のような世の中というものが形成することができたんだという気がする。あれを反省材料にしながら、こうしなければいけないという施策を打ち出し、それを国民が受け入れていくというようなことになった」(1995年)


3 若者たちの叛乱がおきた要因を結論(下巻p777以降)で述べている。箇条書きにしてみる。
(1) 大学生数の急増と(大学の)大衆化。結果として、マスプロ教育が一般化し、学生・教員間のコミュニケーションが希薄になった。
(2) 高度成長による社会の激変。経済格差、と、貧困のため大学進学できない友人に対する同情など。
(3) 戦後の民主教育、という下地があったこと(下巻p784)。この背景から出た「戦後民主主義」批判と「進歩的文化人」批判。

 「彼らが批判されるべき点」として次の諸点をあげている(下巻p811以降)。
(1) あまりに無知かつ性急に、それ以前の「戦後民主主義」を一面的に批判しすぎた
(2) 運動後の去就(転向)。闘争後、さっさと高度成長化の企業に就職した。運動に留まった者の割合(歩留まり)がそれ以前の学生運動に比べて格段に低い。
(3) 運動のモラル。一般民間人やその資産を襲撃することがあった。
(4) 運動内の責任意識が無いこと。作戦指揮の拙劣のため負傷者逮捕者を出しても責任を感じていない。

上記の結論は何の新味もない。考えなければならないのは、私見によれば、60年代70年代の学生叛乱から、当事者を含む日本人(といってもほんの一部の、だが)はナニを得たのか(時代経験として、である)?あるいは大学はどう変わったのか?教育行政はどう変わったか(端的に言えば、教育に行政=文科省は不要なのだ、ということだが)?ということである。言い換えれば、もし、いま同様な問題が大学で発生したとき、学生、当局と文部省はどういう反応をするか、ということだ。小熊英二(慶応義塾大学・教授)はこの問題に答えず、自分でストーリを作って問題を70年代(連合赤軍問題とともに)で封じ込めてしまっているように見える。これは<研究書>であるゆえの性格か?


4 山本義隆(元東大全共闘議長)は、釈放後、科学書を何冊も執筆している。物理学界でも定評のある『重力と力学的世界』(現代数学社、1981年)を執筆の途中(雑誌連載中)、つぎのようなことがあった:

「。。<共同利用研究所>と称される東京大学物性研究所に図書の閲覧を申し込んだのですが、よくわからない理由で拒否されたことは、やはり記しておきたく思います」(同書、後記、p462)。

紛争の発端となった、大学(とりわけ医学部)でいま何が起こっているか?を著者は追跡調査する必要があったのではないか?70年代、紛争は終結したが問題の解決はなされていない、と私は考えている。<叛乱>が起こっていないコト、起こる気配もないことはよいことか?小熊教授に尋ねてみたいことである。(山本義隆の発言も聞いてみたい。山本氏の専攻=科学史、と無関係でもあるまい)。

引用する。上巻p701
「。。安田講堂攻防戦のあと(雑誌『世界』1969年7月号)、法学者で東大名誉教授だった我妻栄はこう述べている。「終戦とともに、これらの(大学を追われた)進歩的な学者はみな大学に戻ってまいりました。そして、教授たちは、だれはばかることなく、自由に自分の研究や思想を講義し、外部に発表できるようになりました。われわれは快哉を叫びました」「しかし、それだけでは問題は尽きなかったのです。いまにして考えますと。・・・・大学の管理運営自体について考えなおさなければならなかったはずです。しかし、われわれはこのことに十分気がついていなかった。
 (中略)
 しかし、東大闘争以前は、彼らは敗戦で獲得した研究や言論の自由に満足してしまい、大学運営や学生との関係で教授が権力をもっていることには、戦前いらいの慣行をひきずったままだったのである。」

我妻栄という民法の権威にしてこうである。大学内の<戦前の慣行>はいま、変わっているか?いつ、変わったのか?小熊の前著『<民主>と<愛国>』に言う第一の戦後、第二の戦後を経た<民主>はどこに存在したのか?どこにも。<戦前>の人的組織も思想もそのまま保存され(たとえば、文部官僚、内務・軍(防衛)官僚、裁判官、警察、学閥などは戦争をスルーして、そのシステムは現在も生きのびている)、個人の思想も根底では(たてまえ、ではなくホンネでは)<戦前>のままだった、ということ。小熊英二が前著で縷説した<戦後思想>なるものは少数の思想家の脳内表層現象、国民の実生活を規制する制度にインプルメントされた<思想>は戦前のままである、ということだ。


