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福沢諭吉の真実: 平山洋さんからのコメントとわたしの回答 [福澤諭吉]

はじめに: 
この記事は 4月4日付けの私の記事(竹内好メモ: 中江丑吉と北一輝)の一部、とそれに対するコメントを 再掲するものです。

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わたしは、「竹内好メモ: 中江丑吉と北一輝」、と題した記事(4月4日)で 平山洋「福澤諭吉の真実」(文春新書)に批判を行った。それに対して著者である平山さんから、本日、おもわざるコメントをいただいた(感謝)。 

コメントに対して私は記事コメント欄に、回答したが、コメントでは目立たないので、ここで、平山さんのコメントと併せて、記事として再掲する。元記事をコメントとともに読んでもらえれば済むのだが、平山さんの著書に言及した部分は記事中のほんの一部(間奏曲)であり、探すのが面倒だからである。
(平山さんにことわってはいないが、公開を意図してのコメントだから了解してもらえるものとおもう)
また、元記事の 平山さんの御著書に言及した箇所をそのまま最初にかかげる。そうでないと、意味が伝わりにくいと考えたからである。この記事は著者の直接の応答をもちろん予定していないのでソレを良いことに、やや、冷笑気味の内容なのでここにそのままの形でかかげるのはフェアでなく、わたしも気恥ずかしいが、上記の履歴であるからご了解願いたい。

わたしは工学系を専門とする一翻訳者である。記事を見られれば分かるとおり、素人然のものしか書いていない(いいわけをしているのではない)。そういうサイトのつたない記事に目を通されたこと、さらにわざわざ、コメントをいただくなどおもわざる名誉である。コメントを寄せられた平山さんにはこころより感謝申し上げます。

これは問題作であることは私も認めるので、読者のみなさんも是非、平山さんの御著書を読まれた上で再度わたしの記事、あるいは平山さんのコメントをよまれることを希望する。
    (参考) 平山洋著『福沢諭吉の真実』 文春新書 平成16年8月刊

以下の内容:
1 竹内好メモからの抜粋(平山氏の著書に言及した箇所)
2 平山氏の同記事へのコメント
3 平山氏コメントへのわたしの回答

残念ながらいま御著書が手元にない(自宅のどこにかにはあるのだが)。見つけた後、詳細な書評をしてみたい。また以下の私のコメントは平山氏がコメントに掲載しているURLの記事を読んでいない段階のものである。このURLと「福澤諭吉の真実」を再読した上でここにあらたに書評を行うつもりである。「福澤諭吉の真実」(文春新書)はわたしも詳細に読み、ノートパドとメモを多く残した本である。

######## わたしの、「竹内好メモ:」 から、福澤諭吉に言及した部分を、抜粋#####

西川長夫はつぎのように言っているようだ。
##
 福澤諭吉「脱亜論」について、それを転向としてではなく「文明論の概略」からの論理的帰結と主張している。わが国ではいまだに啓蒙主義者としての福澤像が支持されているようだが、啓蒙主義も非西欧に対しては、文明や文化の名において「野蛮」を断罪する植民地主義へと転じたことを忘れてはならない。西欧の文明概念が「文明化の使命」に見られるように、帝国主義的な植民地にいたったのと同様に、「文明概念を深く理解した福澤は、みずから脱亜論への道を準備したのである」
## 戦後思想の名著50(平凡社)から

間奏曲♪:
脱亜論について。。。平山洋「福澤諭吉の真実」(文春新書)は、西川のような見方から福澤を擁護しようとして、脱亜論的=福澤像は 福澤全集編集者が意図的にでっち上げたものだ!と叫んでいる。しかしいかに声を張り上げようとがんばっても「脱亜論」は福澤諭吉の「真筆」であることは間違いなかったらしい(残念、無念さがこみあげているような記述がおかしかった)。さらに平山は言わなくても良いのに 「脱亜論」が時事新報に無署名で掲載されたとき、当時の国民は誰もこの記事に注意を向けなかった、とこのことから何を帰結したいのかわからぬが、言っている。誰の注意もことさら喚起しないのはきわめてあり得ることだろう。すなわち、時事新報社説(東亜論)が掲載されとき、これに読者がことさら注目しなかった理由は、福澤が脱亜論者、中国侵略者論者であることは、当時の国民にとって「想定内」であり、多くの著作で、福澤本人が国民に顕示し続けていたからなのだ(書簡を読めばなおあきらか。日清戦争勃発の報に接し、生涯の歓び、と小躍りしている)。福澤による国民啓蒙の努力が実ったのであり、福澤(や平山)には慶賀すべき事態になっていた(脱亜DNAは平成まで生き延びている、というおめでたき仕儀にござる)、のである。これに目をつむりたい(諭吉が生きておれば余計なことするな!と一喝するだろう)平山のような慶応学者に、お役目ご苦労にござる!の暖かいヒトコトを送るのが人倫の道ってもんだろう。
間奏曲♪おわり。
   **おもひで: ↑を「福澤諭吉の真実」書評としてアマゾンに送ったんだが、ボツ、じゃった。

