SSブログ

人の死は悲しいのか  池田晶子の死  『人生のほんとう』  [Book_review]

                                          

046-a-ikeda-2.jpg

「。。親しい人が死ぬと、当然「悲しい」という感情が起こります。ただ、なぜ悲しいのかなと少し距離を置いて考えてみると、おそらく第一に「もう会えない」という思いがあります。その次がたぶん、「かわいそう、気の毒だ」、「死んだひとは悲しいんじゃないか」、そういう思いもありますね。

でも、これはよく考えてみると、わからないんですよ。ひょっとしたらそれも思い込みではないかと考えることもできます。死んだ人が悲しいと思っているかどうかはわからない。死ぬのが本人にとって悲しいことなのかどうか、われわれにはあくまでもわからないんですよ。だって、われわれは死んだことがないわけですから。

(略)

けれど、たいていは、「もう会えない」という感情のほうが、悲しみの内容としては強いのでしょう。でも、その「もう会えない」とはどういうことかと考えてみると、裏から言えば、会えたこと自体が、そもそも奇跡的なことだったと気がつくことになる。つまり、なぜ存在するのかわからない宇宙に、なぜかわれわれは存在していて、なぜだかわからないけれども、その人と出会ってしまったわけです。これはすごく不思議で、これ自体が奇跡的なことだったと気がつくと、悲しんでばかりでもなくなる。驚きとともに、感謝にも似た感情も起こってきますね。

また、会えたこと自体が奇跡ならば、なぜまた会えないことがあるのか、という考え方もできますね。さきほど「無というものはない」といいましたが、いなくなるということは、実は無がないかぎり「ない」のですから、いなくなるということ、無くなるということはないともいえる。おそらくそれが、われわれがなぜだか出会ってしまったという奇跡の意味でしょう。一期一会は存在の構造です」

池田晶子 『人生のほんとう』 (トランスビュー) 2006年6月刊、から。
本書は、著者が西武池袋コミュニティ・カレッジで「人生を考える」というタイトルで行った全6回の講義内容をもとにしている。2004年~2005年。

                                  

物も事も、およそ一切の事象は人間の記憶の中にあることをもってのみ、存在する。記憶から消えたときが人間にとっての<死>であるし、死、とは人間にとってしか存在しない。

私の父は一昨年死亡した。そのことは、父が田舎に物理的に実在しなくなる、戸籍から抹消される、ということであるがこれは公的な意味であり変化であるが、私や家族にとっては表層的な意味の変化でしかない。人が死ねば、係わりのあった人は哀しむか?係わりのあった人なら、それ以後、その人を、いつでも心の中で呼び出せるということであり、むしろ、呼び出す人に近づくのである。生存中の父は、物理的に800キロメートル隔てたところにおり、1年に一回も会わない存在でしかなかった。死により、いつでも、眼前に呼び出せる存在になったのだ。

                          
 

池田晶子はいまごろ、師匠であった埴谷雄高と静かに語らっているのであろうか。



池田晶子(いけだ・あきこ、本名・伊藤晶子=いとう・あきこ)。2月23日、腎臓がんのため死去。享年46歳。


nice!(1)  コメント(21)  トラックバック(5) 

nice! 1

コメント 21

FAY

こっちに初めてコメするー。。記憶から消えた時が死。そうだと思う。
また、会えなくなったと思う哀しみも、喜びの想い出も記憶ある故。

祖父や友人が亡くなった時暫くは、現実感が無く、数ヶ月してもの凄い喪失感と後悔に襲われ、これが長く続いた。辛かった。いまだに思い出すと、喪失感に苛まれるので、思い出さないようにしている。時を経れば、記憶を呼び出したり寝かせたりもある程度コントロール出来るようになるものだー。。。
by FAY (2007-03-03 11:42) 

Shiko

始めまして、素晴らしいブログですね。
書評を読ませていただきました。。。これもまた素晴らしきこと、海より深し。
なんか、佐藤さんやら、米原さんやら、姜さんやら、藤原さんやら、、、、読んでいる本が同じで、非常に面白いです。


「死」は生き物全体に存在するが、「死」を存在として捉えられるのは人間だけだ。
と言うことですかね。
ことわざにあります「親の死3年、金は永年」=「親の死は忘れても、金の恨みは忘れない」こんな感じだった気がしますが・・・



よ~く考えれば、同じ「会わない」なのに、生きているか否かだけで、悲しみの感情が出たり出なかったりするのですね。人間は。
面白い存在です。
by Shiko (2007-03-03 12:31) 

