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コメント回答、時事新報社説というもの、および 坂野潤治による脱亜論の読み方  (福沢、その9) [福澤諭吉]

4/27日9:00am 追記: 
井田進也『歴史とテキスト』から福沢社説の成り立ちについてやや多めの引用をした。中ほどの部分、●******で囲んだ。 この引用部分だけでも読まれると 時事新報社説がどのような経緯でできあがったか、理解できると思いますので 是非是非 お読みください。

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最近、とおりがかり氏が「福澤諭吉の真実、再読」という記事に次のようなコメントを加えている。

「文章を書くものが一番やってはいけない、偽造という行為を働いた石河を勝利者として誉める古井戸という人間は、頭が腐っているのではないか?
もし石河のような行為を認めれば、全ての学術資料は意味を失う。
それは地理・時代にかかわらず、古代であろうと戦時下であろうと、あるいはどのようなイデオロギー・思想を持とうと、学に志すものの根本的な道徳である。
それを破った時点で、石河には弁解の余地のない罪悪があるのである。
古井戸とやらには猛省を促したい。」

せっかくのご注意だが、猛省する必要を認めない。
石河幹明の役割に関すること、時事新報に対する私の見方、福沢の役割は、最新の記事「脱亜論 アジアは<アジア的>か」に書いたのでそれを読んでもらいたい。一応次に要約しておく。

これは社説である。すべて、福沢が校閲済みの。
気に入らない内容なら福沢が全文、あるいは半分書き直したり、添削できるし、している。
全集という名前が、気に入らないなら、時事論説社説集、福沢校閲、として(頭で切り替えて)読めばいいこと。100%が福沢の文章か、添削を加えたから10%しか福沢の手がはいっていないのか、それとも、福沢が添削無し、として100%主筆(石河など)の文章をそのままのせたか、は当時の社説読者にも、知りえないことであり、そのような目を以て時事新報(のすべてではなく、ほんの一部だろうが)を全集で読めるのはとてもよいことだ。社説とはもともとそういうもの、偽造、などという見方は当たらない。

全集編纂に当たった石河にとって、10年~20年以上昔の 朱筆(福沢の) 入り生原稿でもそろっていない限り、どれが、真筆だったか、あるいは90%手直し?だったかを探るのは無理だったろうし、そんな努力など、意味がない、と石河がおもった、と考えればよいのでは(つまり、校閲済みならば福沢のもの、であり 100%福沢執筆のものを全集に掲載することなど毛頭頭になかった、と)?
つまり、当時の読者が社説を読んだであろう目で(誰が書いたか分からない、しかし、福沢が校閲済み)読めばよい。(と、石河も考えていた)

福沢執筆、といわず、福沢校閲、といえばよいのである(もっとも、福沢がいい加減にしかチェックしなかったのか、じっくしとながめつすがめつしながら読んだのかはツマビラカにはしないが)。
注: 時事新報はその過激な意見ゆえ、政府から監視されていたのであり、従って、福沢も内容には敏感であったはず、と、すでに述べた。

全集には真筆(100%自分が筆を執って書いたもの)のみを載せるという考えは、記事でのべたように井田氏もとっておられるようだが、時事新報社説(複数が執筆、福沢が添削)にかんしてはそんなセセコマシイ道徳など、勘弁してちょ、というのが私の考えなんですよ。(論文著作権とかオリジナリチとかを後生大事に守りたいという研究者の職業的発想と読者の要求は相容れない、当然のことだが)
注:100%福沢真筆のみを掲載した時事新報社説集と、当時の読者が読んだであろうすべての時事新報社説を掲載した 時事新報社説集のどちらが有用か、どちらを読みたいか、ということ。

 <偽造という行為を働いた石河を勝利者として誉める古井戸という人間は、頭が腐っているのではないか>

「侵略を煽ったりしなかった」(平山さんはそう読んでおられる)福沢が 自分では、対朝鮮対清国への敵愾心を煽るような社説を書かず、石河などに煽るための社説を書かせ、自分はそれを校閲していた、というならば 石河の勝利、といったのであります。なぜなら、平山さんは日清戦争は侵略戦争ではなく、通常の戦争であった、とおっしゃっているのだから。通常の戦争なら国民に戦意昂揚するのは悪いことではありますまい。戦意を煽った社説を「乱造」した石河を勝利者、とだからいったのであり、偽造がどうとか言う問題ではありません。

福沢が生存しており、社説を校閲していた時代に、社説の「偽造」もなにもありません。偽造社説が時事新報に掲載された?

