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オレ様化する子どもたち by 諏訪哲二 (中公新書ラクレ) [Education]


このブログにコメントを寄せてもらっているアルマジロさん http://sonlastres.cocolog-nifty.com/blog/ からの推薦本。
アマゾンマーケットプレイスから今日届いた。
バラバラながめたのだが ウッと のどが詰まるような記述多し。

諏訪さんは高校の教師を長く務め、現在 「プロ教師の会」(プロ、は余計じゃとおもうけど。。アマ教師ってのあるか?)のリーダー。もう一人のリーダー河上は濃すぎて臭すぎて、敬遠していたが(諏訪さんも濃い)。

諏訪の主張:
1 生徒のオレ様化(オトナと対等と信じ、他人を気に掛けなくなった)の原因は学校に近代化原理をもちこんだのが原因だ
2 教育(教え、教えられる)は 交換関係(市場原理) ではない。主従関係だ(というか、学校は共同体だ)。

この原理を軸に、現場経験から抽出したさまざまなパワフルな記述に出会う。

p212 
「教師をやっていてずっと考えていたのは「近代とは何か」ということである。」

p230 個性化と社会化、について
「個が自立する前に個を超える「普遍的なるもの」に出会う必要があるし、そういう「普遍的なるもの」によって「去勢」されなけば、「個」は自立しようがない。俗に「個性」を大事にしないと「個性」が潰されてしまうと危惧する人が日本には多いが、市民形成(社会化)のプロセスで潰されてしまうような「個性」は潰されるべきである。そういうレベルの「個性」を潰すために「社会化」はなされるのである。「社会化」されているあいだになくなってしまうようなものは「個性」ではない。まさに「個性」が「個性」でありうるために「社会化」が必要なのである。「個性」は育てられたり教育されるものではない」
この文章など本書でもっともパワフルな宣言のひとつ、とおもう。

200ページの新書だが、前半で著者の現状認識、後半は宮台真司、上野千鶴子、村上龍などの教育論を批評している。宮台のところしかまだ読んでいないが、著者はよくみかける(たとえば、古井戸ちゃん)一方的断罪、などをしていない。非常にフェアに批評している。 
(deschooling を称揚した、イヴァンイリイチ、を論じて欲しかったね)。
 

時間不足で、突っ込みのある批評が今できないが、とりあえず、ガッツある現場教師からのこの報告を無視して教育論(小中高)は論じられない。 対決してみたい。

この本を読みながら、この本は 決して 子どもたちのことを論じているのではない、近代にあって 社会人、というものはいかにできあがっていくか、を絶えずパラレルに考えないといけないと感じた。つまり、教育の不十分なのは子どもたち(だけ)ではなく、 いまの オトナ なのだよ!!!!
  つまり、オレ様化、他人のことなどシッタこっちゃない。。この原理、現在の社会の原理でやんしょーが?  わたしがこどもなら、諏訪にこう、反論するだろう。

いったい、教育とはなんだろうか?

赤ん坊は 乳を吸う力、泣く力、を得たのち、母親の体外に出る(第一次社会化)。
 胎内の<教育 Nourishment> は一方的である。

近代の資本主義経済社会に 巣立つために その準備期間は一種の胎内教育に相当するのであり一方的でかまわない、という考えもあろう。 

これは 現代の人間が遭遇した、回答のない問い、Unanswered Questions である。
自問自答し、試行錯誤しなくてはならない。
とりあえず私の回答は、学校にある程度の民主主義をもちこまなければならない。
あるいは、一方通行的な教育になるけれども、なぜそうなるかを、子供らに理解させる必要がある。様々な方法があろう。これを突破すれば社会化は完了したようなものだ。(国会議員なども社会化されていないのがゴロゴロいるからね。このプログラムに国会議員も参加させよう)。

子供らに子供らに分かる言語で 教育課程はいかにあるべきか、をさとらせ、相互承認のもとで(諏訪の好きな言葉で言えば)共同体、としての 学校を 演じるのである。教師と生徒が。

追記1:
何年か前、TV番組で隠し撮り?カメラでとらえた、崩壊する学級をみた。授業中なのに平気でうろうろ歩き周る生徒たち、休憩時間と授業時間の区別などない。ショックであった。これはなんだろうか? これがあちこちの学校で起こっているという。しかし、ショックなのはこんな事実を知りながら、ユーシキシャ、らがなーんもショックも受けないで知らん顔を決め込んでいた、ということ(現在もニッポンの財政は溶けているのになーーーーーん、もせんもんね)。 しかしこれは、いまにはじまったことではもちろんない。わたしも学生時代、中学生塾の講師をしていたんだが、生徒がぎゃーぎゃー騒ぎまくって講義にならない。なかに数人まじめに聞こうとしている生徒はいる。経営者にキヤツラを止めさせろ!と談判したんだが、やってくれない(こっちも、塾収入と奨学金で生活してたから塾を辞めるわけにもいかない)。 資本主義社会の時代における 学校教育モデルは どう構築したら良かったか? 著者の言うように 共同体構築、といっても、校門を出たら 市場社会、校門を入ったら共同体社会、という切替がうまくいくのだろうか?それは不可能であることがすでに明らかになったのだろう? 家庭のなかも 市場社会にどっぷりつかっているのであり、著者のいうように 家庭=共同体、ではないのだ。。(共同体など、どこにも、存在しない、Nowhereなのだ)。それはニッポンだけのはなしではなく、後進国凡ての現象のハズである、グローバライゼーションは多かれ少なかれ(いずれ中国にも)起こってくる。 著者は、西欧に置いては、宗教(キリスト教)が共同体倫理を体現している。。というようなことをいう(たしかに、イスラム社会をみると 学校が溶ける。。というようなことは考えにくい)。 

