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介護ビジネスのススメ [Ethics]

 

 

来るべき高齢化社会。安定した需要が見込まれ、いまでも繁栄しているのが介護ビジネス。なぜそんなに儲かるのか? 米原万里が明らかにしている:

たとえば、介護用具リース&販売会社。

車椅子を要介護老人に貸し出すとする。
本人からはレンタル料の一割に当たる800円、自治体からは9割の7200円が販売会社に振り込まれる。
〆て月8000円、年に96、000円也。
車椅子そのものの定価も9万円前後だけど、それはこの販売会社から購入した場合のこと、ネット市場では2~3万円出せば変えるシロモノ。 運搬、メンテナンスを考えてもボロ儲けのビジネス。

本人がまるまる支払うのならば月額8000円で車椅子を借りる人などいはしない。1割で済む、というのが味噌(市役所で無料貸し出しなどやりだすと、業界団体から事業妨害と圧力が掛かる。こんなときのために業界団体にはちゃんと役所から天下っている)。住民は自治体が一月7200円も負担していることなどかまっちゃいない。住民がセッセと払い続けている保険料から支払われるのだから、自治体も懐は痛まない。


あるいはヘルパー派遣業というのはどうか?

一回一時間月12回、ヘルパー二級資格者を派遣すると。。
利用者からは月9100円、自治体からは81900円、合計9万円が業者に振り込まれる。それでいて、実際に働くヘルパーに支払う金は最高でも18000円ほど。8000円という酷いところもある。8~9割がマージンという途方もないビジネスである。

こんな理不尽な口利き料を取っていたら利用者もヘルパーも逃げるはずだがそうならないのは、利用者もヘルパーにも自治体からの補助金が直接に行かなくて、必ず事業者を通さなくてはならないという、結構毛だらけ猫剥いだら毛、申し訳ないくらいに 会社にとって都合がよすぎる制度になっているから。もちろん、役所がその業者の許認可権を握っている。。。膨大な介護保険資金の配分を仕切り、利用者や介護者からの相談窓口になっているのも、

       社会福祉協議会

       http://www.shakyo.or.jp/


。。っていう、いかにももっともらしい名称の、天下り役人からなる団体だ。 これが地域によっては、事業者も兼ねていたりするんじゃけね、タマランわいや。手(チョキ)


 (以上、米原万里『他諺の空似』光文社、2006年/8月、p42~44を参考にした。 )




ニッポンの役人ってのは、自分の天下り先を作りだしてそこに税金が流れ込む仕組みを創出することにかけては大天才じゃげなよ、万里さんによると。


おれ、介護ビジネスに、転職したい、かも。。。
  んでから、もすぐ要介護人生に突入ジャケね。失恋

##

追記6/15

コムスン問題が発生したのでその背景を知ろうと思って上記の、社会福祉協議会hpなどにアクセスしたが肝心の知りたいことが書いてない。いったい、国民が拠出した保険金はどのように使われているのか?自治体はいくら、どこへ、どのような根拠でカネを補助しているのか?ということ。さらに、社会福祉協議会には、多数の理事とか評議員が存在する。彼らはどのように選出されているのか?どのくらいの地方自治体職員が天下っているのか。ナニをしているのか?無給か有給か?(おそらくガッポリと補助金から給与を取っているのだろう。いくら?)

コムスンとかナントカ学館とかへの事業所にたいする補助金の支給総額はいくらか?これは各自治体から支給されるのだが事業体が発行しているはずの株主向け報告には明記されているのか?

自治体は住民からの要求があれば、上記すべてについて情報を公開すべきである。要求が無くてもホームページで明らかにするよう法律で義務づけるべきである(天下り利権を維持するために、<天下り法>を作ろうとしているのカモね)。

社会保険庁と同じく、既に壊れていることがワカッテルニッポンの行政。官僚の官僚による、官僚のための、利権構造は永遠に不滅なんでありましょうか?

 

下記のブログはまだ完結していないが有用であった。

Keep on your easy pace:

http://daigan.dir.st/cs/blogs/blog/archive/2007/06/12/2473.aspx


国破レテ [Ethics]


派遣社員の労働環境は悪化の一途を辿っている。
これは日本の危機である。
  クローズアップ現代@NHK、3/20、の報じるところによると、

大手企業は正社員の派遣社員化を推し進めている。
 派遣社員化、ということは:

1 トータルの労務費削減、派遣社員の低賃金により。
2 各種手当ての削減。派遣社員の生活環境の劣悪
3 会社は<分割統治>方式により労働者を正社員VS派遣社員に分断する
    団結させない。
4 仕事は1ヶ月単位の契約。しかも、契約は会社と派遣会社の間でなされる。
    派遣社員と会社は契約関係にない、したがって会社は派遣社員との団体交渉も認めない

熊沢誠(労働問題研究者)は、派遣社員という便利な構造(安い賃金、年金など付加手当なし、短期の契約=いつでもクビを切れる)を会社はなかなか手放そうとしない、といい、派遣社員による組合結成の動きを新しい動きと歓迎しているが、上記のようにこれは、
   待遇悪化を危惧する正社員 対 同一労働同一賃金を求める派遣社員
という対立構造を産み出し(ぶんどり合戦)、会社は陰に陽に、この対立を利用した待遇・賃金制度を繰り出してくる。

番組に登場した派遣労働者の例。広島電鉄の労働者は正社員とまったく同一の安全基準のもとで勤務しているにもかかわらず年間200万円の所得差が正社員との間につけられ、転職を真剣に考えている(いまよりよい転職先も簡単に見つからない)。正社員で構成される労組も、今年になってやっと、このままでは正社員の現在の地位も危ない(派遣社員の多くが会社を去る、あるいは勤労意欲を無くすれば、会社自体の存亡にかかわる)、したがって、派遣労働者との待遇同一(派遣社員の賃上げ)を会社との交渉にもちこんだ。
もう一つの例。自転車配達業の派遣社員。自転車で転倒し、骨折。医療にかかわる保険や、治療費は派遣社員の自前。1ヶ月仕事を休み、この間の給与はゼロ。医者からはあと1ヶ月の安静治療を薦められる。預金を切り崩しての生活。同僚は、ついに組合を結成することを決意。HPにその旨を掲示すると、未知の派遣社員から参加したい、旨のメールが早速寄せられた。会社に対し保険費用を会社負担とするよう交渉を依頼したが、直接の契約を派遣会社と結んでいるとして会社はこの新労組との交渉は拒否、と、faxで連絡する。

 派遣会社と雇用会社の垣根を越えた派遣社員同士の連帯化(組合結成)の動きはあるが、低賃金(活動資金不足)と 契約関係(派遣会社と雇用会社の契約関係がない)の問題により、先に進めない。

派遣社員はこのままでは枯渇するばかりである。少子化問題など解決するわけもない。少子化そのものが問題なのではない。 貧困が問題なのだ。文化的な生活が営めないことが問題なのである。 
       いったい、なんのために俺たち私たちはこの地上に生まれてきたのか?
こういう疑問をいだく国民が発生しないか?存在していないか?
もはや、これは、国ではない。

どうすればいいか?問題は格差ではなく、貧困である。
余裕のある者が貧困なものを助ける以外にない。非正規社員の存在とその劣悪な環境は、彼ら自らの責任ではない。この状態を放置しておくことはできない。

厚生労働省がまったく存在価値のない官庁になり果て、国会議員はおのれの利権を守るだけ、この問題を解決しようともしない。若い派遣社員が、考えたすえ組合を結成することを思いついた。これを、画期的な事態と評価するだけでイイのか?熊沢誠名誉教授、といいたいね。ニッポンの将来を担う二十代、三十代の、苦しんでいる労働者に誰もアドヴァイスしないのだろうか? 涙が出る、というしかないね。ナサケナや。

派遣社員の自殺的破壊行動を待つのみ、でよいのか?自由化?自己決定?なんのことはない、19世紀の未組織賃労働者=プロレタリアート、が歩んだのと同じ道を再び歩んでいるだけではないか。

団塊の世代、を問題視しているが、この膨大な数の非正規労働者の数は将来、重いくびきとなるこれは明白なのに何の手も打たない政策決定者達。すくなくともこいつらを、愛国者とは呼ぶまい。