############ 平山さんからのコメント (再掲) ###########

『福沢諭吉の真実』の作者です。

拙著をお取り上げくださり、ありがとうございます。

論説「脱亜論」は、当時の専制国家清国とその影響下にあった朝鮮国を批判する、すぐれた論説である、と考えております。

そこに侵略主義などは見出すことはできません。末尾にある「処分」という言葉は、当時は、「法律的に正当なありかたで対処する」というような意味でした。「琉球処分」や「秩禄処分」などがその用例です。

なお、下記URLをご参照くだされば幸いです。
http://blechmusik.xrea.jp/lab s/fukuzawa/f03.html
by 平山 洋 (2006-04-13 10:09)

###### 上記平山さんからのコメントに対するわたしの回答 (再掲) ########

こんなつたないサイトにわざわざお越しいただき感謝します。
わたしは平山さんの著書を手に取るや、あちこちに批判の文言をつらねました(どこやらの有名サイトでのつたない一文は平山さんもあるいは読まれたかも知れません。yamabikoというハンドルネームを使いました)
 わたしは、千葉県印西市原山にすむ井上昇ともうします。

良い機会ですから、平山さんの御著書を再読し、わたしの批判したい論点を再度まとめます。その際には上記URLも参考にします。

注意しておきたいのは、脱亜論、という場合、その数百文字の短い論文(時事新報社説)のことに閉じて論じているのではありません。福澤のその前後の書物や書簡をあわせて 彼の アジアに対する態度、のことを論じているのです。これが気に入らない、というのであれば、 脱亜論 とよばず、脱亜主義、にいいかえればよいだけのはなし、大きな問題ではありません。まず一点注意しておきます。

いま御著書が手元にないので記憶に頼って書きます。

1 平山さんの論点は 時事新報の福澤真筆でない部分が全集に紛れ込んでいる(意図的に、あるいは非意図的に。平山さんは前者という)
 これは私などの手の及ばないところであり、了承せざるを得ません。
2 平山さんは今回も「侵略主義」とおっしゃって、侵略、とはいわない。まことに注意深い書き方です。 わたしなどが、論ずるより、福澤の富国強兵、文明論の概略の基本思想、がまっすぐ 中国侵略へつながった、というのは定説ではないのでしょうか? 倫理的に非難しようと言うのではなく、論理的な帰結ということです。 平山さんは中国「侵略」ではなく、なんだとおっしゃるのでしょうか? 
侵略はあった、けれども、侵略主義、というのはなかった?
   では、進出といいかえればいいのでしょうか? 進出主義といえば、福澤も有していた、ということでよろしいですね? それで結構だと思います。言葉の問題だから。

平山さんは引用しておられないが、福澤には 軍事的な海外進出をやるべし、という論文著書をすでに書いています。平山さん以上に用心深い福澤は、
  遠山茂樹のいう 「しかりといえども」 の論理で巧みに隠していますが。

御著書の おしまいのへんにあったとおもいますが、脱亜論を発表したおり国民はだれもそれが福澤の筆になるとは知らなかった、とおっしゃっています。
これはどういうことだろうか、と私は考えた。
1 論説を 福澤が書いたかあるいは時事新報社員が書いたか、読者は意識していなかった
2 脱亜論がかりに福澤以外が書いたかどうか、も意識していない。つまり、福澤が中国進出推進派であることは国民にとって周知の事実であるから、この論説はなにも新しいことを言っていない。
3 時事新報社説など誰も読まなかった

いずれにしても、書簡などで中国進出の一報を驚喜している、というのは事実であろうから、進出の意図がなかった、とは平山さんもおっしゃらないでしょう。
であれば、 侵略か、進出か、の差であり、平山さんは 「侵略の意図はなかった」と「誇張」宣伝して、「進出の意図はなかった」とまで読者に誤解を与える可能性があります。 別の著書で、 福澤には 中国韓国への軍事進出の意図があった、と正しい情報を広める責任があるとおもいます。 また、後書きで、

