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母と暮らせば [Cinema]

本記事は映画評。内容に触れるから、これから映画を見る予定の人で先にストーリを知したくないひと、はパスした方がいいかも。

大晦日の午後急に見たくなったので一人で行ってきた。一緒に見ようというたじゃない!と、後で娘から文句を言われたが。イオンのシネコン。午後4時からの上映、なんと、館内はガラガラ。本当にガラガラで、約300人収容のスクリーンに観客は私一人!一瞬、スクリーンを間違えたか?と半券を見直したくらいだ。だが、一番後ろの高い場所を見上げると(階段状の座席)一人だけ客が座っていた。私はスクリーン正面の特等席。二人の観客で大画面を眺めたのである。上映中、とくに前半、その客がクツクツとよく笑った。笑い声から婦人だと判断したのだが、終映後ゆっくり降りてきたのはおじさんだった(わたしもおじさんだが。。)。

...

広島原爆を背景にした『父と暮らせば』。この映画は長崎原爆を背景にした家族ドラマである。昭和20年8月9日11時頃落とされたプルトニウム原爆で、吉永小百合演じる母の一人息子が、長崎医大で受講中に爆死する。小百合の旦那はずいぶん前になくなっている。息子には将来を約した恋人(マチコ)がいた。息子のことは忘れていい人がいたら結婚して、と、マチコを諭す小百合。いいのです、わたしは一生一人で生きていきます、と決意を示すマチコ。

最終的にマチコは背の高い無口の恋人(片足を失っている)を見つけて婚約する。(なぜ、マチコが翻意したか、を、わたしは見逃した)。

これだけの話である。小百合の息子はわたしからみると、まだ、子供でオッチョコチョイ(私の娘が昔夢中だった人気グループ『嵐』のメンバーらしい)。これが映画を浅くしていると思う。『父と暮らせば』との違いだ。この息子は亡霊となって現れた当初、小百合に対して、マチコが結婚するのに絶対反対していた。マチコにふさわしいのは俺だけだ!というのだ(ようゆうわ、このオッチョコチョイ目が <- これわ私の意見。息子に人間として、男性としての魅力ゼロ、であるところがこの映画の大きな弱点だ。『父と暮らせば』の宮沢りえは、女性として、すぐに結婚してもいい、実質を備えていた。この映画では、息子を、医大を卒業した社会人=医師になりたてほやほや、勤務中に爆死、として設定せねばならなかったはずである)。

映画で描かれるのは戦時中の長崎。終戦までの群や警察の横暴と、終戦直後の物資不足。物資不足の中でも、闇商品でたくましく生きていく長崎の人々。小百合の家にも知り合いの闇屋(小百合を恋慕している)がおり、小百合はその横流し商品でなんとか健康を保っているという設定だ。小百合は産婆を職業としている。

最終的に小百合は体力消耗して死ぬのだが。。。ストーリだけを眺めれば、オッチョコチョイ息子の亡霊はほとんど用をなしていない。ストーリ進行になんの役割も果たしていない。いてもいなくてもいい存在である、ということだ。このへんが、『父と暮らせば』の父親(原田)と大きな違いだ。『父』では、亡霊の父親がいなければ娘の宮沢りえは結婚を拒否する女、として一生を暮らしたろう(ただし、原田が演じる父親(娘は宮沢りえ)は亡霊のくせにお節介が過ぎ、広島にはこんなお節介な父親はいない、と私は考えているから、『父と暮らせば』に私の点数は辛い)。

小百合の住む家は、被爆地からは十キロ以上?離れた、長崎湾を見下ろす丘の途中にある。原爆の被害はなかった。長崎にはキリスト教徒が多い。小百合の家もキリスト教である。ただし、土俗化しており仏教色も混じっているキリスト教である、と長崎の知人から聞いている。

映画への不満はいろいろある。まず、原爆の描き方が淡泊すぎる。原爆投下三年後の長崎が舞台だ。長崎では異常出産はなかったのだろうか?小百合は産婆なのだから、話を異常出産など原爆被害にひきつけられなかったか?しかも、息子は医大生。福島原発事故後、放射能被曝で苦しんでいる日本との関連、現代的視点が全くないのはどうしたことか。

音楽は坂本龍一が担当している。重要な場面で流れてくるのはマーラーの緩徐楽章に似た音。最終場面の大コーラスを含め、すべてマーラーの曲で統一してもいいのではないか、という気もした。

小百合の映画をこの前、映画館で見たのはいつか?と考えたが、どうも、70年代の青春の門、が最後のようだ。私が結婚したての頃すんでいた大宮の小便くさい映画館で妻と一緒に見た(青春の門では、死んだ仲代達矢の妻だった小百合が、小林旭と再婚する、という設定。女盛りの美しい着物姿だった)。その前は、というと、17~18歳の頃、広島市内の映画館でみた青春映画だ。小百合を好きではないが、あの声は昔と同じ全く衰えず、どきどきさせる。この日も、わたしは、最初、画面の小百合の顔を正視できなかった(ドキドキ)。だが、現在の年齢を考えると、映画の役はちょっと苦しいね、美しい小百合であっても。。。

小百合やマチコの長崎弁は、もすこし、どぎつくてもよかったのじゃないか。宮沢りえもがんばって広島弁をなんとか操っていたんだから。。。

。。というわけで、おしまい。娘ともう一回見るかもしれない。

大ヒット上映中、といっているが、実情は違うらしい。。この内容ではヒットは無理だね。吉永小百合を栄養失調?病気?で死なせるくらいなら、『父と暮らせば』とおなじく、爆死させ、亡霊として登場させ、生き残った息子(ただし、俳優は変えてよね)を助ける設定にすべきだった。ストーリは大幅に変更する必要がある。結婚を拒む、被曝した息子(たとえば、異常出産を恐れて)に、結婚を勧める役割、とか(これは現在に通じるアクチュアルな問題を提起しよう。)、あるいは結婚だけがすべてではない、子供を作るだけが結婚だけではないではないか、と、果てしない問答を繰り返す親子。産婆が、亡き母の職業であった、という設定がここで生きるのである。

