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脱亜論 アジアは<アジア的>か by 植村邦彦  福沢諭吉の真実、その8 [福澤諭吉]

                
国営放送から高らかな宣言が流れてきた。。

『不平等条約治外法権の下にあるニッポン国、今日の謀(はかりごと)を為すに亜米利加国の恫喝に阿(オモネ)り。ニッポンからの亜米利加軍の移転は、ニッポン国都合により実施するのじゃからとて、移転先グアムのニュータウン建設および施設負担金の出費を強要され、ああせい、と言われれば、へいへい、こうせいと脅迫されればはいはいと大股開きの所作に出ずるなり。それでなくっても、ニッポン、G7に列席認められるも、国連分担金だけはたっぷり搾り取られ、あ~う~外交を同盟国たる亜米利加にも小馬鹿にさるる。。 (雑音激し、聞き取れず)。。。されば、同盟国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、まさに世界の人々がこれに接するの風に従て処分すべきのみ。悪友を親しむ者は、共に悪名を免(まぬ)かるべからず。我れはここに於て悪友、亜米利加国を謝絶するものなり。。。。』 脱亜米利加、略して脱亜論、といへり。

。。。とここまで、聴いて、はっと、目が覚めたら、。。つけっぱなしのラジオからTBSニウス解説が流れてきた。。
いわく、
「米国が沖縄からグアムに移転するにあたり、グアム島に軍人と家族用にニュータウンを建設する必要有り、ついては、これに要する費用一兆円+の
                      59%
をニッポンが負担する、と。これ、オリエンタルな被恫喝国の防衛長官が、恫喝国亜米利加の国務長官に緊急呼び出しをくらい、長時間コンコンと説教されたあげくの果て、得た結論であると。。米国の主張70%日本負担、ニッポンの主張50%を足して2で割ったもの、という。。60%を59%にした、このセコサ、を泣いて、笑っていいのでしょうか?スーパーマーケット的値付け交渉。。。悲しき防衛長官、ニッポンの世論がどうのこうのと泣きついても、まるでヌカガに釘。」

交渉終了後、ニコニコにっこりラムズフェルトに肩おば抱き寄せられ、牛肉一トンおみやげにもろうたとか。背骨付き。

##
さて、昨日近所にオープンした本屋で、
植村邦彦 の新著 『アジアは<アジア的>か』 (ナカニシヤ)
を買った。日本のアジアをめぐる言説の歴史、アジアのイメージを、ヘーゲル、福澤、竹内好などを引用しながら描いている。久々に、羽仁五郎の名前も見た。300ページ弱、はちと主題に比して物足りないが。。(1千ページくらい。。を期待ね)。

第8章は アジアの盟主と脱亜
福澤脱亜論の意味をさぐっている。

p175で
「この脱亜論に関しては、著者問題が提起されたことがあった」

と、井田氏とここで論議した平山氏の著作に言及し、次のように書いている。

##
「。。しかし、この著者問題の提起者も「脱亜論」は文体や内容からして福澤の「真筆」だと認めている。したがって、1885年に福澤が東アジアに対する帝国主義的な植民地主義政策を自覚的に選択するにいたったことには疑問の余地はない。」
##

用心深い福澤自身が、「帝国主義」「植民主義」という文字を書くわけもなかろう。
井田進也著『歴史とテキスト』(光芒社)を昨晩さらりと読んでみた。西鶴兆民福沢らのテキスト分析に関する本である。福沢全集編纂に当たり膨大な時事新報社説から収集、選別した石河に対し、井田は、

「福澤諭吉伝の著作とともに、石河の功績には深甚の敬意が表されてしかるべきである」p42

と述べている。井田の専門は兆民である(兆民社説集を編纂し岩波文庫として刊行)。そのテキスト分析手法もおもったより、単純。カード方式でなく学生を動員してパソコンを使えば遙かに高速で、厳密な分析ができるだろう。。

福澤社説について、問題なのは、後年とくに福澤の体力の衰えと多忙により福澤以外(石河など)が執筆したもの、や、福沢の口述筆記が多くなったことだ。 ただし、である。 福澤はその「すべて」に目を通しているのである。もちろん、福澤自身が直接執筆した原稿をチェックするような人間が時事新報社にあろうはずもないが、福澤以外の書いた社説は福澤が大なり小なり手を入れた。井田は、その、手を入れた分量の多寡により、論説に ABCDEのランクをつけたのである。(福澤は、知人に対しても懇切な文章の添削指導を行っていることが書簡を読んでも分かる)。社説の添削というのは大変であったろう。締め切りに追われているのだから。下手をすれば全文書き直したほうが早くなる。大まかな内容に異存がなければ、語句選択に多少の問題はあろうと、OKになったようだ。どうしようもない場合は削除し、福澤が新稿を追加した。

