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福沢諭吉の真実、その6 時事新報社説とはなにか [福澤諭吉]

中締めをしておきたい。これ以上議論しても意見の一致は見ないし、意見の一致など屁のたしにもならない。おのおのが各自のストーリを持っておけばいいだろう。

昨晩、平山さんが教示されたURLを読んでみたが私の意見は変わっていない。
平山さんはコメントで「堂々巡り。。」とおっしゃっているが、堂々巡りではない。見解の相違である。もちろん、研究者の意見に対し、素人が「見解の相違」というなど不遜も甚だしい、ということは承知している。できるだけ簡単に述べてみたい。

1 ひとことで言えば時事新報社説をいかに読むか、ということだ。こまかな表現はともかく、全体として時事新報社説は、福沢本人が書かなくても福沢の思想や意見を反映しているのとみなす。理由は、時事新報創刊当時から時事新報はその過激な意見(政府の朝鮮清国にたいする弱腰を非難する)により政府の厳しい監視下にあり、発禁などの処分を受け、福沢はその善後策に走る嵌めにおちいったりしている。そのような経緯から福沢が社説の内容に無関心であるわけがない。さらに時事新報社を創立した1882年以後は、福沢の著作はすべて時事新報に掲載した記事を寄せ集めたものとなり、発行元も時事新報社である。この経緯から、福沢の著作読者や新報読者は当然、新報社の意見=福沢の意見と考えているはずであり、福沢もソレを承知していると考える。(おそらく時事新報が刷り上がったら福沢にいの一番に届けられ意見などを寄せたのではないか。)

福沢選集に収める福沢書簡はわずか200通あまり(全体の1割)。石河幹明に宛てた書簡はわずか一通である。夕べ読んでみた。 1897年、3月11日付け。内容は「英国義勇隊がクリートに出かけた。。」で始まるこの事件への意見を約20行に渉って述べ(選集、14巻p184)最後、

「凡そ右の意味にて一社説は如何。昨日の電報は、時事新報の好き手際なり。尚一説を加えて出したらば、ますます妙ならんと存候
                                                  諭吉
石川様(石河ではなく。。。)」

となっている。これ一通で石河と福沢の関係がどうだったか、を決めつけられるとは思わないが、「こんな趣旨で社説一本書いたらどう?」と言える人間は福沢以外にはいまい。福沢がこういう指示を気軽に出せる石河が、福沢の意見と大きな隔たりのある社説を書けるだろうか?

2 平山さんは石河の意見を福沢と違う、という。それはそうだろう、全く同じということはありえない。しかし、読者や福沢が首をひねるような相違点をモロに社説にだせるものでもなかろう。石河の単独著作ではないのである。現在の朝日新聞毎日新聞などの社説担当者と同じシバリ、に加え、福沢の見解が大きく左右しているはずである(とわたしは読む)。
ところが、平山「福沢諭吉の真実」では、福沢全集に載せる社説の大部分を執筆したのは石河幹明であることが明らかになったことを示す(とくに驚くべき事でも無かろう。当時の読者にとっては、だからどうしたの?だろう。これは現在の朝日新聞の社説を書いたのは山田太郎氏ですと発表したのと同じ。ああそうですか、でおわりである)。そして、福沢が書いたものでもない社説を福沢全集に収めるのはおかしい、というのだ。
著作権上、あるいは出版の慣例上はそうかもしれない。しかし、研究者に対しては全集xx巻からyy巻の社説の一部(あるいはすべて)は石河幹明が書いたものです、という注意書きを配布すればそれで終わりだろう。だいたい、リアルタイムの読者はだれが書いたかなど気にもとめていないのだから。重要なのは、社説が福沢の思想意見からへだたっているかどうか、である。

平山さんの回答はまことに単純。「石河執筆の社説は福沢の思想を反映したものではない」。
これだけである。証拠などはない。たんに平山さんの推測や思い入れにしか過ぎないのである。これを唯一の手がかりに、本丸である服部、遠山攻撃に当たるのだ。わたしにはとんでもない冒険にみえる。きっと根が引っ込み思案だからであろう。平山さんの果断さをいつかはみにつけたいものである。

