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私の子は私の子か [Ethics]

2月20日、朝日新聞「私の視点」欄に盛永審一郎(富山大教授、哲学)が投稿している。<◆生命倫理  公開の場で論じ合意得よ>

「研究室で火事が起こった。燃えさかる炎の向こうには、煙を吸って意識を失った赤ちゃんと、シャーレに入った10個のヒトの胚(受精卵)がある。一方しか助けられないとすると、どちらを選ぶだろうか」


盛永審一郎はここで ヒト と 人 を使い分けている。しかし使い分けの基準が明確でないのだからこの文章も問いも何も言っていないことに等しい。


「ヒトの胚」 と言っているが、<ヒトの>の、「の」の意味が不明確なのだ。「私の子」の「の」も見直しが必要。私の胎内から生まれた子は私「の」子。これを自明なことと思っていては議論にならない。現時点では人間文明はこうしたほうが生まれる子にとっても、人間社会にとっても便利だから、そうしているにすぎない。

iPS細胞は、クローン問題を解決していない、という盛永審一郎は正しいとおもう。

昨日、福岡正則(生物学)がTBSラジオ(トークバトル)で述べていた。こういうことだ、いま「脳死」というものが法律で規定されている。しかし、ひとは徐々に死んでいく、のであり、脳死を決めるのは移植、という効用を考慮してのことだ。法律で<生から死>の転換点を規定しているがでは、死(生前)から生への転換点はどうやって決めるのか?という問題は残っている、と福岡正則は言う。

iPS細胞(人の皮膚からも作ることができる人工多能性幹細胞)から造ろうと思えばクローン人間は作れるし、かりに人をつくらなくても、心臓腎臓肝臓を安く作りたいだけ作ってポイ捨て、していいのか?そういうパーツが安価にできれば、それを使って、ツギハギサイボーグ人間になって長生きしたい、優秀なパーツだけで身体を再構成、リストラしたい!という人間どもが出現する。

長生きがそれほどの価値か?という問いに人間は直面する。法律で定める前に、あるいは定められた後でも問いは永久に残る。

盛永審一郎はつぎのように言っている。

「カトリックの影響が強いドイツでは、法律で胚の作製や研究利用を厳しく規制しているが、卵子や精子は「もの」と同じように扱っている。だから精子が卵子に入ったばかりの受精直前の段階での研究や診断は許容されている。そこには、宗教観や倫理観に裏打ちされた確固たる線引きが存在している。

わが国には、こうした大原則はない。科学技術の進歩を後追いする形での法や指針があるだけだ。この機会に、宗教や哲学、科学など学問の垣根を越えた幅広い英知を結集し、国民の合意を得るべく公開の場で「人」の始まりや終わりを論じてみてはどうだろう」

海外で宗教に基盤をおく「確固たる線引き」が存在し、ニッポンにそれがないことは全くニッポンにとって恥じるようなことではない。こういう問題の解決に、宗教を頼ること自体が問題なのだ。iPS細胞の発見に、人体パーツが<倫理上の問題を回避して>ジャカスカ作れるようになった!不良パーツはドンドン置換しろ~と大騒ぎするヤカラにこの問題を論じてもらっては困るのだ。iPS細胞は生命倫理の前線を移動(前進したのか、後退させたのかはわからない)しただけで、問題は何も解決していない。母親の卵子を操作するか否か、は全く些細なことに過ぎない。福島正則が言っているように研究者、は金や名誉が手に入れば何でもやる。医療産業はジャカスカ献金して<儲かる法律>を作り続けるだろう。こういう問題を既成の<宗教>に委ねることこそが問題なのだ。いまやることは、前線を一歩退けて、新たな宗教を個人個人が造ることなのだ。

 

生きることは、価値か?


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