古井戸

> 生きているか否かだけで、悲しみの感情が出たり出なかったりするのですね。人間は。

正確に言うと、生きていると思っている、だけで、ほんとうに生きているか死んだか、はどうでもいいことなんですね。

池田氏が、病気・死亡、ということを知らせず、海外に移住しました~。。とでも適当に言っておけば、それで何事も滞りなく穏便にすすむ。

いや。。実際、どこかで、生きているかもしれない。きっとそうだ。
by 古井戸 (2007-03-04 04:24) 

ミック

はじめまして、TBありがとうございました。
みんなが夢と言っている方が現実で、
現実と言っている方が夢であったら、
死という例題はどういう事になるのだろうか。
永井均が自分でどちらを現実とするか、決めるしかない。
と、マンガは哲学するで、言っていました。
それにしても、みんなが現実と思っている方の現実で
これからの池田晶子さんと一緒に考えていく事が
できない事がひたすら、寂しい・・・・・
by ミック (2007-03-06 16:42) 

古井戸

ミックさん。
池田晶子が死んでもさびしい、とかいうのはおかしい。

池田晶子は生きている。うたがうものは本屋に行け、図書館に行け。

『魂を考える』『死と生きる』『君自身に還れ』『14歳の君へ』。。を買って読んでいます。このほか、10冊図書館に予約した。

池田は現代版アリストテレス、です。(わたしは ありすとテレ子ちゃんと呼んでいる) 世の中の森羅万象を、驚き、とともに見つめ、思索している。これぞ哲学者です。 死と生きる、は若い死刑囚との往復書簡。死刑囚を甘やかしているわけじゃない。彼女以外に誰が、いま、こういう往復書簡をやりとりできるだろうか?
by 古井戸 (2007-03-09 13:22) 

ミック

池田晶子が死んでさびしいのではなく、
「これからの池田晶子と考え抜く事ができない」事がさびしいのだ。
過去には戻れないし、これから考え抜く事が哲学なのだ。
アリストテレスは好きじゃないけど、ありすとテレ子ちゃんはおもしろい(^^)
by ミック (2007-03-10 00:45) 

古井戸

池田晶子、ってなんざんしょ?
肉体じゃないでしょ?
魂でしょ?
魂は不滅です。

アリストテレスは 動物誌、がおもろいですよ。岩波文庫。

池田さんが元気なら、房総半島の海岸で、海の生物観察でもやりたかったな。。で、アリストテレス講話=存在論、を聴きながら。 ふたりきりで。 ぶふふ~。

池田センセ、は自然観察は好きじゃなさそうだな。
by 古井戸 (2007-03-10 23:45) 

dr.stonfly

はじめまして、TBありがとうございました。
コメント欄を拝見しても、なかなか手厳しいですね。嗜められるかもしれませんが、ワタシとしちゃ、やはり喪失感が大きいです。
なんで?と、聞かれると、なんでだろう? と思索が始まるんですけど(笑)。
チラチラと拝見しましたが、他のエントリーも面白そうですね。また読まさせていただきます。ただ、頭の悪いワタシにとっちゃ結構、難しそうです。
by dr.stonfly (2007-03-12 11:28) 

高山数生

「あなたと会えないのが寂しい」というより、電話できない、話ができないのが肩透かしを食らったような喪失感を感じる。電話番号は残っているのにかけても向こう側に出ないからだ。
ケンタッキーフライドチキンの骨を噛んでしまったときは、嫌な歯ごたえだが、嫌と思うだけまだマシだ。
「断言の中に入ること」、池田晶子の著作は本のカタチをしているが、中身はどうでもいい。これだけのことのための本だと思っている。すべて書かれたものは、糞の山と同じだ。なぜ14歳でなければいけないのか、編集者の程度を疑うテーマだ。
by 高山数生 (2007-03-15 16:34) 

古井戸

14歳とか、41歳とか、91歳とかはどうでもいいことだ、と池田晶子はいっているのです。当然、池田晶子、という人間が存在した、とかしなかったとかいうこともどうでもいいことです。池田晶子なる著者が、表現したらしい文字は、しかしながら、眼前にあります。池田がいわなくても、誰か別の人間が言ったかも知れない。特定の個人の存在など吹けば飛ぶようなモノ。
色即是空。

あなたやわたし、池田、ニッポン、世界、これらすべても空、なんだろうが、これらを<実在する>、と思い込まなければやってられないのが現実世界です。空の中では人間は生きられない。食べるし排泄するし性交する。子供を作る。これを否定しては宇宙も存在しない。人間の存在しない宇宙は宇宙でもない。
空即是色。