戦争さえなければ、戦前のニッポンの農民のくらしのほうがよほど安定し、豊かではなかったか、とふと、もはや、望んでも訪れぬ日々を夢想するのである。

 国破レテ、山河アリ。。

関連記事:
時には母の無い子のように
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-04-24
フリーター漂流
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-05-12


見ざる言わざる聴かざる、のイジメ問題 [Ethics]

                                こぶしのはな

昨晩(3/3)、余り期待しないでNHKのイジメ特番をみた。
学校の先生、校長、文部省代表、父兄、いじめた・いじめられた経験のある生徒や一般人、教育評論家100人程度が参加していた。

なされた発言のなかで、もっともおどろいたのは、現役中学生とおもわれる生徒の発言。いじめられている生徒にも問題がある、と言う意見が半数以上あるのだ。その生徒の発言を聴いてみると、これはイジメ側の生徒の考えである。既に脳味噌まで侵されているというしかない。

1 イジメは犯罪である、
2 イジメられる生徒に責任はない。生活態度を改める必要もない。
3 いじめる側の生徒に イジメは犯罪であるということ

これらを自覚させること、再認識すること、が行われていない。先生、校長、文部省、教育委員会がまったくイジメを理解していない。イジメが発覚すると、まずやるべきことは、イジメ側の生徒を停学にすることである。これには条件はつかないのだ。であるのに、いじめられる側を別室(保健室)に隔離したり、イジメ側から事情を聴いたりしている。あげくのはて、イジメられた生徒を自宅に閉じこめ(登校拒否)て知らん顔、あるいは転校を薦めたりしている。言語道断である。こういう学校名をHPに公表して貰いたい。その人権無視の行為を暴露すべきである。

万引きや泥棒、殺人未遂を犯す人間から事情を聴いて情状酌量をするか? 会場の発言にもあったが、強姦された人間に、あなたにも隙があった、と言っているに等しいことを平気で言っているのである。

作家の中島博行(弁護士でもある)の発言に一番共感したのだが、イジメが発覚したら無条件にいじめている生徒を退学もしくは長期停学にし、その町から遠方に追放すること。これが必要なのだ。同じ町においていてはこいつ等は報復するに決まっているからである(従って、少年院、刑務所、などで隔離するのがもっともよい)。

いじめる側がのうのうと税金を使って授業を受け、いじめられる側が登校拒否に陥り自宅に籠もっている。これは異常事態であるのに文部省や学校教育委員会は、事をオンビンに、ということしか頭にないのである。騒がれたら困るのだ。

私のムスメを含めたクラスの3人の女生徒が、残りのクラス生徒からイジメ(しかと)を受けていたのは10年前。私は校長に、3人の生徒を残して、残りの生徒を通学停止にせよ、しなければ私は実力行使する、と迫った。校長も、おどろくべきことに担任の先生もイジメの事実を全く知らないのである。生徒は先生の前では絶対にいじめない、アシをつかまれないように振る舞うのである。その直後のクラス父兄会で(カナイが出席)、ムスメの友だちでいじめられた生徒の父親が、学校中にビデオ・カメラを取り付けろ、とわめいたそうだ。わたしはそこまでヤル必要はないだろう、。。とおもったが、今となっては、この父親は先見の明があったと言うべきだろう。全国の中学、高校の教室、廊下には、直ちに ビデオカメラを取り付けるべきである。なにを無茶苦茶な。。。とおもう父兄や文部省、教育委員会の人間がいたとしたらその人はイジメを理解していない、ということである。学校は刑務所ではない、というひとがいるかもしれない。そういう人も自覚が足りない。学校は刑務所以上のこと、あるいは同等のイジメが行われている、ということをなぜ見ようとしないのか? 学校の先生、生徒ならば それしか手はない、と思うはずである。 NHKの番組を見て、いじめられる生徒にも責任がある、と考える生徒が半数もいる、ということは、生徒にはイジメが犯罪である、という自覚がない、そういうことを学校が教えていない、ということの何よりの証拠となる。このデータを見て何も校長や先生、文部省が感じていないようだったら、救いようのないところまでニッポンの教育はきているというしかない (放送ではこのデータに、だれも驚いていないことに、わたしは驚いた)。

中島博行のいうように、たとえ、一人が残り全てのクラスからイジメにあったとしたら、一人だけに通学を認め、残りのクラス全員を通学停止、あるいは退学措置にスベキなのである(同時に、いじめた生徒は家庭から外出禁止、あるいは遠方に隔離とする)。おそらく、その一人は精神的に耐えられない、ということになるだろう(イジメ側の家庭からの報復など)。次善の策としてわたしは、学級閉鎖、あるいは学校閉鎖を提案する(学校の先生の給与支払いは停止、あるいは大幅減給とする。こういう教員校長に税金を使うのは正義の観点から止めるべきである。これで浮いた経費は、いじめられた側への転校費用を含めた補償費用に充当する)。 いじめられ側だけを隔離、放校してシランフリをしている先生や教育委員会、文部省の人間がヘラヘラ笑っている現状は異常と言うしかない。

入学時、イジメを行ったらただちに、停学、退学とする、という誓約書に署名を生徒に(父兄ではない)させること。生徒、親に入学前に人権教育を行うこと。前提として学校の先生も人権を学ぶこと。 人権、など、そもそもどこでも教えていないのだから、ニッポンでは。人間ならだれでも人権感覚など持っているであろう。。とおもうのはトンデモナイ間違い、とわかったわけだ。

上述の対策を異常だ。。。とおもっているひとは、そういう異常事態が10年以上前から学校に存在していることを知らぬお目出度いひとたちである。あるいは、知りたくない、見たくない。。と。

のど元過ぎれば熱さは、忘れる。
30年以上続いた、校長/教員、教育委員会、文部省合作の内申書偽造(公文書偽造)も、だれも、罪に問われることなく、ひたすら、忘れ去られるのを待とうとしている。
騒ぐなよ。。じっとしていろ。。俺等が卒業するまで。。進学するまで。。就職するまで。。定年になるまで。。

追記:
番組中、いじめられた経験のある生徒(含む、卒業生)が登場したがそのなかで、登校拒否になったものの、すぐに立ち直った生徒が語っていた。わたしがすぐに立ち直れたのは家族、とくに父親が自分の味方になって学校と戦い、八方手を尽くしたからだ、と。いじめられ側が間違っているのではない、いじめる側が悪いのであり、矯正あるいは追放されるべきである、というメッセージを学校はいじめる側、いじめられる側(親、生徒、および自身)に宣言、伝達しているか?家族にも伝えられない、という悲惨な事態は、学校側の消極的姿勢、イジメ側に対する妥協的な姿勢が生み出していることは明らかである。イジメは生徒だけの責任ではなく、学校の無作為の責任でもある。


<柳沢厚労相>の 「産む機械」発言 について [Ethics]

朝日新聞、1/30/2007夕刊

柳沢の発言はわたしも最初不審におもった。しかし、TBSラジオでその発言現場をラジオで聞いたが(おそらく怒っている女性たちはこの現場を知らないはずである)怒るような文脈で発言されてはいない。ラジオでは発言の現れたところしか放送しなかったがおそらく少子化問題について論じていたのである。しかも 機械、といってしまった、その瞬間にそのコトバの問題を自分で悟り、謝って、こういう趣旨だと解説している。発言してしまったあと、開き直っているのではない。

(注)本記事コメントにやや具体的な柳沢発言を教示して貰った。ここに掲載しておく(2/1):
『なかなか今の女性は一生の間にたくさん子どもを産んでくれない。人口統計学では、女性は15~50歳が出産する年齢で、その数を勘定すると大体分かる。ほかからは生まれようがない。産む機械と言ってはなんだが、装置の数が決まったとなると、機械と言っては申し訳ないが、機械と言ってごめんなさいね、あとは産む役目の人が1人頭で頑張ってもらうしかない。(女性)1人当たりどのぐらい産んでくれるかという合計特殊出生率が今、日本では1.26。2055年まで推計したら、くしくも同じ1.26だった。それを上げなければいけない』 (注、おわり)