しかし、問題の「脱亜論」についていうなら(これは遠山もいうようにその数年前に福沢が書いていた外交論からの流れのうち脱亜オプションに、スイッチオン、したにすぎないものだが)、この主題をこれほど、サラリと書ける人間が当時数千万のニッポンジンのなか、福澤以外にいようはずもないシロモノであろう。これが福澤真筆と認定されたのは、無論、福澤の名誉でも不名誉でもないが、万一、井田メソッドが 「福沢の真筆にあらず」と認定したということになれば、その「井田メソッド」そのものが疑われるほどのものだろう。結果は、井田メソッドにとっては名誉なことであった。

社説は通常の著作とは異なる。すべての社説に福沢は目を通していたことが重要なのである。重要な論調のポイント切替を福沢が行った後、高橋や石河ならすいすいとその路線に従い、社説は書けたであろう。彼ら主筆はその程度には日々、福沢の文章を、目をこらして読み、福沢になりきっていたということだ。数十編に一編は、福沢が全く手を入れない社説、というのも当然あり得たろう。その程度の書き手にならなければ、福沢校閲の下で時事新報社説など、そもそも一行だって執筆などできようはずもない。(朱の入った生原稿でも残っていなければ、何千とある社説から全集編纂時にどこをどう、福沢に添削されたかなど石河が覚えているわけもないだろし、それでも全集に入れたのは石河における「社説」認識がそういうものであった、ということの証しだろう。テキスト分析によって福沢の「直し」がどの程度あったか、あるいは無かったか、も同時にわかったら、面白い情報にはなるだろうが、福沢添削済みの社説を全集でよむことにくらべれば、どうでもいい情報とおもう)

井田は、福沢真筆でないものを全集に入れるのは云々。。などと言っているがそれはテキスト分析屋の言い分であり、形式でなく内容を、すなわち、今日ただいまの問題として、福沢の考えたことを知りたい、とおもっている我々一般読者など念頭に置いていない、職業的発言であろう。100%福沢が書いたもの、のみを対象として福沢を考えるというのは愚にもつかぬ事である、とわたしは言っているのである。(上記著書p27「時事新報論説の真贋」。時事新報社説において、「真贋」って、なんなのよ?が問われねばならない。福沢のような重鎮の思想が強く表面化しているとはいえ、複数人が執筆にあたった社説は、竜之介や漱石鴎外など純然たる個人が書いた文学作品ではもともとない、のよね)

脱亜、とは見事な命名であるし、100年たったいまも、その言葉の磁力にニッポンはがんじがらめになって一歩も抜け出せていない。

植村邦彦の結論をそのまま引用してみよう:
『アジアは 「アジア的」ではないし、「アジア的であるアジア」などという実態は存在しない。私がすべきこと、そして私にできることは「アジア的」という言葉を聞いたら、それはどこのことを指すのか、どういう意味なのか、それはアジア以外には見られないことなのか、アジアにもそうでない場合があるのではないか、と執拗に問いつめて、相手を辟易させることである。しかし、それでも相手の胸の内に懐疑と反省の種をまくことはできる。それが、はじめの一歩だ』

おいおい、これが結論かい?といいたくなる リセットぶりである。
相手、って誰なの、植村さん。中国人かえ?韓国人?シンガポールやタイの、友人達かえ?

おのれ以外に問いつめる相手がいるっておもう?

失望したり、やや、安心したり。
        出る、に、出られぬ、籠の鳥。


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ゴンギツネ

古井戸(井上昇)さんが、ブロッグ<竹内好メモ>というところで中江丑吉と北一輝のことについて書き始めた。
とても興味があって、その論がどのように進んでいくか注目していました。
その中で平山洋さんと福沢諭吉の「脱亜入欧」のことについて幾らかの文章の交流が始まったので、話が諭吉についてになりました。
福沢諭吉という人物について、それまで私はあまり親しみを感じないし興味の対象ではありませんでした。
慶応義塾の創設者としての福沢は知っていました。