この映画のラストは感動的である。親や祖父祖母が原爆被害者である長崎市民には感動を与えたろう。だが、戦争を生きた一人の婦人の生涯、という以上の感動は与えない。述べたように、フクシマの問題に切り込んでほしかった。


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映画の教えるもの    許されざる者 偽りなき者 悪人  [Cinema]

昨日から今日にかけて3本のDVDを見た。

夕べ、『許されざる者』(日本製、リメーク版)。
今日、『偽りなき者』 と、『悪人』。

『悪人』の監督は李相日。許されざる者、と同一。悪人は秀作だが、許されざる者は凡作である。米国版『許されざる者』(これは文句なしに駄作)に引きずられたとしか思えない。 ...

偽りなき者。
これは幼児の嘘の犠牲に大人がなる。。という話だ。幼稚園の女の子が、男性職員(高学歴だが会社が倒産して失業。しかたなく幼稚園職員をつとめている。。)に性的虐待を受けた、と嘘をつく。男性は解雇されルと同時に地域から攻撃を受ける。信じてくれるのは長男だけ(妻とは離婚。長男と会っても電話してもならない、という裁定が下されている)。

問題なのは映画を見ている人はこの男性は無実である、と現実の生活では不可能な<客観的知識>を撮影レンズにより与えることである。これでは、男性の受ける地域からの嫌がらせや無理解があったとしても、これを根拠なきもの、と<安心して>観客が見ることが出来、映画のおもしろさを損なう。ちょうど、映画『それでも僕はやってない』の観客が主役は電車で痴漢などしていない、ということを前提として知っている(そのように映像が示している)のと同じこと。 黒澤『羅生門』的なおもしろさが全くない。いかに羅生門が映像的に画期的であるか、を示しているということにもなろう。 人間の世に客観的な真実も嘘も無い。あるのは噂に基づく主観だけである。

『悪人』は出会い系サイトで会った男女が殺人に巻き込まれ、逃避行を続ける話である。吉田修一原作。数年前評判になった新聞小説と映画だが。。わたしは無視していた。ふと気になって見たDVDがこれほどの傑作であるとは。。。我が人生のベストスリーに入れたい映画である。途中何度も泣かされた。殺人を犯した主役の存在感は薄いが(そういう映画評も多い)、存在感が強くては困るのである。現代社会が量産する貧困家庭と、倫理と正義の不在が産み出す殺人がどれほどの悪なのか、というのがテーマなのだ。 殺人は果たして個人の罪なのか。

『許されざる者』で見るべきは、北海道の景観のみ。 許されざる者、とは誰のことなのか? イーストウッド版ではラスト、<悪徳>保安官~ジーンハックマン(日本版では佐藤浩市)がイーストウッドに撃ち殺される前に「どうしてオレが死ななければならないのか?」と自問する。正当な疑問である(佐藤浩市も同じ台詞を吐いて良かった)。 許されざる者、とは、イーストウッド、渡辺謙が演じた<賞金稼ぎ>、である。

偽りなき者
http://www.youtube.com/watch?v=OXqX3YppNyI
許されざる者
http://wwws.warnerbros.co.jp/yurusarezaru/index.html 日本版
悪人
http://www.youtube.com/watch?v=lw-o2Pcivpk

娘も悪人を観たといっている。どういう出会いを人生でするかは分からない。この事件のような殺人事件に巡り会わないとも限らない。どうであっても、魂を込めた恋愛をして欲しいし人生を歩んで欲しいものである。

偽りなき者、悪人、。。。この2本は学校で生徒に必ず見せ、討論させるべき映画では無いだろうか。

映画 グスコーブドリの伝記 [Cinema]

http://wwws.warnerbros.co.jp/budori/

映画を見た。

入館する直前に、映画館ロビーにて賢治の原作を電子ブックで読み終わった。私がこの映画を作るなら、猫ちゃんの話にせずに、原作通り人間の世界の話としたい。映画は2時間だが、30分の長さに収めたいものだ。 結末部、まだ若い主人公ブドリは、63歳になる火山局長を押しとどめ(失敗した場合、あなたにはさらに対策を立ててもらわねばなりません。。と)、ひとりで火山に残る。。火山が爆発した(ブドリが爆発させた。。。)後、気温が上がり、実りの秋が再び訪れる。。。原作の、この簡潔な幕切れに、若いブドリが示した人間精神の高邁さと自己犠牲のうつくしさにわたしは感動いたしました。小学生の時(半世紀も前。。。)、国語の教科書で読んだときの感動が再びよみがえったのです。