すこし反省するとわかるようにもともと、人間とは女性に限らず、機械、なのである。人間=機械、ではない。人間には機械という側面をもちあわせているということだ。なぜ、愛する人の子でもないのに生むのか!?などという受胎した女性の意志が働く余地はないのだ(堕胎をしない限り)。身体というのは自動機械でありプログラムにより動作する、というのは厳然たる事実である。このプログラム無くして自力で子供などを作れるわけも無かろう。それを称して機械、というのである。愛する人からの受胎により子供は生まれるが、暴行により望まぬのに受胎する場合もある。妊娠した女性が交通事故にあい長らく意識不明であったのに無事出産できるのも人間の体は自動的に動作する機械的特徴を持っているからである。受胎の目的や動機に関係なく、即物的に受胎という事実があれば胎内で子供は自動的に、いわば進化により獲得したプログラムに従って、妊婦の意図とは関係なく育つのである。デカルトと同時代人、ラ・メトリの『人間機械論』あるいはウィーナの『サイバネティクス』や『人間機械論(原著タイトルは、THE HUMAN USE OF HUMAN BEINGS)』といった書物は人間=機械、といっているのではなく人間は機械的性格を備えており、それによって人間は人間になれた、と言っているのだ。人工臓器を製造したり、臓器移植ができるのも人間が機械という側面を備えているからである。もちろん、柳沢はこんなことをふまえて発言はしなかったろう。しかし、機械といわれて怒る人間はこの程度の反省(熟考)はしたうえで怒って欲しいものだ(すくなくとも21世紀、機械~人間の親和性は常識かとわたしは思っていた)。これに怒っている女性たち(福島瑞穂ら)あるいは男性達にそういう思考の働き、知見はまったくないようにみえる(女性を機械だ、といわれたら怒る。男性や人間を機械だ、と言われて怒るのかどうか尋ねてみたい)。柳沢の発言がおかしいというのなら、そもそも少子化問題など論ずるのが過ち、ということになるだろう(論じ方や結論が間違い、というのならそう主張しなければならない。発言の枝葉末節をとらえて、辞任させた、はい!勝利!と考えているような浅薄な議員は何も出産しない)。出生率、などと出産を数字で論じるのもトンデモナイということになろうい。生もうと生むまいと女性の勝手だ、という人があってもおかしくない。仕事などしたくないというひとがあってもしようがない(この瞬間、人類が子作り停止宣言をして滅んだとしても誰も困るまいし、文句も言えない)。しかし、柳沢は女性には産まない自由はない、などといっているのではまったくない(彼には二人の娘がいるらしい) 。政治家が生み育てやすい環境を、税金を使って整えるのは義務である(柳沢は、これに反することしかやっていない、とわたしはおもうが)。その環境を利用しようとしまいと国民の勝手である。

そもそも福島瑞穂などは、子供を産むのは女性である、したがって痛みをわかっているのは女性である、柳沢の発言は女性に対する侮辱である、とおもっているのではないか?そうであるなら無知もここにきわまる。妻や娘が出産をしているとき物理的に苦しいのは本人だろうし誰にもその痛みは味わえない、と思っているのだろう。これほど無知な発言もない。事実は、夫であり、両親であり、家族であり兄弟、友人が痛みを分かつのである(これは出産だけに限らない)。この心配や気がかりがあることを妊婦はわかっているから、励ましを得て痛みに耐えられるのである(動物の出産の場面を考えるとよい、人間の出産との違いがわかるだろう)。もし柳沢の発言が侮辱発言であるのなら、それは、女性に対する侮辱ではなく、人間に対する侮辱なのである。女性が子供を生むのではない。子供を産む人間の性をわれわれは女性と呼んでいるに過ぎない。女性に対する侮辱である、と言う人々に怒る資格はない。 (追記:福島等女性議員には、出産は夫や家族友人、医師看護婦さらに地域社会に支えられての共同作業という実体験がないのであろう。その点、同情すべき人たちかも知れない)

それはわかる、しかし、普段からそのように考えている人間がまちがっても<女性は子供を生む機械>と言うわけがない、というひとがいる。深層心理を探ればそういうことはあるだろう(柳沢の場合、そういうことはない、とおもう)。かりにそうだとしよう。では、政治家などの発言者は発言内容となって発現させるにいたった心理的バックグラウンド~深層心理にまで責任をもたなければならないのか?そんなことができるわけがないし、やってはならないことである。

昨日の朝日新聞夕刊には福島瑞穂をはじめとする数十人の女性国会議員が抗議と辞任要求を文書にして、柳沢に手渡している写真が載っている。この議員らは何を考えているのであろうか?上のわたしの考えと同じことを考えて、なお、怒っているのであろうか? わたしにとっては異人種というしかない。ニュースを見聞きすると、柳沢に怒っている日本人が圧倒的多数のようだ。上記のようにその現場を(柳沢の肉声を録音で)知り、なおかつ、怒っているのであればこの人たちもわたしとは異人種である。

柳沢についてはわたしは日記やブログ記事で批判をしている。ホワイトカラーエグゼンプション、に対する批判である。これは柳沢自らの意思で、意図的に行っている選択である。http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-12-12 金融担当大臣の折も、サラ金金利を下げようとしていないという実績を持つ。柳沢以外にも大臣不適格者が多すぎる。任命責任のある安倍にしてから、「ホワイトカラーエグゼンプションは少子化に有効」と馬鹿な発言をしている。

ニュース記事によると。。

 ただ、安倍晋三首相は30日夜、「さらに仕事を続けてもらいたい」と記者団に話したほか、政府筋も「柳沢さんに男尊女卑の気持ちは全くない。きちんとやれば分かってもらえる。辞めるなんてとんでもない」と辞任論を否定した。首相官邸と与党との間に意識のズレも生じている。

この件に関しては安倍が正しい(ただし、安倍のホワイトカラーエグゼンプションは少子化問題解決に寄与する、はトンデモ発言である)。安倍の意見が通らず、柳沢辞任を(党利党略から)要求するようなら、わたしが首相だったら、首相を辞するし、自民党を去る。幸か不幸か、安倍はそこまで物がわかっていないだろう。(追記: この後のニュースによると、安倍は閣僚の不適切発言がおおい、と柳沢を含む閣僚にきつく注意したとか。揺れているのね)

ところで、福島瑞穂はいつになったら政治家になるのだろうか?成り立てホヤホヤならへたくそな演説や議論も我慢できるがもうベテランと呼んでいいのではないか?学生と間違われるような演説や討論をやっていては弁護士なら許されるのだろうが、政治家福島瑞穂、なら職務怠慢である。弁護士家業はしばらくお預けにして演説や討論の訓練をしてほしい。(演説討論だけじゃないが)。

海外を含め、世論追従のマスゴミの愚劣は、いまさら論ずるまでもなかろう。柳沢が大臣を辞任することになるのかどうか、今の時点ではわからない。柳沢を徹底批判するのであれば、厚労省大臣でありながら、まるで経済産業省の大臣か?とまちがえるような経団連のうのみ(ホワイトカラーエグゼンプションはじめ)にする姿勢であるべきだ。出生問題は、過去の労働政策の繁栄である。言葉尻を捉えた批判をされても柳沢にとっては痛くも痒くも無かろう。

追記1:
柳沢の発言はどのようなものだったか?TBSラジオで該当箇所だけを流していたが、「これからの年金・福祉・医療の展望について」と題して約三十分間講演。出生率の低下に言及し、「機械って言っちゃ申し訳ないけど」「機械って言ってごめんなさいね」との言葉を挟みながら、「十五-五十歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」と述べた。。

ボキャ貧なのは認めるが、女性蔑視を感ずるのだろうか、これで?マスゴミによる発言の切り出しもひどいものであるしそれを確認しようとしない政治屋もひどいものだ。これで大臣の首をとっても(結局そうなりそうな雲行きだが)、柳沢本人はちっとも痛くもかゆくもないだろう。

追記2:
1/31の朝日朝刊によると 野党三党、厚労省の辞任を要求、「補正予算案審議拒否も」。
馬鹿に付ける薬はないようだ。いったいキミラは、昨年発生した、未だ何のけりもついていない、耐震偽装、30年間も継続した高校の内申書偽造、という犯罪にどのような決着を付けたのか?付けようとしているのか? この問題は何も解明されてはいないのである。柳沢が、ホワイトカラーエグゼンプション法案を提出したときどのような訴え方を国民にしたか? 

