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時には母のない子のように あるいは、いまどきのグローバリゼーション [history]

                                                                                             

先日CDを整理していたら偶然、10年そこら前に買った黒人霊歌集が出てきた。

"Sometimes I feel like a motherless child"
Negro Spirituals by Barbara Hendricks,
Recorded: 1983/4
ピアノ伴奏はDmitri Alexeev。

バーバラヘンドリクスはジェシーノーマンと人気を分かつ黒人女性歌手であった。
アルバムタイトルと同名の曲、Sometimes I feel like a motherless childは、冒頭に収録されている。バーバラの哀切なソプラノがこころにしみる。

歌詞とメロディのダウンロード:
http://ingeb.org/spiritua/sometime.html

時には母のない子のように
故郷を離れている気持ち
まことの信者
故郷を離れている気持ち

時にはこの世をぬけだして
天の御国にのぼった気持ち
。。。   
             (対訳: 南條竹則)

このCDに、バーバラ自身の解説が付いている。引用する。
「黒人霊歌はさまざまな部族の習慣や言語をもっている人々が創ったものです。
彼らは、奴隷制度という極めて過酷な組織にしばられ、彼らの母国語や文化から隔離され、部族とか家族などとのかかわりをまったく考慮されることなく分散され、外国の文明と言語に順応させられたのでした。これらのアフリカ人は新しい国に豊かな音楽的遺産をもってきたのです。それは音程上の構成および形式と同様にリズムの面でもユニークなものでした。これが新しく発見したキリスト教の知識と解け合ったのでした。奴隷たちは、地上では不公平と苦難に悩まされていたので、天国でつぐなわれ報いられることを説くこの宗教を心底から歓迎しました。
  黒人霊歌は本物の民謡で、もともとグループで歌うようにつくられました。それはグループで歌うと全く自然にハモるということでも、他の民謡とはちがっています。」

三浦敦史の解説<ニグロスピリチュアルスについて>によると、
「。。。黒人の歌唱と歌謡が広くアメリカ全土に知られるようになったのは、南北戦争以後のことであった。。。

黒人霊歌の総体的な性格はシンプリシティ(単純さ、純真さ)である。歌詞および曲の両面において、見せかけの「人種的効果」は避けなくてはならない。各人固有の自然な声ではっきりうたうべきなのである。黒人霊歌のソースはユニークなものだとしても、それは万人のための宗教歌なのである」

また、ピアノ伴奏について次のようにいう。
「黒人霊歌におけるピアノ伴奏もまたコンサート歌手のための譲歩でもある。もともと、黒人霊歌というのは、ア・カペッラでうたわれた。聴衆という存在はなかったのである--あらゆる人が歌ったのだから。。。。(略)。。。しかしながら、ピアノ伴奏で歌う場合でも、テンポとリズムの重要な問題は依然として歌手の責任なのである。黒人霊歌に固有の生活感と活気の印象を聴き手に伝えるよう綿密に準備されなければならない」

ニグロの子供はニグロである。奴隷制の時代、ある日、おのれの運命を悟った子どもたちは自分自身に、どのようにこれを了解させたのだろうか?親は子供になんと伝えたのだろうか?現世の、この理不尽をどうやって飲み込んだのだろうか?

渡辺京二評論集成III(葦書房)中の、「インディアスの驚異」。
18世紀に最盛期を迎えた西インド諸島を中心とした三角貿易について述べている。

「英国本土から雑貨を積み込んでアフリカ西海岸におもむき、それを黒人奴隷と交換する。この奴隷を西インド諸島へ輸送するのが、有名なミドル・パッセジ(中間航路)である。英国本土には、奴隷と交換に砂糖をはじめとする熱帯資源がもたらされる。この三角貿易のことを歴史家達は昔からよく知っていた。知りながらあくまで「周辺的」な事実として黙殺していたのである。(エリックウィリアムズが『資本主義と奴隷制』などで明らかにした、衝撃的な事実とは。。。)この周知の三角貿易をイギリス資本主義の離陸の決定的要因とみなした点にある。つまりそれは、いわゆる「資本主義の原始的蓄積過程」の欠くべからざる一環とされたのである。」