グスコーブドリの伝記。最後を引用します。

 ところが六月もはじめになって、まだ黄いろなオリザの苗や、芽を出さない木を見ますと、ブドリはもういても立ってもいられませんでした。このままで過ぎるなら、森にも野原にも、ちょうどあの年のブドリの家族のようになる人がたくさんできるのです。ブドリはまるで物も食べずに幾晩も幾晩も考えました。ある晩ブドリは、クーボー大博士のうちをたずねました。
「先生、気層のなかに炭酸ガスがふえて来れば暖かくなるのですか。」
「それはなるだろう。地球ができてからいままでの気温は、たいてい空気中の炭酸ガスの量できまっていたと言われるくらいだからね。」
「カルボナード火山島が、いま爆発したら、この気候を変えるくらいの炭酸ガスを噴ふくでしょうか。」
「それは僕も計算した。あれがいま爆発すれば、ガスはすぐ大循環の上層の風にまじって地球ぜんたいを包むだろう。そして下層の空気や地表からの熱の放散を防ぎ、地球全体を平均で五度ぐらい暖かくするだろうと思う。」
「先生、あれを今すぐ噴かせられないでしょうか。」
「それはできるだろう。けれども、その仕事に行ったもののうち、最後の一人はどうしても逃げられないのでね。」
「先生、私にそれをやらしてください。どうか先生からペンネン先生へお許しの出るようおことばをください。」
「それはいけない。きみはまだ若いし、いまのきみの仕事にかわれるものはそうはない。」
「私のようなものは、これからたくさんできます。私よりもっともっとなんでもできる人が、私よりもっと立派にもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから。」
「その相談は僕はいかん。ペンネン技師に話したまえ。」
 ブドリは帰って来て、ペンネン技師に相談しました。技師はうなずきました。
「それはいい。けれども僕がやろう。僕はことしもう六十三なのだ。ここで死ぬなら全く本望というものだ。」
「先生、けれどもこの仕事はまだあんまり不確かです。一ぺんうまく爆発してもまもなくガスが雨にとられてしまうかもしれませんし、また何もかも思ったとおりいかないかもしれません。先生が今度おいでになってしまっては、あとなんともくふうがつかなくなると存じます。」
 老技師はだまって首をたれてしまいました。
 それから三日の後、火山局の船が、カルボナード島へ急いで行きました。そこへいくつものやぐらは建ち、電線は連結されました。
 すっかりしたくができると、ブドリはみんなを船で帰してしまって、じぶんは一人島に残りました。
 そしてその次の日、イーハトーヴの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、日や月が銅あかがねいろになったのを見ました。
 けれどもそれから三四日たちますと、気候はぐんぐん暖かくなってきて、その秋はほぼ普通の作柄になりました。そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪たきぎで楽しく暮らすことができたのでした。http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1924_14254.html


映画『八日目の蝉』を観る [Cinema]

5月3日、長女と映画『八日目の蝉』を観た。以下その感想。mixiに書いた日記をほぼ、そのまま引用するので多少読みにくい所は勘弁を。正確な映画情報は、ネット検索で入手して、補整をお願いする。解釈については私も現在、映画を思い出しながら、試稿錯誤=思考中なので、おいおい変更追加はあり得ます。

 

 以下の記載は、映画の内容に触れています。

 

[ストーリ] 愛人である女性が、相手夫婦の赤ん坊を留守宅に忍び入って誘拐する。女性は子供の産めないカラダになっていた。4年間逃避行を続け、母親と偽って育てる。が、逃避行中、田舎で生活している親子の写真が入賞写真として新聞に掲載されたため(さらなる偶然として、逃亡中の母がが、この新聞写真を見て、安定した生活を捨てて再逃亡を図る。。)、母親は警察に逮捕、裁判のうえ6年の懲役刑。赤ん坊は成長し、大学生として一人生活を続け、妻子のある男の愛人となり、子供を身籠もってしまう。この大学生と同じ境遇を味わった、少し年上の女性記者とともに、過去の記憶を手繰る旅の過程で、身籠もった子を育てようと再出発を誓うまでの日々。「育ての母」との逃避行の日々と、その幼い日々の記憶を辿るための現在の旅が交錯する。美しい四国の田園や森、小豆島、瀬戸の海、の自然と田舎の人々との交流が描かれる。

原作は角田光代の同名の小説である。書店による小説の概略は次のよう:

不倫相手の留守宅に忍び込み、本妻の生んだ乳飲み子を思わず連れ去ってしまうヒロイン希和子。その希和子に逮捕までの数年間、愛情を注がれて育てられる娘。親元に戻された娘と生みの親たちの戸惑い。やがて娘は成人し、新たな人生を生きる。あたかも七日で死ぬべき蝉が八日目を生きるように、あるべき人生から大きく逸脱した世界を生きる。八日目の先は懸命に生きるしかない。第2回中央公論文芸賞受賞。

長女と映画を観に行った。(八日目の蝉)。ダメ男とエゴ女、犠牲は子供たち。帰りの車の中でムスメと激論。この映画、男女の間で批評し合わない方がヨサソうである。

まず、子役、とくに、赤ん坊が力演であった。 余貴美子、田中泯の存在感が(現実離れした)輝きをみせる。蜂谷真紀(マイミク、ヴォイスアーチスト)も出演、安心して見ることができた。プロの技、である。結局ハッピーエンド風な終わり方になるのだが。。大人への<教育映画>か。私の次女にも見せたい映画だ。登場人物の誰にも感情移入できない映画だったが、主役(赤ん坊のとき、誘拐されて、育てられた女性)にまとわりつく女性記者の素性が明らかになるにつれ、ゆいつ失点の少ない(観客からの共感の得やすい、しかもこの女性がいないと主人公は立ち直れなかったろう、という)登場人物となった。あの共感を得ない登場の仕方(目つきや、態度)にする必然性がまったくない、とおもうのだが。

余貴美子(女性の社会離脱者が集団生活をする団体の教祖的リーダー)の役も、あれほどオーラを発揮しないタイプもあり得たのではないか。マザーテレサ風の。さらに、リーダーの存在しない、より、ありふれた共同体、というのもあり得たのではないか(NGOに近い)。もひとつ、逃避行の母親が泣きすぎた。なぜ泣くのだろう?不幸でも何でもない、覚悟の逃避行であるのに(不幸なのはむしろ娘のほうだ。この辺、誘拐した母親自身の熟慮と確信の無さ、が共感しにくい)。娘を、手放そうと決断すればいつでもそうできた立場だ。一滴も涙を流さない逃避行+裁判、服役、もあり、ではないか。そうでないと観客へのインパクトは弱い。確信の行為であるはず、なのだ。

この二人の母親の(誘拐した母親の、服役後の)、対決の場、がほしかった、何らかの。それがなければこの映画の主題は解決しない(し、映画にしてみせるだけの価値が弱い、とおもう。つまり、続編がありうる。続編では、男どもも、しゃしゃり出てほしい。フリンは共犯、もとい、共同行為、なのだ。しかも、極めてありふれた)。両方の母親は判決後、画面からは姿を消す。父親だけが情けない姿を(しかも、これ以外にはありようがない、というう姿を)、一度だけ、娘の前にさらす。