藤田東吾が昨年から暴き続けたアパグループ問題を、マスゴミはどのように支援したか?野党はどのような調査をしたのか?
藤田東吾著『耐震偽装』


国民に安楽死を与えよ。 ワーキングプア問題 [Ethics]

今夜12/10のNHK番組。
空き缶(ひとつ2円)を80歳を越えた老夫婦が集めている。1ヶ月5万円を稼ぎだすためだ。老夫婦に年金はない。
病気におびえる老人達。

ドンドン増えるワーキングプア。

問題は格差ではない。絶対的貧困である。
見て見ぬふりの政府。国会議員&官僚。企業。

提案: 
政府は国民に自殺を認め、安楽に死ねる薬を希望者にジャカスカ無料で配布せよ。
生きる価値のある国ではない。ニッポンは。
(せめて、死体くらいは税金で焼却し、弔っておくれ)

預金に利子も付ぬ銀行。税金を払わず、史上最高益に潤う大銀行や企業。企業には減税、低所得国民への税金を増額する政府。

この番組が終わった直後、紅白歌合戦=アンポンタン番組の宣伝をしているNHK。

お~い!。
官僚、国会議員達~ぃ。本間正明(政府税調会長)!
この番組みてた~?

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この老夫婦はムスコがあり、大学を卒業、すでに家族がある。ローンをかかえており、この老夫婦に月1万円の仕送りがやっと。
老夫婦は言う『若い者に援助は頼まない。自分のことは自分でヤル。誰にも迷惑を掛けず、生き、消えていく』

まだ、老夫婦とも病気でないからどうにかカツカツのところでやっていける。どちらかが(両方が)病で、倒れたら?

一人や二人のハナシではない。
夕張をみよ。見せしめのため、生け贄にされたこの地方都市では、公務員の散漫な市財政運営によりとくに老人達は悲惨な目に遭い、破綻にいたらせた東京の企業らは素知らぬ顔をしている。

美しい國どころか、人間の棲める國か、と問いたい。

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その間にも借金はドンドン増えていく。この時計はいつになったら逆転(減少)するのか?させる気あるのか? 
http://www.takarabe-hrj.co.jp/clock/
http://www.geocities.jp/mkqdj167/map.htm


生と死    加藤周一 [Ethics]

                                       

                          写真:筑摩書房現代日本文学大系82(1971)月報から



「KSは主題の深刻さを、それを扱う表情・文体の気難しさとすりかえない。ただ彼は、昔も今も、論理的でないものには我慢できない点少しも変わらない。そういう話にぶつかると、むきになって戦う。彼が自分の感情に負けるのはそういう時であり、そういう彼の顔こそ美しいと思う人もいなくはないようである。」(吉田秀和、1971)

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「よく分からぬことについては黙るという断固とした態度をとったのは孔子とヴィトゲンシュタインである」(KS、夕陽妄語、8/23)。だからといって、喋ったことはよく分かっていることであるか、というとそんなことはない。むしろ分からぬことをわかったつもりになって大部分の人間はしゃべり続けるのである。

抽象的な死、あるいは、他人の死を観ること、語ることとおのれの死を語ることはまったく別のことである。

KS「なぜ死に抵抗するのか。すべての価値(望み、目標)の前提は「生」であり、「死」は「生の否定」だからである。価値は人によって、あるいは文化によって異なり、普遍的ではない」夕陽妄語、8/23、2006

生の否定、と、KSにいわれてもなにか理解が深まるわけではない。KSは、生のわからなさを、「否定」という論理用語に丸投げしているにすぎない。

物理的な死、と、生は定義の問題(新陳代謝を行っているか、脳は生きているか。。)そのものだが、思想の問題として、生と死は排反事象ではない。生なくして死はなく、死なくして生はない。世間で死ぬ、というとき、世間 - 個人の関係の変化(戸籍からの抹消、年金支払いの停止、その他)を語っているのであり、生と死の意味がこれで明らかになったわけではない。

KSは以上のことを要約して、言う:
「生は極めて複雑で、それを定義する特徴を列挙することは困難である。要するによく分からない。したがってその否定の内容もよくわからない。しかし遅かれ早かれ死が避けられないということだけが確かである。そういう状況に対してどういう対応が可能だろうか」KS、同上。

KSが避けられないという「死」は肉体の死である。肉体の死は個人の死であろうか?これも定義の問題だが。モノは目に見え手で触れる。モノはそれを観たり考えたりする主体の存在とは独立に「存在する」と考えられている。こころは目にみえず手で触れないが「存在する」。このふたつの「存在する」は字面は同じだが、意味内容(レベル)はまったく異なる。

死とは何か。 結論を得て死ぬのでなく、考えながら死ぬ、他人に一切こびることなく、他人と群れることなく、個としてあたかも石ころのごとく宇宙の粒子として永遠の海に還ることができる。死とは人間だけの特権である。人間に死があることはなんたる救いであることか。

追悼 加藤周一 http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-12-14

ハンセン病と報道   光田健輔と神谷美恵子 [Ethics]

『絆』らい予防法の傷痕
八重樫信之著・写真 人間と歴史社
写真は朝日新聞から。
http://www.mognet.org/news/20060606.html

写真の浅井あいさんは大正九年生まれ。
師範学校在学中にハンセン病と診断された。
特効薬である新薬プロミンはあったが高価で使用できないでいるうちに失明し、昨年逝去された。
「わたしが家を出ると、母はわたしのものを全部焼いてしまいました。父と相談して、わたしを死んだことにして、家族がわたしの名前を言うのも一切禁じました」

##ウィキペディア百科事典より
2001年5月11日、熊本地裁は、「ハンセン病違憲国賠訴訟(「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」)」において、国の隔離政策の継続は違憲であると判決した。これを受けて小泉首相は5月23日、控訴しないことを決定し、6月22日には直ちにハンセン病補償法(ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律)が成立した。対象とされる元患者らには800万~1400万円の賠償金が支払われることになったのである。

しかし、この補償法は、補償の対象についての細かいことは「厚労省告示(厚生労働省告示第二百二十四号)」に定めることにしていた。その「告示」には、日本国内の国立・私立の療養所や、米軍占領下の琉球政府が設置した施設は列挙してあるが、韓国と台湾の二つの施設(韓国小鹿島更生園―現・国立小鹿島病院,台湾楽生院―現・楽生療養院)は明示していなかった。

戦前に日本の一地方であった韓国・植民地であった台湾に、政府は国内と同様の療養所を作り、同じ強制隔離によって、強制労働や断種を初めとする残酷な被害を与え続けていたのである。
##

<また癩予防法制定に注力した医師・光田健輔は、患者救済と差別の助長、さらには強制隔離政策の全体にわたって大きな役割を果たしており、日本の対ハンセン病政策の明暗を象徴するような人物として特筆される必要がある。>

光田を師とあおぐ神谷美恵子はこの政策に抗議することもなく愛生園などを訪問し患者と交流に努めた。光田の政策に手を貸したといわれてもしようがない。

隔離政策の継続は違憲、と判決され、国が控訴しないと決定した後も隔離所から故郷に戻りたいという患者はいない。受け入れる家も家族もいない。

しかし、戦前から国際的に非難され続けながら隔離政策をやめようとしなかった政府に対し、新聞や医学者はなにをしていたのだろうか?この写真集の写真のような写真ならマスゴミ、はいつでも掲載し、国民を啓発することはできたはずだ。地裁での国の敗訴の後、控訴せず!との国の決定を待っていたかのように、二日続けてハンセン病特集をNHKは放映した。番組中、ブタのキンタマを抜く火箸のような道具でハンセン病男性患者は断種されていた、とある患者は語っていた。文字通り動物並みの扱いである。わたしにとって、最も衝撃的なのは現在も日本にある隔離施設の生活者はこの決定後も、ほとんど故郷に帰ろうとしないことである。理由は明らかだろう。なにもかも手遅れ。すべては、終わってしまった。

それにしても、この特集番組に使われたフィルムを、控訴せずと政府が決定した日まで放映しなかったNHKとは何なのだろうか? 国が控訴すれば、またこの証言フィルムをお蔵入りにしたのか?

