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夢か、まぼろし、か?  [diary]

昨日、7000億円だの、59%だのに涙したが、
なに?
今朝のネットニウス検索すると
     3兆円超 だって?日本の負担。

まるでキチガイだね。 こんな報道があっても、しらーん顔のマスゴミ、政治屋、。。
昔なら、大学のセンセとか労組、とかが、連盟で声明出すとかなんとか、さわいだもんだが。

安倍カンボー長官のコメント(というか。。):
 あまりに巨額すぎてコメントができない。。

ナッサケナー。
「ばっかじゃなかろかね。ラムズフェルト。 牛肉食い過ぎて脳が溶け出したんだと思います。
本件、無視。」
。。とでも言うたら、安倍の人気、10ポイントくらい、あがったかもよ。
ね。

なーんか、このごろのニウス。現実感がないのよね、嘘っぽくて。
 でも、ホントなんかね?

   ああ、たまにはこういう カルーイ記事、でも書いてみたいとき、訪れるんよね。不定愁訴。

追記:
TBSラジオ、によると。。
なんだ、突然出てきたのじゃなくずいぶん前から協議していたのか。
安倍の「コメントできません。。。数字をよく吟味する必要がある~」。。笑っちゃうね。
  
 1兆円くらいは、沖縄で返還される土地の現状復帰(毒物、重金属で汚染されている)に掛かる、とか(ニッポンが出すのか?)。

●拉致被害者ワシントンへ行く。
    ブッシュが深夜、拉致被害者と面会?
            面会料 = 3兆円 + α
 その一部が、キムジョンイルに。。
           それでもって。。。

いや。。考えすぎるのはやめよう。

●ホリエモン保釈
  最高裁までいくのだろうか?
    ここまできたら、テッテ的に戦え。
4/28朝日朝刊によれば、
  検察は「拝金主義」をいさめたんだ、という。
   いさめたいひと、もっと、仰山おりますけどなあ。。。利権主義。
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-03-15
    


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ゴンギツネです

古井戸さま
ゴンギツネです。

お勧めの渡辺京二さんのご本はまだ一冊も読んでいないのです。友人にも奨められているのですが。
宮崎滔天の事、そしてその回りにいる人たちの事とても興味があるのですが、もしひっかかってのめり込みでもしてしまったら、それこそ大変なことになると思って、気がつかないふりをして、兵十の火縄銃の射程距離に入らないように、そうと遠回りしてうなぎを獲ったりドングリを拾ったりして遊んでいます。

夏目漱石が「草枕」の中で、友人と二人で訪ねて行った阿蘇山中の旅館の美しい女性など、滔天とかかわりがあった人だったかなと思っています。

筑豊の炭坑成金・炭坑王伊藤伝右衛門のところに書生が来ます。
奥さんの白蓮と深い仲になります。
大正11年に新聞で「白蓮の絶縁状」を公開し、二人は駆け落ちします。家を出ていったとき、伊藤の家に出入りしていた怖いオアニイさんたちが、このやろうとドスを懐に抱えて出ていきます。
ところが相手というのが、宮崎滔天の長男だということがわかってくると、誰かが間に立ってそのままになったということがあります。

東大新人会の石堂清倫がコマ劇場に京劇を見に行きました。梅蘭芳の芝居です。
横の席に、白いあごひげの老人がいました。その横にはさらに上品な老婦人がいました。宮崎白蓮と宮崎竜介だったのです。白蓮は目をやまい、苦労していたのですが、竜介は優しくかばい寄り添うように大切にしていました。

5・30事件のすぐ後、新人会の石堂が彼に講演を頼みに行きました。
「東洋民族問題批判講演」をしてくれたそうです。

彼にはこんな面があったらしいですね。
1968年の1月、東大安田講堂では本郷3丁目から農学部前にかけて学生と機動隊が激しく衝突していました。
空にはヘリコプターは飛び、装甲車や散水車が駆け巡って構内は催事ガスでいっぱいでした。

