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アーネスト・サトウの歳月 [history]

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サトウ(Ernest Satow)、23歳のころ


萩原延寿『遠い崖』を読み始めた。20年以上前、朝日新聞夕刊に連載されていたときから、拾い読みしていたのだが、いずれ書物になった時に読もう、とそれ以後ほかっていたのだ。この本は幕末から明治にかけて英国の日本領事館員、外交官として働いた英国人アーネスト・サトウが生涯書きついだ日記をひもときながら、歴史家萩原延寿がその後の史実、資料、サトウの書簡、萩原の史観を折り込みながら時代と当時の人物群像を描いた読み物である。サトウという人間、英国人の目に映った当時の日本人の言動、英国政府の政策とその命により動くサトウ(日記や書簡にも書けないことも多かろう)という官吏。それを解読する萩原。全14巻。最近、明治維新ものを読むことが多いので、図書館で借りてきたが。。英国人アーネスト・サトウ(1843-1929)とは予想以上の人物であった。



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遠い崖、は幕末から明治維新にかけて、最初英国領事館の通訳として働き、のち、その実力が認められて中国やシャムで外交官として働いたアーネスト・サトウが一応、主役である(あるいは、幕末維新をかけめぐった志士、か。あるいはニッポン、という国か)。

オックスフォードやケンブリッジという名門校の出身(外交官は彼らでほぼ独占されている)でないところからくる鬱屈も、彼の生き方に影響を与えているのじゃないか、。。というのは、鬱屈している私の見方だが。彼は、ペリーの『日本遠征記』やオールコックの書いた日本滞在記などを少年のころ読み、ニッポンに憧れた、という。しかし、大英帝国の少年が、極東の小国に本を読んだだけで、行きたい!と思うものだろうか?



彼が英国外務省の審査に受かって、英国サザンプトン港を発ったのは1861年11月4日。まだ19歳の青年である。真っ直ぐ日本に来る予定だったが、<狡猾な日本人にダマされないためには漢字くらいは覚えてこなくてはダメだ!>という前任者の建議により、途中中国の上海、北京で約半年、中国語と日本語の勉強を行った。当時、日英間の条約正文は英語でも日本語でもなく<中国語>だった。幕府官吏は中国語は使えた。英国外交官も漢字がわからないでは狡猾な幕府官僚にダマされてばかり、という苦い経験があった。サトウの語学勉強ぶりは半端ではない。かれは満州語もマスターした。文字どおり朝から晩まで、時間割通りに、中国語、日本語を勉強している(『一外交官の見た明治維新』によれば、サトウが中国滞在中に、日本から急便が届いた。なかに閣老直筆の文書が入っていたがこれを読める支那人は誰もいなかった!これでサトウは、支那語の理解が日本語を解することの早道、というのは嘘であることを悟り、直ちに北京を発って日本に向かった、とある)。もちろん、ラテン語フランス語など欧州語はマスターしている。老年(70歳)になっても古典文学を愛し(愛読書はダンテの神曲)、そのころトルストイの戦争と平和をロシア語で読むため1年くらいでロシア語をマスターもした。

日本の風物と文化も愛した。古事記を英訳し、琉球語やアイヌ語についての業績もあり、日本の学会で論文を発表している。

彼が上海を出発できたのは1862年9月2日。横浜に到着したのは、9月8日。生麦事件が起こるのは9月14日のことである。



サトウ(Ernest Satow)には日本人の妻がおり、二人の男の子もできた。長男は長じて米国のデンバーに渡った。次男はサトウの趣味を引き継いで植物学を専攻し、ロンドンに留学した。サトウは彼らと文通したが、萩原の本には、サトウの日本語による書簡を載せている。

サトウは妻と次男を置いて中国やタイで外交官生活を送った後ひとり故郷に戻るのだが(日本に永住しよう(小泉八雲のように。。。)という気はなかったのか?