マスゴミに言いたい。
「正義や真実」は、検察、裁判所や政府に、おし戴くものなのか?
正義や真実は、誰にも等しく与えられ、その行為、発言の根拠にできるものであり、検察、裁判所、政府もこの正義と真実に従うべきなのだ。
検察批判、裁判批判、政府批判をしないマスゴミはマスゴミではなく、ゴミである。

世界から非難され続けながらこの隔離を続けたのは日本、韓国、台湾だ。光田を非難できる人はいないだろう。光田はそれをよく知っていたのである。NHKの番組で、光田は「では、隔離をやめて、このひとたちはどうやって生きていきますか?故郷や親兄弟は受け入れないのですよ」と証言していた。(こういうことをしゃーしゃーと喋る光田にもはや、 正義や倫理を説いてもしょうがあるまい。現在の政府や官僚、政治屋、マスゴミに、正義を要求するのは無駄だろう)

http://www.arsvi.com/1990/990700sh.htm
http://www.actiblog.com/momoi/8187
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-03-23-2
http://www.geocities.jp/machi0822jp/hansen3.htm
http://www.clg.niigata-u.ac.jp/~miyasaka/opinions/hansenfetus.html
http://www5e.biglobe.ne.jp/~kkazz/ippansitumon1.html
http://members2.jcom.home.ne.jp/yutaka_tanaka/matumoto/jiyuwoubaumono.htm
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/030403riddel.html
http://www.jhc.or.jp/wakai/06/2-3-0.php

関連記事

ハンセン病と報道のかたち
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2007-05-28


延命治療 その2 [Ethics]

2006年4月21日朝日新聞の「三者三論」 <延命医療をどう見る> は延命医療にかかわる論者三人の聞き書きを掲載している。いずれも考えさせる内容で、記事を切り抜いて何度も読み返しているところだ。

生き延びるのは悪くない by 立岩真也 社会学者
延命医療をどう見る    by 山崎章郎 日本ホスピス緩和ケア協会会長
呼吸器は外せないのか  by 谷田憲俊 医療環境学、山口大学

立岩:
「本人が死んでもよいと言うのだからよいと言うのだろうか。その決定は、本人も事前には分からない状態を想像しての決定だ。自分のことは自分がよく知っているから、本人に決めさせようと私たちは考える。しかし私たちは終末の状態を実際には知りえない。そして実際に知ったときには、気持ちが変わったことを伝えられない状態や、眠っているような状態の場合もある」
「(周囲に)負担をかけると思うから早めに死ぬという。そんな思いからの決定を「はいどうぞ」と周囲のもの達が受け入れてよいか。自殺しようとする人を少なくともいったんは止めようとするではないか。なぜ終末期では決定のための情報を提供するだけで中立を保つというのだろう。しかもその理由は周囲の負担だ。それをそのまま認めることは、「迷惑だから死んでもらってよい」と言うのと同じではないか。それは違うだろう。本人の気持ちはそれとして聞き止めた上で、「心配しなくてもいい」と言えばよい。」

立岩の言い分は尊厳死反対論者の典型的な物言いとみていいだろう。

死を知っている人間など誰もいない。立岩は生前、尊厳死を申告した末期患者が意思表示不能になったあと生前の言い分を取り消したい場合どうなるのか?と聞いている。では逆の場合はどうなのか?生前、どんなことがあっても生きていたい、しかしこんな状態はもう結構、早く死にたい、と意思表示したい患者だってあるだろう。

それに、周囲に負担を掛けるから死にたい、というのは悪いことか?全然そんなことはないとおもう。姥棄て山の倫理がなぜおこらないのだろうか?生きることは良いこと、という無根拠の原則がこの哲学者をも侵している。よく、是を認めては、生きていたいという末期患者の努力に悪影響をおよぼす、と言う声を耳にすることもある。とんでもないことである。生きていたいというひとは、周囲の声など耳を貸さずに生きればいいのである。しかし、3億円あれば臓器移植により、5年は生きのびられる、父さん、3億円借金して!と子供にせがまれている場合、親はどうすればいいのか?立岩は、どうやって応答するのだろうか?金さえあれば、10年や20年長生きするのはたいていの末期患者に対して可能だろう。生命は金で買えるのである、その気になれば。そういう生命など、生前に拒否宣言しておく、というのがなぜ悪いか。かつ、問題は生命の延長だけではない。いま暮らしている人々に対し、文化的な、かつ、機会平等な生活がちゃんと供与されているのか? 死は、日々の暮らしの一部である。<死>を特別視してはならない。死は日々の暮らしの一部にしかすぎない。ろくすっぽ、日々の暮らしに目配りもしていないのに、死だけにぎゃあぎゃあ騒ぎ立てるでない。最低限の文化的な生活を営むために、弱者に対して(末期患者ではない)どれだけ政府がケアを施しているのか?死、だけにあれこれ注文つけるなどもってのほかだとおもう。憤死したいひとだっているのだ。http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-04-08

##
わたしなら、家族にこう言い渡しておくだろう。

<おれは延命治療など望まない。意識がなくなったら維持装置を外してくれ(仮に取り付けていた場合)。意識がある場合、維持装置を付けるか着けないかは私が指示する。かりに父さんが反対してもおまえたちが取り付けたいのならそれに従う。
意識がなくなった後、おまえたちが、父さんを生かし続けたいなら生かしてもらっても不服はない。そのうち、おまえたちに父さんの死がなっとくされたとき、延命措置をはずしてくれればいい>

理想的には、死は、死を看取る人々の心に順々としみこみ、みとるひと、みとられるひとの間の死を巡る水準線がほぼ等位になる。その時点でかりに死が訪れれば、生者死者共に納得の上、別れを迎えられる。山崎氏(下記)の言うとおりなのだ。

死は死者だけのものではない。生も生者だけのものではない。私が生かされているのは周囲や社会があるからである。単独で生きているというほど、傲慢なものいいはあるまい。

また、生と死は個人的なものでもある。末期患者を生かした殺したで責め合うのがもっともわるい。
しかし、仮に末期患者の取り扱いで、おのれの信念にしたがって行動した結果、生者が犯罪に問われた場合、どうどうとお縄に付けばよいだろう。(高瀬舟、と同じ。法律がどうのこうのといっている状況ではないのである)。

この記事中、印象に残った箇所を引用。
谷田:
「人工呼吸器に限定すれば、着けることと外すことは行為の違いはあっても、生命倫理上や医学的には「同じこと」というのが国際的な主流の理解だ。外すことはタブーではない。なぜならば、外すことで患者が死ぬわけではなく、「再装着しないこと」が死につながる、と考えるからだ。外したら再び装着するかのスタートにもどるだけだ」
 (*コメント:たんに解釈のもんだいではないか、というひともいるかもしれないが、死も生もそもそも解釈の問題である。それで家族のココロノ負担が少なくなるならいかなる解釈でも受け入れよう。緊急避難的に維持装置をつけることの心理負担がこれでなくなるなら万々歳である。)

山崎:
「在宅の良さは、大人も子どもも みとり に 参加できることである。経験すれば 死は恐れることでないとわかる。そして、学校でも死を学ぶ教育を取り入れる。どんな死を迎えたいか、延命はどこまでするか、周りの人と日常の中で話し合うことが最初の一歩だと思う」

##
わたしのひとこと。
末期の患者を巡る治療や介護の経済的な負担精神的な負担は大きい。「最善の策」をとったかどうかで人や自分を責める、というのは避けるべきである。 だれも、責めてはならない。誰にも死が来るし、つらい死も、苦しい死も、いずれみんな忘れるときが来る。われわれの先祖はすべて、そうして生きて死んだのだ。

 

死の問題: http://blog.so-net.ne.jp/furuido/archive/200603


延命措置 [Ethics]

作家、加賀乙彦が 延命措置=尊厳死について語っている。本日付、朝日新聞、オピニオン欄。

「尊厳ある死は自分で決定」

わたしもここでそう発言しているのだが、その発言に至るにはかなりの試行錯誤、があるのだ。
加賀乙彦のような経験(精神学者だし、かずかずの死刑囚との対話経験ももつ)のある人間ならもう少し深みのある意見をのべてもよいのではないか?

「患者の意見を尊重すべし」 というのは とりえあえず、なのだ。。
かりに、患者が「安楽死だめ。 尊厳死、だめ。可能な限り金をかけて、長生きさせてくれ」と遺言を書いて植物人間になったらどうするつもりか?