勝利者、といったのは、平山さんのいう普通の戦争に対し、福沢がビビって戦意昂揚社説を書かなかったが、石河は戦意昂揚社説を「乱造」(平山さんの用語)したこと、と、全集の「偽造」(わたしは上記の通り悪意あってとはおもっていない)を100年以上みぬけなかったのは石河の勝利、といったのです。義戦なのに積極支援しない福沢は、犯罪人ではないか?とも書きました。

つまり、揶揄しているのですよ。

そんなことはないでしょう、と。福沢もせっせと国民を煽ったし(つまり、犯罪人ではなかった)、石河も師の心を推し量って、戦意昂揚社説を乱造したのでしょ、と。

●****追記4/27 8am****
井田進也『歴史とテキスト』から引用
p15
「しかしながら、兆民と福沢とでは文体も新聞雑誌への関わり方も異なるから、兆民全集の認定法をそのまま福沢全集に持ち込むわけにはいかない。兆民全集の場合、兆民が主筆を勤めた新聞雑誌では、他の論説記者はそれぞれ独自に執筆していたから、兆民自身の文章を選び出せば良かったともいえるが、福沢全集では、門下の少壮記者が起草した文章に自在に手を入れ、ときにはフリーパスにしているため、同じ論説でもどの部分が福沢でどこからがそうでないか、あるいはまったく、関与していないかを一々判別しなければならないからやっかいである」

p16
「そこで、全集に収録されたか否かを問わず、すべての「時事新報」論説を福沢自身が書いたと判断されるものから、少壮記者の文章をそのまま載せたと考えられるものまで、関与の度合いによって、ABCDEの5段階に評価することにした。。(その場合、福沢文と認定しうるのは、A段階ならびにほとんど福沢というべきB段階くらいまでではなかろうか)」

「日本臣民の覚悟」は。。。全編にわたって石河の筆跡が顕著で、例の通り分解してみると、論旨がなかなか定まらず、瑣事に拘泥していたずらに冗長な悪文が浮かび上がってきて、福沢が手を入れたのは攘夷論流行の往時を回顧する部分と、韓愈の引用の2カ所程度と考えられたので、有名論説にもかかわらず評価はDとした」

p18
「。。「東洋の波瀾」が福沢筆でないとすれば、「脱亜論」を準備したとされるその他の論説はどうなっているかとの思いに駆られて直ちに稿を起こしたものである。論説の選択に当たって遠山茂樹氏の『福澤諭吉』に従ったのは、丸山(真男)説で回避された日清戦争期の論説群を逐一編年的に検討するという、同氏の歴史家としての手堅い手法に共感を覚えたからである。ただし、調べてみると「 」「軍事支弁の用意大早計ならず」「戦争となれば必勝の算あり」「御親征の準備如何」等の有名論説が高橋、渡辺らによるD,E段階のものとわかり、前稿で侵略主義的、皇室中心主義的色彩の濃いものほど両少壮記者の「血気」のなせるわざであるとした結論が再確認される結果となった。「脱亜論」の周囲に半世紀来立ちこめていたキナ臭い咽霧を吹き払ってはじめて、福沢がこの論説に託した意図も明らかになるはずであり、前稿以来福沢をして福沢を語らしめよと訴えてきたのもそのためであった」

p27
福澤諭吉『時事新報』論説の真贋
「福澤諭吉は明治15年(1882年)に創刊した『時事新報』紙に同31年9月脳溢血の発作で倒れるまで、毎日のように論説記事を書いていた。みずから筆をとらない場合は、石河幹明らの弟子たちに口授、加筆しすべての論説に少なくとも目を通してゴーサインを出したといわれる。ともあれ『福澤諭吉全集』の大冊21巻のうち『時事新報』論説だけで9巻にもなるのは、いかに福沢が長期間、精力的に執筆したことを認めるにしても人間わざとは思われない分量である。それらは全部福沢の思想を代表しているのだから福沢だ、といわれれば、まことにそのとおり、福沢一門の思想と考えればすむことだが、著者本人が書いたものを集めるのが全集だという、これまたしごく当たり前な全集観からすると、かりに本人が(著者が、ではない)目を通しただけの作品が混入しているとしたら、やはり特殊な全集と言うことになりはしまいか。全文口授の場合はともかくも、加筆にはそれこそピンからキリまで程度の差があり、福沢全集への論説の採否は永年福沢の身辺にあって事情に通じた石河幹明が『時事新報』の切り抜きと自身の記憶をもとに決めたといわれるから、その際、選択に迷わなかったとすれば嘘だろうし、記憶に誤りがなかったともいいきれまい。あえて極端な場合を想定すれば、福沢でないものが前週に入り、福沢自身のものが落ちていることだってありうるのではないか」