大塚久雄らが熱心に説いた(欧州経済史)、英国の、一国社会主義ならぬ健全な「一国資本主義」など木っ端みじんに打ち砕かれた、ということ。グローバリゼーションは初期資本の原畜段階から貫徹していたのだ(渡辺京二、上記著書)。

これを、地球の裏側、の遠い国の、遠い昔のお話とおもうひとはおめでたい。

21世紀。極東に米国の植民地である島国、ジパングのあり、ジパングにフリーターなる種族の繁殖しおりと、いへり。

このフリーターたるや、低賃金で、性格おおむねおとなしく、そこそこ知識を有し、商品略奪や、店の金をちょろまかすこともなく、労働組合も作らない。電話一本でクビにでき、静かに失業を受け入れる。羊のような市民が多数存在することは、厳しい競争に打ち勝ち、雇用の自由な調整にはまことにもって、都合良し。

「しかし、一定数のフリーターはのぞましいが、あるパーセンテージを超すと、資本主義そのものの危機をもたらす恐るべき存在に変容する。
だってそうでしょ?
「低賃金」であるということは「可処分所得が少ない」ということなんだから。」
                   「フリーターについて」内田樹『街場の現代思想』NTT出版、2004

ジパングの資本家政治屋どもも、一定以上の収入を与えなければ、将来の消費、激減することに気づきおり、定職に就け定職に就け、子供を作れ子作りに励めと、国営放送、新聞など動員し激励督励に精を出したり。

フリーターはもちろん、奴隷ではない。しかし、老マルクスの言った「資本主義はあらゆる毛穴から血と膿汁をしたたらせてこの世に存在し」、ますますスマートにその健やかな姿をさらしている、ようにみえる。

内田先生の導く、結論を紹介しよう:

「人口の再生産が必要とされる一番大きな理由は、実は年金や市場や労働力の制度維持のためではない。スキルもキャリアも年金も妻も子もなく孤独な死を迎えたフリーターにはその死を弔う『喪主』がいなくなってしまうからである。
 あと数十年後に誰にも弔われず孤独死する単身者の数は数百万に達するであろう。この「誰にも弔われない使者たち」が21世紀後半の日本社会にどれほどの 「祟り」 をなすことになるか。

私たちが無言のうちに恐れているのは、実はこの日本の暗澹たる霊的未来なのである」

スピリチュアルズインジャパン。
             あなたの、孫、ひ孫たちのうたう歌は。。。


https://www.youtube.com/watch?v=TuN03KG8Ymk 時には母の無い子のように カルメンマキ                       


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貴市呉いちご

こんばんは 失礼いたします。

私は「ときには母のない子のように」寺山修二の詩の歌を、
思い出しました。

今、母を失うかもしれない瀬戸際であえいでいます。
母は幸せだとみなさんに言っていただいても、
苦しみ怖れる母を目の前にして、なすすべもなく、
おろおろするばかりです。

やはり、社会の行く末はもっと怖ろしいものになるのです。
ぞっとします。私は今、母にせいいっぱいの想いを注ぐだけです。
by 貴市呉いちご (2007-03-31 22:05) 

古井戸

いちごさん。
寺山修司は、題名だけから曲想を得たのでしょうか。
カルメンマキ、の歌う歌からは原詩のイメージは浮かびません。
 去年かったカルメンマキ初期のころのアルバム、ですが。寺山の詩をイタリア語に翻案した歌を、カルメンマキがイタリヤ語で気だるく歌っており、これが寺山の日本語とは全く関係ない訳詞なのですがとてもいいのです。

70年頃、カルメンマキ、浅川マキ、長谷川きよし。。などをよく聴きました。いまでもそろって活動を続けているようです。

父が一昨年亡くなりました。親鸞を読み、医者からその3年前に予告された死であっても、末期になると涙を流していました。
いずれにせよ、後数十年、さらに百年もたてば、私含め、だれからもその死は忘れ去られる、というのは救いです。
by 古井戸 (2007-04-01 04:16) 

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