そういう親族の生活を破壊するような行為を、残り少ない人生しかしかも不完全な形でしか全うできないとかなりの確度で予想できる人間に対して、行うことはできない。と、決断することも認めなければならないだろう? だから、「患者の自己決定」というのはそれだけでは万全でないのだ。自己決定+功利主義、という 観点が入り込むのは避けられないのである。

娘を殺された親が、犯人に極刑を望む、社会もその親の気持ちを代弁して、早く死刑にしろ!と叫びまくる。しかし、もし犯人が植物人間になった場合、こんどは「殺すのはモッタイナイ!生かして(家族にも)苦しみを与えろ!」というだろう。犯人だけでなく、犯罪になんの関係もない家族にも何億円という賠償金を要求する被害者側(被害者でなく、その家族jなのだ)やそれをホイホイと、認める裁判所。

ほんとうに人間にとって 生 が必要と考えているのか?
ならば、現在 3万人毎年自殺しているヒトビトの命をなぜ救わないのか?
自殺者の多くの原因は病気ではなく貧困である。偶然の過ちでサラ金に手を出した、その結果、とたんの苦しみののち、死ぬ道を選んだ。しかも、サラ金の暴利を制限する法律ををいまだに、人でなしのサラ金、銀行ならともかく、国民の代表たる国会が献金をもらって改善しようとしないのだ。八つ裂きにして市中引き回し、とはこういう サラ金業者や国会議員に対してやるべきものなのだ。

脱線した。
自己決定にハナシを戻そう。
自己決定は絶対ではない。 わたくしのカラダ、は私だけの物ではない、のである。もちろん、これも独断である(一般に 所有、なるものは 存在しない。これは当たり前のことである。人間のきめごとにしかすぎない。現に 脳死による臓器摘出は 本人の了解無しに、家族だけで決められることになった。むろんこれに賛成しているのではない。つごうによりどうでも、権利だのを追加したり減らしたりするものだ、ということの一例)。 しかし、自己決定という一線をもうけないと、それ以上の巨悪が起こりうる、という危険があるため、 やむを得ず 設定した 判断基準である、ということは忘れてはならない。 いつでも、これを取り消しできる、第三項は存在する可能性がある。


クソ国家 ニッポン  多田富雄の闘い [Ethics]

NHKのドキュメンタリで 世界的な免疫学者多田富雄の現在の姿を放映した。よだれをだらだら流しながら、リハビリにつとめるおのれの姿のTV放映を許可した多田は、英雄である。

NHKドキュメンタリ↓:
http://www.nhk.or.jp/special/onair/051204.html

朝日新聞の本日4/8のコラムで、その多田富雄が、今回の診療報酬改定の非をうったえている。 多田のリハビリは保険対象外になる。リハビリを止めればどうなるか? 寝たきりになり、身体機能は劣化する。身体機能が劣化すればどうなるか。衰弱死である。

朝日新聞、記事↓
http://blog.goo.ne.jp/pkcdelta/e/ff0c48b7a8331b4870f77771f3c4767c

今回の改定は

 障害が180日で回復しなかったら死ね

というのと同じである。

都立病院では約8割の患者がリハビリを受けられなくなってしまうという。

言語療法も多田らは受けている。これも受けられなくなる。子どもの場合は悲惨だ。一生しゃべるな、ということになる。言語を失わずにすむ人間から言語を奪って良いのか?(注1) 人間の尊厳などありはしない。いっておくが、断じて 「ソクインの情」を掛けろ、といっているのではない。 「武士の情け」を求めているのでもない。お情け、ではないのだ。いのちがあり、いきたいとのぞむ人間を生かし、最低限の文化的な生活保証を要求する権利が患者にはあり、国はその生活を保障する義務があると、憲法に規定されている(第13条。憲法中最も重要な章である)。憲法で保証した権利を国民に与えようとしない、義務を遂行しない国家は、国家としての義務を放棄しているのであり、国家とは呼べない。国家の品格ではない、国家の存在価値そのものを多田は問うているのだ。

「今回の改定によって、何人の患者が社会から脱落し、尊厳を失い、命を落とすことになるか。そして一番弱い障害者に「死ね」といわんばかりの制度をつくる国が、どうして「福祉国家」といえるであろうか」 と多田は痛憤する。多田はこれを不自由な左手でパソコンに打ち込んだのだろう。

放っておけば身体も劣化して死に、言語機能も失われよう、という人間が不自由な片手でパソコンに打ち込んで、新聞に投書しているのだ。 これを学者のエゴ、だというのか?(注2) 

いま、誰がニッポンを福祉国家と呼んでいるだろう?
ニッポンは臭い物に蓋、の、クソ国家である。

来週から新学期が学校では始まる。中学校高校の社会科の授業の開始に当たって、先生は、まず、この 多田の意見(私の視点、4/8朝日新聞)を読むことから始めて欲しい。

わたしも切り取って娘に読ませよう。

どこが、愛国心だ。笑ってやれ。
Nation without People.


(注1)4/11
「言語を失わずにすむ人間から言語を奪って良いのか」という文章は、最初、「言語のない人間が人間とよべるか?」であった。今朝、書き換えた。 リハビリ治療を行っている読者からつぎの指摘をいただいたからである:

> でも、「言語のない人間が人間とよべるか?」には、正直愕然としました。

私が言いたいのは次のことである、と返事を書いた:

「治療を加えれば、何らかの言語を操作でき人間らしい生活ができることが分かっているのに、それをしないでおくのは問題だろう、といっているのであり、生まれながらにして言語機能がない人間を抹殺しろ、と言っているのではありません。今回の改定を放置すればその負担のあまり、生まれる前に親が胎内の子供の状態をチェックし(現在の技術なら分かります)、堕胎する、ということをやりだすでしょう」
以上
病気に対する恐怖、病人を家族親族に持つことの恐怖を植え付ける国は断じて文化国家とは言えない。 多田はこのことを言っている。

(注2) 4/10 追記
普通、世界的学者ならその権威を借りた発言として自粛するかも知れないところ、この発言をした多田を私は心から尊敬する。すなわち、肩書きをすべてはずした、イチ人間、イチ国民として発言している。

追記2: 4/10
コッカに多くを期待できぬことはすでに国民も理解しているところだが、この件に関して、全国に何十万いるとも知れぬ医師やリハビリ関連職員は なーーん、にも抗議活動をしないのか? 多田の意見に賛成なのか、反対なのか?Why? 医学部の学生、院生はだまーーているのか?知らないのか? 寂しき事態ではある。 そういえば、メジカルエシクス、とか、バイオエシクスとかいう言葉もあったなあ。。かつて。

追記3;4/11
民主、共産、民社、自民の各党、馬淵議員、亀井静香議員に 改悪反対するよう メールを出した。


死の問題 続 [Ethics]

                                

昼、TBSラジヲを聴いた。
また、鳥越さんが出てきて、例の末期治療患者致死事件の続き。
銀行に用があったのだが、駐車場に車を止めたまま、ジッと聴いていました!

鳥越が地元記者から聴いた話。
その後の病院どたばた劇(じつは家族は了承していなかったとか、病院が警察に通報したとか。。)の原因はなにか?と地元記者が親しい病院関係者に尋ねたら、その関係者曰く

「学閥です」

つまり担当部長の出た医学部(岐阜)と院長(地元、金沢)の確執があった。
部長の患者や家族に対する評判は非常に良い。これが確執に和を加えた。すなわち、院長の嫉妬心。
で、事件が発生したのを機にここをチャンスとばかり院長が騒いだ。。

。。。。と、鳥越さんは理解しておった。

今後?
こういう状況では警察も告発などできないだろう。。患者側から病院と警察に、ガンガン抗議が来るに決まっている。

## 考えたこと

学閥でどうのこうの、というのはどの病院でもある話だ。
いったい、大学医学部では何を教えているのだろうか?
こういう 閥ばなし、をいかにうまく乗り切るか、というコミュニケーション学をまなんでいないのだろうjか?
末期医療は、医術、というより、医者---患者---家族の間のコミュニケーション術の問題だ。
もちろん、患者になった場合、末期患者を抱えた家族の心得、など、中学高校から教えておくべきだ、とつくづく思ったね。
成功事例、失敗事例、のケースをデータベースとして残す。家族に公開する。
事前の学習資料とする。
それに、病院の外部から中立の(患者と、家族、病院)コンサルタント(複数、弁護士なども含める)を強制的に割り当て、病院や家族、患者を定期的にインタビュする。

もう、こういう制度、あるのかな?