封建制を蛇蝎のごとく嫌った福沢には私は興味がありますけれども、維新革命と結び付いての福沢諭吉というのがどうも胸の中にストーンと落ちないのです。
明治期の人物としてどんな人だったのでしょう。

開明派というなら岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの「米欧回覧実記」を書いた久米邦武の方が驚くほど知識が広く公平にアメリカ・イギリス・ヨーロッパを見ています。当時ロシアにまで足を伸ばし、すべての産業、文化、政治形態、宗教、学問に目をむけています。
明治四年廃藩置県のすぐ後、明治政府の高官が、西郷たち数人にすべてを任せて数年にわたって新しい外国を、全員で見に行くというこの大胆さ。それほど新政府は安泰だったのですね。こちらのほうが本当の開明派でしょう。

それほど維新は徹底していたと思います。
ですからやはり維新革命というと、教育者としての吉田松陰、革命家としての高杉晋作、組織者としての前原一誠、武闘派としてはなんとしても蛤御門の来島又兵衛、久坂玄端の方が遥かに好きです。

私は生まれ育った郷里山口県とも関係して、維新革命がなんとなく、身の周りの硝煙の臭いとして記憶にあるのです。

馬門戦争から蛤御門、そして奇兵隊の功山寺決起から四境戦争を経て東北戦争。
これの時代と結び付けて広島藩との談判当事者の広沢実臣、津和野攻撃の大村益次郎、西園寺などもそうです。
中でもとりわけ奇兵隊の創設と下関での功山寺決起です。

私が少年時代をすごした山口の村は、奇兵隊の脱退騒動の戦場でした。明治二年冬から三年春にかけて、武装した二千人の隊員が、明治政府と武力衝突したのですから。
おそらく維新革命後最初の武装した民衆と政府の衝突だったと思います
これをめぐっては遠山茂樹と井上清の論争が1953年ごろにありました。脱退騒動は内乱か反革命かいうことをめぐってです。
決着が付きませんでしたが、維新革命が不徹底な革命という講座派の人たちの意見が強く、反革命だという意見が強かったとおもいます。
でも私はこれは間違っていると思います。民衆の中で語り継がれていることは明らかに内乱の戦争です。

どうも歴史家はこれが正しく反映したかどうかについては議論の分かれるところですが萩の乱や西南戦争に続く流れとして、考えてみる必要があると思います。
後の萩の乱の時に、新政府に歯向かうのに、前原一誠のように鎧兜で戦ったのでは、時代の空気から遅れるでしょう。
しかし何と何が争ったのかということからすれば、民衆は武力で明治政府にやはり楯突いたのです。
この脱退騒動に参加して処分される富永有隣のことを考えてもそうですが、国平独歩が小説「源叔父」の中で正しく書いているように民衆の中では英雄なのです。

しかし日本近代史の研究の中では、これらの正反両面が正当に評価されることはありませんでした。
ここに日本の維新革命の歴史を学ぶという上で大きな弱点があると思います。
そんなわけですから、こういう民衆の中の国家に対する考え方、そういうことについて右や、左の揺れについて竹内好が指摘したことには興味があるのです。
武装した民衆が山口藩庁をとり囲んだ時、一番驚いたのは木戸考允だったと思います。
大久保利通も非常に心配して、木戸の支援を始めます。西郷隆盛も「何か協力できることがあったら申し出てくれ」と言いました。

しかし木戸は「これは毛利藩内の内乱だから」と言って断り、東京で新しく編成された軍隊を呼び戻し、下関から軍艦を持ってきて鎮圧しました。
反乱兵たちは旧毛利藩の各地で戦い、また当時小倉戦争の戦場にもなった豊前から筑前日田、熊本にかけても戦うのです。これらが後の佐賀の乱や熊本の乱、明治10年西南戦争の布石となったのです。

戦場になった鎧ケ峠には、その直後から何千、多い時には一万人に近い人々たちがお参りをして、お祭りがずうっと後までも続いていました。
今でも「隊中さま」といって人々からあがめられています。農民にとっては自分たちの為に戦って殺された義人なのです。

西南戦争が終わって明治17年には秩父騒動が起きました。自由民権の運動はこれと結び付いたから大きな力になりました。
でも大井健太郎たちは自由とか民権とかというが、実際の農民運動から離れてからは何の力にもなりませんでした。
そして多くの場合、議会の開設という風に流されて発展したと考えられていますが、その半面では農民運動は鎮圧されてしまったのも事実です。
こうして日清・日露戦争に日本の民衆運動は収斂され、それに反対する流れは大逆事件、無政府主義として発展しましたが、実際の運動はつぶれていました。

