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竹内好メモ: 中江丑吉と北一輝 [history]

                                          

遠山茂樹「戦後の歴史学と歴史認識」(岩波)p79-80から引用:
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竹内好はこの ヨーロッパ=先進 と 東洋=後進、 日本=先進 と 中国=後進 という日本歴史学会の常識的意見をラジカルにひっくりかえし、次のように指摘した。
「日本は、近代への転回点において、ヨオロッパたいし決定的な列島意識をもった。(それは日本文化の優秀さがそうさせたのだ。)それから猛然としてヨオロッパを追いかけはじめた。自分がヨオロッパなること、よりよくヨオロッパになることが脱却の道であると観念された。つまり自分がドレイの主人になることでドレイから脱却しようとした。あらゆる解放の幻想がその運動からうまれている。」
「明治維新はたしかに革命であった。しかし同時に反革命でもあった。明治十年の革命の決定的な勝利は、反革命の方向での勝利であった。その勝利を内部から否定してゆく革命の力は、日本では非常に弱かった。弱かったのは、力の絶対量において弱かったというよりも、革命勢力そのものが反革命の方向に利用されていくような構造的弱さであった(ノーマン「日本における兵士と農民」参照)。辛亥革命も、革命=反革命という革命の性質は同じだ。しかしこれは革命の方向に発展する革命である。内部から否定する力がたえず湧き上がる革命である」(竹内:中国の近代と日本の近代)
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西川長夫はつぎのように言っているようだ。
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 福澤諭吉「脱亜論」について、それを転向としてではなく「文明論の概略」からの論理的帰結と主張している。わが国ではいまだに啓蒙主義者としての福澤像が支持されているようだが、啓蒙主義も非西欧に対しては、文明や文化の名において「野蛮」を断罪する植民地主義へと転じたことを忘れてはならない。西欧の文明概念が「文明化の使命」に見られるように、帝国主義的な植民地にいたったのと同様に、「文明概念を深く理解した福澤は、みずから脱亜論への道を準備したのである」
## 戦後思想の名著50(平凡社)から

間奏曲♪:
脱亜論について。。。平山洋「福澤諭吉の真実」(文春新書)は、西川のような見方から福澤を擁護しようとして、脱亜論的=福澤像は 福澤全集編集者が意図的にでっち上げたものだ!と叫んでいる。しかしいかに声を張り上げようとがんばっても「脱亜論」は福澤諭吉の「真筆」であることは間違いなかったらしい(残念、無念さがこみあげているような記述がおかしかった)。さらに平山は言わなくても良いのに 「脱亜論」が時事新報に無署名で掲載されたとき、当時の国民は誰もこの記事に注意を向けなかった、とこのことから何を帰結したいのかわからぬが、言っている。誰の注意もことさら喚起しないのはきわめてあり得ることだろう。すなわち、時事新報社説(東亜論)が掲載されとき、これに読者がことさら注目しなかった理由は、福澤が脱亜論者、中国侵略者論者であることは、当時の国民にとって「想定内」であり、多くの著作で、福澤本人が国民に顕示し続けていたからなのだ(書簡を読めばなおあきらか。日清戦争勃発の報に接し、生涯の歓び、と小躍りしている)。福澤による国民啓蒙の努力が実ったのであり、福澤(や平山)には慶賀すべき事態になっていた(脱亜DNAは平成まで生き延びている、というおめでたき仕儀にござる)、のである。これに目をつむりたい(諭吉が生きておれば余計なことするな!と一喝するだろう)平山のような慶応学者に、お役目ご苦労にござる!の暖かいヒトコトを送るのが人倫の道ってもんだろう。
間奏曲♪おわり。
   **おもひで: ↑を「福澤諭吉の真実」書評としてアマゾンに送ったんだが、ボツ、じゃった。

中江丑吉著「中国古代思想」を 竹内好はつぎのように評している。
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「高い峰が、あらゆる方向から、それぞれの形で眺められるように、ある学問が個別科学的に徹底すればするほど、その学問は個別性を超えて、真理追究の人間的情熱の普遍性のために、より深い感動を読者に与えるのが普通である。本書はそうした種類の書物の一つである。
「この書物を通じて、第一に感じられることは、体系への志向の激しい気迫である。私のような気の弱い物には、目くるめくほどの雄大な夢を、築いてはこわし、築いてはこわしている一人の人間の孤独さが行間ににじみ出ている。それはほとんど憑かれたひとの姿である。この気迫こそ、これまでの日本の学問、とくに中国関係の学問に欠けたものであって、それに比べれば、驚くべき博引さえも物の数ではない」
竹内はこの文章を次のように結ぶ。
「かれは、北一輝とならんで私には興味をそそる第一流の人物である」

竹内好の「北一輝」という短文から引用:
「日本ファシズムの指導者は数少なくないが、ともかく一つの理論体系をもち、その理論が現実に働きかけたという点では北がほとんど唯一の例外ではないかとおもう。。(略)。。。理論創造の能力において北に匹敵するものは、ほとんど一人もいないのである。」
「おびただしい日本人の中国研究のなかで、彼の「支那革命外史」は抜群であり、それに代用できるものが他にないから、この本は一度は読んでおかねばならぬ」
「彼は終始一貫、天皇機関説の信奉者であり、天皇教には転向しなかった」
以上。

昨日入手した鈴木正「中江丑吉の人間像」(風媒社、1970年)、現在読みかけだ。
本書巻末の年譜によると丑吉は、。。
兆民の子として、1889年大阪曾根崎に生まれ、1910年東京帝大法科に入学、1914年に中国に渡って以後死ぬまで中国で過ごす。死の直前、1942年、レントゲン写真を九大放射線科に送り、「望みあり」の診断にしたがい、北京を去って、大連経由で九大病院に入院、同年5月21日。8月3日、夕方6時5分死去、53歳。