少し長いが平山さんご教示のURLから平山さんの発言を引用する。長い抜粋となる。
引用が長いのは、平山さんの 時事新報の読み方(石河と福沢の関係)が端的に出ているからである。これは平山さんの著作ではなく、掲示板発言であることを承知の上で読んでもらいたい。
http://hpcgi3.nifty.com/biogon_21/board/aska.cgi?page=330

『こちらでも私の『福沢諭吉の真実』が話題となっているようですので、作者の立場からいささか弁明をしたいと思います。
まず、個々の時事新報論説が、紙上に掲載されていたその時点に、福沢個人の意見として、読者に受け取られていたかどうかについて。
創刊当日の「本紙発兌之趣旨」(拙著16頁)にありますように、論説の大部分は論説記者が執筆するが、特別な場合は福沢が立案検閲する、というのがそもそもの建前でした。
従いまして、掲載時には福沢の論説であるかは分からず、連載終了後に単行本化されて始めて、読者は「あれは福沢先生の論説だったのか」と気づいたのです。
そのようにして出された単行本は、明治15年(1882年)5月の『時事大勢論』から、明治26年(1893年)5月の『実業論』まで15冊あります。
ではその他の論説はどのように受け取られていたかというと、漠然と「福沢先生の影響下にある」程度であった、と私は推測しております。
それというのも、福沢は時事新報社のオーナーではありましたが、会社の役職には一切ついていなかったからです。当初の社長・主筆は中上川彦次郎でした。
論説の責任は主筆が負うという原則からすれば、単行本未収録の論説(その中には「脱亜論」なども含まれる)を福沢個人の思想とみなすのには無理があり、当時の読者もそれは心得ていたでしょう。
それどころか、完全に福沢執筆の論説ですら、福沢の思想なのかは分からない場合さえあります。
というのは、主筆の側から、「先生こんな論説を書いてくださいよ」、という依頼が先にあって、あまり乗り気でもないのに書いてしまった論説が含まれているかもしれないからです。
私は拙著において、原稿が残っていたり、語彙や文体が完全に福沢と一致する論説をカテゴリーⅠ(80頁参照)としましたが、このようにすると、カテゴリーⅠのものですら、福沢の思想と断定することはできないことになります。
現在、伝記執筆の準備のため、マイクロフィルムで時事新報そのものを読み返しているところですが、私の感触では、あの毎日の論説を、福沢の思想と信じて読んでいた読者はいないのではなかろうか、というのが正直なところです。
渡辺恒雄は読売新聞の主筆ですが、だからといって読売の社説をナベツネ個人の思想と考える読者はいないでしょう。それと同じことです。
では、福沢全集に収められてからはどうか、といえば、不思議なことに、まるで福沢個人の思想のように見えてしまうのです。
それは、『文明論之概略』も「時事新報論集」も、同じ版組、同じ装丁で書架に並んでいることによる、一種のマジックなのです。
実際には現行版全集の第13巻から第16巻までは、ほとんどが石河の執筆したもので、それは石河自身が認めている(拙著75頁)ことでもあります。
思えば、服部之聡や遠山茂樹といった戦後の左翼は、署名入りで公刊された全集第7巻までと、無署名の第13巻以降とを比較して、「福沢は別人のようになってしまった」だの、「いや本質は変わっていない」だのと議論していたのでした。そもそも別人が書いたのですから、別人に見えるのは当然であったのです(ああ恥ずかしい)。
福沢が自身の思想として認定している全集第7巻までの論説に、植民地支配を正当化する記述がないことは、目を皿のようにしてそうした言葉を求めた二人の人物、石河幹明と安川寿之輔が、結局その目的を果たせなかったことからも明らかでしょう。
そこで私は「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」とは、植民地支配を賛美するものなどではなく、福沢ならではの痛烈な皮肉であると解釈します。「腐敗したアテネの民主主義より、スパルタの独裁主義のほうがましだ」、と言ったソクラテスの皮肉と同じような。』

