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競馬評論家による量子力学的翻訳論 [Language]

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 「物理学史によれば、電子が 波 と 粒子 という相いれない2つの性質を持っていることのパラドックスを解くために生まれた量子力学は、数式では記述できるのに、ふつうのことばにいいかえることができないという事態に陥った。隠された自然の法則を他人に理解できることばに「翻訳」するのが自然科学のことばであるなら、それができないことばとは、なになのか?若きハイゼンベルクは量子力学の祖であるボーアに質問する。

『もしも原子の構造が直感的な記述では、そんなに近づきがたく、あなたの言われるように、そもそもそれについての言葉を持ち合わせていないのならば、いったいわれわれはいつの日に原子を理解できるようになるのでしょうか?」 ボーアは一瞬、沈黙したがやがて言った。
「いやいやどうして、そう悲観的でもないよ。 われわれは、その時こそ、 ”理解する”という言葉の意味もはじめて同時に学ぶでしょうよ』」 (「部分と全体」Wハイゼンベルク、みすず書房)

。。。これは 1991年頃、朝日新聞夕刊、文芸時評の一節、担当は競馬評論家=高橋源一郎であった。会社からもどって夕刊を手にとって、この記事を読み出した私は、。。なにやら怪しき雲行きを感じ始めたのであります。

競馬評論家は続ける。。。
「ぼくたちは経験と類推によって言葉を使う。だからまったく新しい事件に遭遇した時にはなにもいえない。ことばがないからだ。でも、どんなことばも持ってこられないような真に「新しい事件」は滅多に起こらない。量子力学ではそれが起こったのだ。

『量子論は、われわれがある事柄を完全に理解することができるが、それにもかかわらずそれを語る場合には、描像とか比喩しか使えないことを知らされる一つの素晴らしい例だ。この場合、描像と比喩は本質的に古典的な概念であって、だから 波 や 粒子 もまた古典的な概念なのだ。それは正確には現実の世界には適合しないし、お互い同士は部分的には相補的な関係にあり、だから矛盾もしてもいる。それにもかかわらず現象を記述する際には普通の言葉の枠内にとどまらねばならないので、真の事実に近づくには、これらの描像によるしかないのだ』(ハイゼンベルク)

「ここでハイゼンベルクが言っているのは、量子力学で使う 波 や 粒子 は 日常でぼくたちが使っているものとは全然違い、他に適当なことばがないので仕方なく使っているということだ。かくして自然科学は自然なことばによる完全な記述を断念する」

そうか。。。そうであったか。。とワタクシは、しばし、呆然としたのでありました。

われわれが使う言葉は、われわれ個人個人が発明したものではない。我々が生まれたときにあたかも点から降ってきたように、あるいは力は得てきたように、ソコに既に大昔から居座っているように存在しているものである。自分の名前さえ、われわれがものごころついたときには、あたかも天が与えたように、与えられている。自分の自由になるものはなにもない(つまり、自分独自の名前付けなどできない。わたしは、ヒトビトが犬、とよんでいるものを 猫、といいますけんね!! という勝手を社会は許さない。つまり、社会は言語使用を個人に強いる暴力装置=権力、ともいえる)。

過去の人間の営みの結果として残された言葉から溢れるものが、ある一群のヒトビト(学会、業界、学生、やーさん、警察、マスコミ、芸能人。。)から生まれ(新語)、忘れ去られ(死語)たりする。しかし、特定の単語があまりに強烈な世界観を規制するものであればその支配や影響を覆すには数十年数百年の歴史が必要となる。その影響力の圏内にあれば上記のように、たとえば 波 とか 粒子 とかいうニュートン物理学の古典的概念を体現する言葉を、その制約を付帯条件として、切歯扼腕しながら~、新しい物理学にも、使い続けねばならない。

しかし。。以上は、高橋源一郎文芸時評の 前段、であります。
後段、があります。。。
日常の言葉で書けない場所に達した小説家がおり、作品がある。それがジェームスジョイス、フィネガンズウェイクである。これは夢を、語った作品だ。英語の作品ではない、世界60カ国の言葉を渾然一体混ぜ込んだ作品だ(もちろん、日本語も入り込んでいる)。この作品を通常の意味で、日本語に、翻訳できるだろうか?一つの言葉に三つも四つも五つも六つも七つも意味がある。英語版も膨大な解説書があって、始めて英語読者は読めるというしろもの。

高橋源一郎:
「日本語翻訳にも、本文の何倍に達する翻訳が必要となる。。こう考えるのが当たり前だが、この思考法は ニュートン的なのだ。 電子 が 波 であると同時に、粒子であるように、
ジョイスの フィネガンズ・ウェイク と
注が一つもない 日本語による フィネガンズウェイクが
  「同時に存在する」
このことがわかったとき、柳瀬尚紀の翻訳「フィネガンズウェイク」の成功は約束されていた。
「量子力学的」世界は、「量子力学的」手法によってのみ翻訳が可能だったのである」

この卓抜な翻訳論をふくむ朝日新聞文芸時評をのせるのは。。。
           高橋源一郎「文学じゃないかもしれない症候群」朝日文庫
である。この本には、そのほか、「正義について」という湾岸戦争反対のメッセージも:
   「。。。わたしは「日本国憲法」というものにほんとうはほとんど関心がないのです。わたしは関心がないものについて、署名をし、擁護の意思を表明したいと思ったのです」

高橋源一郎は、イラク戦争開戦時にも、痛烈で、軽妙な反戦メッセージを朝日夕刊にのせていた。

競馬評論家も棄てたもんじゃないの、どすえ。

追記: 本屋で、文庫本を立ち読む方、p141~p145 「翻訳の量子力学」です。
         くれぐれも、ちぎって持って返ったりしないように。
      


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