福澤は近代市民主義者か
vs
福澤は侵略主義者か

という対立点を持ち出しておられますがこれは、上記の通り言葉の詐術です。
福澤は近代主義者であり、(しかるがゆえに)侵略主義者(平井さんならあるいは進出主義と呼称されるかもしれない)であった、
のです。
近代主義者=侵略主義 の等式が19世紀には世界の常識であった、福澤はそれに棹さした、ということです。これは フランス革命が悲劇でありふりかえってみれば近代化を早めた劇薬であった、のとおなじく、ニッポンの近代化にも劇薬であったというべきでしょう。福澤をわたしが非難しているのは、現在の視点から他にとるべき道が明治の日本になかったか、と言う観点から同時代人としての福澤を、あるいはわたし、われわれが、かりに(if) 明治時代にwarpしたらどういう政策により近代化を図るべきか、という観点からです。 福澤は遅れた帝国主義国家から出た知識人の一典型であり、われわれが超克すべきモデルのひとりとしてあります。現在、まさに、研究しなければならない人物です。そういう観点から、わたしは、平山さんにも 論じて頂きたく思います。

以上
###

平山さんのような著名な研究者から直接、コメントをいただいたことを名誉として再度、謝意を表します。

追記: よく考えたら、ここで省いた 竹内好 などの 明治維新に対する意見も 福澤諭吉の近代、に関するものだ。元記事を参照願いたい。


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コメント 9

平山 洋

誠実な対応に感謝します。

yamabikoさんとは、井上さんのことでしたか。一度お話をしてみたいと思っておりました。

まず、私の「侵略主義」の定義から。私は「侵略」を自国の領土拡大に限定して使っております。

福沢は一貫して日本のマーケットの拡大を望みましたが、
領土の拡大を求めたことはありません。独立国の主権を奪うなど思ってもみないことであった、と考えております。現に朝鮮独立党を支援していたではないですか。

近代主義であることと、侵略主義であることとはまったく別問題であると考えます。通商の拡大によって、侵略などしなくても近代化は可能だからです。第二次世界大戦後の日本の発展には領土の拡大は伴いませんでした。

私の考えについては、ぜひ、http://blechmusik.xrea.jp/labs/misc/m03.html
をご覧ください。

気持ちよく、フェアにいきましょう。
by 平山 洋 (2006-04-13 15:25) 

古井戸

再度コメント頂きありがたく思います。まだ、いただいたURLを精読していませんので、この欄の記述は印象批評と言うことで私のとりあえずのコメントにします。

1 マーケットの拡大、というのは商人の意図であり、国家は商人の意図を体現して海外進出を図りました、これは19世紀帝国主義の構図です。政治と経済をバッサリ切ることはできません。マーケットの拡大を政治と切り離してみることはできません。拡大をイヤだ!といっているのに軍隊で押しかければ、これは国家主権を侵害する行為、と私は理解します。平山さんは(福澤がどう思っていたか知りませんが)、極端にいえば、マーケット拡大をいとするなら、主権を侵害してもやむを得ず、とおもっておられるようです(これが、福澤の根本思想です。相手国に対しても 利 をもたらすのに、おまえら、何をぐずぐずいっているのだ、そういうことをいっていると 他国にまた、(俺たちと同じ目的で)主権侵害されることになるのだぞ!、といういらだちではないでしょうか。これは現在のグローバリゼーションと同じ構図です。 しかし、どうみても、軍隊で押しかけるのはどうかとおもいますが。 つまり、平山さんは 日清戦争勃発を小躍りして喜んだ、福澤と一体化しておられる。そのとき、福澤の心には何があったのでしょうか?「これで中国人民にもhappinessがおとずれる!」と思ったのでしょうか?そうであるならば、福澤は、北一輝などとおなじく、各国におけるナショナリズム復興に力を貸した、のであり、中国人からも英雄視されるでしょう。
どこで、まちがったのでしょうか?あるいは中国人の誤解なのでしょうか?いま福澤を厭っているとすれば。もしそうならば、平山さんは北京をおとずれ、福澤の意図を説明する必要があります。

もう一点。福澤全集の編集に当たった白河という人物です。
平山さんは 極言すれば、白河になにもかも罪をお仕着せようとしておられる、とおもいます。 すくなくとも、白河を選んだのは福澤です。白河を貶せば貶すほど、福澤の目がなかった、ということになるのですよ。 福澤がやむを得ず白河を社員にしたとか、あれこれ、さかのぼって白河に難癖(すこし偏見的な用語をつかわせてもらいます)をつけておられる。しかし、これは、後で、全集の偽造を行った、という犯罪的な行為から、過去にやったことをさかのぼって罰しているようで、返って、御著書の価値を下げるものと私にはうつります。