次男は年老いた母をおいて好きな英国に長くいることはできない、とサトウに訴えている。


080319_0724~01夫妻.JPG 080319_0727~01夫妻.JPG  Satow 夫妻  (Wikipedia↓から)


サトウは幕末激動期を日本で過ごした。当時、ニッポンの幕藩体制は制度疲労があらゆる面で露出し、末期を迎えていた。薩摩や肥後は幕府の支配を離れて独立国のごとく振る舞い、強力な軍備を保持していた。フランスや英国、オランダは幕府とは別に各藩に深く食い込んで商売をしていた。幕府は一藩にすぎず、いずれ倒壊する、ということを見越しての行動である。


生麦事件とは、神奈川県生麦において、薩摩藩の行列の前を横切った英国人を薩摩武士が斬り殺した<無礼打ち>、という事件である。たまたま馬で遠出した横浜租界地の英国商会(ジェームスマディソン)のリチャードソンが被害にあった。これがもとで、賠償を求める英国と対応の悪い薩摩藩の間で薩英戦争がおこる。この事件に際して、サトウの態度の落ち着きぶりは、なんだろうか?サトウは武士の切腹を残酷で野蛮な行為、と断罪するような人物ではない(先日、NHK TVでドナルドキーンが語っていた)。大名行列の前を横切る、ということは当時の日本にあってはあり得ぬ行為であった。それを理解せずに、日本で商売しているのか?在地研究が足りない、と着任したばかりの若いサトウは商社員を<切って捨てたのか>?





無口と言われる西郷吉之助も、サトウの前ではおのれの描いている日本の将来像を語り尽くしたようである。西郷の、鬱屈したモノに対する、サトウの共感が二人を引きつけ合ったのだろうか。

『遠い崖』第13巻は「西南戦争」。明治十年、たまたま、直前に休暇で長く英国に戻っていたサトウは政情視察を兼ねて、鹿児島にいたサトウの友人でもある医師ウィリスのもとを訪れた(ウィリスは留守だった)。ここで、薩摩が、反乱準備を着々と備えていることにショックを受ける。サトウがウィリス宅にいたとき、西郷が訪ねてくる。2月15日の熊本に向けて進軍開始の一週間前である。西郷は何をしゃべりに来たのか?型どおりの挨拶だけだったのか?ウィリス宅を訪れた西郷は常時、兵士二十人に取り巻かれていたという。起つことに熱心でなかった西郷が余計なことをしゃべらないか、監視されてでもいるかのようであった、という。このとき、サトウと西郷だけの会談が実現していたら、ふたりはなにを語らったのだろうか?過ぎた10年の歳月を、か。将来の日本を、か。


080316_1725~01.JPG080316_1724~01.JPG 西郷&Satow


萩原延寿は、第一巻「序章」をつぎのように締めくくる。

「。。文久二年(1962)から明治元年(1968)にかけて、つまり、19歳から25歳に書けての青春の日々に、サトウが幕末期の日本で味わった政治的な体験は、あたかも「強烈な酒」に似ていて、やがてサトウにつぎのような感慨をいだかせるほどのものであった。
 明治3年(1970)6月14日、賜暇でロンドンに帰っていたサトウから、日本にのこっていたアストン(サトウの友人、日本歴史文化に関する多数の著述がある)に送られた手紙の一節である。
『つくづく日本がいやになった(Disgust with Japan)というあなたの気持ちに、わたしはまったく同感です。わたしも日本をはなれる1年ほどまえから、自分の仕事にたいする興味をすっかり失っていました。これからも日本人は進歩をつづけてゆくでしょうが、われわれ外国人はただ退場してゆくよりほかはないとおもいます。』

サトウが第一回の賜暇で帰国するため、日本をはなれたのが、明治二年(1969)の初頭であることを考えると、サトウが「自分の仕事に対する興味」を失ったのは、まさに明治新政府が成立したころ、ということになるではないか。

「つくづく日本がいやになった」ということばのふくむさまざまな意味を解明していくことは、いずれ本稿でおこなわなければならないが、そこにサトウが幕末期の日本で味わった「強烈な酒」の問題が登場してくることは、まずまちがいないし、チェンバレンの語った「植民地生活で身に付いた錆」の問題も、おそらく顔をのぞかせてくるにちがいない」