頷けない箇所を列記しよう。

●『従いまして、掲載時には福沢の論説であるかは分からず、連載終了後に単行本化されて始めて、読者は「あれは福沢先生の論説だったのか」と気づいたのです』

こんなことがあり得るだろうか?社説のことを今、言っているのだ。わたしには信じられない。
また。。讀賣ナベツネの例を出して、こう述べている。

●『渡辺恒雄は読売新聞の主筆ですが、だからといって読売の社説をナベツネ個人の思想と考える読者はいないでしょう。それと同じことです』

これは語るに過ぎたのではないか、平山さんも。いまかなりボケているがナベツネが元気旺盛な頃であれば、ナベツネの意見に背くような社説が書けたろうか?書いた記者は即刻左遷だろう。福沢もおのれの思想に反した社説を書いて譲らぬ社員がおれば、即、クビにしたはずである。

あるいは。。
●『それどころか、完全に福沢執筆の論説ですら、福沢の思想なのかは分からない場合さえあります。というのは、主筆の側から、「先生こんな論説を書いてくださいよ」、という依頼が先にあって、あまり乗り気でもないのに書いてしまった論説が含まれているかもしれないからです』

平山さんは、福沢に対して寛容さを大盤振る舞いしている。なぜ同じ寛容さを石河に対して振る舞えないのだろうか? つまり。。

「完全に石河執筆の論説ですら、石河の思想なのかは分からない場合さえあります。
というのは、福沢の側から、「石河君!こんな論説を書きたまえ!」、という依頼(指示)が先にあって、あまり乗り気でもないのに書いてしまった論説が含まれているかもしれないからです。」

という、シーンもあった、となぜ想定できないのか?(石河にも、愛、を注いでね、平山さん)
石河は、「おれは石河なの?福沢先生なの?」という区別も付かなくなったのではないか、とさえ、わたしは想像している。

まず注意しておきたいのは、ブログ記事でも述べたが、福沢が存命時に読者であったものは社説を誰が書いたのかはわからないことだ。無署名だから。
だから 全集を当時のママで出版したいのなら、たとえば、全集の別冊として、時事新報社説集とし、無署名のママ、当時の主筆であったものを列記し、明白に執筆者がわかっているものにはその旨を記し、不明なものは不明として出版するのが正しかろう。しかし、福沢全集22巻のうち8巻から16巻の9冊も分量がある社説をはずして福沢の全体像がつかめるわけもない。(もちろん、こう考えるのは、福沢の思想意見が、誰が執筆しようと反映していること、すくなくとも、反映していると読者が読んでいると、想定するからである)。

(注) さらに、無署名が原則である社説をそもそも全集に入れるのがおかしい、ともいえる。これは福沢の連載もの(誰が見ても福沢のものとわかり)あとから福沢諭吉著としてまとめられる著作、と 社説では分けが違うと思う(社説の場合はあきらかに複数の主筆が交替で書くのであるから)。時事新報の場合は、社主福沢の意見が社説に大きく反映しているのであるから全集の別巻として社説集とするのがいちばんいいのではないか、とおもう。このようなことを考慮し、「福沢諭吉の真実」ではなく「福沢諭吉全集の真実」とするのが正しい、とどこかのサイトで評した。すなわち、全集刊行前の日本の政治や社会への影響とは「全集の編集問題」は関係なく、ましてや福沢や石河の評価まで、全集編集によって遡らせてはならない。これは何度もこのブログで言ってきたことだ。つまり、主題は、石河が福沢全集をどのように編纂し、それを利用した研究者がどのような福澤像をいだいたか、であり、歴史の上(つまり福沢生前の)の福沢(および石河等)の役割や国民政府への影響が「どうであったか」、ということには全く影響しない、ということ。当然のことだが。

だから、遠山の著作が全集版の社説を重要な根拠としている場合、その箇所が福沢の思想を的確に反映しているかどうかを細かにチェックする必要はある。それだけのことではないか。その差分がどれほどあるか?やってみなければわからないが、それほどのおおきなものではあるまい。すくなくとも平山さんが鬼の首を取ったようにいいたてているほどのものではないと かんがえる。(必要ならば平山さんのゼミ学生にチェックさせたらどうなのだろう。平山さんのお好きな安川氏の手法で。。。)。