つぎに、白河が 中国侵略を煽った、といっておられるが、それは福澤の健康がまだ維持されていた頃からではないのでしょうか?であれば、白河に注意を与えることはできたはずです。時事新報とはなんだったのだろうか?だれもが自由に筆をふるうことができるのなら、時事新報の主張は 筆者個々のものです。時事新報が 福澤個人の思想を喧伝する機関であるとするなら、かつ、読者もそう読むのであれば、石河が書いた社説を 福澤がすべて校閲すべきであると思います(そうでないなら読者に対する裏切りです) 私の理解はこうです。 
1 福澤は 時事新報を 福澤の独占物とおもっていない。自由に主筆(福澤が譲った)に書かせてそれに任せた。
2 しかし、福澤の思想に、真っ向反対するような社説など福澤が許すわけがない。そんなことをすれば、読者が疑う。
3 したがって、白河は多少激越なところがあったとはいえ、福澤の思想をそのまま書いた、とおもいます。そして、読者も福澤路線が継続(拡大?)していると読んだ。かつ、重要なところですが、福澤もそれを承知して承認していた。

福澤死後の 論説?を 全集に 福澤真筆、として載せるのは論外ですが、福澤=時事新報として読者が理解しているのならば、福澤の真意とは別に、「社会的に受け入れられた福澤なるもの」として 福澤は 「激越なる」進出主義者と国民=読者は理解するのは当然です。かつ、このとき 福澤はどう考えたろうか? 世間の動向や政府の動きは察知していたはずであり、福澤の望まぬ侵略など ただちに検知して修正する論評を時事新報に掲載するのが言論人の責務ではなかったのですか?

さらに、日清戦争の開始から帰結までを福澤はどうみていたのでしょうか?
1 諸手を挙げて賛成
2 条件付き賛成
3 反対 (これはないとおもいます)
石河の論説が1を後押しし、福澤も1を押したのであれば、石河は福澤と一体になっていたのであり、石河は侵略主義である、と論難しても、わたしがいったように、「平山さん、彼はオレの意をよく察知して書いてくれたんだよ」というに違いありません。

結局、石河の罪、というのは 福澤真筆でないものを 福澤の筆として掲げた、ということですね。 これは白黒つけられる問題だろうか(テキスト分析により)わたしはそれほど興味ありません。 
石河の肩を持つつもりはないが、それでは福澤が健筆をふるっていたと言われる時代の作品はどうだったのか? 石河その他の主筆ならびにそれに準ずる社員も書いていたのではないですか? 福澤が校閲して。 そのような社説は福澤が初稿をかかなくても、彼の思想を体現した書き物と理解すべきだと思います。 すくなくとも、社会的な効果としては、読者はそう受け取ったのですから。

ここにきて、この書物のタイトル 福澤諭吉の真実、に思いが至るのです。

いったい 思想人にとっての真実とはなんなのか? これは難問でほとんど誰にも分からないのではないかとおもうし、福澤フェチというべきひとびとにしか意味のないもんだと思います。 福澤の及ぼした社会的効果、あるいは政治的効果に光を注ぐべきだと思います。福澤は自己の論文や著作が 社会にどのような効果を及ぼすかにきわめて意識的だったと理解しますから(だから、やせ我慢の説、を長く隠匿した)。

だいたい以上です。

URLおよび 御著書を再読して再度書評します。
by 古井戸 (2006-04-13 16:23) 

平山 洋

ご返事、お急ぎにならなくてもいいのに。

ただ、基本的な誤解があるようですので、それをいくつか。

まず、福沢が喜んだのは、日清戦争の「開始」ではなく「終結」です。これは大きな違いでしょう。

それから、日清戦争は侵略戦争などではなく、ただの戦争です。1885年の日清天津条約により、日本・清国いずれかが朝鮮国に派兵する場合は、もう一方も派兵してよい、という取り決めがなされました。条約を履行したにすぎません。また、日清戦争終結後、日本軍は速やかに撤兵し、朝鮮国の主権は維持されております。

1895年の日清下関条約でも、日本は結果として領土を拡大したわけではないのです。したがって、現在の価値基準を適用したとしても、侵略戦争にはあたらない、と思います。

じつはこの問題については、昨年9月に中西Bさんと議論をたたかわせております。できましたら、
http://hpcgi3.nifty.com/biogon_21/board/aska.cgi?page=330
以降をご参照ください。
by 平山 洋 (2006-04-13 19:21) 

古井戸

店で平山さんの御著書を買ってきました。。。

さて。。

>まず、福沢が喜んだのは、日清戦争の「開始」ではなく「終結」です。これは大きな違いでしょう。

では開戦を悲しんだのでしょうか?かなり、無理をされていますね。
以下引用ページ数は遠山茂樹「福澤諭吉」(東大出版会)によります。

p238
『日清戦争は文野の戦争なり』M27.7.29 で福澤は何を主張したのでしょうか。
日清戦争は人と人、国と国の戦いにあらず、文明と野蛮の戦いである、「文明の義戦」である、と遠山は意訳していますがこれは誤りでしょうか?

