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延命治療 その2 [Ethics]

2006年4月21日朝日新聞の「三者三論」 <延命医療をどう見る> は延命医療にかかわる論者三人の聞き書きを掲載している。いずれも考えさせる内容で、記事を切り抜いて何度も読み返しているところだ。

生き延びるのは悪くない by 立岩真也 社会学者
延命医療をどう見る    by 山崎章郎 日本ホスピス緩和ケア協会会長
呼吸器は外せないのか  by 谷田憲俊 医療環境学、山口大学

立岩:
「本人が死んでもよいと言うのだからよいと言うのだろうか。その決定は、本人も事前には分からない状態を想像しての決定だ。自分のことは自分がよく知っているから、本人に決めさせようと私たちは考える。しかし私たちは終末の状態を実際には知りえない。そして実際に知ったときには、気持ちが変わったことを伝えられない状態や、眠っているような状態の場合もある」
「(周囲に)負担をかけると思うから早めに死ぬという。そんな思いからの決定を「はいどうぞ」と周囲のもの達が受け入れてよいか。自殺しようとする人を少なくともいったんは止めようとするではないか。なぜ終末期では決定のための情報を提供するだけで中立を保つというのだろう。しかもその理由は周囲の負担だ。それをそのまま認めることは、「迷惑だから死んでもらってよい」と言うのと同じではないか。それは違うだろう。本人の気持ちはそれとして聞き止めた上で、「心配しなくてもいい」と言えばよい。」

立岩の言い分は尊厳死反対論者の典型的な物言いとみていいだろう。

死を知っている人間など誰もいない。立岩は生前、尊厳死を申告した末期患者が意思表示不能になったあと生前の言い分を取り消したい場合どうなるのか?と聞いている。では逆の場合はどうなのか?生前、どんなことがあっても生きていたい、しかしこんな状態はもう結構、早く死にたい、と意思表示したい患者だってあるだろう。

それに、周囲に負担を掛けるから死にたい、というのは悪いことか?全然そんなことはないとおもう。姥棄て山の倫理がなぜおこらないのだろうか?生きることは良いこと、という無根拠の原則がこの哲学者をも侵している。よく、是を認めては、生きていたいという末期患者の努力に悪影響をおよぼす、と言う声を耳にすることもある。とんでもないことである。生きていたいというひとは、周囲の声など耳を貸さずに生きればいいのである。しかし、3億円あれば臓器移植により、5年は生きのびられる、父さん、3億円借金して!と子供にせがまれている場合、親はどうすればいいのか?立岩は、どうやって応答するのだろうか?金さえあれば、10年や20年長生きするのはたいていの末期患者に対して可能だろう。生命は金で買えるのである、その気になれば。そういう生命など、生前に拒否宣言しておく、というのがなぜ悪いか。かつ、問題は生命の延長だけではない。いま暮らしている人々に対し、文化的な、かつ、機会平等な生活がちゃんと供与されているのか? 死は、日々の暮らしの一部である。<死>を特別視してはならない。死は日々の暮らしの一部にしかすぎない。ろくすっぽ、日々の暮らしに目配りもしていないのに、死だけにぎゃあぎゃあ騒ぎ立てるでない。最低限の文化的な生活を営むために、弱者に対して(末期患者ではない)どれだけ政府がケアを施しているのか?死、だけにあれこれ注文つけるなどもってのほかだとおもう。憤死したいひとだっているのだ。http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-04-08

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わたしなら、家族にこう言い渡しておくだろう。

<おれは延命治療など望まない。意識がなくなったら維持装置を外してくれ(仮に取り付けていた場合)。意識がある場合、維持装置を付けるか着けないかは私が指示する。かりに父さんが反対してもおまえたちが取り付けたいのならそれに従う。
意識がなくなった後、おまえたちが、父さんを生かし続けたいなら生かしてもらっても不服はない。そのうち、おまえたちに父さんの死がなっとくされたとき、延命措置をはずしてくれればいい>

理想的には、死は、死を看取る人々の心に順々としみこみ、みとるひと、みとられるひとの間の死を巡る水準線がほぼ等位になる。その時点でかりに死が訪れれば、生者死者共に納得の上、別れを迎えられる。山崎氏(下記)の言うとおりなのだ。

死は死者だけのものではない。生も生者だけのものではない。私が生かされているのは周囲や社会があるからである。単独で生きているというほど、傲慢なものいいはあるまい。

また、生と死は個人的なものでもある。末期患者を生かした殺したで責め合うのがもっともわるい。
しかし、仮に末期患者の取り扱いで、おのれの信念にしたがって行動した結果、生者が犯罪に問われた場合、どうどうとお縄に付けばよいだろう。(高瀬舟、と同じ。法律がどうのこうのといっている状況ではないのである)。

この記事中、印象に残った箇所を引用。
谷田:
「人工呼吸器に限定すれば、着けることと外すことは行為の違いはあっても、生命倫理上や医学的には「同じこと」というのが国際的な主流の理解だ。外すことはタブーではない。なぜならば、外すことで患者が死ぬわけではなく、「再装着しないこと」が死につながる、と考えるからだ。外したら再び装着するかのスタートにもどるだけだ」
 (*コメント:たんに解釈のもんだいではないか、というひともいるかもしれないが、死も生もそもそも解釈の問題である。それで家族のココロノ負担が少なくなるならいかなる解釈でも受け入れよう。緊急避難的に維持装置をつけることの心理負担がこれでなくなるなら万々歳である。)

