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世界の底が抜けるとき [Language]

雑誌『本』2月号(講談社)に、荒谷大輔(哲学専攻)が『世界の底が抜けるとき』という短文を書いているので引用、紹介したい。

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          表紙    小西真奈 <浄土 2> 2007 

冒頭から引用:

言葉が、空々しく響くことがある。ごくありふれた言葉で表現されてしまえば、伝えたいと思っていたこと自体がどこかに失われてしまうような、そんな大切なことを表現したい場合、ひとはしばしば言葉の限界に突き当たる。しかし、そうした特別な場合ではなくとも、日常の些細な言葉から、意味がすっぽりと抜け落ちてしまうことはある。

(略)

よく知っていると思っていたことについて、自分は何も理解していなかったのかもしれないという不安が、それを当たり前のこととして理解できる「普通」の人々をひどく遠ざけ、自分だけを異世界の中に置き去りにしたように感じさせた。これに似た感覚をもっと一般的な例で言えば、例えば、「あ」という文字をたくさんノートに書き連ねたときに得られる感覚といってよいかもしれない。目の前に何度も書き連ねている文字が実際に「あ」と呼ばれるべきものを示しえているか、ふと不安になり、人を呼んで確認したい衝動に駆られる。

(略)

言葉の意味は、それが指示する現実の対象によって決まるのではなく、ある特定の言語体系において隣接し合う言葉同士の関係によって決定される。

(略)

。。。その言葉が指し示す現実との間に、「確信」に足るようないかなる連関も持たないことになるだろう。つまり、例えば「ロールスロイス」という語は、それが使用される言語体系に身をおいてはじめて意味をもつものであるに過ぎず、その言語的な共同体を離れて、何か「現実の意味」のようなものを持つものではないのだ。その言葉が、現実の存在をきちんと指し示しえているかどうかということは、実は全く何の保証もあたえられていないことだったのである。 (略) 言葉と意味の間との間の連関に、実際には何の保証もないのであれば、その繋ぎ目がふと失われる瞬間は、いつでも到来しうる。慣れ親しんだ世界への信頼の上に成立していた言葉の意味が、根本的なところで疑われてしまう可能性は、ある意味で、言語の本質に根ざすものとして、常に言葉の使用に内在しているのである。

そうした言葉と意味との間の落とし穴に、すっぽりとはまってしまった時、ひとは、言語によって分節化されていた世界が、がらがらと崩れさっていく感覚に襲われることだろう。「シュナイダー」、「ロールスロイス」、「あ」という言葉は、実際、どのような意味をもつものだっただろうか。そこでは、言葉は単なる言葉として、それが何を指し示すものだったのか、もはや明らかではなくなり、言葉によってしっかりと掴んでいたと思っていた現実は、きわめて不確かなものにかたちをくずしていく。言葉はなお言葉として残り、その使用規則についての記憶は、なおはっきりと保たれていながらも、その言葉につなぎ止められていたはずの現実が、底なしの「無」の次元に吸い込まれてしまうのである。しっかりとした論理に支えられた世界の底が、すっぽり抜けてしまったかのような、こうした不安定な状態こそ、実は真の意味で「実在」するものであり、その点を基盤としてはじめて、あらたな論理的世界を創造する可能性が開かれる、と考えたのが、ほかならぬ西田幾多郎であった。

 (以下省略)   記事全文はhttp://shop.kodansha.jp/bc/magazines/hon/0802/index04.html

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 ひとは生まれ落ちた瞬間から自分の<辞書>を頭にこしらえていく生物である、といってよいだろう。まず、親の発する音声とそれの指し示すもの、との対応関係を蓄積していく。その辞書は個人のものであり、とりあえずは母親と辞書の共有化が望ましい。。しかし、少年期青年期を経ると独自の辞書をもつようになる。その辞書は共同体メンバーとの通信の規定をなすから、個人が属する共同体ごとに辞書は形成され、どの辞書をその都度めくるかを瞬時に判断しながら人間は通信し、意味の解釈を行う。共同体とは、とりあえず親子、つぎに家族、つぎに隣近所、つぎに幼稚園、小学校、。。職場、さらに、音声による通信世界から文字による通信の世界に入り込めば、個人の辞書の規模は時空を超えて膨大なものになっていく。辞書を大きくしていく、あるいは変形させていく理由はとりあえず生活のため、であり、そこでは効率と経済が追求され、やがて、遊び~文化を目的とするようになる。