> それから、日清戦争は侵略戦争などではなく、ただの戦争です。1885年の日清天津条約により、日本・清国いずれかが朝鮮国に派兵する場合は、もう一方も派兵してよい、という取り決めがなされました。条約を履行したにすぎません。また、日清戦争終結後、日本軍は速やかに撤兵し、朝鮮国の主権は維持されております。

しかし、朝鮮をそういう位置づけ(日本、とシナが可処分であること、統治すること)事態がすでに異常です。もちろん、今日の観点から見れば、ということです。18世紀の欧州がアジアを「侵略」したというのも今日からみての呼称であり利口なかれらがあからさまな侵略など行うわけがありません。なんらかの条約に違反した(極端な不平等条約、に))という難癖を付けて 合法な戦争をおこした、とみます。先回りしていえば、福澤を評価するものはなにをもってひょうかするのか疑問です。福澤の価値は こんにちでいう 侵略戦争を推進したことによってこそ、評価されるべきだと思っていますから、わたしは。それを侵略戦争でなかった、といって擁護したきになるのはひいきの引き倒しだとおもっています。

p239
福澤は時事新報で戦争の支援に活躍し、
『日本臣民の覚悟』論文を発表し、挙国一致体制を国民に要請し、
終結を喜んだと言っても、
「。。実に今度のこと(戦争)は空前の一大快事、人間寿命あればこそこの活劇を見聞致し候義。。。略。。。なんぞはからんただ今眼前に此の盛事を見て、今や隣国のシナ・朝鮮も我が文明の中に包羅せんとす。畢生の愉快、実以て望外の仕合に存候」M28.1.18
(友人に送った手紙) と書いている福澤は、戦争の勝利そのもの、に歓喜しているといわざるをえません。第二次大戦が始まった後、多くの文人が国民を鼓舞したことをもってわたしはそれほど非難しない。しかし、福澤の場合は、日清戦争開始前からそれを扇動する議論をしていませんか?お聞きしたいです。

通常の戦争、といってもその土台として、不平等条約などがありませんでしたか?これは通常の侵略主義と我々が読んでいる事態の通常のパターンです。戦争開始はすでに事の終わりです。

> 1895年の日清下関条約でも、日本は結果として領土を拡大したわけではないのです。したがって、現在の価値基準を適用したとしても、侵略戦争にはあたらない、と思います。

侵略戦争か否かは詳細な検討が必要でありちょっと私にも時間が必要です。しかし、侵略戦争であろうと、あるまいと、思想家福澤の評価にあまり影響しないと思います。戦争前に、どういう発言をしたか、が重要です。

平山さんの功績は、全集に福澤の筆でないものが、福澤の筆だ、とした石河の「罪状」を暴いたことです。

問題は、真筆でなかったことによって当時その新聞を読んだものがインパクトを受けたかどうか、は別問題でしょう? そもそも、「脱亜論」社説でも平山さんはだれの執筆かしるものはいなかった、と書いておいでです。だから、国民にとっては脱亜論を書いたのが福澤であろうと、石河であろうとどうでもいいはなしだったのです。すっかり、前便でのべたようにソレまでの時事新報あるいは単独著作によって国民はすっかり、仕上がっていたのですから。 だから著作権上の問題、あるいは歴史家としては 誰の真筆かは問題になりますが、国民としては 福澤主宰の時事新報論文 ということでいいとおもいます。これは福澤自身の執筆が多かった?初期から白河らが執筆した後期でも同様と思います。もちろん、社説に、 執筆者が、明記してあり、時事新報社説というより誰々の論文、として読者が読んでいたのなら別問題ですが。

時事新報の歴史、としてとらえるなら、執筆者が誰であるかというのはどうでもいいことだとおもいます。というのは、時事新報社説はすべて福澤承認の論文とおもっているからですが(わたしが、そうだし、当時の国民がそうだし、岩波全集に「騙されていた」歴史家がそうだということです。こういう解釈のどこがまずいか、ということを検討する必要があります。

さて、最後に、わたしにとって、もっとも違和感のある平川さんの「福澤諭吉の真実」p231「おわりに」です。
 本書で明らかになったポイントとして3点あげられています。

1 「現在なおも対立したままとなっている2つの福澤評価、すなわち福澤を市民的自由主義者とする見方と、侵略的絶対主義者とする見方。。」

どこが対立しているのでしょうか? 内に向けては自由主義、外に向けては侵略主義、というのは 19世紀先進国(帝国)の定番、です。なんの矛盾もありません。
福澤は両方を体現した、つまり、当時の西洋では一般的であった(らしい)自由主義者兼侵略主義(帝国主義者あるいは拡張主義。。呼称はどうでもよろしい)であったのであり、それが福澤の価値です。価値をおとしめてはならないのではないでしょうか?

