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教養としての大学受験国語 [Book_review]

スペースシャトルにて ブーメラン戻った 日本食美味い 日本技術優秀! シャトル・チケット代金何千億円あほらし

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一つ前の記事、『サクラ記念日』、にこんな歌?を載せた。けさ、週末にブックオフで仕入れた100円本の一冊、石原千秋『教養としての大学受験国語』(2000年)を読んでいたら、こんな文章を発見。p275

「。。僕は、毛利衛さんとか向井千秋さんとかがアメリカのスペースシャトルに乗ることも、日本国民として恥ずかしいとは思っても、決して誇りには思えないのだ。だって、あれってまるで<車の買えない人が隣の家の車に乗せてもらっている>という感じじゃない?」

ははは。うまいことをいう。スペースシャトルのバヤイは、乗船チケット何千億円も払っているんだからね。ドードーと大船にのったつもりでいればよい。でも、中国が自前でシャトルを打ち上げようと計画しているのに比べると、かなり恥ずかしい。。と思わないのはNHKだけかも(珍しく、NHKを誉めた)。乗りたくないけど、カネだけは寄付しちゃるわい、というほうがスッキリするね。

中国のスペースシャトル。第一号に、ダライラマ、を載せたりすれば、ニュース。




石原千秋のこのホンは大学入試科目の現代国語のアンチョコなのだが、<現代思想>のマニュアルとしても使える!と著者は思っているらしい。内容たるや、まさに、<近代とは何か>の、ひとつのアンチョコな答えなのだから。現代国語入試がこんな内容を扱っているなんてわたしは全く知らなかった。


p30
 「。。。僕たちは間違いなく「モダン」(近代)という「個人」という思想に取り憑かれた時代に生きている。この時代では、自分の意見を持つことはほとんど生きることと同じ意味を持ちさえする。自己責任ということも、自分の意見を持つところから生まれてくる。  問題は、その「自分の意見」が実は「時代の意見」でもあることに気づくことが難しい点にある。僕たちは、知らず知らずのうちに、「時代の意見」を「自分の意見」と思い込んでいることが多いのだ。「時代の意見」に同調することが悪いと言いたいのではない。「知らず知らずのうちに」そうなっていることが恐ろしいといいたいのだ。そこには主体的な選択もないし、そして恐らく反省もないだろうから。」
「。。実はこうした「個人」の責任を基本とする考え方自体、「主体の消滅」を説くポストモダン的思考からみると、救いがたいくらいに「近代」そのものだと言える。「個人」という実態などは意味を持たず、他との違い、つまり差異のみが意味を持つと考えるポストモダンの議論からすると明らかに時代遅れである」 

このホンで扱うテーマは、

近代
二元論
身体
大衆
情報
日本社会
国民国家

である。ということは、入試出題者(業者、あるいは大学のセンセ)がこのテーマを切実だ、とおもっているのではなく、このテーマに関連した書き物が巷に溢れている、ということだ。

わたしが合点いったのは石原が「はじめに」で書いている文章である。p007

「教養という言葉は、いろいろな意味に使われる。「教養がない」と言えば、たいていの場合「ものを知らない」ことを意味する。つまり、知識のことだ。しかし、時と場合によっては、ある階層が身につけていなければならないハビトゥス(慣習)を意味することもある。コンサートホールや高給レストランでおどおどしているのも「教養がない」のである。つまり、ハビトゥスとはある階層が持っている文化の型のことである。」

それで著者は、受験生に対し、多くのことを知って欲しいし、上品なハビトゥスを身につけて欲しい、と言う。このハビトゥスは大学でも必要だし、社会に出ても必要になるモンダ、という。


はぁ。。大学や受験業界に棲息する人々が考えている「教養人」とはいかなるものか、定義してくれているようだ。こんな教養人には全く興味ないが、これも現代世界に巣くっている一種族、と了解し、その存在根拠、その意義を探るのは文化人類学的興味をそそらないでも、ない。

とまれ、こんなくっだらねえ<ハビトゥス>を生徒や学生に埋め込もう、としているとは恐れ入ったでござる(ホンキ、なんだよね?、石原センセは)。飼育、躾、としての受験ベンキョ、をこんなにドードーと肯定しているとは。




俵万智さんもむかし現代国語教師だった、と聞いたが。
ブックオフで仕入れたサラダ記念日は、英訳つきである。じっくり読んだが、なかなかいい歌と思えるのが多い、のは意外だった。

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昨日NHK ETVで、文化人類学特集をやっていた。梅棹忠夫らが造った 国立民族学博物館(みんぱく)の30周年記念。世界のあちこちの文物を収集している博物館である。こういうものを集めて展示する、という活動自体がもっとも興味深い、民族学的ハビトゥス。主体の消滅~と、差異、は原理的に共存しうるのか?この共存は、ハビトゥスたりうるのか?

番組で鷲田清一がこういう事を言った。

フィールド調査などである民族を理解するという。しかし、理解をするということは、相手のことがよくわかる、ということではない。細かく調べていけば行くほど、あらゆるものが違っている。現象的には同じでもそれに込めた意味の彼我の違いが大きいことに驚く、これを確認することが文化人類学の役割ではないか。

当たり前のことである。文化相対主義の基本である。しかし、この相手は誰か?アボリジニだけではなかろう。ニッポンジン同士であっても同じことだ。ある、コトバ、で何を意味しているか、どういう価値、非価値をそのコトバに込めているかはニッポンジン同士でも異なる。ニッポンジンはミナ同じ~。。などとノーテンキなことを言っているようでは文化人類学者どころか現代人たりえない。民族、という虚構は、言語の統一、統一言語の教育を持って始まる、という。言語は不完全なツールであり、人間支配の道具でもなく、認識を共有するための道具でもない。いかに、人間同士が異なっているかを確認するための道具である。民族、とは言語を共有するひとのあつまり、であるという。とりあえずこれを認めることとしても、言語の共有は価値の共有とは無関係のことである。


ミンパクでは、アイヌの文物を展示している。欧州博物館のアフリカに対する、のとは異なり、みんぱくでは、アイヌ出身者を招いて展示を行った、という。アイヌの子孫とミンパク研究者は親しく交際しアイヌの伝統の行事にも参加している。世界の先進国の近代は人権宣言をかかげ基本的人権を謳いながら、おのれの政策により滅び行く民族をほったらかしにしてきた。<天は人の上に人を造らず>という近代の原理は、口先だけのことだったのである。ミンパクができたとき、政府は、アイヌの存在を認めていなかった。国立博物館のミンパクがはじめて アイヌの存在を公的に認めたのだ、という。


北海道旧土人保護法

国際先住民年
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