わたしの長女が一番共感(というか、同情)していたのは子を奪われた母親だった。(これが、わたしと議論になったところ) 。わたしは、なぜ赤ん坊を奪われた母親があんなにヒステリを起こすのか、家庭で、裁判所で。。わからない、と失言してしまった。長女は、「なら、父さんは私の娘が同じように奪われたとして、冷静でいられる?」と反撃してきた。それはその時になってみなければわからぬ、と私が答えると、そらみろ!という顔をする。しかしこれは、わたしの長女が殺されたときわたしが殺人犯に対して冷静でおられるか、死刑廃止論者の私もそのとき、「死刑だ!」と叫ばないかどうか、という問題。わたしに自信はない。つまり、事件の当事者は、冷静な判断者ではなくなる(だから、殺人被害者の家族が、裁判に登場して意見を述べるなど、とんでもないことなのだ)。もちろん、死刑廃止論者ならば、自分の家族が殺されても死刑廃止をつらぬくべきであることはわかっている(安田好弘弁護士は、安田の家族が殺されても死刑反対を貫く、と、述べている)。

さて。。


映画では娘が、約15年前の、育ての母(と自分の幼い頃)の逃避行を追体験していきながら再生、回復していく。。のだが、母親(おとな視線)の体験映像(観客がカメラで観る映像)と、それが当時の幼い娘の眼にどう映じたか、を観客が切り分けられるか、が難しいところ。ごっちゃになってしまう。

零歳から6歳までを別の母親に育てられれば、その育ての母が<母>になってしまう。しかし、鳥や犬猫ではない人間は、後で、自分のリアルな恋愛を肥やしにして、<過去の自分や両親たちの体験の再構成、解釈変更>により、育ての母も生みの母とも離れたところで、自己を確立する。。母離れをしろ!という意味で私は主人公の娘の生き方を大きく肯定する(双方の母に理解を示す娘は、腹の中の、妻子ある男との間にできた子供をどのようにそだてるか)。母、とはなにか、を考えさせる映画だ。あるいは、生まれる子供は誰のものか?(もちろん、学習するのはオンナだけではない。この映画はむしろ、男どもに対する教育映画、といってもよい)。 人間は父親、母親として生まれるのではなく、父親、母親になっていくのだ。この映画のように、ある男女のなりゆきによりフリンの結果として、赤子を奪い、奪われる、ことも生じるだろう。そういう体験など絶対に私にはあり得ない、という人もいようが、その想定をとりはずし、自分だったら、あるいは、娘や息子にそういう事態が発生したらどう行為すべきか、考えるのは有用だろう。

私(古井戸)の娘も、映画の登場人物=幼児を奪い、奪われる立場、に、将来、なる可能性はあるわけだ(あるいは、彼女らの母に)。この映画を観て母とは何か、を彼女らなりに思考してほしい、とおもう。

人間を癒すのは、都会ではなく、田舎の風景と、人間たち=共同体。。というのがこの映画の一つのメッセージのような気がするが。。田舎の自然も、人心も、壊れつつあるのではないだろうか。人からも、自然からも支援を受けられない環境で自己を確立できるのか。これはオープンクエスチョンである。  

ルソーは生まれた5人の子供を次々と孤児院に入れた(俺が育ててもろくな人間にならない、という理由だと聞いた)。当時のジュネーブの子供のうち、半数は孤児院育ちであったという。子供は、生みの母親が育てるのがいい、とはもちろん、誰にも言えない。裁判所が下す日常論理に従った判決のみを正当とする視覚でこの映画を観ても得るものは何もないことは自明である。この映画は(原作も?)そのような凡庸な解釈は最初から拒否しているように見えたのは一つの救いである。 


映画の終わり方がハッピーエンド風、と最初に書いたが、小康状態を得た、というだけであり、これから先どういう運命が生まれる子供(とその母と父、父の妻)に待っているのか。予測は付かない。

18:05からの上映だった(pm6以後の上映は割引で1800円ー>1200円)が、終わったのは9時前。長かった。映画が終わって、クレジットが画面に流れているとき誰も席を立たなかった。席は5割くらい埋まっていたかな?200席くらいの小さなホール。 

ユーカリが丘(千葉県)のワーナマイカル(シネコン)で観た。なぜ近所(千葉ニュータウン)のワーナーではこの映画を上映しないのか?(もうひとつのシネコン=シネリーブルは311地震で壊れてまだ点検中。娘によれば、館内のスプリンクラーが作動して水浸しになったとか)。  

なお、わたしは、この映画の原作を読んでいない。これから読む予定もない。

 

ネットで他の映画評を読んで(とくに女性の)、感想の相違に愕然とする。誘拐してまで育てよう、という発想が男(=私のことだが)、には全く理解できないようである。しかも、誘拐された側の母の、誘拐犯に対する、私の理解を越える激しい怒り、と、誘拐してまで育てよう、という心理は綺麗に両立するモノのようである。子供は誰の所有物か。法律や生物学の規定を越えたところにしか答えはない。生んだ母のものではない。育ての母のモノでもない。双方のエゴを越えたところに答えを見つけなければならない。そのかぎりで、二人の<親>に和解のチャンスは将来ある、とおもうのだが。だれも、他の誰をも所有できない、という地点で。 