池田晶子は父親(去年亡くなった)の後を追うように世を去った。順序が逆でないだけでも、池田は親孝行した、と思ったりする私は、古い人間だろう。
by 古井戸 (2007-03-15 18:53) 

ポスト

 トラックバックありがとうございます。「人間自身」の最後の方の連載で、今のイジメが陰湿であることに触れ、自分が小さい頃ガキ大将にカエルとか見せられて追いかけまわされたことがあって、それなのに嫌な思いがしなかった。何を意味しているかわかったからだ…その証拠に自分が転校するとき、そのガキ大将が、まわりもかまわずわんわん泣いていたのを思い出した文があり、「昔のいじめは今と違って陰湿ではなく、どこか明るいところがあった」となつかしんでいました。
 人間死ぬ間際に昔のことを思い出すといいますが、今考えるとその文を書いた時、自分の死期を悟っていたのかもしれません。
 先日のZARDの坂井泉水さんといい、男女問わず命が燃え尽きるように若死にしていきます。人生は長さではありませんが、長く生きてくだされば、まだまだ私達にいろいろなことを語ってくださってであろうことを考えると残念でなりません。でも戦って死ねたから本望なのかな?凡人の私にはわかりませんが・・・
by ポスト (2007-06-05 22:25) 

NO NAME

トラックバックをもらったので、記事を読まさせていただきました。
私は池田晶子に興味がないので、多くの文章を読んだ訳ではありませんが、池田晶子の断言するもの言いが嫌いでした。
でも、もう死んだ人のことはどうでもいいです。だって死んだら終わりですから。

あなたが言うように、死んでも他人の記憶に生き続けるのは当然だと思ってます。そんなこと人に言われなくても気がついてましたけど。

でも本人は死んでますから、賛同も反論もできません。死んだ人に対して、あなたの考えはひねくれてる!なんて今更文句を言う気にもなれません。
もしかしたら、池田晶子自身も後悔している文章があるかもしれません。もちろんしてないかもしれません。でも、そんなことは本人にしか分からないことだから、池田晶子の読者が噛み付いてきてもむなしいとしか思えません。

私が池田晶子から学んだ事は、人を傷つける文章の書き方です。なるほど、ああいう文章を書けば、ブログやサイトならば「炎上」するんだろうなあ、なんて思った事が懐かしい思い出です。

ただ、池田晶子の信者のようなファンの方々からの常軌を逸したコメントの数々には辟易しました。それらにより、私の池田晶子の印象は最悪なものになってしまいました。

でも、もうどうでもいいんですけどね。私の心の中では生きてませんから。
by NO NAME (2007-06-06 02:56) 

magnoria

TBありがとうございました。常識にとらわれず物の考え方を変えることによって救われることってありますよね。それによって私達は逆境にあっても心を平安に保ち、人を恨まず、人に感謝して生きることもできるのだと思います。追い詰められた時に、物の考え方を変えることによってまた生きる勇気を与えられる、哲学ってやっぱり生きていくのには必要なのだと思います。それが進化、成長です。また私のブログにもコメントいただければと思います。
by magnoria (2007-06-06 18:42) 

古井戸

NO NAMEさんへ。
池田晶子の書いているものは分かりよくはないですよ。
死んでから私は読み始めたのだが、どうしてこんなに人気があるのか不思議。 

若ければ、わたしも池田流扇動的、独断的な口調に炎上したかもしれぬが。
by 古井戸 (2007-06-07 11:43) 

おおこげ

TBありがとうございました。
先週、父が亡くなり、ブログを見る時間もなく過ぎてしまいました。

池田晶子さんの書いているものに、私はあまりこだわりませんでした。「考える人 口伝(オラクル)西洋哲学史」を読んで、ああ、こういう風に考えている人が
世の中に居る、それだけで充分でした。後の本の根っこは同じでしたから、
本屋で斜め読み。池田晶子さんへの思い入れの強いのも、表面的な物言いに反発するのも、どちらも自分の中に戻ってこない分、損をしているのではないか
と思ったりします。また、寄らせてもらいます。
by おおこげ (2007-06-09 15:47) 

古井戸

「考える人 口伝(オラクル)西洋哲学史」
。。。必要あって、デカルトの項を読みました。
 我思う故に我アリ
。。の解釈を巡って、です。よくわからなかった。手に入るデカルト本と読み比べているのですが。
(私は単行本を読んでいるが。。文庫版につけた木田元の解説はクダラナサすぎる。池田晶子と対決して欲しい)

