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福沢諭吉の真実 その2 平山洋さんの回答 と 質疑 [福澤諭吉]

平山さんから早速の回答があったので謝意と共に私のコメントを追記します。番号が振ってあるのが平山さんの回答(前記事のコメントを、再掲するものです。抜粋などせず、全文をかかげ私質問があるばあいは追記します。 
なお、前振りとして、平山さんの前回のコメントにあった日清戦争の起原について違和があるので勝手ながら論じておきたい。
まず、日清戦争はおおまかにいえば、清国と日本による韓国の奪い合いである。統治権をどちらが獲得するか。もちろん韓国は長く清国を宗主国としているし、日本はその古い宗主=属国関係をこわしたい、とおもっている。手っ取り早く言えば、清国勢力を戦争により排除したい。。。その口実を政府は求めていた。だから、降ってわいたような戦争でもなく、日本がそのきっかけを血眼になって探していた、というのが正しい。
陸奥宗光は、「曲を我に負わざる限りはいかなる手段にても執り、開戦の口実を作るべし」と、出先の公使館に内訓を与えて、戦争の正当性を獲得した上での開戦を求めていた。
福沢がこの動きを知らないわけはなく、その要請に応えて、時事新報94/7/29の論説「文明開化の進歩を謀るものとその進歩を妨げんとするものとの戦い」と位置づける。当時、国民はそれほど国外における戦争を指示していたないようだ(意義、がわからなかった)。しかし、福沢による 文明対野蛮、という ベクトルの変更 により 国内の開戦に対する世論が形成された。。という考え、わたしはいま、これが実態であろうとかんがえています。

で、平山さんのコメントをみてみた。
####

いやあ、多岐にわたる膨大なご質問ですね。

ポイントだけを述べます。

>1 社説は一貫して無署名でした。「我輩」という人物が時事的な意見を述べる、という体裁ですが、それが誰であるかは分かりません。つまり、法人としての『時事新報』の意見です。それは全ての新聞社説についていえることです。

了解です。

ここでの問題は、
1) この社説を読む人は、社説を福沢の意見として読むか、どうか、ということと、
2) 福沢は、この社説を校閲しなかったか
3) 社説に対する最終責任というのはだれがとったのか?福沢ではないのか?
  たとえば、時事新報であなたはこう述べたではないか、と福沢に問うものがあったばあい、
福沢は、あれはオレが書いたんじゃない、と逃げられますか?

> 2 1882年の『時事大勢論』から1893年の『実業論』までは、社説欄に連載された論説が、「福沢諭吉立案・主筆筆記」という形で単行本化されました。現行版『全集』の第五巻と第六巻に収められている著作です。

了解です
現在の朝日新聞について、たとえば、天声人語のようなコラムは執筆者作品として単行本化されていますが、社説は執筆者が誰かは不明で(知る人ぞ知る、のだろうが)、単行本化はないようです。明治当時はそういう習慣があったのですかね。。兆民などの社説も、岩波文庫に一部、載っていますが。。(おそらく全集には完全収録している。。)

> 3 1882年から93年までの11年間に社説欄掲載後単行本化された著作は全部で16冊、掲載日数は合計で175日分です。11年で約3500号ですので、社説総数のうち約5%が福沢名で出版されたということです。

了解です。

> 4 94年以降、社説欄に掲載された論説が福沢名で出版されることはありませんでした。97年の『福翁百話』からは、社説欄とは別の特別な掲載欄が設けられました。

了解です

> 5 福沢が亡くなるまでの総号数は、約6000号です。そのうち約1500編が現行版の「時事新報論集」に収められています(既単行本収録分は除く)。

了解です

> 6 福沢は『時事新報』のオーナーではありましたが、社長でも主筆でもありませんでした。奥付欄にもその名前は記されておりません。

了解です。
1の質問の繰り返しになりますが、社説は かりに福沢が書いたとしても 社の意見であり、福沢の意見とはみなされなかったということでしょうか?

> 7 読者が、社説欄の論説を、福沢の意見として受け取っていたかどうかは、分かりません。

これは大きな問題ではないでしょうか?一般人はともかく、福沢の弟子を自認するひとは多くいたはずだし、明治の知識人なら社説を読んで、これが福沢さんの考えか、と思ったのではないのですか? 