ここに日清・日露の戦いに日本の民衆の力が収斂されていくことになり日本の民衆自身の運動は実際の闘争から離れていった面があると思います。

そこのところで、文学にしても、本当に民衆の腹の底の、肥やしになる、生きていく必然としての文学、つまり「食うべき詩」というものから離れてしまったと啄木は言っているのだと思います。
啄木にとってはそれが実感的な「時代に閉塞の現状」なのでしょう。
啄木は詩の技法の上で、白秋に及ばなかったかもしれません、また金の面でも非常な苦しみを受けます。
しかしよき友に支えられて詩作を続けますが、明治末の空気のように粘りつく貧乏と病には勝てませんでした。
しかしその最後のところで大切な地点に到達したのに、ポツンと折れて誰も後に続くものがいませんでした。
こうして、長いくらい冷たい時代が始まったのです。

さて福沢諭吉のことを私が考えますに、維新革命と中津藩の位置ということです。
福沢諭吉の文明開化というものがあるとすれば、どのようなものでしょうかね。
中津藩の置かれた位置からすれば、藩主がオランダ学を奨めたり、杉田玄白と藩士前野良沢によって「解体新書」が訳されたりそういうことがありました。
彼が小塚原へ死体の解剖に行ったとき「ターヘル・アナトミア」を持っていたそうですが、これは非常に高価な本です。決して個人が買えるようなものではないと思います。
私は中津藩の誰かがこれを買って彼に渡していたと思います。
当時の蘭学は外科が中心だったでしょうが、やはり処方箋は漢方薬だと効いています。
福沢諭吉は長崎留学から呼び返され、中津に帰らず緒方洪庵の塾に行きました。諭吉の才をねたんだ藩の有力者の息子にだまされての事です。
裏切りと背信を若いときに体験するのです。
そんな封建制度のいやらしさを、ハラワタがよじれるように感じていたと思います。
緒方洪庵は長崎からコレラが入ってきたとき、これが細菌のようなものだとは考えていませんでした。ですから処理を間違えます。長崎に来ていたウルレヒト大学のコンペが、消毒をしたり焼いたりしてこれらを防ぎました。
緒方とポンペイの論争があります。彼の学問はやはり古かったと思います。
ですから彼は「西洋医学学問所」つまり後の東大ですが、そこに行きますが自分の息子はコンペの弟子にしました。

中津藩というのは小倉藩もそうですが、藩主がオランダ学を学ぶように開明していますが、片一方では親藩で九州全体に対する徳川幕府のお目付け役だったんです。このような形の上での軍事支配と、親藩の開明派との矛盾がすべてを貫いています。

一つの政治制度の終わりの、このような欺まんは、個々の人々に言いようのない腐敗と重圧を加えます。封建制度は極度にきつく感じられると思います。
小倉戦争が起こったときに、小倉藩主は自ら城を焼いて逃げました。
自分だけ助かればよい、民衆を捨て行ったのです。どうして民心をつなぎ留められますか。
頼りにしていた熊本藩細川も撤退します。
熊本藩の中では横井湖南などの差し金でした。熊本藩の中は尊王派と佐幕派に分裂していました。
これ以上長州と戦っては後がまずいという湖南の意見を入れて熊本藩はとっとと撤退してしまいます。

小倉藩も熊本藩も民衆を捨てて逃げました。しかし下層の武士と農民たちは長州の占領に抵抗して盛んに戦います。
それでやっと小倉藩の面目が保たれたのです。こんなわけですから幕府の尖兵で戦った彼らは、言い知れぬ挫折感と敗北感を持っていたと思います。
本当はオレたちの方が正しいのに、いや強いのにと思ったけれども全く惨めに敗北したのです。
同じ四境の時に、岩國から宮島にかけての芸州口の戦いでは広沢実臣が指揮していました。近代装備と西洋風の陣建の紀州兵には奇兵隊の農兵たちが勇敢に戦い押し返しました。
やがて将軍が亡くなり休戦となりました。
小倉藩にしても中津藩にしても、その敗北の挫折の中からいくらかでも立ち直るだろうと休戦条約になったときに波に乗り遅れないように上野彰義隊戦争から東北戦争に参加しました。
しかし自分たちが維新の波に乗れなかったという思いは慚愧慚愧であったと思います。
福沢が日清戦争の時に小躍りしたのは、新しい新国家にやっと追いつき一致したという喜びだったのではないでしょうか。