2 石河が作りあげた時局的思想家としての福澤の姿。。。

石河が「偽造」したという論説が福澤の姿を変えたといわれるが、私の印象ではそうおもいません。手軽に手に入る彼の著作によっても彼は対外進出を是、としていますから。石河を過大評価なさっているとおもいます。もちろん先述の通り、これは 時事新報主宰者としての福澤をおとしめるものとおもいます。福澤路線を推し進めたのが石河なら、彼の論説も福澤の意を呈したもの、と当時の読者が理解したように、素直な読み方はできないのでしょうか?

つまり、全集に 福澤真筆、とせず、 時事新報論文集、としておけばよいのです。実際に 石河真筆と判明したとしても、当時の読者は 石河の意見であり、福澤の意見ではない、とは理解していないのだから(平山さんが脱亜論のところでのべておられるとおり、読者にとっては真筆がだれか、ということはもはやどうでもよいことなのだから)。

3 富田、服部、遠山などの歴史家が 時事論集の杜撰に気づいた可能性がある、とのべておられます。平山さんが 可能性、というくらいだから私には手も足も出ません。

ただ、わたしが参考にした福澤諭吉の手ほどき本は 遠山茂樹の「福澤諭吉」です。 「服部、遠山連合」などと平山さんは 遠山の解釈には敵愾心旺盛だからそれが福澤についての主要な情報源(その他、岩波福澤選集を揃えていますがバラ読みです)であるのは少しつらいところです。
遠山の 福澤諭吉、は いまだに、大学などで福澤に関する標準的教科書として使用されている先生も織られます。平山さんの推奨される、福澤に関する一般書とはたとえば何でしょうか?
以上
by 古井戸 (2006-04-13 21:00) 

古井戸

追加質問。

時事新報の性格付けについて念押し的な質問を平山さんにいたします。

1 時事新報の社説は無署名であったか。(つまり、石河、あるいは福澤という実際の執筆者名は 社内でしか分からない、のかどうか)

2 執筆者が明示されない場合、読者(一般読者、あるいは政治家、知識人)はだれの執筆だと思ったのか?
  福澤か? あるいは主筆(福澤以外、たとえば石河)か(もし存在した場合)?

3 時事新報社説は たとえば今日の朝日新聞や毎日新聞のように 社説を誰が書いているか、は全く誰も気にしない、あたかも朝日新聞全体として意見、であったのか? それとも、時事新報社説、といえば 「福澤先生」の執筆ではなくても、福澤の意見を反映したもの、と理解されていなかったのか(井上は理解されていたと想像しています)。

4 であれば(つまり、石河執筆であっても福澤先生校閲済み、である、と)、福澤全集に 福澤の論説、として載せたとしても まるっきりの偽造ではない、と私は解釈しますが、いかがでしょうか? つまり、たとえば、ケネディ大統領講演集、というのはケネディがしゃべった講演の寄せ集めであって、執筆者(起草者)は別にいるわけです。同じことが 時事新報論説集にも言えませんか?

主宰者の意見を反映した新聞の社説を、個人全集に入れてどこがもんだいなのか?ということです。 これは、福澤が生前、社説にどの程度関与したか、関与していないか、読者がそれをどのように認知していたか、というハナシにもどりますが。

以上質問致します。
by 古井戸 (2006-04-13 21:32) 

古井戸

追記:

平山さんが、「石河が、福澤諭吉の思想を偽造した」と強調されればされるほど、福澤諭吉が哀れに思えます。

1 晩年の福澤は文章も読めない痴呆状態だったのでしょうか?
2 時事新報はある時期から、福澤の手を離れたのでしょうか?すなわち、社説を石河等にまかせ、校閲はおろか、社説を読んでもいない。かつ、読者はソレを知っている、つまり、福澤と時事新報がなんの関係もないことを。
であれば、偽造も何もないではないか。石河の意見をのべただけなのであり、読者もソレを承知しているのだから。

3 そうでなく(時事新報社説=福澤の意見と読者が理解しているし、福澤もソレを知っているのであれば、)偽造といわれるほどの石河執筆の社説を、福澤が読んで、放置していたのなら、福澤は、言論人として無責任きわまる、とおもいますが、いかがでしょうか? つまり、(社会的影響力の大きい)自分の意見と「大きく」相違するものを自分の意見と読者が受け取ることを 放置している。

もちろん、すべてを承知の上で、自由に 過激な意見を石河に書かせる、ということはありえたでしょう。国民を焚きつけるため石河を利用した。そうならば、それなりの福澤再評価が必要です。

4 もし、時事新報から福澤がまったく手を引き、国民もそれを承知していたのなら、つまり、時事新報社説と 福澤の思想とは 全く関係ない、と国民が理解していたのであれば、 すくなくとも 当時の読者にとって、偽造もへったくれもありません。 社説と 福澤は 無関係であり、読者もソレを承知していた、ということです。