一筋縄ではいかない、サトウの魅力がある。



薩英戦争の直後、英国は、幕府を見限り、薩摩藩に財政支援をおこなう。薩摩も、英国から軍艦を購入する。薩摩への英艦隊による攻撃は本国政府の了解を得たものだろうか?そうではあるまい。鹿児島市街の大半が焼失し、英国政府はこれを英艦隊の暴挙として非難、譴責している。


薩英戦争の翌年には攘夷の先鋒であった長州藩を米英仏欄の艦船が砲撃した。
サトウ『一外交官のみた明治維新』(岩波文庫)で、サトウはこう言っている。「日本国内の紛争には頓着なく、いかなる妨害を排除しても条約を励行し、通商を続行しようとする当方(英国)の決意を日本国民に納得させるには、この好戦的な長州藩を徹底的に屈服させて、その攻撃手段を永久に破壊するほかはない」 連合国の圧倒的な軍事力は、薩長の攘夷論を一変させた。以後、組織化された薩長の武力による倒幕戦争が頻発することになる。

サトウ(すなわち当時の西欧先進国と、その官僚)が当時の日本を、欧州の先進国並に扱っていないことはアキラかである。民間商社の先兵となって販路拡大を行うのが政府・軍隊の仕事、という欧州パラダイムにドップリ浸かっているのである。


サトウは当時まだ外交官ではなく、一段ランクの低い領事事務(サトウの場合は通訳が主体)をまかされている。しかし、日本語の読み書きができ、当時の、だけでなく古来からの日本の風物や文化に対する興味と愛情はニッポン人を越えるものがある。半世紀あとに日本にふらりと訪れたラフカディヲハーンを想起させるほどのモノである。


サトウは幕府や各藩の有力な人物にこまめに会っている。暇を見つけては日本の各地を旅行している。もちろん、当時の英国は世界を圧する大帝国。ニッポンの横浜に軍事基地を置いて3千人の常備兵を配備し、港には軍艦を停めていた。このような軍備による隠然たる威圧、それに、大国である中国をも陥落させたという<実績>は幕府や諸藩をビビらせていた。その大帝国の駐在員という背景がなければ、サトウがその威をかりたかどうかとは関係なく、幕府官僚や、諸藩の武士ともこれほどの交流はできなかったろう。しかし大帝国の外交官、という肩書きとは別に、彼の力量と仕事の熱心さ、人柄、ニッポンに対する愛情(もちろん日本語も読み書きできたし、日本の文物に対する研究発表をに日本の学会でやった)は、当時誰からも好感をもたれ、信頼されたようである。


最近で言えば、サトウに対比できるのは、ドナルドキーンであろうか。キーンの『明治天皇』を読み始めたがわたしはこの本を誤解していた。明治天皇を奉る本でもなければ、天皇制を論じた本でもない。近代の日本がいかにして成立したか、を論じている。

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ハーン、サトウ、キーン、等に共通するのは民族を越えて、人間や文化を愛し、理解する能力に優れている、ということである。こういう人は時代を越えた存在になりうる。



                               
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Sir Ernest Mason Satow@1903 London


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サトウの故郷の小村。86歳で世を去るまでの22年をここで過ごした。オタリー・セント・メリー(Ottery St. Mary@Devonshire)



Ernest Mason Satow@Wikipedia


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コメント 7

みな

私は、この本はまだ読んで無いけど感想楽しみにしてます。
西郷さんが、監視されてる風だったって言うのはやっぱしね...と思いました。
林有造が、訪ねて言った時も微妙だったもん。
by みな (2008-03-16 19:11) 

whitered

勉強になりました。幕末から明治にかけての日本は、まさに「強烈な酒」でも飲まされたような時代だったのですね。日本人でも訳が分からないところがあるから、理屈で理解しようとしてもだめですね。先日「美の巨人」を見てて、コンドルという建築家が、日本画家の河鍋暁?の弟子になって、暁英という名前をもらったとかやっていましたが、日本の文化に接した人は多くいたのですね。そういう意味でも、この時代は面白いのかもしれません。
by whitered (2008-03-17 17:10) 