3 そのほか。
3-1 「思想犯罪」の件。わたしもそんなことだろうと思って質問しました。了解。
3-2 これは方法として重要だとおもうのだが、上記の箇所で、社説をかりに石河が執筆しなかったらどうなのだろうか(たとえば、病気による長期休養などで)?まさか、社説を空欄にして新聞を刊行するわけにもいくまい。中国などにたいする蔑称を福沢が日常的に使っていたのかどうかは私は知らないが、平山さんによると、まるで石河が書かなければそのような社説自体が存在しなくなる、と言う風に見える。わたしにいわせれば、福沢が代わりに書いたり添削したりすれば、内容は同一、石河よりもっとパンチのあるアジテーションが華麗な筆で繰り広げられたであろうと想像する。なぜ、石河がもし存在しなければ、石河が書いた内容を福沢あるいは福沢の息の掛かったサムワンが同様の内容を、より色彩豊かに、激しく、書いたであろう、と想像しないのか?不思議である。福沢自身でなく、石河に書かせたのはそのために給料を払っているのだもの、当然である(ナベツネが直接、社説を書かないのと同じこと)。

3-3 私は先日、「石河勝利者説」などという愚論を書いたが、そこでいったい日清戦争前後、福沢はなにをしていたのか?と書いた。平山さんの考えるように(そして福沢もそう考えるように)清国に対する強攻策(朝鮮から手を引かせること)およびその延長としての戦争は「義戦」であるなら、それを時事新報を通じて言論により支援しないのは(福沢の)犯罪ではないか、と書いた。もちろん、福沢は犯罪など犯さなかった。石河を使って、義戦を支持し、政府の尻を叩く社説を「乱造」させたのである。

3-4 わたしのもっている福沢選集は、わずか200通しか書簡を収めない。私の住む市の図書館(5館ある)は、福沢全集はおろか選集も所蔵していない。夕べ、全集版の書簡集(第17-18巻)を安く売っている古書店をみつけ、注文した。石河と福沢の関係、および時事新報と福沢の関係があるていどわかることを期待してのことである(スカ、に終わる可能性もある)。図書館で福沢全集が読めない時代に、なったのか。

3-5 反=遠山が平山さんの至上命題のようだが、結局、遠山の枠内に平山さんはおいでだな、という印象を持った。1945年の時局命題から福沢をながめている、というように遠山を批判しておられるが、逆に、その批判にこだわりすぎておられるため自由な見方ができなくなっているのではないか、と。素人の印象である。私自身は遠山の福沢ストーリにそれほど違和感はもたないが、「反封建自由主義者」(あるいはブルジョア思想家) がなぜ(あるいは、ついに)「侵略主義者」になったか、の解明が遠山氏の課題であったようだ。しかし、わたしのようなこしゃくなセンゴッコにとって、このふたつは、同値であることはアッタリ前のことなのである。(平山さんは私よりだいぶ年下だが、「反封建自由主義者」、と、「侵略的絶対主義者」は、相対立するとおもっていらっしゃる。クラシックな、あるいは、珍奇な見解である)

3-5 平山さんへの東谷暁インタビューも読んだ。
http://blechmusik.xrea.jp/labs/fukuzawa/f07-01.html
がこれは参考にならなかった。東谷はあまりに平山さんにたいし、物わかりがよすぎる。平山さんが冷や汗をタラタラ流し、七転八倒するくらいの質問しなきゃ、東谷サン。(あるいは、エコノミストのしゃしゃり出る幕ではない、といったほうが親切か)

ただ、平山さんによると、平山さんのような主張は圧倒的少数派なのだそうである。わたしは多数派大嫌いだから、この点、平山さんの今後の研究の進展を祈る次第である。(わたしのようなトーシローが応援したってどうということもなかろうが)。

##
昨晩、平山さんの一連のコメントに対して返事を書いて終わりかけたところ、エンターキーを勢いよく打ち込んだら、スコーン!と画面が切り替わりそれまでの書き込み内容がパアになった。恨むよ、so-net。ん、オレのパソのせい?これもSony=Vaioだ!。URLのサイトを引用し、ヤッサモッサして書いたのに。激しい徒労感とともに、やっとこさ、でこの記事を仕上げた。(むろん、MSワードで!!)