  しかし、そうならば、福澤離脱、ということは一大事件であり、国民は誰しも知っているはずです、なのに、福澤全集に 福澤が時事新報を離脱して以降の論説を福澤執筆とのせるのは よっぽどどうかしています。石河もおかしいが、それ以上に代々の歴史家(といわず、一般国民が、それを問題としない(平川さんが書くまで)というのは、文字通り、想像を絶します。

以上、似たようなことを繰り返しましたが、これらはすべて、いま思いついたわけではありません。ここでコメントしたことは、「すべて」、平山さんの著書が出版されて直後に読んだ私の脳裏にとっさに、よぎったことどもです。いま記憶をたぐって、再編成してここに述べています。重複を勘弁してください。
by 古井戸 (2006-04-13 22:54) 

平山 洋

いやあ、多岐にわたる膨大なご質問ですね。

ポイントだけを述べます。

1 社説は一貫して無署名でした。「我輩」という人物が時事的な意見を述べる、という体裁ですが、それが誰であるかは分かりません。つまり、法人としての『時事新報』の意見です。それは全ての新聞社説についていえることです。

2 1882年の『時事大勢論』から1893年の『実業論』までは、社説欄に連載された論説が、「福沢諭吉立案・主筆筆記」という形で単行本化されました。現行版『全集』の第五巻と第六巻に収められている著作です。

3 1882年から93年までの11年間に社説欄掲載後単行本化された著作は全部で16冊、掲載日数は合計で175日分です。11年で約3500号ですので、社説総数のうち約5%が福沢名で出版されたということです。

4 94年以降、社説欄に掲載された論説が福沢名で出版されることはありませんでした。97年の『福翁百話』からは、社説欄とは別の特別な掲載欄が設けられました。

5 福沢が亡くなるまでの総号数は、約6000号です。そのうち約1500編が現行版の「時事新報論集」に収められています(既単行本収録分は除く)。

6 福沢は『時事新報』のオーナーではありましたが、社長でも主筆でもありませんでした。奥付欄にもその名前は記されておりません。

7 読者が、社説欄の論説を、福沢の意見として受け取っていたかどうかは、分かりません。

8 私が、石河は福沢の名を騙った、と書いたのは、自分で執筆した論説(その証拠もありますし、石河自身そのように述べています)を、『福沢全集』の「時事新報論集」に収めているからです。

9 遠山茂樹・服部之総両氏は、石河自らの、1892年以降の論説はほとんど自分で書いた(拙著75頁)、という『続福沢全集』(1933年)の注意書きを無視して、それらを福沢自身の思想と見なす、という決定的な間違いをしています。

10 石河執筆の論説に福沢が関与した証拠は、石河自身の証言を除いてほとんどありません。

11 遠山・服部両氏が述べる福沢のアジア観は、完全に石河の『福沢諭吉伝』第三巻(1932年)に依拠しています。そこで使用されている多くの論説は、井田メソッドによれば、石河が執筆したものでした(「日清の戦争は文野の戦争なり」「日本臣民の覚悟」も)。

12 福沢と日清戦争のかかわりは、始まったときに募金運動をしようとして頓挫し、戦争終結のときに喜んだ、というそれだけしか分かっていません。戦争について触れている書簡もごく少数です。

13 1898年に福沢が脳卒中に倒れたのは確かに大事件でした。ただ、半年後には肉体的にかなり回復してきて、散歩の写真などが撮られています。しかし自身による文章は残っていないのです。後年塾長となった鎌田栄吉は、そのとき福沢は失語症であった、と証言しています。

14 福沢にとって『時事新報』はビジネスであり、そこでの言論を消耗品と見なしていたふしがあります。自分名義の著作については自分で『福沢全集』(1898年)を作ってしまったので、あとの社説が残るとは思っていなかったのでしょう。げんに、『時事新報』を除いて、当時の生の言論はほとんど読むことはできなくなっています。

15 古井戸さんの感想の最後の部分に同意します。今までの研究は想像を絶したものだったのです。
by 平山 洋 (2006-04-14 14:13) 

古井戸

回答ありがとう御座います。
今週末は、<猫の手ほしさ>の多忙さにつき、その後で読ませて頂きます。

最後の点だけ気になりますので(そしてここが一番重要とおもっています)、明確にしておきたく思います。
##

> 15 古井戸さんの感想の最後の部分に同意します。今までの研究は想像を絶したものだったのです

ここだけにとりあえずコメントします。わたしのこの最後の部分というのは、次の部分から読んで頂かなくてはなりません。

> もし、時事新報から福澤がまったく手を引き、国民もそれを承知していたのなら、つまり、時事新報社説と 福澤の思想とは 全く関係ない、と国民が理解していたのであれば、 すくなくとも 当時の読者にとって、偽造もへったくれもありません。 社説と 福澤は 無関係であり、読者もソレを承知していた、ということです。

  しかし、そうならば、福澤離脱、ということは一大事件であり、国民は誰しも知っているはずです、なのに、福澤全集に 福澤が時事新報を離脱して以降の論説を福澤執筆とのせるのは よっぽどどうかしています。石河もおかしいが、それ以上に代々の歴史家(といわず、一般国民が、それを問題としない(平川さんが書くまで)というのは、文字通り、想像を絶します。>

以上について、そのとおりだということでしょうか?

