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追悼・吉本隆明 [吉本隆明]

3月16日、吉本隆明が亡くなった。


この数日、古書店から十冊あまり吉本隆明の本を買って読みふけっている。吉本隆明は、60年代に尽きる。吉本の思想と行動を、ひとことであらわすと、自立。人間は出身の束縛からいかにして離脱できるか、の試みを吉本隆明に読み取ること。

昨日は一日掛けて、鹿島茂『吉本隆明1968』を読んだ。吉本の出生から60年代の思想をフォローした本である。鹿島茂の本を読んだことはなかったが、こんな切れ味をもった吉本論を読んだことがない。吉本『高村光太郎』は大学のスト中に図書館で借りて読んだ本だが。。吉本にとってこれほど重要な本とはしらなんだ。愛は惜しみなく奪う。長沼智恵子を滅ぼしたのは光太郎(の性欲)であった。一時戦争を賛美し、戦後転向した光太郎の「知的上昇と蹉跌」におのれ(=自然的性向、とそこからの離脱)の鏡像を読み、自立の条件を模索して格闘したのが吉本隆明である。

。。高村光太郎に仮託して語られた階級離脱の覚悟と止揚の意気込みは「名状しがたい寂しさや切なさの感じ」をもってそこを離脱した者でなければわからないもの。。

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吉本隆明は60年代自身が発行する雑誌『試行』に言語論、幻想論、身体論を相次いで書き継いだが、それは学問のための学問ではなく、おのれの根拠を探るとき、必然として眼前に現れた問題を解明する過程であった。人間は言語、幻想、身体により限界づけられており、その限界を言語、幻想、身体により突破しなければならない存在である。わたくしなどの理解の及ばぬ内容だがそれでも読まずにおれないのは、西洋のテキストや理論を翻訳したのではなく、詩人でもある吉本隆明自身の脳髄と身体を通過した試行(思考)の過程がそこにあるという絶対の信頼があったからだ。仮に著述の途上で行き詰まったところで何ほどのことがあろうか。70年当時に雑誌『文藝』に一年間連載された時事評論をまとめた『情況』を昨晩読んだが、その内容の稠密であること、わたくしは驚嘆した。手抜きが全くない。吉本隆明の書評は本の読み方を教えてくれた。言語表現は、表現する者の意識・観念の外化(自己表出)と、表現される対象(指示表出)の二つから把握される、とするのが吉本言語論である。この自家薬籠中の理論を適用したのが彼の書評であり、広域に及ぶ評論である。どの分野を対象にしても、語彙に平凡さがなく、論旨に浅薄なところがない。明晰ではないかも知れぬが目覚めていた。何を論じても常に全人類史を念頭においていたとおもう。

 
しかし、ついに来る日がきたのである。吉本 隆明1924年11月25日 - 2012年3月16日

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