ファミリードクターも高齢になったら(末期状態になる前に)割り当てた方が良いだろう。

*** などと、いうことを考えながら、家路についたのでありました。


ジジェクにおけるリベラル あるいは 徹底民主主義者のための無神論 [Ethics]

                                     
4/1、朝日新聞。ニューヨークタイムズのopinion翻訳。
哲学者、スラヴォイ・ジジェクの意見だ。
「他者の信仰を尊ぶ無神論」

##
「宗教原理主義者は、神の意志を実現し救済を得るために彼らが善と見なすことをする。
無神論者は、それが正しいことだから善を行う」

「近代欧州は、無神論を正当な選択と認め、公職への障害でなくさせた最初で唯一の文明である」

「憲法論争の時にスロベニアで荒れ狂った議論を思い出す。イスラム教徒のモスク建設を許可するべきかどうか。保守派が文化的、政治的な理由から反対する一方、リベラルな週刊誌ムラディナは一貫してモスクを支持、他者の権利の擁護に腐心し続けた。はたしてムラディナは、預言者ムハンマドの悪名高き風刺画を載せたスロベニアのわずかな出版物だった」

「イスラム教徒の唯一の味方は、ただ扇動のために風刺画を最初に載せた人々ではなく、表現の自由の理想のために再掲載した人たちだたということである」

「他者の信仰を尊重する2つの方法がある。相手の幻想を壊さず傷つけないように保護者の態度を取るか、いかなる真実の主張も無理な決めつけとしての複数の「真実の体制」を認める相対主義者の立場を取るか。
だがもう一つ、イスラム教を他の宗教と同様、尊敬すべきものとして、だがそれ故に厳しく真剣に分析対象にすることはできないか。イスラム教徒を、自らの信仰に責任を持つまじめな大人として扱うこと -- これこそ、イスラム教徒を真に尊敬していることを示す方法である」

哲学者ジジェクの文を読むのはこれが初めてである。
上記の引用に先立って、ジジェクは。。。

「「だれもが天国の恩寵や地獄の恐怖によってでなく、ただ神の愛だけのために善をなすことを望むがゆえに」。この本来のキリスト教の道徳的立場は、無神論にみられる。今日、この本来のキリスト教の道徳的立場は、無神論にみられる。
  宗教的原理論者は、神の意志を実現し救済を得るために彼らが善とみなすことをする。無神論者はそれが正しいことだから善を行う」

神の愛、ではなく、ひたすら、正しいことだから善を行う。
この態度は私を説得するに十分である。市民の市民による市民のための善なる行為。善=正義。

「イスラムの唯一の味方」は「表現の自由の理想」のために再掲載した人たちであった。これは厳しい選択である。民主主義の原理をイスラム側にも要求しているからだ。

表現の自由を認めること。表現の自由を認めることが、おのれの宗教的自由を阻害する、というのであれば、宗教を棄て、無神論を取れ、と言っているように聞こえる。
納得しうる立言である。

ほとんど引用になってしまった。
何を付け加えればいいだろうか。
ここで言っているのは、無神論、の復権である。
これからの世界を生きるための世界市民のための無神論である。ひとつの信仰といってよい。いや信条、か。

無神論をとるのにいいわけは不要である。無神論はあまたある宗教群の 地、ではなく、大きな柄、である。

英文記事は、3/12にnytに掲載された(今読もうとすると有料)。
イスラム聖職者はどのように応答したのだろうか。

つくづく、宗教などと、飛んでもないものを発明したもんだとおもう。人間は。

久しぶりにじっくり読み込んだ短文だった。


死の問題 [Ethics]

                     

今日は免許更新のための講習に行ってきた。
最初の30分はビデオを見せてくれた。シートベルトをすること!に最重点を置いているようだ。
私の住んでいる千葉県は全国比較で交通事故発生数と死者が多いからこれを減らすため警察も躍起である。ビデオの内容も、前回、5年前、と比べて、どぎつくなった。
スピード超過で追突、即死したドライバと、同乗者をそのまま映している(顔は隠しているが)。
シートベルトをせずに、頭からフロントガラスに突っ込み額を割って血まみれの姿(額以外の顔はぼかしているが)、歩道ではねられ死んだヒトなど、顔を背けたくなる映像もそのまま映している。

不思議なのは、ケータイは全面禁止になっているが、カーナビやTVはどうなんだろうか?運転中に使っているのか?見知らぬ市街区でカーナビみながらハンドルを切っていては通行人などへの注意がおろそかになる、と思うのだが。

さて。。延命治療の問題がまた起こった。

##朝日.com
富山県の射水市民病院でがんなどの末期患者7人の人工呼吸器が取り外され、死亡した問題で、残されたカルテには「家族の希望」などと記されていた。だが、同意取り付けの経緯は不明確で、病院内での合意も十分とはいえなかった。延命治療の停止は、やむを得ない選択だったのか。
##

今回気づいたのは、新聞やラジオ(わたしのTVいま故障中。。)の調子も、病院や医師を一方的に責めないようになったことだ。

TBSラジオで今朝、ジャーナリスト鳥越が語っていた。
1 良心的な医者ほど、延命治療はしない。家族、と、患者のココロを見抜いている。良心的でない医者は、なにも考えず、延命させておく。そのほうが、病院も稼げるのだ。
2 今回は大部分の家族から抗議など起きていない(つまり、同意したのだ。夕方の地元インタビュでも病院を非難する声は聞かれなかった。だから、病院の医師の行為が正しい、と直ちに結論を出すわけではないが。末期患者の家族親戚近所の人間以外、患者が生きようと死のうと関係ないのだから)
3 本人(家族ではない)の事前の意見(意思表明)を求めておくべきである。家族の声は参考にならない。とくに、遺産相続などの問題がある場合、生死の条件を家族が握ること、になるのは問題である。

(患者が、子供の場合は家族が判断するしかないだろうが)

物理的に生命を長引かせていることに何の価値もない(尊厳死)、というのは今や常識となったようだ。延命のための点滴や人工呼吸装置で「スパゲッティ」状態にし、床ずれで寝返りも打てない状態で只、ベッドの上にいるだけ、というのは家族も苦痛以外のなにものでもない。若い頃から、死(すなわち、生)の実態を教え、元気なうちに、みずから「尊厳死を望む」という意思表示をしておくよう(むろん、その気がある人は)自覚を求めるのがよい、とおもう。人間にとって、物理的な生存より、精神的な生存のほうが問題であるからだ(死者、との対話ができるのである。人間は)。

鳥越も言っていたように、生前の楽しい思い出も、死の直前が悲惨な状況であれば、帳消しになるのだ。終わりよければすべてよし。

ただし、尊厳死可否の判定は、慎重でなければならない(医師、も、当人=患者も、だ)。この基準について、医師病院は基準とその根拠を明示すべきだろう(もちろん、その基準に反対の人々はその判断を優先しなければならない)。思考能力が衰えてからではなく、それ以前に自分の意志を、医者や家族に示す方法を用意する必要がある。まったく、食事を受け付けなくなり、点滴だけを1ヶ月くらい続けた後、忽然と食欲がよみがえることもあるからだ。

人工呼吸状態から、それがはずせるようになる事例、その期間などの末期患者データをあつめ、公開してもらいたい。また、悪意の医師や家族から意思表示もママならぬ本人を守るための基準もつくってほしい。


宇都宮健児 プロフェッショナルとは  [Ethics]

                                          

 

先日NHKで『プロフェッショナル』という番組をやっていた(プロジェクトXの後釜らしい。あの『プロジェクトX』の下手な語りが流れ出すとカラダ中に蕁麻疹が発生するので、慌ててチャネルを変えていた)。

宇都宮健児弁護士が登場。私は宇都宮さんの「消費者金融」という岩波新書を数年前読んでいる。無私の精神、というコトバがある。この人を形容するためのコトバでは無かろうか。
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0204/sin_k62.html