2007年四月刊行の斎藤慶典『哲学がはじまるとき』(ちくま新書)で、著者が後書きで(校正刷りが終わった後彼女が死んだ、として、正確には、あとがきの後に追加挿入した一頁で)、池田を「朋友」として追悼しています。
by 古井戸 (2007-06-10 03:33) 

山本アツシ

池田さんは哲学を勉強するな、と言っている。勉強するというと先哲に教えてもらうというかまえをとることになる。それは哲学することではない。物知りになるだけだ。評論家になろうとするのならそれでもいいかもしれないが。生きていることが驚きであり、自分自身が謎にみちている。誰に教えを乞うのか。自分に聞け、ということだ。
どんな作品でも生死について突っ込んだかんじ自分の頭で考え悩んでいるのがこちらに響いてくるのがよい。池田さんの本にはそれがびんびん響いてきた。初めて生き初めて死ぬわたしたちの乙女のような純潔の人生に彼女はよく気がついていた。哲学している。
by 山本アツシ (2007-07-12 01:03) 

古井戸

勉強するな、とは言っていますが彼女は勉強しています。
受験のための勉強、。。こういうものをするな、ということでしょうね。この人生のほんとう、や14歳のための哲学とかにはそういうことを伝えたいという気持ちが伝わります。哲学徒を相手にしたような本もありますが逆にそういう本からは伝わりにくいものがあります。むしろサラリーマンをやり農業をヤリ、商人になったりスポーツ選手になったり、学校の先生になったり。。そういう何かを生きれば自然に哲学をいきることになるでしょう。そういう個別の生き方をする過程で沸いてくる色々な難問をトコトン考えることが哲学だと思います。特殊解を経由しないで一般解は得られない、とおもいます。なにかの職業に就かず、経済生活にドップリ浸からず人間とはなにか、を論じることは生まれついての哲人(ソクラテス、アリストテレス。。、釈迦)クラスの人間にしかできない。イワユル哲学者は何を問題としどういう解を与えたか。なぜ、言葉でものが伝えられるか。あるいは何も伝えられていないのではないか?伝えられないことを分かるために伝えようというむなしい努力をしているのではないか。分かる、とはどういうことか?いろいろな疑問を考え、伝えようとした人間がいて、死んだ、ということ。
by 古井戸 (2007-07-13 06:15) 

山本アツシ

見えるということは意味の世界にはいることだ。言葉があるから万物は存在するというのはそのことではなかろうか。
世界は自分を起点に存在する。ロンドンは自分からどれくらい離れているかとか。自分がなければ起点が消失するので世界は崩壊する。意味はあくまでも自分にとっての意味だ。それ以外はない。そんな意味の世界をいやおうなく浮遊しているのが僕たちでしょうが。自分は死んでも世界は存在するという人がいる。それは想像しているだけだ。言葉遊び。無という言葉もあるくらいだからネ。
by 山本アツシ (2007-07-20 21:44) 

古井戸

> 自分は死んでも世界は存在するという人がいる。それは想像しているだけだ。言葉遊び。

これもコトバの使い方次第でしょう。<世界>とはなにか、を定義しなければ。地球と物質的宇宙、が世界であるならば、たとえば、私の父が昨年死んだが、死ぬ直前「俺が死んでも地球=世界は残る」。。といってもこれは当たり前のことです。 

特定の個人(自分)を含めた世界は、自分が死ねば消失する。これも当たり前のこと。といっても、死後の世界など誰も語れない。
by 古井戸 (2007-07-21 11:58) 

tarou

池田晶子の「人生のほんとう」を読んでた2ヶ月前も私は
池田晶子が死んだとは知らなくて、ついこの間1週間前に知りました。

最初は「ええ~!!池田晶子が死んでた?ん~ん」って
物凄く不思議な感じがした。

でもどの著名人の死よりも池田晶子の死はゆるやかに強烈だった。

いつも人の死で感じる絶望感。
「なあんだ~人はどうせ死ぬのだ」

でも池田晶子の死は「池田も死ぬなら、何か私も楽に死ねそう~」みたいな
奇妙な感想を持った。

怖くないみたいなそんな感じです。

池田晶子が生きてても死んでも、池田の本があるから同じ。

死はいつも生きてる永遠のテーマだけど、波の泡粒になって
消えるだけだって池田晶子の死で思った。

今までの池田の著作だけで十分です。
今後も読み続ける。
by tarou (2007-08-05 09:46) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 5

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。