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荒谷氏が言う、言葉と意味(言葉が指し示すもの)との非対応はやがて個人の意識するところとなる。この非対応は非経済非効率だけをもたらすのではない。この非対応がなければ人間はなにも創造できないことになる。蜘蛛が精巧な網を、適所にすばやく張るために蜘蛛は手順や文法を個体の努力で獲得しているのではない、あらかじめ蜘蛛の体内にファームウェアのごとく埋め込まれたプログラムに従って、ボディの各パートを作動させた結果が、網、という出力になったに過ぎない。言葉・記号とその意味(解釈系)の個別性~非決定性こそが人間に技術獲得~進化をもたらしたのだ。

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しかも、人間が営々と作りあげた脳内辞書も時節がめぐれば硬化し、ページも破れ、文字も薄くなり、信号線にもほころびが発生し、やがて切断、検索不能となるが、それに苛立つこともなくなる。老年期にめぐってくるこの辞書の自然縮退現象。なんと巧妙にできているものよ、と感心する。死の間際まで、青年期壮年期のように脳のコンピュータが動作し続けたらたまったものではあるまい。

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辞書を買い求めること、机上に辞書を置くこと。これは個人が世界に飛び出すための第一歩だろうか。やがて、辞書を疑い出す。作為的に言語をもてあそび、ひとを籠絡し出す。じつは、籠絡されていたことのほうが遥かに多いはずなのだが、これに気がつく前にひとはふつう末期を迎える。ありがたいことである。

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。。。こうした不安定な状態こそ、実は真の意味で「実在」するものであり、その点を基盤としてはじめて、あらたな論理的世界を創造する可能性が開かれる。。

こういう桃源郷のような世界は探求の過程でのみ<実在する>のだろう。だからホントをいえば「実在」というのはおかしい(チョムスキーの言う深層構造、普遍文法のようなもの)。個体の生活のツールとしての言語機能は個体の消滅とともに自動的に消滅する、はずだが、記号、言語として、あたかも預金を子や孫に相続するが如く、残すこともできる。貨幣の経済における機能を言語や記号はハタしている、これは人類にとってよいことなのか?

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グダグダ考えているまにブログを書き始めて丁度2年が過ぎた。来訪してくださった方々に感謝。新聞記事によると、ネット世界を見渡して、ブログ記事で一番多く流通しているのは日本語、つまり、一番大量に記事を排出しているのは日本人であるらしい。

11585363.jpg    <あ>の書体は、大辞林より。                             

 

   <浄土 2> (部分)

。。。。そこに描かれた光景は、絵画というものが本来そうであるように、いわゆる「絵空事」の世界なのです。一見平凡きわまりない風景ですが、そこにはひとつの物語に定着する以前の豊饒な逸話の断片、明確な意識に収斂する以前の茫洋とした無意識の沃土が広がっています。実際の風景よりも蜃気楼の方が往々にして美しい。。。。http://www.operacity.jp/ag/exh57.php から引用。


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みな

「あ」ばかし見てると、ゲシュタルト崩壊(?)しそう。
味のある「あ」ですね。
by みな (2008-02-20 21:47) 

古井戸

見慣れたハズの母の顔をじっとみて。。このひと、だれだろう?
 と、考えるときが、十代の頃、あった。それが母とのまず、最初の別れ。
 自分のツラを鏡で見て。。これ、誰だろう?とおもうこともあった。自分との別れ。いまでも意識的に自分のツラを直視するのを避けることがある。

別れることは辛いけど、仕方がないんだ~
別れることは分かること。

別れのワルツをうたお。
by 古井戸 (2008-02-21 02:51) 

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