SSブログ

平山さんへの回答、質問   福沢諭吉の真実、その7 [福澤諭吉]

平山洋様。早々のコメントを感謝します。(お仕事に差し支えないか心配です)
「福沢諭吉の真実、その4 時事新報社説とはなにか」 に付けられたコメントに疑問なりコメントをしたいとおもいます。
本日昼、書簡集全集17,18巻が届き興味を持って読みました(といっても、石河とか馬場辰猪宛のものをさらっと。全集版というのはなかなか良い雰囲気で、引き続き、日清戦争前後の社説を収めた14,15巻を注文した。これについては、あとで。

これまで通り、平山さんからのコメントは『』で、私の意見は頭に●を付けます。
平山さんのコメントは全文引用、わたしの質問なり意見を挿入します。

『古井戸さんが大前提にしている、「理由は、時事新報創刊当時から時事新報はその過激な意見(政府の朝鮮清国にたいする弱腰を非難する)により政府の厳しい監視下にあり、発禁などの処分を受け、福沢はその善後策に走る嵌めにおちいったりしている」、という記述そのものが、石河編纂の昭和版『続福沢全集』(1933年)「時事論集」中の、各年分に付された「本篇の概説」、に由来しているのですよ。

その「明治十五(1882)年篇」にこうあります。「(壬午軍乱)爾来「時事新報」は対韓対支の政略論を終始一貫の主張として以て日清戦争にまで及んだ」。富田正文さんは、現行版『全集』の「時事新報論集」各巻の「後記」を、この石河の記述をもとにして書いています。そして1960年代以後の全ての歴史書は、その富田さんの記述を引き写しています。』

●ほとんどすべての福沢論が多かれ少なかれ全集を典拠としているので私ごときが全集を孫引きするのはやむをえないでしょう。しかし、福沢以外であろうと「あらゆる歴史書が」なんらかの偏見なり史観に基づいて書かれ、選択され、叙述されているのだから多少の誤差はやむを得ないでしょう(平山さんが近い将来、福沢伝なり明治思想史なりを表されるなら是非読んでみたい)。

わたしの主題は、時事新報の社主であった福沢が政府の監視のもとにあった、ということです。これは客観的な事実でしょう?つまり、時事新報の社説が黒塗りになったり発禁になるのをおそれていたのであるから、社説の内容に敏感たらざるを得ない(石河等にまかせるわけにはいかない)、一日として社説や論評をチェックしない日はない。こういいたかったのです。これは違いますか?

(国際関係を考慮して軟弱になった政府を新報はうるさいほど、叱咤激励したのでしょう?ちがいますか?)

つまり、新聞は福沢のunder controlにあった、と。本日届いた書簡集のうち、石河あてのものは10通前後。きわめてわずだが、under controlにあった、という印象はますます強くなりました。
平山さんは、もちろん凡てお読みだろうが、
こういう論文をのせてもよいか、石河が遠隔地にある福沢に打診したり、福沢がこれこれの趣旨で社説を書け、と指示しています(昨日紹介したもの以外に)。あるいは社説を例外的に2つのせろ、とか。

『もちろん石河が解説をつけた『続福沢全集』には、対韓対清強硬論ばかりが入っています。「概説」にあてはまるものばかりを選んだのだから当然のことでしょう。1933年のその時期、「概説」が書かれた三田のキャンパスの外では、満州事変の戦勝が祝われていたのです。

では、『時事新報』は創刊当時、ほんとうに対韓対清強硬論の論調で統一されていたのでしょうか。私は1882年から1901年までの同紙マイクロフィルムをすべてそろえて、創刊初日から順番に読んでいるのですが、そんなことはないのですよ。』

●なぜ、統一しないのですかねえ。。わたしは強硬論でちっともかまわないとおもいますが。
わたしが時事新報社員だったら、そのように石河や福沢に意見しますよ。義戦、なんだから。
当然でしょう。

『署名著作『兵論』(1882年11月刊)は、9月9日から10月18日までの社説をまとめたものですが、その主張は、「今戦争をしても、西欧はもとより清国にも負ける」、というものでした。この著作は現行版第五巻所収です。それが「時事新報論集」に入っていないから、石河の「概説」が正しいように見えてしまうのです。』

●福沢がへっぴり腰とは知らなかった。その傾向を日清戦争前後まで続けていたのなら、(そんなことはないとおもいますが。14巻、15巻で確認しますが)、石河が福沢など無視して、国民や政府をシッタするのは当然と思います。石河が正しいのです。

『さらに、採録されていない多数の社説も含めて読むと、創刊当時の『時事新報』は、国内問題により関心が深いのです。あたりまえのことでしょう。読者にとって重要なことは、どうすれば日本が、そして自分の生活がよくなるか、ということなのですから。対韓対清強硬論ばかりが載せられた新聞を誰が買って読みますか。』

●それは当時の状況を見ないと分からないですが。そうとも言えるしそうでないとも言えますね。しかし海外での大がかりな戦争経験のない当時の日本国民が 戦争に乗ってこないのは当然であり、時事新報がだからこそ、国民に昂揚を促したのでしょう? 当然のことだとおもいます。

 (平山さんはどうすべきであった、といいたいのでしょうか?)

『石河は、満州事変下の世相に「受け」のよい社説を、バックナンバーから選んだにすぎないのですよ。ですから、そうでない論説は、たとえ福沢諭吉名で発表されたものであったとしても、全集から落としているのです。』

●なにを落として何を入れたか、というのは石河の好みがあるのだろうからどうこういってもしょうがないとおもいますが。「すべて入れた」といって抜いたのならおいこら!といいたいが。。
たとえば、全集書簡集もすべての書簡ではないし、まして、選集ともなると遙かに少ない。その場合に何を入れるかというのは編集者の好みになります。たとえば、時事新報と福沢、石河に注目して読もうとしているわたしなどは、選集に 時事新報関連の書簡だけすべて入れてくれ!といいたくなります。

『「脱亜論」http://blechmusik.xrea.jp/lab s/misc/m03.htmlは見ていただけたようだから、署名著作『修業立志編』(1898年4月)に所収されながら、『全集』未収録になっている「忠孝論」と「心養」をぜひお読みください。これらはなぜ全集に入っていないのでしょう?