吉野作造が創った新人会50周年記念会に、創設者の吉野作蔵はもちろん出られませんが、象徴的人物である宮崎竜介が主席しています。90人あまりの人が懐かしく出会ったそうです。終わった後多くの人が講堂近くまで行き、夜遅くまで学生たちの戦いを見守ったそうです。
東大新人会の出来た当初、滔天が中国人革命家に提供した家の跡を、宮崎竜介が管利していたそうですね。そんな関係で新人会のたまり場になっていました。
そんなことなど思い出してはいるのですが、渡辺さんの本どころか、松本健一さんの「北一輝」ですらまだ読んでいません。ただこれは、この夏休みでも読んでみようと思っています。

あなたは藤村の「夜明け前」が好きだそうですね。私も好きです。でも私には真ん中から後ろは少々長いようにも思われますね。

そう言えば思い出しましたが田山花袋の「田舎教師」など比べてはいけませんがやはり面白いですね。一人の青年が日清戦争という時代をどのように生きたか、感じたか。これはよくわかりました。

日露戦争といえば私は木下尚江の「火の柱」が好きです。
なんとも古めかしい小説ですが、逃亡した秩父事件の首謀者、井上の子供がキリスト教の牧師になっていて日露戦争が迫ってくるときにそれと対決するのです。ずいぶん昔、若いとき読んだのですが、なんとなく講談本のようで面白かったです。

脱線しましたが福沢の「脱亜入欧」というのが問題になったのは1970年前後だったのでしょうか。
皇紀2600年の頃には、郷里の中津では大東塾の連中が、福澤を国賊であると非難しました。戦争が終わると今度は、同じ人たちが福沢は民主主義の手本だと言いはじめたりします。
どうでしょう。福沢の理論が大東亜共栄圏の思想に貢献したことは、半分本当で半分は嘘だと思います。

話が脱線しますが、この時期の文章で言えば私は羽仁五郎の「ミケルアンヂェロ」
岩波の赤版がとても気に入っています。1939年、ノモンハン事件の直前に書かれました。

「ミケルアンヂェロは、いま、生きている。うたがうひとは、“ダヴィデ”“を見よ。
ダヴィデは少年である。かれが怪物ゴリアをたおす決心をつげたとき、ひとびとはかれをとめた、が、確信をもったかれは、一本の石投げに石をもっただけで、ゴリアにむかって行った。そして、少年ダヴィデはついに怪物ゴリアを倒した。―」
「"ダヴィデ"をながむる人は、現代の人は現代の心のかぎりをこめて、この像をみつめることがゆるされる。"ダヴィデ"を、ミケルアンヂェロを、近代的にあまりに近代的に理解すべきでない、などという凡庸歴史家たちに対しては、ミケルアンヂェロ自身が彼の言葉をなげつける、"十世紀も後になって見よ!"と。」

日露戦争の後、福沢はもういません。
幸徳秋水は殺されます。でも原啓は日記の中で「幸徳は殺すべきではない」と述べています。
この時代閉塞の時に、最も進んでいたと考えられる永井荷風は筆を折り、戯作者としての道を進みます。
今度の戦争では、永井荷風が時代に烈しく抵抗して生きてきましたが、どうもその作品を私はあまり好きではありません。

平民新聞社の回りにいた北一輝が、やはり革命をやるものだと言ったのはその意味でひどく興味があるのです。
日本の革命、東洋の革命、世界の革命を当時の北一輝がどのように見ていたのか、幸徳秋水と比べてみてもやはり興味があるのです。
国家改造法案や支那革命史などから見て、そのスケールの大きさ、熱っぽさ日本の実際に対する捕まえ方、そこがしっかりしています。
大正デモクラシーや白樺派の動きとも合わせて、このお流れはなんであったのでしょう。
またその流れを引き継いで進んでいったのは誰だったのでしょうか、ということに興味があるのです、