古井戸コメント: 
平山さんの場合ととおなじく、井田さんのような専門家にコメントするのもなんですがー。 「著者本人が書いたものを集めるのが全集」とか「特殊な全集」とかいわれてもそれは、福沢の立場(時事新報社説とのかかわりかた)が 他に例を見ないほど「特殊」なことの反映だから、ことさら特殊さを避ける必要もない。福沢のような多面的な人間の著作を 古くさい「全集概念」に封じ込めようとするのがそもそも「無理」なのでしょうが。明治の読者はそのような「特殊な」社説を読んできたのである(あるいは読まずに放置)。

「それらは全部福沢の思想を代表している」と考えなくてもいいでしょう。現在の全集読者は、「福沢がゴーサインを出した」社説であることを知ったうえで読み、福沢が直接執筆しないものも混じっている、そのような社説を「全集で」読者がどう読むかは、読者に任せればよい、と考えます。 100%福沢が書いたもののみを全集に入れる、というのもありだろうが、どのような社説に手を加え、あるいは、手を加えず、ゴーサインを出し、読者に提供したかも、福沢を知る上には不可欠と考える故。

たとえば、井田氏は。。

前稿で侵略主義的、皇室中心主義的色彩の濃いものほど両少壮記者の「血気」のなせるわざであるとした結論が再確認される結果となった。。

と言っているが、少壮記者の書き物は、その前に福沢自身がそのような考えの持ち主であることを表明したからに相違あるまい。質(内容)は福沢が定め、修辞(量、強度)は弟子等のつくりものとなった。 あるいは濃くしたのは記者であったろうが、色彩を定めたのは福沢である、福沢ならもっと陰影のある、有効な一打を放ったかも知れない。

また、井田さんはつぎのようにもいう:

。。福沢をして福沢を語らしめよと訴えてきたのもそのためであった

はたして、福沢「真筆」だけを寄せ集めて、「福沢をして福沢を語らしめ」ることになるのだろうか?
わたしなら、「時事新報社説」をして「時事新報社説」を語らしめよ、といいたいところだ。あるいは福沢など当時の時事新報読者にとってはバーチャルな存在であり、眼前の時事新報テキストのみが真実、である。。

このような事情を知って読めば、全集社説もひときわ陰影深いものになるハズなのに私程度の日本語能力では論説ひとつまともに読めない(おそらく。。)、とあれば、日本語能力欠如がいまさらながら恨めしい。

井田進也の上記指摘を受けて社説を引用した、あるいは思考の材料にした歴史家は(遠山を含め)このテキスト分析の結果が 自分の著作や見解に影響を与えるか、あるいは与えないかを明示して欲しいものである。テキスト分析手法自体への異議を含め。
これに関して、容易に手に入る論文や著作などをご存じでしたら是非、ご教示いただきたい。
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「脱亜論」解釈について。

平山さんは著書の第五章「何が脱亜論を有名にしたのか」で、有名でもなかったしする必要もない脱亜論を有名にした「犯人」さがしをやっておられる。

平山さんは、p126以降で、脱亜論の解釈として坂野潤治が選集第7巻(81年)の解説で述べている、脱亜論は 「朝鮮の近代化に寄与したいと望みながらそれがかなわなかった挫折感を表明した一種の敗北宣言」とみなす読み方、に賛同し、本章で使用した、と述べておられる。 なかなか文学的な読み方であるが、敗北宣言のつぎに何が来るのか?という想像力は歴史家らしく控えておられる。

坂野潤治による、その先の読み方を紹介する。

坂野潤治は89年に刊行した「近代の出発」小学館で、脱亜論についてつぎのように述べている。p82以降。
##
注意して読むと、明治14年から18年にかけての福沢の議論は支離滅裂である。壬午事変の前には、欧州列強のアジア侵略から朝鮮と中国をまもるのはアジアのなかでただひとつの文明国の仲間入りした日本の義務である、と説いた。壬午事変にさいしては、日本政府は中国との一戦を覚悟しても朝鮮をクーデター前の状態にもどすべきである、と説いた。

。。

それから3年もたたない明治18年3月の脱亜論では、欧州列強の中国朝鮮への侵略が切迫し、この両国の近代化を待っていたのでは日本の独立すら危うくなるから、日本は朝鮮の近代化もあらためて欧米列強の東アジア分割に参加すべきである、と論じている。
しかも、福沢に大転換をせまるような欧米列強の東アジア侵略という歴史事実は、どこからもみあたらない。
。。。