いや、むしろ『修業立志編』全体をお読みください。これには1886年から1897年までの社説と演説が42編収められているのですが、中国や朝鮮に触れたものは1編もないのです。国立国会図書館デジタルライブラリーが無料で閲覧できるようにしていますので、簡単にダウンロードできます。』

●ご教示感謝します。そのうち、ぜひ。
でも、できれば紙版に線を引っ張りながら読みたいですね♪

『石河が『修業立志編』を単独の著作として全集に入れなかった理由はお分かりでしょう。大陸へイケイケドンドンであったはずの時期の社説・演説集に、そのことに触れたものが一つもないのは不自然だ、と読者に疑われるのを恐れたからです。』

●イケイケドンドンの種類が問題ですが。義戦でない、種類のつまり侵略戦争と呼称せざるを得ない戦争という性格も持っていたと言うことでしょうか?
それとも福沢は、終止、出兵反対だったのですか?

全然イメージがわかないですねそれでは。。数通にしか過ぎないが 書簡から浮かび上がるのは石河(あるいは新報社)にたいするコントロールがいきとどいているという印象しかないのですが。これも書簡に意図的にそういう書簡をハイしたのでしょうか?

かりに石河がうまく立ち回ったのなら、それはそれで巧妙だ、ということになります。l

『石河が真実福沢に従順であったとしたなら、署名著作『修業立志編』を全集に入れなかったり、そこに含まれている社説を「時事論集」から排除したりするはずもないでしょう。』

●何度も申しているのですが、全集時代(第2幕)と 福沢生存時(第1幕)は区別したほうがいいのではないですか? 第2幕はなにが演じられようと福沢のしったことではありませんし(福沢死後なのだから、当然)、さらに、大部分の明治の国民にとってどうでもいいことです(過去のこと)。 第2幕が影響するのは全集読者でしょ?研究者あるいは高等遊民です。(わたしのような貧乏人はバラで古書店から買います)。石河論をお書きになりたい平山さんと、福沢や日本の近代を知りたい私の ずれ、があるものとおもいます。石河などどうでもいいのです、わたしには(福沢書簡からの印象では社長の器ではない。年代の差。諭吉や、諭吉の一世代下の兆民のように、「政府ジュウチン」を友人知己にもち、政府を彼らが経営する「会社」、程度のものと考える度量はない。諭吉が政府をつっついたのも、しっかりせんと倒産するぞ!とどやしているのだ)。

今回の平山さんのコメントによりどのような影響を受けたか、というと、平山さんはどうやら、福沢が朝鮮半島出兵に消極的である、といいたいのか?という気がしますがどうなのでしょうか?福沢は(陸奥宗光などとちがい)本気で朝鮮の独立を考えたのでしょう(好意的に解釈。結果的に陸奥宗光等と一致)?。勝てないと考えた時代なら出兵に反対、勝てると考えた、あるいは勝敗に関係なく義憤から出兵しなければならない!という考え方の推移は変節でも何でもない、とおもいます(なんだか、わたしも福沢に入れ込みだしたかな?)。

追記:
平山さんに質問。書簡は〒を利用したのではなく、だれかに、これもってけ!と走らせたようなのですが、時事新報社の場所と、福沢が当時住んでいた場所を教えてもらえませんか(現在の住居表示で)。

追記2:
福沢、石河、あるいは他の主筆、富田、遠山。。みんなそれぞれ、ベクトルがあって、互いに相手を利用する。これは避けられないのだと思います。 福沢だけではなく、たとえば、フランス革命、あるいはロシア革命、日清戦争、明治維新、226。。1945年革命論。靖国。などなど、いずこでも同じようなことがおこっています。


nice!(1)  コメント(1)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 1

平山 洋

どうすれば創刊から亡くなる1901年までの19年間、6000号分もの社説を掲載前にチェックすることができるのですか?

脳卒中で倒れる前にも、長期間の旅行に出かけたり、湯治に行ったり、病気になっているというのに。

古井戸さんは、『時事新報』社説への福沢の介入度を、高く評価しすぎています。『福翁自伝』には、「新聞紙のことも若い者に譲り渡してだんだん遠くなって、紙上の論説なども石河幹明、北川礼弼、堀江帰一などがもっぱら執筆して、わたしは時々立案して、そのできた文章を見てちょいちょい加筆するくらいにしています」、とあるのです。毎日の社説の事前校閲をしているとは読めないでしょう?

もちろん、「クリート事件の成行如何」(1897年3月12日掲載)は、福沢立案の社説です。しかし、1893年以降の全集所収の社説約750編のうち、こうした関与の証拠があるものは50編程度にすぎず、残りの700編ほどには、直筆原稿が無いのはもとより、書簡などでも一切触れられていないのです。

従来までは、古井戸さんが推測したように、「ぽつりぽつりと関与の証明できる社説があるのだから、残りの社説にも関与しているにちがいない」、という見方が一般的でしたが、「そうだとしたら可笑しいでしょ」、というのが、私が『福沢諭吉の真実』で言いたかったことなのです。

この拙著の主張については、当然、賛否両論があります。皆さまもぜひ、
http://blechmusik.xrea.jp/labs/misc/m03.html
をご覧ください。
by 平山 洋 (2006-04-25 11:58) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。