余貴美子、田中泯が特異な(得意な)キャラクタを演じているが、この二人の役柄は交換してもよかった、とおもう。田中が組織のリーダー役を演じるの現実にあった事件(ヤマギシ会、イエスの箱船、オウム。。)と連想されやすいのが難点か。この二人は昨年のNHK ETVで、ロシアの作家トルストイとその妻ソフィアとして、彼らの残した日記を交互に読むという<朗読劇>を見事に演じた。私はその番組で余さんを初めて知った。彼女ならこの映画で赤ん坊を奪う役、奪われる役を与えられても十分演じ分けると思う。多少のストーリは変更する必要はあるだろうが田中泯にフリンの相手として登場してもらい、二人の対決の場面をこしらえたらどうなるか。私はその空想を愉しんだ。



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映画を観て、三日が経過した。

乳飲み子を奪って4年も露見せず生活することができる、というのはあり得ない話だがそれは置いておく。この事件は刑法に照らして犯罪なのだろうが、道徳的にそれほど大きな犯罪とは言えない、と私は思うようになった。むろん映画を観た直後にもそう感じてはいたのだが。事情があって育てることができない両親が孤児院、病院に預けて育児を放棄する、のとどう違うか。まず、誘拐の場合は子供が育っているのか(あるいは殺されたのか)まったく不明。露見する4年間の苦痛は想像を絶するモノがある、したがって、誘拐犯は相応の処罰が適当である、と、法律家なら言うだろう。この映画の母親もそういうはずである(裁判所の判決言い渡しの際の態度から察するに)。しかし、夫の愛人であった、子供を持つことができないカラダになっている、という事情を考慮、さらに、子供をきちんと4年間育ててきた、ということを考慮すると、わたしは微罪、執行猶予を付けてもよい、と思っている。この映画では一人生活をする娘に、父親が心配して会いに来る場面がある。生活費を渡そうとするが、娘が、いらないよ、わたしはバイトしているし、と受け取るのを断る。父親は、そうか、と言って立ち去る。文章では伝えるのが難しいが、子供に対する愛情は十分伝わってきた。ちょい役でしかない、この父親は何を考えてきたのだろう、いま、なにを考えているのだろう?この映画のなかで、唯一、共感できる人物として私の中では、この父親がせりあがってきつつある。彼以外の登場人物は、すべて、背景である。。。登場人物のすべてが欠損を背負い、救出を求めている。 夫の愛人が赤子を奪って逃亡中。その状況下で、そして、誘拐者が逮捕され子供が戻ってきた、それ以降も、この夫婦は同じ屋根の下で、おそらく地獄の、歳月を過ごす。その地獄を、逃走中の<母>、保釈後の<母>は想像したろうか。画面に映らないところに真実がある。


もう一回、この映画を観てくる予定である。


さまざまのこと思ひ出す [Cinema]

NHK BSで、また、『黒澤明特集』をやりだした。今年中に黒澤映画全30本を放映するという。
 
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黒澤映画のなかで忘れられないのは『椿三十郎』である。

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私の中学2年の頃、同じクラス、クラブ(軟式庭球部)も同じの、U君という仲のよい友人がいた。彼は大の映画好き、とくに西部劇に狂っていた。田舎のことだから西部劇を見ようと思えば広島市の映画館に行く他はない。彼はよくでかけたらしい。彼が広島で見た黒澤『用心棒』が忘れられず、その続編『椿三十郎』が、わが田舎町に一軒だけあった準封切り映画館に掛かっているのを見つけ、見にいこう、と私を誘ったのである。当時、中学校はなぜだか、映画館に行くことを生徒に禁じていたのだが。週末に二人でギーコギーコ自転車をこいで家から4キロ先にある映画館まででかけた。当時のチケット代、大人40円、子供(中学生以下)20円。

椿三十郎は悪役の仲代が素晴らしく、用心棒をしのぐ出来である。ラストの決闘も素晴らしい。

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実は小学生のとき『隠し砦の三悪人』、中学一年のとき『七人の侍』を学校で観ていたのだが、講堂や体育館での映画鑑賞会だから、外光は漏れ入るし、スクリーンも白い布の皺がきになり条件が悪かった。この二本が、あの黒澤映画であると知ったのもずいぶん後のことである。


以後、わたしも黒澤映画のファンとなりすべてみることになったが、劇場で観たのは、U君に誘われて、いまは消えた田舎の映画館でみた椿三十郎だけ、である。

U君はその後、小学校教師となり、田舎の周辺の町で教師をやったあと、故郷の町の小さな小学校の校長になった。私たちが小学生のころ200~300人いた学校だが、彼が校長として戻ったころは、全校生徒1~6年をかき集めても一クラス編成するのがやっとであった。その小学校は、映画館があった場所から50メートルも離れていない。映画館はとうの昔に潰れていた。私たちが椿三十郎を見た頃、日本全体で年間の映画観客数が10億人を数えた。しかし、この数年をピークとして、以降、5年で約半数に減少した。用心棒、椿三十郎の頃、テレビが日本中の家庭にあっというまに拡大し、映画館から客を奪ったのだ。田舎の我が家にもこのころ、やっと、テレビが入った。

080407_1004~01.JPG わが故郷。昔、映画館があったんじゃけの。 



校長になってしばらくしてU君が病気で亡くなったと、田舎の母が知らせてくれたのは、十数年前のことである。田舎の中学校から百メートルも離れていない墓所にご両親が建てられた立派な墓の下で彼は眠っている。




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さまざまの事おもひ出す桜かな              芭蕉




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人の惑星から猿の惑星へ [Cinema]

1973年ごろだったか、もらったチケットで気乗りもせぬエルヴィスの映画(Elvis On Tour。ぶくぶくに太っており、幻滅)を観に入った映画館@名古屋で、併映されていたのが(当時、名古屋は封切館でも二本立てだった)、SF映画『ソイレント・グリーン』、チャールトンヘストン主演。

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2020年頃のある大都市。そのころ、人口は増大の一途を辿り、食糧は不足。
食品会社ソイレントが売り出す、製法不明、成分不詳の食べ物= ソイレント・グリーン とは。。。

ベッドに寝た老人を<食品>加工工場に送るとき、高らかに鳴る音楽はベートーベンの田園交響曲。以後、わたくしはこの曲を聴くたびにこの場面を想い出すハメに陥ったのであります。

               080407_0943~01.JPG 栄養満点


なんだか、ニッポンの近未来を暗示しているような。 最近の各種調査によると延命治療を望まない日本人は8割程度。國にうとまれる高齢者はドンドン増えていく。いわく、『後期高齢者』、『末期高齢者』。 この國の、行き着く先は?