8 私が、石河は福沢の名を騙った、と書いたのは、自分で執筆した論説(その証拠もありますし、石河自身そのように述べています)を、『福沢全集』の「時事新報論集」に収めているからです。

これは前便に書いたとおりです。
おれが執筆した、といったのなら騙ったことになるでしょう。
しかし、ケネディ大統領の演説草稿を書いた人間が、ケネディ全集に黙って 演説を収めるのは自然であり、当然です。ケネディも手を加えたし、ケネディの方針に沿わない内容を許すわけもない。同様に、時事新報(福沢がオーナ)、というものが 福沢の意見を反映したものか、そして、福沢もその意見を了承しなければ 新報にのせられない、というのであれば、全集に載せるのは当然でしょう。石河執筆であっても。 執筆者が誰か、というのは社説の場合は二の次、とおもいます。そのうえで、真筆は誰か、という事実を 全集の注意書きとかで示せばいいのであり、これを石河が怠った、のうのが罪である、と平川さんはおっしゃっている、と私は認識している。
 社説の内容について、初期には福沢が手を入れた、と書いておられます(平川氏著書)。
 後期にはどうだったのでしょうか。(おそらく不明)
 
9 遠山茂樹・服部之総両氏は、石河自らの、1892年以降の論説はほとんど自分で書いた(拙著75頁)、という『続福沢全集』(1933年)の注意書きを無視して、それらを福沢自身の思想と見なす、という決定的な間違いをしています。

 どうして間違いといえますか?

1) 「執筆は石河が行った、それは、俺=福沢の思想ででもある」
2) 「執筆は石河が行った。俺=福沢の意見とは全然違う」
   2)であることを証明しなければ、社説を福澤の筆になる、といわなくても福沢の思想と考えてさほど不自然を感じません。
  ケネディの例と同じでしょう。

> 10 石河執筆の論説に福沢が関与した証拠は、石河自身の証言を除いてほとんどありません。

了承です。

> 11 遠山・服部両氏が述べる福沢のアジア観は、完全に石河の『福沢諭吉伝』第三巻(1932年)に依拠しています。そこで使用されている多くの論説は、井田メソッドによれば、石河が執筆したものでした(「日清の戦争は文野の戦争なり」「日本臣民の覚悟」も)。

  執筆者がどうであるかということは、どうでもいいことではないのでしょうか?
これは 平山さん自身が著書で、述べておいででしょう?たとえば、脱亜論も石河執筆であってもちっともかまわいわけです。 福沢が追認した、のであれば。 そもそも、自分と全く思想のことなる意見を社説として載せる、ということがあり得た、のでしょうか? 非常に不自然に思います。

「日清の戦争は文野の戦争なり」
「日本臣民の覚悟」

この2つの重要とおもわれる説の趣意と 福沢の考えは異なる、という証拠は何でしょうか?
(最初に述べた、私の考えもこの社説のことを言っています)

> 12 福沢と日清戦争のかかわりは、始まったときに募金運動をしようとして頓挫し、戦争終結のときに喜んだ、というそれだけしか分かっていません。戦争について触れている書簡もごく少数です。

沈黙していた、ということでしょうか。平山さんの考えは。
石河の上記社説は読んでいたのでしょうか?知らなかったのでしょうか?
読んで黙認したのでしょうか?
書簡や通俗国権論?などの文面からみると、↑の社説などとの連続性を感じます。

> 13 1898年に福沢が脳卒中に倒れたのは確かに大事件でした。ただ、半年後には肉体的にかなり回復してきて、散歩の写真などが撮られています。しかし自身による文章は残っていないのです。後年塾長となった鎌田栄吉は、そのとき福沢は失語症であった、と証言しています。

了解しました。

> 14 福沢にとって『時事新報』はビジネスであり、そこでの言論を消耗品と見なしていたふしがあります。自分名義の著作については自分で『福沢全集』(1898年)を作ってしまったので、あとの社説が残るとは思っていなかったのでしょう。げんに、『時事新報』を除いて、当時の生の言論はほとんど読むことはできなくなっています。

了解しました。

> 15 古井戸さんの感想の最後の部分に同意します。今までの研究は想像を絶したものだったのです。

これについては、既に述べました。

いろいろ貴重なデータを揃えて頂き感謝します。

井田進也さんのテキストクリチクの成果は認めますが、たとえば、遠山「福沢諭吉」の結論が全面的に 石河執筆の社説にのみ寄っている、というのでなく、書簡や著作から多くの論拠を得ている限り、わたしは 日清戦争を起こしたがった政府(もちろん福沢はソレを知っていた)を支援したとみます。 

脱亜論、という社説は福沢のものと認めておられますが、これと、

「日清の戦争は文野の戦争なり」
「日本臣民の覚悟」

の2つは連続性がありませんか?相反しますか?