長居の桜

とても稚拙な小生のブログに訪問頂き、恐縮です。
まだ、3巻の途中なのですが、国内の混乱と対外的な外交と複雑な時代関係が凝縮していて、大変興味深い本です。
薩英戦争が、たった数日で終了していたとは知りませんでしたし、英国側も戦争を望んでいなかったとか、日本に対して上陸戦なんて兵力不利で出来なかったとか、新発見が盛りだくさんです。
この本を読み終わるのが楽しみです。
by 長居の桜 (2008-03-17 21:26) 

古井戸

薩英戦争のおり、丁度、元寇のように、嵐で軍艦からの発砲は標的に上手く当たらなかったようですね。快晴なら鹿児島はもっとコテンパンにやられていたでしょう。鹿児島湾岸に取り付けた薩摩の砲台は飛距離一キロ、制度も悪かったらしい。それでも運良く、艦船に命中したようだ(当たる方の位置取りが悪いな)。

幕末維新、あるいは、明治、のおもしろさといったらありませんね。つくづくそう思います。(今の時代、ちょうど、幕末と同じじゃないか、とおもいます)。

日本人、として明治維新を読むのではなく、第三者あるいは宇宙人として追体験するのも一興です。

恥をモノともせず当時の武士や官僚や兵士は、攘夷もやり、対外交渉もやり、留学もやり、戦争もやった。その体験を反芻して、吟味し、経験となしたか、が問題です。
by 古井戸 (2008-03-17 23:11) 

kwin

>英国外交官も漢字がわからないでは狡猾な幕府官僚にダマされてばかり、という苦い経験があった。
こんなことも当然あったのですね。

明治維新は現在の日本のありようの原点であるという、あたりまえの
のように学校で教えられてきたことの、本当の姿が、なんだかようやく
最近みえてきたように感じています。 
この本も手にとってみたくなりました。


by kwin (2008-03-18 00:01) 

From SF

非常に簡潔で分かりやすい人物紹介で、内容はさることながら、もっと、アーネストサトウについて知りたいと思わせてくれる文体にも感心いたしました。 現在、高杉晋作についての本を読んでいてアーネストサトウの存在に興味を持ち、貴殿のブログに行き着きました。ぜひ、「遠い崖」を読みたいと思います。 私の祖父(明治生まれです。)もアメリカ デンバーに留学をしておりましたので、彼の息子と何らかの接点があったかも・・。など想像を巡らせながら臨みたいと思います。  貴殿のほかの記事もゆっくり拝見さえていただきたいと思います。 これからもどうか日本のすばらしい文化、人物について紹介を続けていってください。 ありがとうございました。
by From SF (2009-06-20 14:58) 

古井戸

From SFさま。
『遠い崖』は図書館で借りたのですが、数ヶ月前、近所のブックオフ(古書店)で『遠い崖』文庫本全巻を安価に入手。ひまができたらゆっくり読もうと思います。

文中でも書いたと思いますが彼の日本研究は半端ではなくたんに職業上の理由からやったものともおもえない。明治革命は英国革命やフランス革命とは異なり、外国勢力である英国とフランスの代理戦争であり、英国が勝利し(憲法はドイツに倣ったが)、英国は20世紀前半まで、あるいは天皇とのコネクションにより戦後までニッポンを支配した、といえます。

サトウの書簡や報告、まだ公開されていないものが多いらしい(存在自体も明らかにされていないもの、など)。当然のこととおもいます。サトウ並みの働きをした外交官が多数、英国にはいたのでしょう。

サトウは大久保への評価は低く(あるいは人間的に嫌い、ということだけか)西郷に親しみを感じていたようです(政治的な評価が高いのかどうかは不明だが)。大久保が仮に生きていたとしたら、サトウとの折り合いは悪かったろうと思います。
by 古井戸 (2009-06-20 16:13) 

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