わたしは、子供を寝かしつけるときに読んでやった童話の本、『とうもろこしおばあさん』、を思いだしていた。



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映画館経営者よ。 観客の安全を言い訳にするな  『靖国』その3 [Cinema]

毎日新聞4/4

「靖国」上映中止:名古屋シネマテーク、上映延期 支配人「客の安全考えた」 /愛知

◇保守系団体中止要求
 ドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の上映中止問題で、5月3~30日の公開を予定していた「名古屋シネマテーク」(名古屋市千種区)も延期を決めたことが3日、明らかになった。同館の平野勇治支配人は、保守系団体から上映中止を求められたことを認めたうえで「あくまで自主的判断。客の安全を考えた」と話す。
(略)

平野支配人によると2日、保守系団体の2人が同館を訪れ、「映画は見ていない」と断ったうえで、内容が靖国批判だとして上映中止を求めた。平野支配人が「靖国を肯定的に描いた映画と同時上映をしてはどうか」と打診したが拒否され、物別れに終わったという。

 上映初日の予定だった5月3日は憲法記念日で政治色が強い日でもあり、平野支配人は「少し前からこの日のスタートは難しいと考えていた。延期は圧力に屈したわけではなく、あくまでも自主的判断」と話す。


ここまで堂々と開き直る映画館支配人がいるとはおどろいた。

観客の安全をダシにするでない。テメエの勇気がないだけである。<観客の安全>を理由に公開を中止することは、言論・表現の自由を侵害する一派を増長し、危険は一層増すのである。すなわち、観客の安全より 大事なモノがあるのである。


そもそも映画の鑑賞で危険を感じるのならなぜ、ドーカツに来た右翼ヤクザを警察に突き出さないのか?恫喝が巧妙であって警察沙汰にできないのであれば、少なくとも、ドーカツヤクザの氏名と団体、発言内容を公開せよ(どうせ愚にもつかない内容だろうが)。 何も明かさないで、 観客の安全、だけをダシにして 映画公開停止するなど、表現する場を提供する事業者・経営者たる資格はない。

この支配人は本屋にでかけたことはないのか? 靖国批判本など、掃いて捨てるほど本屋に溢れているではないか。
映画館に右翼が襲撃を掛けて観客に被害が及んだ場合、映画館の責任ではない。襲撃を掛けたり、映画館の業務妨害する人間を逮捕・勾留、重罪を課せばいいのである。 だれもテメーのような腰抜け支配人の責任を問いはしないから安心せよ。 天皇批判本、靖国批判本、南京事件本などをめぐって右翼の攻撃をうけた出版社や新聞社は山ほどあるではないか。 それをおそれて、出版社が予定していた本の出版を記事の掲載を見合わせました。。と堂々と述べているようなモノ。

こんな意気地のない映画関係経営者はさっさと店をたたむべし。
おなじことは何度でもあるよ。 そのたびに 「観客の安全を考えて~~~」、と 安全な映画ばっかりを選んで上映するの?
アホ、である。 なにが、安全を脅かしているのか、考えたことはあるか? どうすればその脅威を排除・追放できるか考えたことはあるか?


ジャーナリスト、作家、記者、議員、に対して表現の自由を侵す勢力は昔から今に至るまで、日本だけではなく中国、ソビエト、。。その他、世界中の<言論の自由>後進国には溢れている。官憲や保守政治屋もその勢力を後押しして取り締まろうとしない。どこにも見られる日常的光景である。<言論の自由>がある国とない国との違いは、表現者(映画館経営者もその一部なのだよ)や、読者、書店、出版社、取次店がそのヤクザ勢力に断固拒否の姿勢を示す、かどうか、なのである(国会議員、ケーサツ、政府などどこでも、頼りにはナリはしない)。 いったい、この言論不自由な現状を、  誰が、 改善すると考えているの? 未来永劫この状態にしておきたいのか? (。。などと、こういうアホに問いかけても無駄だろうが)。 <言論の自由、表現の自由>の敵には、こちらから攻撃を掛けて殲滅すべきであるのに、なんというザマだろう。


名古屋シネマテークの支配人は <観客の安全を考えて>ではなく、<おのれの安全を考えて公開を中止しました。>と正直に客に詫び、映画館をたたむがよかろう:

  公開を約束した映画は、xxxxからのドーカツを受けましたので、おのれの安全を考えて公開を中止しました。  私はおのれのことしか考えない人間です。 今後、同じような脅迫があれば、また中止致します。 今後ともごひいきに!
 
名古屋のヤーサン! 名古屋シネマテークをかわいがってやってね~。



関連サイト:
日本会議愛知県本部西三河支部幹事長杉田謙一による名古屋での映画「靖国」上映中止恫喝
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/6dc26efba0c9a5dd19963846d7f9f3de


言論・表現の自由に対するドーカツ・妨害があったことが、明らかになっているのに、全国の映画館から何の声も聞こえないのはどういうことか?他人事だ、とおもっているのか? 数館、ではなく、数十館、が営業利益を度外視しても公開する、という声を出せないのか? ドーカツ側はこれに味をしめて馬鹿の一つ覚え、何度でも同じことを繰り返すだろう。

映画『靖国』 上映館が増えている [Cinema]

毎日新聞記事 4月3日11時5分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080403-00000029-mai-soci

 靖国神社を描いたドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の上映中止問題で、大阪市淀川区の映画館「第七芸術劇場」や京都市下京区の映画館「京都シネマ」などは映画を予定通り上映することを決めた。「見てもらわないと評価できない」などと説明している。