福沢記念館に行かれたらわかると思いますが、何としても、あの天皇臭さには辟易とする思いがしました。中津の人の福沢観には異議ありと叫びたかったです。
彼は自分が書いているように、封建制の中で押しひしがれた人物の典型ではないと思います。
ただ反封建というその姿勢に私は少々同意出来ない点があるのです。
たとえば乃木希典の家に行かれたらわかりますが、乃木の家は本当に寒そうです。毛利藩で乃木一族がどのような生活をしていたかが分かります。
松下村塾でも皆の手作りで質素なものです。
福沢諭吉の家の柱の大きさや、雨戸の戸袋、縁側の幅だけを見てもとても貧しい家ではありません。封建制とはいっても、考えられないような非常に裕福な士族です。

農民たちの貧しさとは、比べ物になりません。蔵の二階で学問をしていたという福沢の部屋に入ると、当時の士族としては裕福な、豊かな方だと思います。
「中津留別の書」の中で臍が捩れる封建制を嫌って「親の敵でござる」と言っていましたが何を嫌ったのでしょうか。友人増田栄太郎が諭吉を暗殺しようと迫っていたとしてもです。
それはその程度のことでしょう。本当に、自分が今からどう生きていくかということはあったけれども、その憎むべき幕藩体制を倒してしまおうというところとは全く違っていると思います。
展示物の中に、イギリス帰りの友人に同じ中津藩出身の末松謙澄を紹介している手紙がありました。謙澄は伊藤博文の娘婿で「防長回天史」の編集者ですね。このメンバーの中には堺利彦もいます。私は福沢にそんな面があるのに興味を惹かれました。

さて長州藩の人たちが、自分のことは捨てて、幕藩体制打倒の闘争をしたのに、
福澤はどんなことをしてでも、この金縛りのようなところから抜けでて自由になりたいと思ったのです。
このように世の中を変えるという事と、自分がどう生きるかということとの間には、やはり二つの「生き方」があったと思います。
両方があるのではなくて、どちらかであるときが、その時代にあったのです。
これが歴史の分岐点なのです。
吉田松陰は天皇を担いだといわれます。
でも当時の士族に藩を捨て、武士を捨て倒幕運動をやる、そのためには、天皇というスローガン以外にどんなものがあったでしょう。
藩の中でノウノウと生活し、自分の身分は保証されたままで、しかも新社会を作ろうというような人間に、いったい何ができるでしょうか。
とどのつまり自分の事を考えているのです。士族にその力がないときにはどうするか、多くの人々に藩を捨て脱藩をする。そして「草莽屈起」以外ない百姓一揆にでも付け込まなければならない。
実力がわれわれにはないと言い切ったからこそ、何の力もない天皇を不断に利用するといったのです。
天皇に対する見方が、本居宣長とは決定的に違うところです。
だから必要なら日本を捨ててアメリカの船に乗って外国に行こうとしたのです。
この彼の倒幕の理論が最も恐ろしいから幕府から殺されたのです。
福沢は、オランダ語ではだめだ、今からは英語だと云って新しい学問に進みました。長崎から帰藩命令が出たが、大阪で緒方の塾に入りました。
中津藩から捨てられた福沢のところに、江戸の藩邸で蘭学塾を創れという藩の命令がでたのです。そして彼には新しい可能性が開けたのです。慶応義塾の前身です。
時あたかも安政の大獄で吉田松陰は、倒幕運動の最も中心の精神的指導者として井伊直弼に殺されます。
ですからこの吉田松陰の倒幕精神に高杉晋作は、尊皇攘夷派からも別れて倒幕運動を実行し始めたのです。これが後の功山決起に繋がるのです。
この時従ったのは前原一誠と伊藤博文、そして奇兵隊内の農民・町人たちだけが決起したのです。奇兵隊長山県有朋も恐れて日和見で参加しなかったのです。
ここから長州藩の内乱が始まったのです。
命も要らぬ 藩も要らぬ 天皇も要らぬ

福沢諭吉は明治の革命家から、どんなに遠いところにいたでしょう。
彼は本当には維新の開明派でしょうか。
私の謎はそこから始まるのです。

つづく
by ゴンギツネ (2006-04-25 20:18) 

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