では、福沢は 朝鮮、と、清国と どのように付き合いたかったのでしょうか?
特に意見はなく、政府の方針に従う、ということでしょうか? そうであれば、全く魅力のない凡人になってしまいます。 ひいきの引き倒し、というのはこのことだとおもいます。平山さんが福沢にひいきしているとはおもいませんが。


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平山 洋

だいぶ問題点が絞られてきましたね。古井戸さんのお考えについては私としても誤解があり、そうだったのか、と教わることがありました。

以下、問題が指摘されている点について、番号順にお答えします。

1 社説は誰の意見か、について。

法人としての『時事新報』、あえていえば、論説に責任をもつ主筆の意見です。したがって、福沢は「おれのじゃない」と言うのは当然です。べつに逃げでも何でもなく、福沢はお金を出していただけなのです。創刊初日(1882年3月1日)「本紙発兌之趣旨」には、「其論説の如きは社員の筆硯に乏しからずと雖ども、特に福沢小幡両氏の立案を乞ひ、又其検閲を煩はすことなれば」とあります。つまり、大体は中上川彦次郎主筆を中心とする論説委員が書き、まれに福沢も立案する、ということです。創刊後の単行本が、「福沢立案、中上川筆記」として出されているのと一致します。単行本化されなかった論説については、『時事新報』の意見、としかいえないのです。

2 社説欄掲載後単行本化された著作について

法人の意見としての社説と個人の思想としての単行本の関係が未整理であったのは事実で、日清戦争後に特別の欄が作られたのもそのためなのでしょう。

6 時事新報と福沢の関係について

社説はあくまで社の意見とされていました。これは新聞紙印行条例(1871年)への措置で、福沢に直接累が及ばないようにするためでした。なにしろ「新聞紙若くは雑誌・雑報において人を教唆して罪を犯さしめたる者は、犯す者と同罪」とありましたから。では社説そのものが問題となったときはどうか、ですが、その場合は奥付に最初に書いてある人物が責任者とされました。

7 社説は福沢の意見かどうか

百何十年も前の新聞社説が誰の意見として受け取られていたか、分かるはずもないでしょう。『時事新報』は硬派の大新聞であり、論説委員は常時三名程度在籍していました。日刊紙なのですから編集会議は毎日開かれ、論説担当のほか、事件(社会面)担当、広告担当、財務担当らが、自分たちの意見を闘わせてゆくうちに、全体の論調が決まっていったのです。ちなみに、福沢が編集会議に出席していたという記録はないようです。

8 ケネディの演説と時事新報の社説は違いますよ

誰がスピーチライターであったにせよ、ケネディは一度はその原稿を読み、その様子がテレビで放送されることを知っていました。おそらく演説草稿には彼自身の承認サインも入っていたことでしょう。しかし、社説にはそのような印はいっさいないのです。現行版全集には、台湾で武装蜂起した原住民を抹殺せよ、と主張した「台湾の騒動」(1896年)が入っていますが、原稿も福沢の関与を示す書簡も何も残っていないのです。福沢に掲載の事前承認を取っていたか、それは分かりません。あくまで私の推測ですが、その日の社説を読んだ福沢はびっくり仰天したのではないか、と考えています。

拙著98頁以降にありますように、私は1892年春頃に、福沢は時事新報の運営から手を引いたと推測しています。当時の感覚では58歳というのはもう老人だったのです。

9 遠山さんや服部さんは、彼らが批判する論説が福沢が書いたものではない可能性があることについて、読者に一言でも注意を促したでしょうか?

『続全集』(1933年)には、「付記」という注意書きが入っているのです(拙著75頁参照)。この「付記」は、現行版『全集』(1958~1964年)では削除されています。したがって、60年代以降に研究を開始した人々が誤解したことは、しかたがなかったと思います。

しかし、遠山・服部さんは「付記」のある『続全集』を使いながら、当然のようにそれらを福沢そのものと見なしています。が、そうすることは果たしてフェアなことなのででしょうか。福沢自身は一度たりとも自分の書いた論説であるとも、執筆を命じたとも証言していない膨大な量の文章を素材として使うことについて。

福沢が署名著作で述べていることは疑わなければ気のすまない人々にかぎって、なぜか石河の言うことは無条件で信じてしまうのです。安川寿之輔氏がそうでした。私はそうしたありかたを「石河への盲目的愛」と名づけました。

福沢の署名著作(演説・社説集)に『修業立志編』(1898年4月)というのがあります。そこには42編が収められていますが、そのうち9編を石河は大正版『福沢全集』の「時事論集」に採録していません。ところが、同じ「時事論集」には、石河が執筆した、と明記しているものが14編も含まれているのです(全体で224編)。