(略)

一方、第七芸術劇場は当初の日程通り5月10日から7日間上映する予定。また京都シネマも8月に上映を予定している。第七芸術劇場の松村厚支配人は「これで全国で中止なら、嫌がらせや抗議で取りやめにできることになる。批判する人がいていいし、その通りと思う人がいてもいい。上映しなければ議論にもならない」と話している。広島サロンシネマ(広島市中区)も6月に上映する方針という。

 配給元のアルゴ・ピクチャーズによると、東京でも新たに上映を希望する映画館が出てきており、日程などを調整中という 


私の住む田舎のシネコンでもヤッテくれんか。
 
満員になるようなら、稲田朋美に大入り袋を贈る、というています。




公開取りやめ~、などと騒ぎを起こさなければどうってこともない話であるのに。
 (。。それとも、これで客を倍増させる、という高等戦術? そこまで智慧はない、だろう)


関連記事:

大阪の映画館が「靖国」上映へ 来月、「声に応えたい」 中日新聞

「靖国」大阪で5月上映 「映画館を議論の場に」 朝日新聞




映画『靖国』 上映館が増えている。。。正確には、上映予定館が、だな。この先何があるか分かったモンじゃない。上映前のドタバタ劇、ついでに、映画館主、文化庁や、トモミ議員、右翼突撃青年団、靖国グージへの突撃インタビュを納めたDVD、早う発売しテクれぃ。

ある映画監督の生涯 [Cinema]

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新藤兼人『ある映画監督の生涯』は新藤の師ともいえる溝口健二の映画人生を、溝口にゆかりある人々(俳優、脚本家、など)を新藤自身がインタビュアとして尋ね歩き、フィルムに収めるという手法で人間溝口を浮かび上がらせようとしている。何度繰り返し見ても飽きるところのない、私の日本映画ベストフィルム、である。

映画は150分の長さだが、実際のインタビュは50時間にも及ぶ。インタビュのほぼ全体は、活字にして同名の書物として出版された。
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先日NHK BSで再放送した新藤兼人(95歳)のドキュメント「新藤兼人95歳・人生との格闘果てず」(ハイビジョン特集)は、新藤兼人における、ある映画監督の生涯、ともいえる番組だった。


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「京都の夜は最初から最後まで私が積極的だった。新藤は激流に流されまいとして岩肌にしがみついていた。しがみつく手を激流に落としたのは私。新藤は関係を持たされた監督と言えなくもない。」 乙羽信子『どろんこ半生記』

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新藤: 「乙羽さんが全身でね。。身を投げかけてくるようなことがありまして。それでまあ。。私もそれを受けとめて、いうようなことで、関係ができたんです。」

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NHKのこの番組で新藤が語った話で一番印象的な箇所は、新藤監督と奥さんのある日の出来事である。新藤は、ほとんど自宅に戻っていない。たまたま自宅に帰った日の出来事である。その日、新藤は自宅の狭い庭に植えてある、茂りすぎた金木犀の枝葉を、剪定バサミでカチカチと摘んでいた。そのとき、突然、家から新藤の奥さんが飛び出し、新藤の手からハサミをむしり取って家に入った。。。



溝口の奥さんはある日突然、精神を病んでしまい、病院生活を送るようになった。溝口は一生、それは自分が愛人をつくり家庭を顧みなかったためと思い込んでいたらしい。

080228_2032~01.JPG080228_2031~01.JPG 溝口と田中絹代


95歳になった新藤監督の作品は『花は散れども』(今年秋、封切り予定)。新藤の育った郷里、広島市五日市町、石内でのオールロケ作品。新藤の小学生時代の恩師や新藤の母。父の借財で母屋を取られてしまい、暗い、土蔵のなかでの親子生活。一心不乱に農作業に精を出し、蔵の中で死んだ母。新藤の生涯に影響を与え続けた人々と事件がこの新作映画にもつづられている。去年の夏、猛暑の二ヶ月をここで撮り抜いた。新藤の右目は緑内障、とかで物は見えない状態だという。作品のプロデューサは息子であり、新藤の身の回りの面倒を見ているのは孫娘の風(かぜ)さん。車椅子から演技指導をする。いつドクターストップで入院という事態に陥るかも知れぬ。大きなリスクを抱えての仕事である。

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自宅で。。。

風: さあ、お風呂にはいるよ。
新藤: はいらない。
風: 入ると言ったじゃないの。
新藤: 。。。
風: じゃ、お湯を入れるからね。
新藤: いや、いれなくていい、はいらないんだから。
風: それじゃ明日の朝はいるのよ。いいね。
新藤: はいはい。
風: 約束します、っていわなきゃ。カメラに向かって。
新藤: ハイ、約束する。。。



新藤:えェ。。フウちゃん。。
風: え、なに?  。。。。何でゴワスか?
新藤: 真面目にやれよ。
風: へへへへ、はははッ。。

080228_2237~02.JPG 真面目にやれぇよ



この作品がオーラス、あとは天国への階段か。。と思っていたら、。。番組の取材後、監督、熱く次作について語り始めたのであると。。

シンドやん、エエカゲンにしないや!周囲の迷惑も顧みずにのぅ

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      (きみら。。。ジコチューやめて、映画監督ができるとおもーとるんか?)