話はここからまた脱線しますが、明治維新に反対した佐幕藩の中心岩手県の中から後藤新平が生まれ育ちます。

後藤新平は根っからのガキ大将で、学校に行っても勉強をせず、先生の話は聞かず、抜け出していたずらばかりしていました。
村のガキどもを集めて隣の村にけんかを仕掛けに行きます。いつも向こうの大将と組み撃をしてやつけるのです。
ある日のこと、ガキをたくさん連れて隣村のガキたちと対決しました。
「さあ俺が言ったら手に持った石を投げろ」
そのときです。いつもは負けている隣村のガキ大将が、前に出て
「このムホンモノめが」
とどなったのです。
「ムホンモノ」
この言葉に新平は動転します。何かいけないことの総本山のような気がしたのですから。
体中が金縛りになってしまって口もきけません。
回りのガキはいつ石つぶての火ぶたを切るのかと思っていたが、新平が何も言わず固まって後ろを向いてスタスタと帰って行くので、みんなあきれてその喧嘩は負けました。

家に帰って新平はじいちゃんに聞きます。
「オレの家はムホンモノなのか」
じいちゃんは
「そうだ我が家はムホンモノなのだ」
親戚の一人で蘭学者、高野長英の一族だと話をしたのです。

新平は東京に行って学問がしたくなりました。旅立ったが途中で金がなくなりました。
しょうがなく福島まで行って金の掛からない全寮制の学校に入り、そこで医学を学びました。
仲間は東京に行って福沢諭吉の学校に入ろうといいます。
そう決心はしましたが後藤新平はそれができなく、明治政府の医官となって名古屋の愛知県病院に就職します。

このときたまたま、岐阜で板垣退助が襲撃され深い傷を受けます。
だれかが助けにいかなければならないのですが、病院の医者たちは誰もがもしそんなことをしたら、政府から迫害されるのを恐れていきませんでした。
その日のうちに新平だけが首を覚悟で岐阜まで行って、板垣退助のけがを直したのです。

西南戦争の時には、彼は何か役に立つことはなかろうかと思っても戦争にはいかれず、大阪陸軍病院で勤務します。

日清戦争の時は、もう居ても立ってもいられず、たまらず職をなげうって広島陸軍病院まで行きます。そこで児玉源太郎に逢うのです。
源太郎を説き伏せ、戦争が終わって帰国する兵隊の検疫を大規模にやる必要があると児玉にいいます。
直ちに神戸に行き、とてつもなく大きなタンクを作り、それを持ち帰って煮沸消毒をして、帰還兵をだれひとりとして病気にさせず帰国させたのです。
児玉源太郎はすでに総参謀長として朝鮮に出征していました。
こんなことからのちに台湾総督府に呼ばれたのです。

二代総督桂太郎。
三代は乃木希介。
四代は児玉源太郎です。
この時新平は初めて「植民地」というものを経験するのです。
やがて児玉源太郎に逢いに日露戦争直後の関東州に行きます。

児玉源太郎の突然の死去の関係から後藤新平は満鉄の総裁に就任します。

日露戦争で獲得した「満州」を支配するためにどうするか、それが当時の日本の最重要な課題でした。

イギリスのような植民地支配をしてはいけない。帝政ロシアのような武力植民地支配をしてはいけない。

後藤新平は「文装的武備」という言葉を述べます。
「王道の旗をもって覇術を行うということである」
新平はそう述べています。

中江丑吉
鈴江言一
尾崎秀実
細川嘉六
橘樸
白鳥庫吉

2,000人以上の知識人が満鉄に入ります。

私の頭をかすめるのは福沢諭吉が生きていたとしたら、
この「文装的武備」「王道の旗をもって覇術を行うということである」
というのと全く関係のないところに立っていただろうかと思うのです。

2・26事件で北一輝は銃殺される時、天皇を万歳と言うように強制されます。彼はそれを拒否して南無妙法蓮華経と言って死にます。これに私は興味があるのです。
あなたは北の理論が美濃部達吉の「天皇機関説」と関係があるといわれたが、私もそうではなかろうかと思っているのです。当たらずともそうまったく違ったところではないと思います。
あまりこの辺の事柄について私は詳しくないので、ぜひあなたの話を聞きたいのです。