ニッポンにおきましてわあ、忠君愛国うぉお、再度ぉ、称揚する必要があ、ありますよってえ、教育基本法にい、 愛国心うぉお、盛り込むのでありますぅ~♪

 馬鹿じゃの、われら。 これは子どもの問題じゃないんぞ。オトナのもんだいだろうが。賄賂、天下り、インサイダー、利権。てめえのカネモーケのことしか考えていない官僚ら。再教育が必要なのは、おまえらのほうじゃろが。

ニッポンにおきましてわあ、財界、官僚、国会議員の性能が低すぎ、しかも、給料が高すぎるとゆう、犯罪的事実にカンガみてえ、さらにわ、この馬鹿者どもを再教育、さらに抜本的制度見直しする必要を認識してぇ、「官僚国会議員等の待遇見直し及び再教育基本法」うぉお、可及的速やかに、立案、可決、執行いたしまするぅ~♪

えかろ。ついでに 大学のセンセ、も入れたどーじゃ?

内田樹による書評↓
http://blog.tatsuru.com/archives/000850.php


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咲良美月

ミクシイからきましたよ。

学級崩壊、私も塾ではじめてその状況を目の当たりにして、
「何じゃこりゃー!!!」と思ったのがテーマを決めるきっかけでした。

院試今年またあります…。
もう、不安で不安でしかたがないです…。
不安になる暇があったら勉強しろって話ですが。

本面白そうだったので、読んでみます。
by 咲良美月 (2006-05-01 03:44) 

古井戸

いらっしゃい。
この著者は多く本を書いています。
内田樹がもっといい書評を書いている(わたしにはワカラン部分があるけど)ようだけど。 でも、内田さんが、溶けた小学校や中学校の先生を旨く務められる、というもんでもないんですよね。

溶ける学級を、TVで見ましたが、まず、一学級に人数が多すぎます。
先生の授業以外の管理作業をバッサリ減らして、1学級、10人くらいにして(さまっていてもそうなりますね。私の田舎では、小学校、全校で20人とか。。になってます)
先生も開き直るしかないですね。
by 古井戸 (2006-05-01 10:45) 

咲良美月

読みましたよ☆

いろいろと、言いたいことはありますが、プロ教師の会の人たちの意見は、どうにも、教師の権威の主張が強いような気がしてしまいまして…。
俺たちは、こんなに一生懸命やっているのに、地域が悪い、親が悪い…のようなことがちょろっと出てきますよね。
一概にはいえませんが、最初に読んだときに、「うーん」とおもってしまったのを、覚えています。
ただ、現場の意見ってのは、やっぱり面白いですね。
by 咲良美月 (2006-05-20 21:01) 

古井戸

> 教師の権威の主張が強いような気がしてしまいまして…。
学校には、教師 - 生徒、という非対称の関係があり、民主主義はなじまない、というようなことをいっていませんでしたか? まかりまちがえば、戸塚ヨットスクールになります。戸塚を支持する石原慎チャンともよくなじむかも知れない。

柄谷行人は『世界共和国へ』(岩波新書)で、

交換は共同体同士でのみ行われるというマルクスに対して、家族の中にも交換がある、といっています。 親が子の面倒をみるのは 『贈与』であり、この場合、子どもは大きくなって親にお返しをするかどうかわからないが、少なくとも、『恩』を感じる、あるいは債務感をもつでしょう。それはここに一種の『交換』があることを意味しているのです、といっている。『互酬』とは、このように、むしろ交換とは見えないような交換です。p22

と、言っています。

著者は学校に 市場原理を持ち込むのはまずい、といっていませんでしたか?学校型の つまり、教師(サーバー) 対 生徒 (クライアント) という関係はとくべつ扱いしなければならないほど、特殊でもないと思います。 役割としての教師、と 生徒、を演じていると思えばいいのである(一種の演技、あるいはゲーム)、とおもうのだが。。。
by 古井戸 (2006-05-22 19:42) 

咲良美月

遅くなりました。
勉強を最近始めたばかりで、ことばが足りずにごめんなさい。

世の中がこんなに変わってきているんだぞ…で、子どもも変わってきたんだぞってそこまではわかるんですよ。
で、何に対しての違和感があったのかといえば、以前は「教師の権威」が強いのでは? としてしまいましたが、世の中変わっているのに、「教師は変わらなくてもいい」というように思えてしまったというところだと思います。
「役割としての教師、と 生徒、を演じていると思えばいいのである(一種の演技、あるいはゲーム)」ということにも納得は出来ます。ただ、世の中の変化…というのであれば、教師も多少は変化していく必要はあるのかな…と思ってしまったということです。
文章が下手ですみません。
by 咲良美月 (2006-06-21 15:15) 

古井戸

しばらくです。。
なんだか、忘れちゃいましたね。。この本の内容。
覚えているのは、著者は一種のカウンターパンチを食らわせているんですね。
 学校を 市場化することへの抵抗を試みている。学校には特殊な原理が働いている、と。 等価交換ではない、と。

しかしこれは間違いで、等価交換じゃなかろうか、とおもう。
最近(でもないか)はやりの、贈与。これは一種の交換でしょう?
そのことを、ゲームと私は言ったのだが。

なんだか抽象的になってしまった。
by 古井戸 (2006-06-22 18:28) 

咲良美月

なるほど。
わかったような気がします。

また、コメント書きに来ますね。
よろしくお願いします。
by 咲良美月 (2006-06-23 12:29) 

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