番組の冒頭。都内の公園。深夜である。たむろするホームレスの男たち(ところで女性ホームレス、というのも多いのだろうか?)にビラを配っている男が入る。それが宇都宮さんだった。この番組の出だしは良かった。視聴者を釘付けにする効果がある。(宇都宮が配るビラには、『諦めずに闘おう』、というメッセージが書いてあった)番組は宇都宮氏の人柄を伝えていていた。
# 藤沢周平、山本周五郎が好き、であること。通勤電車で読んでいる。読んだ本をなにかの紙の裏に(紙を無駄遣いしない)リストアップしている。二度買いしないため、だそうだ。山本周五郎の短編にいいものがある、という。周五郎の短編が好き、というひとに悪い人はいまい(したがって、いまの代議士連中に周五郎のファンなどいまい)。
# パソコンが使えない(団塊の世代、である。しかし、宇都宮さん、PCを覚えたら100倍能率が上がるだろうに)。
# 宮部みゆきの「火車」は宇都宮がモデル。検索してみると、92年の新語「カード破産」は宇都宮の造語。新語賞を受賞している。
# 宇都宮さんは東大在学中に司法試験を合格した、が、その後の法曹活動は順調ではなかったらしい。某法律事務所で無給に近い仕事をしていた、とか。宇都宮事務所をなぜ銀座に構えているんですか?「いい質問ですね」と宇都宮は語り出す。「事務員を雇うとき、事務所が銀座にある、というと(女性)応募者が多いのです」。

と、ここまでおとなしく書いてきたがわたしは怒り心頭に発しているのである。なぜか?
この番組の冒頭、公園のビラ配りの後のナレーションで、宇都宮を
  「闇金融と闘う男」
と紹介した。取り立て屋も 宇都宮から受任通知(被害者から弁護士にまず、受任依頼をする。それ以後、取り立てを直接依頼者本人にすることは許されない。弁護士が代わって受ける)が届くと黙ってしまうらしい。しかし、これは宇都宮の活動のほんの一部にしかすぎない。たしかに、闇に向かって立つ宇都宮は、いまでは少なくなった英雄である。しかし、いま放送で訴えなければならないのはなにか?をこの番組は全く伝えていない。岩波新書で宇都宮は、一般利用者の利子をゼロに据え置いたまま、サラ金業者にはじゃぶじゃぶと金を貸しぼろ儲けしていること、中学高校生に対して消費者金融のこと(いかに恐ろしいか)をまったく教育していないこと、多重債務者はどこに訴えたらいいのかも知らない、教えられていない、という事実に怒っているのだ。岩波新書から引用してみよう。
「わが国では、多重債務者が深刻な問題となっているにもかかわらず、いまだに学校教育の中で自己破産や弁護士会などの相談窓口に関する知識や情報が全く教えられていません。このため、まだまだ多くの多重債務者が、自己破産や相談窓口に関する知識や情報を有しないため、その場しのぎの自転車操業を繰り返したり、夜逃げや自殺に追い込まれているのです」
「バブル崩壊後に生じた銀行の不良債権処理のためには、何十兆円もの公的資金(税金)が使われています。しかしながら、銀行の不良債権に何十兆円もの税金を使うのであれば、同じ規模の税金を使って、政府系金融機関や自治体の窓口における消費者・国民や中小零細事業者に対する公的低利金融制度を充実すべきなのではないでしょうか」
「これほどわが国の社会の中でサラ金が拡大しているのに、わが国の中学校や小学校においては、多重債務問題に関する教育はほとんど行われていません。
わが国の学校教育においては、出資法や利息制限法の金利規制、利息制限法の正弦利息を超える利息は支払い義務がないこと、多重債務者に陥った場合の相談窓口、自己破産や個人再生手続き、調停などの手続き、サラ金、クレジット業者から悪質な取り立てを受けた場合の対処方法、借金の保証人、借金の時効や相続などについての消費者教育はほとんど行われていません」
「「基本的人権ある」と何回念仏のように唱えても、基本的人権が守られ権利の行使ができるようになるわけではありません。人権侵害を受けた場合の相談窓口、裁判手続きなども併せて教育していかないと基本的人権は守れないのです。
消費者教育においても、「無駄遣いをしない」「クレジットやローンを計画的に利用する」というような観念的な消費者教育ではなく、自分の権利を行使する手続きや悪質業者を告発する手続きが行われなければ、社会に出て消費者被害にあった場合、全く役に立ちません。この意味で、被害にあわないための「賢い消費者」となる教育よりも、被害にあっても自らの権利を主張し、権利を行使できる「闘う消費者」となる教育が求められているのだと言えます。
そして、「闘う消費者」となる教育は、当然のことですが、自分が被害にあった場合だけではなく、他の消費者が被害にあった場合でも怒りと同情の念を抱き、共に消費者被害の根絶を目指して闘う消費者となるような教育でなければならないと考えます」

以上、岩波新書「消費者金融 – 実態と救済」の最後の部分から長めの引用をした。

しかし現実、法定上限利息も守られていない。むろん、法定利息制限を超えるサラ金業者からの支払い請求に応じる必要はない。しかし、問題は現在の制度では利用者が法律違反であることを立証するため個別に裁判を起こさねば権利を主張できない、ということだ。消費者金融に関して無知蒙昧におとしめられている一般利用者が、裁判知識などあろうハズもない。そこにサラ金業者や大銀行がつけ込んでいるのである。しかも、この利用者からみて不便な現在の制度を改革したり、より厳しい利息制限を設定する動きもあるが、先日の朝日新聞によれば、驚くべきことにそれに反対する議員がいるのだ(業者や銀行から献金を受けているのだろう。まさに、社会のゴミ、社会の敵、である。もちろん、利用者の預金金利を十年以上にわたりゼロにしておいて、サラ金にじゃぶじゃぶ金を貸し、さらに、各種手数料を平気で値上げしている銀行も同罪である。むろん、監督官庁である金融庁も、だ)。

いまやまったく頼りにならない(プロフェッショナルと呼べない)国会議員や弁護士(宇都宮のように消費者金融被害者を救う弁護士は少ない、という。儲からないからだ。番組では、一件、毎月二万円であっても何百件も引き受ければ一応の収入になる、と宇都宮は言っていた)のなかで、宇都宮のようなひとは貴重である。NHKは、公共放送というのならば、宇都宮を紹介するのではなく、引用した宇都宮のメッセージを伝えるべきではないか?消費者金融はもとより、国の金融行政のあり方を問わねばならないのではないか?どこからも広告収入を得ていません、と念仏のようにとなえていれば責任をまぬかれるとでもおもっているのか。

(追記) 広告を放送せず、受信料だけを収入源とすること、をもって、「公共放送」の定義としているらしいNHKの欺瞞については別に論じよう。

(追記2) TVが故障したので最近もっぱら、TBSラジオを聴いている。人生相談をときどき、聴くのだが、サラ金問題で悩んでいる人が予想通り多い。問題は、回答者が、的確に応えていないのだ。子供がサラ金に手を出し親に支払いを求める、あるいは、子供の行方が知れず取り立てにうるさくまといつかれる。。というナヤミに、回答者が全く答えにならない答えをしている。子供を責めたってしょうがない。現在の仕組みであれば、信用調査もいい加減、ですぐにATMから借りられるのだ。こういう質問もあった。ムスメと同棲していたマンションの相手が自殺した、という。マンションの大家がその娘の親に、その部屋が貸せなくなった、賠償をよこせ、と内容証明付きの請求をよこしたというのだ。回答者は弁護士福嶋瑞穂(おそらく、社会党党首、の、だろう)だった。血などで部屋を汚したのならともかく、こんな請求にそもそもおたおたするのはおかしいのだ。断固はねつけ、そのうえで、弁護士などに相談すればそれっきりのはなしだ。請求額も500万とか1000万とかいうハナシ。なぜ、福島さんは、そんな請求に応じる必要は絶対にありません、といわなかったのか。

悩み事はいろいろ、人生の局面で出てくる。個人の責任とせず、社会の問題として、その対処の仕方を学校できちんと教えておくべきだろう。もちろん、政府の政策にも反映すべきだ。サラ金ひとつとってみても、公的資金を低い利子で貸し付け、職業訓練なども無料、あるいは長期貸し付けにするなどの支援を公衆に対して行えば、現在定常的に年間三万人である自殺者は激減するだろう。


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