すなわち、
1 福沢は 時事新報からある時点で まったく縁がなくなった。
2 それを国民、読者は知っていた
3 石河も、もちろん、それを承知していた。
  すなわち、時事新報はある時点から 石河主筆、ということは、読者も福沢の 承知のことであった

もし、そのとおりなら、石河は福沢を偽装した、ということはあり得ませんがそれでよろしいのですね? すくなくとも 生前中は。

上記の<時事新報の 実態を知らず>、かつ、<全集だけを読んだもの> は
1  石河の書いたものを、 福沢の書いたものと理解した(だまされた)
2  福沢はある時点から時事新報から 離脱していており、読者もそれを承知していた、が、 全集読者はそういう事実を知らなかった。

これは 「福沢諭吉の真実」で 平山さんがのべらてていないことだとおもいますがどうでしょうか?

私の考え:
しかし、石河がいかに大胆とはいえ、読者のほとんどが、社説を執筆したのは石河である、とわかっていながら、それを全集版にのせたとき 石河主筆、と<偽造>するのはかなりむりがある、とおいます。

事実は、
時事新報は 福沢が関与していた、と国民は思っていたのでしょう?最後の最後まで。 だからこそ、 <偽造> ということがありえた。
しかし、福沢は<偽造>をみのがした。
 
私の考え: 偽造とは福沢は思わなかった。おのれの考えも同じだ、と考えた。
石河真筆を 福沢真筆、と言ったのなら、石河に罪はありますが、
もし 
● 石河の社説 = 福沢が承認

ということであるならば、時事新報社説 =福沢・石河の思想、
と読めば 全集読者は騙されたことにはならない。
  唯一の問題は、実際に草稿を書いたのは石河か、福沢本人か、ということになります。 これはたいした問題ではないと私は考えます。
(平山さんは大きな問題とかんがえるのかもしれないが。これは価値認定の問題であり、かつ重要性は非常に落ちます。二人の言いたいことは同じ、どっちが寄稿する?というだけのハナシです)

したがって、 

1 時事新報に石河が執筆した当時、石河の考えと と 福沢の考えが<大きく>異なるということ。
2 かつ、それほど 大きく異なるのであるにかかわらず、社説として掲載することを福沢はなぜ承諾したのか。 きみそれは違うだろう?といったのか、いわなかったのか? 読んだのに言わないのならば、おれも同じ考えだよ、石河君!ということではないですか? 自然、に考えれば。
3 <大きく異なる> ということを 読者は奇異に思わなかったのはなぜか
  (わたしは、似たり寄ったりだから、当然奇異に思わなかったと想定します)

を平山さんに説明して頂かなくてはなりません。

上記の 平山さんの回答の中ですでに此に回答されている可能性があるのでとりあえず、疑問点を再提出しておくにとどめます。

わたしが、全集問題は 大きな問題となり得ない、と考えるのは理由は上記のとおりです。(石河の考え ニアリイコール 福沢の考え)
by 古井戸 (2006-04-14 15:05) 

平山 洋

1 石河の考えと福沢の考えが同じだ、などと称しているのは、石河だけです。同世代の社説記者(論説委員)たちはそうは見ておりません。

2『福翁自伝』にも、「新聞紙のことも若い者に譲り渡してだんだん遠くなって、紙上の論説なども石河幹明、北川礼弼、堀江帰一などがもっぱら執筆」、とあります。社説は三人の輪番で書かれていた、ということでしょう。石河はそのうち自分が執筆した分を「時事新報論集」に収めた、と私は解釈しています。

3 社説が紙面に掲載されてから、それが『続全集』(1933年)に収められるまでに約40年の歳月が流れています。19世紀の読者は福沢が引退したことに気づいていたとしても、20世紀の読者は、石河の論説を福沢の思想だと受け取ってしまうことは、十分にありうることです。読者といっても同じ人々ではなかったのです。

4 考えが違うなら、なぜ石河を罷免しなかったのか。そのことについては、拙著179ページ以降をお読みください。時事新報社における福沢の権力は全能ではなく、社員たちに抗われてはどうしようもなかった、と想像します。また、新聞人のステイタスは今日よりもはるかに低く、論説担当として実力のある人物にはなかなか来てもらえなかった、ということが後の石河の権勢につながった、と考えております。
by 平山 洋 (2006-04-14 15:59) 

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