マルクス主義経済学者で東大名誉教授の大内兵衛は雑誌『世界』69年3月号の巻頭「東大はほろぼしてはならない」でつぎのように発言した(上巻p955):

「1月19日の夕方、一年に及んだ大学の不法占拠が解かれ、警視庁の機動隊が安田講堂を占拠して、中にいた374人全員を逮捕した。その前日からかたずをのんでテレビの前に坐ってみていたわたくしは、これでいい、これでいい、これで入試もやれる、これで東大は滅びないと思った。・・・・学園や学問のことなどロクに考えていないとわたくしが判定している不逞の徒によって、しかも学問のためという口だけのスローガンで、暴力的に占領されているということは、わたくし自身が自分の家の中でドロボウに手ごめにされているような苦悩であったからだ。そしてそれがいま警察が来てくれてその暴力から解放してくれた。これはありがたいと思ったのである。不逞の暴力にまけていたわたくしは、むろんくやしがったが、老いぼれの弱虫であるから、まったくしかたがなかった。同様に大学も暴力には全く無防備なのであるからああいうとき警察にたのむのは当然であり、それゆえに警察は余計にありがたい、おかげでぼくも助かり、本も助かり、研究室も助かった、これはありがたい。なんといってお礼をいったらいいだろう。もらってくれるならお菓子の一箱ももってどなたさまもご苦労でしたといってお礼にいきたいような気がした。(中略)

昨年の1月医学部の教室占拠がはじまったとき、その瞬間から警察にたのんであれを排除すべしとわたくしは考えていた。(中略)

日本の大学と警察とが相互に接近し相互に理解してそれにより今日の日本の大学の無警察状況が改善されるならば、大学と警察との関係の間には相互の尊敬と感謝の途が通ずるに相違ない。そして明治以来の両者のコムプレックス的誤解がとけるならば、これまた日本の民主化の新しい一局面であろう」(引用終わり)

歳はとりたくないものだ。この巻頭言を載せた岩波書店『世界』編集部の度量に驚嘆する。これを読んだ大内兵衛の教え子や弟子達は旧師の著作を古書店にたたき売ったのか(あるいは拍手カッ采したのか)どうか、小熊教授には追跡調査をおねがいしたいモンである。


著者は「結論」(下巻)の末尾p866に次の文章を置いている:

「かくして、本書は序章の約束どおり、始まりの言葉に立ちもどる。「私にはなにもないの。それでは闘ってはいけないのでしょうか?。」この言葉が一人の少女から発された40年以上前の地点から、私たちは再度出直すことを求められているのである。

再度、同じ所から出直せと言うのか?

著者はその一頁前p865でつぎのように書いている。
「「あの時代」の若者たちは「戦後民主主義の欺瞞」の一語のもとに、数多くの遺産をなげすてた。しかし、一度目は悲劇だが、二度目は喜劇である。おなじ失敗をくりかえさないためにも、「あの時代」の叛乱の性格を理解すること、そしてそこから現在のわれわれの位置を把握することが重要なのだ。たんなる懐古趣味としてでなく、「あの時代」の叛乱を検証することの現代的意義は、ここにあるといってよい。」

すでに喜劇は眼前で演じられ、同じ失敗をくり返しているのではないか?問題は媒体が無ければ発現しない。問題が発現していないことは問題の不在を意味しない。媒体の不在あるいは機能不全の可能性があるのだ。文字面の<戦後思想>の存在は、その思想がインプリメントされていることをただちに意味しない。思想と現実の乖離があり、コミュニケーション不在であれば、物理的暴力による解決の試み、そして、現実の敗北、は必然であった。現実の敗北は思想上の敗北ではない。


追記:
本書、それに前著『<民主>と<愛国>』、前々著『<日本人>の境界』の、いずれにも冒頭に約10頁の序章が配され、その中ほどから「研究対象と研究手法」を記述している。著者によれば「研究手法などに関心のない読者は、以下の部分はとばして先に進まれたい」ということ。これらの書物が研究書と呼べるものかどうか(とくに本書と、前著)は議論があろうが、かりにそうだとして、<研究対象と研究手法>は、内容と不即不離の関係にあるのであり、本書(ならびに前著、前々著)を手にする人びとにとって必読なのではないのか?(内容を読んで私はそう思った)。