もし福沢と石河の意見が同じなら、石河はそのような操作をする必要などなかったでしょう。違うからこそ、『福沢諭吉伝』(1932年)の立論に不都合だと判断して、福沢直筆の論説を全集から排除したのです。

11 福沢と石河のアジア観は違います

古井戸さんが私の本に嫌悪感を抱かれたのは、何だか福沢の悪い部分を石河に擦り付けているように受け取られたからですね。「ヒトラー自身のユダヤ人抹殺命令は残存していないから、それはヒムラー親衛隊長官の犯罪だ」というような。いわゆる歴史修正主義の主張では、そうするのが常套手段です。

しかし、ヒトラーにはユダヤ人問題の最終的解決に関する演説が多数残されているのに、福沢には領土拡大を要求する演説も、中国人を蔑視する演説も残っていないのです。
逆に、日清戦争後の国内に蔓延した中国人蔑視を厳しく戒める演説(全集19巻736頁)と、その演説をもとにしたらしい社説「シナ人親しむべし」(16巻286頁)という、その時期としては非常にまれな推定カテゴリーⅠ(直筆)の社説があるのです。

私が、都合の悪い社説を偽者、都合のいいものを本物とすることで、福沢の弁護をしているのだとしたら、文体判定として、「朝鮮独立党の処刑」「脱亜論」「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」(いずれも1885年発表)が、直筆とされている理由の説明がつかないでしょう。

これらは、「日本臣民の覚悟」「日清の戦争は文野の戦争なり」(いずれも1894年発表)のアジア観とはまったく違います。1885年の社説で批判されているのは清国と朝鮮国の政府であって、その人民ではありません。あれでは人民がかわいそうだ、と言っているのです。1894年のものには、残念ながら中国や朝鮮の人々を低く見る要素が含まれているように感ぜられます。

つまり、福沢と石河には、日本人の民族性についての評価に違いがあるのです。石河は日本民族の優越性を疑うことなく主張するのに、福沢の署名論説で、日本人がとりわけ優秀だ、などというものを見たことがありません。地上の人間など大差が無く、文明について目を開かれた指導者さえ出れば、どこででも近代化は可能だ、というのが彼の考えでした。楠公権助論などに見られる日本史軽視の態度は、時の民族派を憤激させました。

それに、そもそも1885年のものは、アジアから手を引くべきだ、という主張なのに対して、1894年のものは、どんどん行け、というちょうど逆のベクトルをもっているではないですか。

12 石河の社説を読んでいたかどうか、について。

もちろん読んでいた、と考えます。「俺の考えとはちょいと違うが、戦争に勝つためには仕方がない」と思ったでしょう。黙認あたりが適当かかもしれません。とはいえ、似た考えならその人の思想になるのですか?

私なら、「日本臣民の覚悟」や「日清の戦争は文野の戦争なり」と、同じ時期の『国民新聞』(蘇峰主宰)の社説の類似性に目が行きます。当時時事新報社と国民新聞社は銀座でワンブロックしか離れていないところに建っていました。蘇峰と同年代の石河は、蘇峰に密かにライバル心を燃やしていたのではないか、と私は考えています。

最後に再び遠山茂樹氏の『福沢諭吉』について

この著作はかなり詳細に読んだつもりですが、「書簡や著作」から多くの論拠を得ているというのは本当でしょうか。戦争に勝って喜んだ山口宛書簡については承知しています。時期は下関条約会議より前ですから、まだ台湾の領有は決まっていません。

また、文中の「シナ・朝鮮も我文明の中に包羅せんとす」の「我文明」は、直前の「西洋流の文明」を受けていると解釈しております。

皮肉ではなく、福沢がアジアへの領土拡大を画策していた証拠となる書簡や著作とは具体的にどれなのか、知りたいのです。
by 平山 洋 (2006-04-17 16:06) 

ささき のぶひこ

福沢諭吉と小泉純一郎のゴール地点

慶応義塾創設者の福沢諭吉のゴール地点は、一万円札の肖像だ
2006年現在、税収の20年・1000兆円を越す「ムダづかい・横領」の計算単位となった

「ムダづかい」とは、ムダな大型公共事業、関係法人への補助金、天下り高級官僚などの関係費だ
「横領」には、防衛庁・防衛施設庁など中央官庁の官製談合などが含まれる

これらの「ムダづかい・横領」は、「年金・財政破綻の危機」として国民にのしかかっている
増税・社会福祉の切り下げの「改革」でカバーはできないから、福沢諭吉の増刷しかない