武田泰淳の小説「貴族の階段」や、斎藤史の短歌から、私はその時代を感じとっているだけです。
吉野混沌や吉野せいの生涯、二人を励ましていた詩人の草野心平。これらのアナキストたちが、やはり私の頭から離れないのです。

明治維新から明治10年の西南戦争まで。日清戦争から日露戦争まで。そしてその後が、大正デモクラシーと、そのような一つの流れの中に、二つの分流が流れていたと思うのですが、この点についてのあなたのご意見があったら聞かせていただけませんか。

あなたのお薦めくださった中国人の福沢諭吉論はとても興味深く読みました。
こんな意見は初めて聞いたのです。
読み終わった時、私はこれでは西太后の改革路線だと思いました。こういう、いや康有為や梁啓超ならそういうふうに言ったでしょう。
でも中国がこのような革命路線を通ったら、今の新中国はなかったでしょう。私はそう思うのです。
毛沢東が長沙の師範学校時代だと思うのですが、福沢雄吉の「文明論の概略」に
朱筆を入れて読んでいたそうです。それが長沙の記念館に展示してあります。
毛沢東が読んでいたとしても賛成したのではなくて、この考え方は克服すべきだと思ったのではないでしょうか。彼の「湖南農民運動報告書」を読んだものにはそう考えられます。
中国の今の改革開放が福沢の路線と同じなどということは、とても考えられないことです。そう思いながらこの論文読んだのです。

私は北一輝の「中国革命論」は当時の実際の中で書かれた文章として、日本人の中国論としてはずば抜けていたと考えています。
「国家改造論」にしても吉野作造が、丁寧に読み好意的に批評して、賛成はできないにしても多くの人が読むだけのことはあるといったのは、さすが大正デモクラシーの中心人物であったとおもいます。

これらの人が、北一輝の論に比較すべきものが他にない、検討すべき重要な考えであると見抜いていたことはとても注目すべきことだと思っています。

中国革命についていえば、私は中国共産党史を描いた波多野乾一や、貝塚茂樹の「孫文と毛沢東」そして私が最も全面的に書いてある本だと思うのは「満鉄調査部」が書いた「支那抗戦力総合調査報告」だと思います。
中西功・上海、具島兼三郎・大連、伊藤武雄・北京、
これらの人たちが中心になって書かれたこの本は、尾崎秀実によって日本の政府と当時の軍部の中に普及していきます。
スメドレーたちによって、延安の毛沢東たちにも運ばれたと思います。

日中戦争と太平洋戦争は同じ性質の戦争であるかどうか。
当時のことについて竹内好や三好十郎が、アメリカとの戦争は帝国主義戦争であって、日中戦争侵略戦争とは意味が違うのではないのではないかと話していたときに、中野重治の「茂吉ノウト」が出たのですね。

竹内好はボロボロ泣きながら、中野の戦争に対する考え方、厳密に抵抗する姿勢に深く感動したそうです。
こんなことも考えながら、あなたの竹内好と福沢諭吉のことなどについての文を
読んでいるのです。
取り留めのないことを書いて申し訳ありません。ですが貴方の文章が進んでいくことを期待しています。

ゴンギツネは少々疲れたので、しばらく間欠温泉にでも入って休養します。
でもあなたの文章は片時も目を離さず読み続けます。私には興味があるテーマであり、今の時代に必要でもあるし…いろんな雑音も入るでしょうが、「運転中は話かけないでください」と張り紙をして、とにかく前へ、進んでください。
お願いです。
by ゴンギツネです (2006-04-29 08:01) 

古井戸

たくさん問題を出されましたがわたしに応える能力は全くありません。応えられるところだけ応えます。

*あなたは北の理論が美濃部達吉の「天皇機関説」と関係があるといわれたが、私もそうではなかろうかと思っているのです。当たらずともそうまったく違ったところではないと思います。