読んでクダすった、読者の皆さんには、期待に応えられる内容になっていないことを恥じる。素人に、つきあってくだすった、平山さんにも再度、感謝。

(まだ、終わりじゃありませんが、きりがないので中締めを)

追記: 平山さんがリンクされている幾研堂さんの「石河幹明のパーソナリティ」という記事は陰影にとむ内容である。が、石河は当面の論点には、括弧にくくっておいてよい人物とおもわれる。つまり、<黒子>たるべき人物である。時間T以前にそうであったように。

追記2:
東谷インタビュで次の平山さん発言は面白い。
「竹田さんは福沢諭吉協会の有力者でもあるんです。福沢協会の前身は、現行版全集を出版するために作られた。岩波書店の一員として若き日にその編纂にも従事されたこの方は、丸山眞男のように素晴らしい研究者もいるけれど、私のように石ころのような研究者もいる、と言ってるんです。ですから、間違った福沢像を覆してくれて慶応は喜んでいるでしょう、と皆さんおっしゃるわけですが、全然そうじゃないんです。そんなに簡単なものじゃないんですね。カトリシズムのようなものなんです(笑)。新約聖書のなかでも、イエスの言葉はごく一部ですよと言いたいのだけれども、パウロの系譜というのがあって、それを守るしかない現実がある。」

面白い、というのは、平山さんの比喩があまりに巧妙だからである。
もちろん、新約聖書=福沢全集、と平山さんは言っているのである。イエス=福沢。パウロ=石河。
(石河=ユダ、でなくてホッと、したろう、石河は)

しかし、福沢は直接、石河を指揮したのに対し、イエスはパウロなど見も知らないのだ。(わたしにいわせれば、パウロ教などイエスの教えと、縁もゆかりもない)。
これに対し、福沢全集にある、時事新報社説は石河執筆であろうと、「すべて」福沢が目を通したものである(むろん福沢が了承しない内容であれば、修正記事を福沢自ら執筆、あるいは執筆指示したであろう)。 丸山真男ならこんなつまらぬ比喩をしても許されようが、厳密を旨とする平山洋ならあってはならないお気軽発言だとおもう(固いね、あたしも♪)。たとえたいなら、むしろ、イエス=パウロでなく、親鸞=唯円であろう。歎異抄。キリスト教のストーリで言えば、イエス(福沢)が新約聖書(時事新報社説)の監修にあたった、ということになる。比喩にもなりゃしない。新約聖書が確定したのは、そもそも、イエスの死後、400年経過してからのことである。 福沢はイエスとは違ってしっかり社説(新約聖書)を締めたのである。

ここが勝負の分かれ目。読者の皆さんは、福沢全集を自ら読んで、推理を働かせるしかあるまい。

追記3: 4/21
ナベツネの思想を語ろうと思えば(あるいは伝記を著そうとおもえば)ナベツネが社長であった時代の讀賣社説は外せない(伝記著者は当然社説を読む必要がある)。同じように、福沢の思想や伝記を語ろうと思えば時事新報の社説は(だれが書こうと)外せない。理由は無署名だからである。これが山田太郎記者、のように個人がかいたのなら、ワシは知らん、で済ませよう。では、ナベツネ全集、福沢全集にこれを入れるどうかは別問題。入れる必要は無かろう。社説集として発行すればよいのだ(もちろん、執筆した記者名など不要である。社説集を刊行するとき、執筆者名をあきらかにするのはよほど特殊な場合だけではないのか?たとえばIFストーンなどの完全個人誌などの場合。この点、同じ無署名とはいっても天声人語のようなドーデモエー記事とわけがちがう。天声人語ならくだらない記事を書いてもこれはXX記者が書いたのだから、と個人の評価に結びつく(もちろん、くだらないコラムをつくる会社としての朝日にもなんらかの影響があるが)。朝日社説の場合は、執筆記者がおかしい、というより、朝日は何してるんだ、というダイレクトの会社評価に結びつく。記者は、おのれの意見を殺しても「会社の意見」を優先する。例外は時事新報における福沢くらいのもんだろう。オレ=会社)。福沢全集に社説集を入れたのは福沢=時事新報、と讀賣=ナベツネ、の関係がちがうからであろう。前者のほうが圧倒的に強い。ナベツネは元記者で歴史ある讀賣の何代目かの経営者にしか過ぎない。


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