山崎:
「在宅の良さは、大人も子どもも みとり に 参加できることである。経験すれば 死は恐れることでないとわかる。そして、学校でも死を学ぶ教育を取り入れる。どんな死を迎えたいか、延命はどこまでするか、周りの人と日常の中で話し合うことが最初の一歩だと思う」

##
わたしのひとこと。
末期の患者を巡る治療や介護の経済的な負担精神的な負担は大きい。「最善の策」をとったかどうかで人や自分を責める、というのは避けるべきである。 だれも、責めてはならない。誰にも死が来るし、つらい死も、苦しい死も、いずれみんな忘れるときが来る。われわれの先祖はすべて、そうして生きて死んだのだ。

 

死の問題: http://blog.so-net.ne.jp/furuido/archive/200603


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おたかさん

最近、がんの末期患者さんを在宅でみることが多い。

今月も、ふたつの例があった。
ひとつは胃がんの末期患者さんで、本人にも告知済みである。年齢は60歳代と若かった。中心静脈栄養(病院でリザーバという点滴の注入口を設置されていた)から、点滴で一日の必要なカロリー、蛋白質、脂質、微量元素まで補っていた。つまり生きるのに必要な栄養はほぼすべて補っている状態であった。
結局在宅に入ってから3ヶ月の生命であったが、告知していたおかげで、その間、自分の死んだ後の事をほぼすべて成し遂げた。一番心配だったのは仕事(電気設備の自営業)であった。息子さんは自分の勤め先を辞めて、嫌だったらしい家業を継ぐ事を決意した。病床から息子さんにいろいろ指示しながらなんとか息子さんが仕事をこなせるようになった事を喜んであの世に旅立った。
問題はがんによる疼痛であった。麻薬を使用すれば多少軽減するが時々ひどい疼痛発作に襲われた。

もうひとつの例は肝臓がんの末期の方で、腹部を見ただけで明らかな腫瘍が認められる。
本人には告知されていなかった。
点滴などの栄養補給も、家族との相談で、しないことになっていた(入院中に病院側のドクターと決めたという)。
在宅に入って2週間で亡くなったが、がんの疼痛にも悩まされる事なく、点滴もしていないので、それこそ枯れるように亡くなった。
この例は高齢でもあったが、へたに栄養補給をして病状を数週間でも長引かせれば明らかに疼痛をはじめ、がんの苦しみを味わっていたに違いない。
本人ががんの告知を受けていなかったので、希望的な事を本人が語るとき、たいへん辛かった。

点滴などの栄養補給をすれば生命は数ヶ月、あるいは数週間、長引かせる事が出来る。
末期のがん患者にそういうことをするのは意味がない、あるいは極端な話、医療費の無駄であるという意見もある。
しかし、わずかな延命処置によって、その人が心残りなく旅立つことが出来る事もある。
あるいは延命処置が単に苦痛だけを本人や家族に与えてしまうこともある。

延命医療に決まった公式はないと思う。
誠実に対応すること、人の痛みがわかる医療従事者であり続けるべきこと、それが私の答えかもしれない。
by おたかさん (2006-04-23 03:05) 

古井戸

うえの2つのケースは大変良かったのではないですか?

このようなケースを個人名を出さず、公開して、学ぶこと、これが重要だと思います。
尊厳死の立法化などばかげています。ケース事に異なるのだから。仲の良い家族もあろうし、金持ち家族もあろうし、そうでない場合もある。末期患者と家族の間に法律の介在する余地はありません。これは人類創世以来の、つまり、法律以前のふるい慣習法の世界です。

だれも かならず末期が来て死ぬことは確実なのだから、普段から学習しておくことが重要です。

それに記事に書いたように誰も責ず、うらまないことが重要だと思います、それが死者の望むところでしょう。 みんな忘れて、死に絶え、100年もたてば、つゆのあとさえ残りません。

まもなく親父の一周忌が来るが、入退院を3ヶ月繰り返しただけで、自宅の自分の部屋で忽然、と亡くなった親父、最後はあれこれとだだをこねていたが、家族にそれほど厄介もかけなかった。最大のプレゼントをしてもらったと思っています。
by 古井戸 (2006-04-23 08:41) 

どん。

本当にそうですね。父にも母にも最後に痛みも無く多少の我侭を言ってもらって看取れたら最高だと思います。痛みを取ること、本人の動きを制限してしまうほどの延命治療は行わない。これを堂々と主張できるようになるにはどうしたらいいんでしょうか?古井戸さんの言うように死についての学習が小さいころからできると素晴らしいですね。いかん読んでたら涙が。。。勉強になりました。ありがとうございます。
by どん。 (2006-04-30 14:20) 

古井戸

どんさん、
延命治療は議論が難しいですね。 ああでも、こうでもいえる、というひとはすくなく、かなり強固な意見をもっているから(わたしもそうだが)。考えない人はまったく、考えないし。

医者の間でも意見はわかれるに決まっている。患者の声を無視できないし。
新聞などでもあのように意見が分かれているんだから。
いずれにしても、通常の殺人と区別できないような人がいてはどうしようもない。
殺人罪に問われても、患者と家族の自主行動を支援するしかない。
by 古井戸 (2006-05-01 10:02) 

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