これは、わたしがいわなくても、北一輝本人が著作の中でそう言っています。最近の、坂野潤治(田原総一朗との対話)でもそう言っています。美濃部達吉
から学んで美濃部よりも先に進んでいます。渡辺京二も言っています。
立花隆の「天皇と東大」でも美濃部学説はとりあげているが、なんといっているのか。

*江藤、といのは 鶴見俊輔の爺さんですね。最近の鶴見の回顧談などを読んでもオモロいひとだなあ、と思います。鶴見もかなりオモロいが。

*北一輝の主著は、発行後1週間で発禁になりました。ちょうど100年前の5月のことです。まだ23歳の佐渡から出た青年が弟の下宿付近に居を構えて図書館に通いながら書いたのです(マルクスより半世紀後)。

*明治維新は裏切られた革命、つまり、官僚が生き残ったし、天皇も残った。しょせん、民衆が選挙権もあたえられず政治に参加できる政治環境ではなかった、のでしょう。民主革命ではなかったのです。地主=小作制度もそのままのこった。

*羽仁五郎は都市の論理を読んだ後、著作集も買いましたが、売り払ってしまった。ミケランジェロや 都市、も今はちょっと読めないでしょう。軍部の監視下で精一杯の表現をしていますが。

*日露戦争の後、福沢はもういません。
幸徳秋水は殺されます。でも原啓は日記の中で「幸徳は殺すべきではない」と述べています。

原敬、ですね? さいきん、中公新書を立ち読みしていたら、日比谷事件は彼が画策した、とか書いてあったが(ひとちがいか?最近、人名を覚えられない)。予想外に拡大しすぎてあわてた、とか。
北一輝も、軍部の中には彼を死刑にしなくてもいいだろう?という意見はあった。首謀者ではないのだから。 彼は226のおり中国にいるはずだったのですね。何かの都合でいけなくなった。晩年は 財閥(三井)から大金を受け取っていた。

*日露戦争の後、福沢はもういません。

福沢の死後のことまで福沢に責任をもたせてもしょうがない。

いま、福沢が生きていたらまた、脱亜論をかくでしょう。
  脱亜米利加論。

*この記事、カルーイから賞味期限数日で。。。消そうとおもったのだが、コメントがついたので、消せなくなりましたね。。
by 古井戸 (2006-04-29 09:38) 

古井戸

坂野潤治「明治デモクラシー」岩波新書、
今日、図書館で借りたけど、これは ゴンギツネさんの渇を満たす本ではないでしょうか?
登場人物。
福沢、兆民、枝盛、北一輝、美濃部達吉。

ことに、北一輝がくっきり描かれていて、わたしは大満足。

アマゾンに注文した。あとで、書評します。
by 古井戸 (2006-04-29 21:04) 

古井戸

坂野潤治「明治デモクラシー」岩波新書、は北一輝が主題ではないが、福沢、兆民、枝盛の三巨頭?に加えて、美濃部達吉、それに 北一輝、ついでに吉野作造、が実に簡潔に描かれていますよ。この種の本としては異例じゃなかろうか?

なにしろ、「はじめに」の書き出しが。。。、
「明治維新が民主主義に向けての準備を欠いた、早産した近代革命であることを指摘したのは、日本のファシストとして有名な北一輝である。。。

この北一輝の指摘は、歴史的事実とピタリと一致する。。。」

それに、最終章のおわりちかくp212
「。。この名著(国対論及び純正社会主義)が自費出版であり、大作すぎ、発売禁止になったことは、おそらく不人気の主因ではなかったであろう。主因は時期が早すぎたことにあったように思われる。次節で検討する吉野作造が登場して人気を集める第一次大戦前後に北のこの著書が刊行されていれば、青年将校の代わりに大学生がこの名著を廻し読みしたのではなかろうか。」

いやいや、うれしくなって、
今宵は焼酎、がぶ飲みで御座るよ。

福沢全集、9-18巻、時事新報論集も借りてきた。 重かったどお。
by 古井戸 (2006-04-29 21:23) 

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