要するに福沢は、欧米列強の東アジア侵略の切迫という架空の脅威を強調して、清国と朝鮮反日政権にたいする日本人の敵愾心をあおったにすぎないのである。
##
以上、これが89年の坂野潤治による脱亜論の読み方である。

坂野潤治は田原総一朗との最新対談本で 北一輝を 美濃部達吉につらなる天皇機関説を唱えた、完全な社会民主主義者として、かなりページを割いて紹介している。


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mina(教えて君で、すまんです)

この時代まで、勉強して無いんで、教えて君なんですが
泥縄で、確認したら明治十七年十二月に甲申政変があるようですが、それは関係無いのでしょうか?
金玉均は、亡命するけど。
by mina(教えて君で、すまんです) (2006-04-26 18:46) 

古井戸

> 確認したら明治十七年十二月に甲申政変があるようですが、それは関係無いのでしょうか?

壬午事変のつぎ、ですね。おおありでしょうね。
遠山「福澤諭吉」p194前後
記事中の坂野本ではp86前後。
坂野:
「一見したところ、壬午事件と同様の結末に終わった事件であるが、日本の対韓政策にあたえた打撃は、前回の事件とは比較にならないものであった。
理由は。。
1 事件はあきらかに日本側に非があった
2 略
3 略
このとき、自由新聞や 言論界は対清国韓国強硬路線のみなおしをせまったが、壬午事件のときから強硬論をとなえていた「時事新報」は、政府の施策よりもっと過激であった。。」

このころ、勇ましい社説が時事新報から 乱造、されているらしい。論文名は遠山本に書いてあるが内容は知らない(読んでいない)。

かりにこれらの「乱造」論文がすべて、石河の筆になると、した場合、

福沢: おいおい、そんな過激な表現するなよ~
というか
福沢: もっと過激に!
福沢: もっと過激に、しかも表現はもっと華麗に!
福沢: おれの知ったこっちゃない

政府より強硬な時事新報社説に対し、政府が発禁にするという噂が出たとき、福沢が海軍卿川村にだしたいいわけの書簡があります。
「。。政府の都合を推察して、日本のためをおもうて、時としては、心に思わぬことまでも記して。。。」

心に思わぬ事を、記すことのある福沢に、真筆も何もない、とおもうのは言い過ぎだろう。あるいは、

石河が書いたのだから仕方がない~。。困ったやっちゃのぅ。。

なのでしょうか。言論人としては頼りないが。
遠山本はこのあたりの記述がまことにてきぱき、としている。そして、時事新報の根拠となる論文をほとんどの場合、示している。だから、石河が書いた、あるいは福沢が添削した、とテキスト分析(もしなされていれば)により確認できる。

それで、 テキスト分析により、福沢関与が少ない、となったばあい、どうしたいか? 福沢全集に断りを入れて、出版するか、別に、時事新報論集、校閲by福沢として出版するのがいいでしょう、とわたしはいっているわけ。

まあ、あとは読者の胸先三寸、ということで。
by 古井戸 (2006-04-26 19:48) 

mina(教えて君で、すまんです)

壬午事変 が、明治15年ですよね。
それから3年もたたない明治18年3月の脱亜論ってあるけど
明治十七年十二月に甲申政変の翌年に、脱亜論だから甲申政変
の方の影響が大きいで良いのかな。
甲申政変の後、金玉均 の家族も殺されたんですよね。
福沢諭吉は、その事どう思ったんでしょうね。
金玉均 と交際あるんでしょう。

金玉均 は、韓国人から見て開明派と思われてるんだろうか。
それとも親日派(ちんいるぱ)と言われてるんだろうか?
どっちなんだろう..って思ったりはするけど、それも私は分かんないんですね。
by mina(教えて君で、すまんです) (2006-04-26 20:22) 

古井戸

それは当然あるでしょう。
自分の弟子を、朝鮮や上海に送り込んで情報収集をやらせていたし、朝鮮からの政治グループ(クーデターか)を受け入れていた。だから、そういう連中のたくらみが失敗したら怒るし同情するでしょう。すでに、政治(クーデター)に関与しているのです。いいわるい、じゃなく、政治的に、この時期成っていた。だから、政府からにらまれるのも当然かも。そういう福沢が、かたや、不偏不党をモットーとする新聞のオーナであった、ということ。

で、
わたしは、社説の内容に福沢の意向が反映しないわけはない、たえず、メモ(〒制度はまだ無かったらしいし、)使いを走らせて、たえず時事新報社に指示を出していた、とおもいます。これを、こういうふうに書け、と。

↑のようなことなら、ネットで調べたらゴマンと記事が出てくると思いますよ。
by 古井戸 (2006-04-26 20:30) 

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