すると、諭吉の購買力は20分の1以下になる
増税があり、医療・介護サービスが切り下げられ、その上に年金の価値が20分の1以下となるのだ

エネルギーと食料の輸入もままならなくなる
円が下落するからだ

これが戦後60年の政治の現状だ
これでは生きてゆけないから、国民は政治を変えざるをえない

「日本共産党対策」で、3分の1以下の得票で過半数の議席をとる小選挙区制ができている
ことは、重大だ

この状態から目を外にそらせることが必要だ
「拉致問題」「テポドン」大歓迎だ

「テロ」「大量破壊兵器」をおさえるために、抑止力の維持強化が必要だ
「世界の中の日米安保」のために、憲法9条を改正しろ

それは、アメリカの要求だけではない
与党.野党の一部の生き残り策だ.教育基本法もかえなければ片手落ちだ

小泉潤一郎は、9月が任期だ
最後のゴールが、特別機でエルビス・プレスリーの生家訪問だ

まったくノンキなものだ
(2006年6月29日)
by ささき のぶひこ (2006-06-30 21:03) 

ささき のぶひこ

「学問のすすめ」は、どのように「略奪戦争」をすすめたか?


「学問のすすめ」は、「『天は人の上に人を造(つく)らず人の下に人を造らず』と言えり」ではじまっています.
最初の句は、「アメリカ独立宣言」からとったものです.

福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち1835~1901)は、下級武士の次男として生まれ、オランダ語・英語を勉強して、知識人として身を立てました.「学問のすすめ」を書いたのは、1872年(明治4年)です.

「学問のすすめ」には、つづいて、「人は生まれながらにし て貴賎貧富の別なし.ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」とあります.

「人は、生まれたときには格差がないが、教育により格差ができる」というのです.
諭吉の2006年の後輩・小泉首相は、国会で格差は「ない」とも「あった方がよい」ともいっています.

諭吉は、「アメリカ独立宣言」(1776年)を最初に日本語にしました(1873年).
アメリカ独立宣言は、フランス革命(1789年)や共産党宣言(1848年)にも影響を与えました.

その諭吉が、新聞・時事新報の経営に乗り出して、もうけ第一主義をとりました.
その結果、一番「もうかる」のが、侵略戦争と植民地支配だという結論になったのです.

1884年、朝鮮半島最後の王朝・李氏朝鮮(りしちょうせん、1392年~1910年)で、政変劇がありました.
日本は武器を送り、これに干渉しました.このとき、諭吉の新聞・時事新報は主張していました.

「日本のめざす当面の敵は、朝鮮ではない. 支那(しな:中国のこと)だ.まず、兵を京城(ソウルの旧称)に送り、支那兵(しな・へい:中国軍のこと)をみなごろしにする. 日本軍は海と陸から支那に進入し、ただちに北京をおとしいれる. 成功は疑いない.

もし、支那と戦って勝てなければ、日本の独立は維持できない. 勝てば、『東洋のリーダー』として、永く認められるだろう. 北京に進む軍で死んでもよい. 私の財産はすべて軍費に提供する」(慶応義塾編・福沢諭吉全集第10巻159ページ以降.文語体を意訳)

諭吉の慶応の後輩・小泉首相は「世界の中の日米同盟」で、北京をめざすのだろうか? それとも、ミュージック・ボックスで満足するのだろうか?
(2006年6月30日)
by ささき のぶひこ (2006-06-30 21:06) 

古井戸

>「人は、生まれたときには格差がないが、教育により格差ができる」というのです.諭吉の2006年の後輩・小泉首相は、国会で格差は「ない」とも「あった方がよい」ともいっています.
諭吉は、「アメリカ独立宣言」(1776年)を最初に日本語にしました(1873年).
アメリカ独立宣言は、フランス革命(1789年)や共産党宣言(1848年)にも影響を与えました.

学問のすすめ、は書き直しあるいは読み直しが必要ですね。
 フランス革命や独立宣言を生み出した国が、亜細亜に植民地を作ったり、奴隷を使っていました。
 150年前とは思考枠組みが変わっています。

主権者が国民であると認識されるに至った
資本主義が隆盛をきわめ、国民の生活が豊かになった
資本主義国同士の競争が熾烈になるとともに、国民の間の格差が問題になってきた。
低開発国と先進国の格差は埋まっていない。
社会主義国が滅びる原因となった非効率な官僚制、が資本主義国(日本、中国)で問題となっている。
消費は美徳か?を問い直す必要がある。。

このような問題を考えていく必要があると思っています。

 
by 古井戸 (2006-07-01 18:56) 

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