追記2: 叛乱学生のモラルについて。
叛乱学生が大学施設(公共物、私物)を破壊したことに批判がある(叛乱生に同調する人びとからも)。丸山真男は全共闘学生のやったことはナチス以下だ、と叫んだという。誰であっても眼前で破壊が起これば丸山教授と同じ反応を示すだろう。しかし、彼らによる破壊がなかったとして、丸山の特権体質をだれがいつ明らかにしえたろうか?学内の陰湿な管理体制をだれが学外に曝露し得たろうか。丸山真男の特権体質はたとえば『自己内対話』を読めばアキラかである(丸山門下から特権意識をもつ官僚が排出されるのも当然のことだ、と納得した)。


追記3: 東大闘争過程で文部省の大学闘争対処が始まった。以下、第11章『東大闘争(下)』、p827から引用:

文部省の対策と加藤新執行部の登場
東大闘争に共産党が介入する一方、文部省側は頻発する大学闘争への対処を始めていた。
まず68年11月6日と7日、国立大学学生部長会議が文部省によって開かれ、東大をはじめと75大学の学生部長が集められて、学園紛争対策が協議された。この会議で文部省は
(1)大学運営への学生参加には限度がある。
(2)学生のいう「大衆団交」には応じるべきではない
(3)授業拒否(スト)に起因する留年問題でもたやすく卒業・進級を許すべきではない。
(4)紛争の激化・波及にそなえ各大学間の連絡を緊密にする、という方針を確認した。
 とくに文部省が警戒していたのは、協議会の設置だった。68年9月には、富山大学経済学部で、教授人事に学生の意見を反映させる協議会が生まれていた。文部省側はこれを批判し、「教授人事や教育内容、国費である予算を行使する行政面にまで、行政上の責任をもたない学生が参加することなどは、ありえない」という方針を明確にした。

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本書中でも言及がある『全共闘白書』(新潮社、1995)。闘争に参加した当事者(当時の学生)500人へのアンケート結果、座談会など。



『1968 若者たちの叛乱とその背景』 内容
●上巻
序章
第一部
時代的・世代的背景(上)―政治と教育における背景と「文化革命」の神話
時代的・世代的背景(下)―高度成長への戸惑いと「現代的不幸」
セクト(上)―その源流から六〇年安保闘争後の分裂まで
セクト(下)―活動家の心理と各派の「スタイル」

第二部
慶大闘争
早大闘争
横浜国大闘争・中大闘争

第三部
「激動の七ヶ月」―羽田・佐世保・三里塚・王子
日大闘争
東大闘争

●下巻
高校闘争
六八年から六九年へ―新宿事件・各地全共闘・街頭闘争の連敗)

第四部(一九七〇年のパラダイム転換
べ平連
連合赤軍
リブと「私」
結論

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俳愚人

的確な批判に敬意を表します。

彼のネツトのインタビュー記事を読むと、さらに方法論上の欠陥がはっきりします。

また感受性として、暴力はいけない、ゆとりあるチンタラ闘争こそが余裕あるオトナの評価されるべき戦い方だというストーリーです。

ですから、社会運動の内在に沿ってみてかないため、既に否定された日共・社会党的運動論が評価され、それらの運動の欠陥克服のために発生してくる新左翼、全共闘運動が思想的論理的に俎上にのらず、全く見当違いなところで評価軸が設定されているように思います。

そういう点は、貴兄の指摘に有る通り、今の大学はどうなのか?という現状懐疑の問いを封殺して、自己肯定におちいるわけで、これは方法的欠陥だと思いますね。

とりあえず小生の「句の無限遠点」に紹介させていただきますのでご了承ください。不都合があれば消去します。
by 俳愚人 (2010-02-05 12:41) 

古井戸

俳愚人さんへ。
紹介を感謝します。
言及されたインタビューは未読ですが、この種の近い時代のドキュメントを作るとき自己の立場を明確にすることが重要だと思います(それの当たりはずれは、仮に否定するにしても主観の差です)。

この著者の場合、前著(民主と愛国)でも感じたのですが、結論先取の気配があります。つまり対象を解剖、腑分、分析するにあたって、あらかじめ予断が入っている。もちろん、真っさらの頭で資料収集などできるわけもないのですが、調査前と調査後で自己の観念がどういう風に変化したのか、に自覚的であるべきですね。宇宙人が書いているのではないのだから。

by 古井戸 (2010-02-06 13:10) 

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