中江丑吉は、資本論を通読すること3度、ヘーゲル精神現象学を2度、カントの「純粋理性批判」を繰り返し通読、とある。この学識をおのれの中国古代思想史研究に渾然させた。読書は丑吉が自身に課したAlbeitであった。

昨晩、ネットで 中江丑吉「中国古代政治思想」を注文。
「支那革命外史」(みすず)も持っているんだがその漢文崩しの文体に何度トライしても、ハジかれてしまう。竹内らに現代語訳しておいてもらいたかった。

追記4/9
中江丑吉 情報をネットで検索した:
http://www.yorozubp.com/0311/031123.htm
http://www10.ocn.ne.jp/~awjuno/sub32.html


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平山 洋

『福沢諭吉の真実』の作者です。

拙著をお取り上げくださり、ありがとうございます。

論説「脱亜論」は、当時の専制国家清国とその影響下にあった朝鮮国を批判する、すぐれた論説である、と考えております。

そこに侵略主義などは見出すことはできません。末尾にある「処分」という言葉は、当時は、「法律的に正当なありかたで対処する」というような意味でした。「琉球処分」や「秩禄処分」などがその用例です。

なお、下記URLをご参照くだされば幸いです。
http://blechmusik.xrea.jp/labs/fukuzawa/f03.html
by 平山 洋 (2006-04-13 10:09) 

古井戸

こんなつたないサイトにわざわざお越しいただき感謝します。
わたしは平山さんの著書を手に取るや、あちこちに批判の文言をつらねました(どこやらの有名サイトでのつたない一文は平山さんもあるいは読まれたかも知れません。yamabikoというハンドルネームを使いました)
 わたしは、千葉県印西市原山にすむ井上昇ともうします。

良い機会ですから、平山さんの御著書を再読し、わたしの批判したい論点を再度まとめます。その際には上記URLも参考にします。

注意しておきたいのは、脱亜論、という場合、その数百文字の短い論文のことに閉じて論じているのではありません。福澤のその前後の書物や書簡をあわせて 彼の アジアに対する態度、のことを論じているのです。これが気に入らない、というのであれば、 脱亜論 とよばず、脱亜主義、にいいかえればよいだけのはなし、大きな問題ではありません。まず一点注意しておきます。

いま御著書が手元にないので記憶に頼って書きます。

1 平山さんの論点は 時事新報の福澤真筆でない部分が全集に紛れ込んでいる(意図的に、あるいは非意図的に。平山さんは前者という)
 これは私などの手の及ばないところであり、了承せざるを得ません。
2 平山さんは今回も「侵略主義」とおっしゃって、侵略、とはいわない。まことに注意深い書き方です。 わたしなどが、論ずるより、福澤の富国強兵、文明論の概略の基本思想、がまっすぐ 中国侵略へつながった、というのは定説ではないのでしょうか? 倫理的に非難しようと言うのではなく、論理的な帰結ということです。 平山さんは中国「侵略」ではなく、なんだとおっしゃるのでしょうか? 
侵略はあった、けれども、侵略主義、というのはなかった?
   では、進出といいかえればいいのでしょうか? 進出主義といえば、福澤も有していた、ということでよろしいですね? それで結構だと思います。言葉の問題だから。

平山さんは引用しておられないが、福澤には 軍事的な海外進出をやるべし、という論文著書をすでに書いています。平山さん以上に用心深い福澤は、
  遠山茂樹のいう 「しかりといえども」 の論理で巧みに隠していますが。

御著書の おしまいのへんにあったとおもいますが、脱亜論を発表したおり国民はだれもそれが福澤の筆になるとは知らなかった、とおっしゃっています。
これはどういうことだろうか、と私は考えた。
1 論説を 福澤が書いたかあるいは時事新報社員が書いたか、読者は意識していなかった
2 脱亜論がかりに福澤以外が書いたかどうか、も意識していない。つまり、福澤が中国進出推進派であることは国民にとって周知の事実であるから、この論説はなにも新しいことを言っていない。
3 時事新報社説など誰も読まなかった

いずれにしても、書簡などで中国進出の一報を驚喜している、というのは事実であろうから、進出の意図がなかった、とは平山さんもおっしゃらないでしょう。
であれば、 侵略か、進出か、の差であり、平山さんは 「侵略の意図はなかった」と課題宣伝して、「進出の意図はなかった」とまで読者に誤解を与える可能性があります。 別の著書で、 福澤には 中国韓国への軍事進出の意図があった、と正しい情報を広める責任があるとおもいます。 また、後書きで、

福澤は近代市民主義者か
vs
福澤は侵略主義者か

という対立点を持ち出しておられますがこれは、上記の通り言葉の詐術です。
福澤は近代主義者であり、侵略主義(平井さんならあるいは進出主義)であった、
のです。
近代主義者=侵略主義 の等式が19世紀には世界の常識であった、福澤はそれに棹さした、ということです。これは フランス革命が悲劇でありふりかえってみれば近代化を早めた劇薬であった、のとおなじく、ニッポンの近代化にも劇薬であったというべきでしょう。福澤をわたしが非難しているのは、現在の視点から他にとるべき道が明治の日本になかったか、と言う観点から同時代人としての福澤を、あるいはわたし、われわれが、かりに(if) 明治時代にwarpしたらどういう政策により近代化を図るべきか、という観点からです。 福澤は遅れた帝国主義国家から出た知識人の一典型であり、われわれが超克すべきモデルのひとりとしてあります。現在、まさに、研究しなければならない人物です。そういう観点から、わたしは、平山さんにも 論じて頂きたく思います。
by 古井戸 (2006-04-13 12:11) 

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