映画 『それでもボクはやってない』  [Cinema]

映画のストーリに一部触れるので、これからこの映画を鑑賞予定の方はここでオサラバ、していただいてもよい。 ただし、この映画はストーリがわかってみてもそれほど面白さに影響しないと思う。

                                         

映画に関する基本データ:
http://www.toho.co.jp/lineup/soredemobokuha/

監督は周防正行(Shall We Dance)。上映時間は140分。
ストーリはシンプルである。

満員電車に飛び乗った青年が目の前にいた女子高生の後ろ右から、スカートをめくってパンツに触った、その手を女子高生が右手で、つかんだが、その手はスルリと抜けてしまった。直後、次の駅に到着し、降りた青年を女子高生が追いかけ、腕をつかんで痴漢として駅員に引き渡す。これが発端(女子高生から見たストーリである)。

冤罪の痴漢事件により拘留された青年の取りし調べから裁判(第一審)のプロセスを追ったドラマである。現行犯である痴漢が冤罪であったとしても、執拗な有罪デッチアゲマシンである警察、検察、裁判所の三位一体システムを撃破するのは大変である、ということを教えてくれる映画だ。ニッポンのゴロツキ取調官の取調べの実態、検察尋問、裁判官の判断が正義の実現でなく、いかに 有罪率を上げるためになされているか、を教えたい、というのが周防監督の意図。二時間半近い長さだが、退屈することなく見せてくれる。

裁判(第一審)の結果はいわないが、無罪か有罪、のどちらか、である。

結果を、ハッピーエンドにはしていない。。(と、言ってしまっては結論がみえるが)。しかし。。ハッピーエンドにしてしまっては日本人(観客)は 真にハッピーではなくなる、という逆説が、一方にある。ラスト。 主人公の朴訥な青年が、判決を申し渡された直後、心の中で叫ぶ言葉:

   『真実を知っているのは僕しかいない。裁判官が僕を裁くのじゃない。 ぼくが裁判官を裁くのだ!』 

これが、キメの一句。この映画は、このシーンのためにある。これが、裁判のすべてである、とわたしは受け取った。映画が終わった直後、まだ暗い館内で、娘が小声で、おもしろかった~、と言った。周防監督のメッセージを、シッカと受け取ってくれたろうか?

ある偶発的事件(痴漢)からそれまで法律にまったく縁のなかった青年が拘置所と裁判所で数ヶ月をすごすうち、<ボクが裁判官をさばくのだ!>と悟るにいたった。この青年の内面で起こったことを2時間半でわれわれも体験できる。これは啓蒙映画である。

この映画、中学生、高校生は是非観てほしい。ガッコウはぜひ、見させてほしい。1年分の授業をしたと同等の効用がある。ニッポンの警察・検察・裁判官のワルダクミ・システムが体感できるだろう。ニッポンとはどういう国であるか、考えてみよう、勉強してみよう、法律とはどのように運用されているのか、調べてみよう、というきっかけになるだろう。 教育委員会や学校はぜひ映画館でこの映画を全生徒に見せてほしいものである。

この映画の、この青年以外の役なら他の俳優に代えても務まるが、この青年だけはこの俳優以外に考えられないほどの適役であった。とても演技とは思えない。最初、存在感の薄い青年だなあ。。と思ったが、よく考えたら現実の平凡な青年の遭遇する事件を、その青年がスクリーンに飛び込んでそのまま演じている、という風情。迷い、悩み、泣き、怒る、青年そのものである。この青年の親友、母親もぴたり決まっている。まさに、ナチュラル。これが演技か? 思い返すたび、胸が熱くなる名演であった。

この映画の効用。たとえば、取調官が、容疑者のしゃべってもいないことを勝手に調書にあたかもしゃべったかのように記録していく(絶対に署名しないこと)。拘置所の内部のたこ部屋生活(幅50センチの敷布団で一部屋10人が雑魚寝。トイレは低いついたてひとつ隔て、顔を見られながら行う。。)。裁判では、容疑者(被告)に有利な証拠や証人出廷はことごとく検事、裁判官により棄却される、という恣意的な方向付け審理(たとえば、この映画では、電車で容疑者とされた青年の右隣にいた女性が駅長室に連れ込まれる青年を追いかけ『そのひとはドアに挟まった上着を引き抜こうとしていただけ、痴漢ではありません!』と、叫んでいた。この女性は直後NYKに出かけるが、幸運にも日本に戻ってきたところで、裁判を知り、弁護士側証人として法廷で証言した。しかし、なんと、この証言が検察、裁判官に無視されるのである)。これらの実態が暴露されていく。 本来なら、公共放送など、あるいは監視ビデオなどで取り調べ室の状況はすべて公開されるべきものである(英国などではすでに監視システムが整っており、日本のようなデッチアゲ取調べなど発生しようがないという。次に述べる、オクスフォード大学における試写会後の討論を参照)。

冒頭に引用したサイトによると、周防監督は英国オクスフォード大学での試写会に立ち会っている@2月はじめ。http://www.toho.co.jp/movienews/0702/02soreboku_os.html
ぜひ、この試写会後の、学生や教授からのコメントを読んでほしい。

映画を観た学生から、周防に対し、法学部で講義をしてほしい、と言われている。なぜこういう映画を海外で上映するのか、との質問に対し、周防は、『日本の裁判を変えたいからだ』、と力強く即答し、満員の会場から喝采を浴びたという。周防はこの映画のため約3年を費やして日本の裁判システムを勉強したという。こういう映画人がいる限りまだ希望が持てる。

細かいことを言えば、この映画に、あれこれ難をいうこともできる。ブログ記事にわたしは『蟻の兵隊』の鑑賞記を書いた。昨年5月の記事だ。http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-05-24 このドキュメントも池谷監督の強いメッセージを伝えている。これを観た観客のなかには、ヤラセである(監督が主役である奥村和一の中国調査に同行していること)などと批判しているが、いったい何をみているのか?といいたい(『蟻の兵隊』をみて、吐き気を催した、という人もいた)。池谷の映画も、周防のこの映画も、映画で何を伝えたいのか、というその先を見るべきなのであり、テクニックなり脚本なりは二の次、であるべき映画なのである。 つまり、映画を見た後と前で、君たち観客にどういう変化が起こったか、ということ。この二つの映画を観て何も感じない人間と、わたしは、何かを語ろうとも思わない。

このブログのテーマである日本の「近代」にひきつけて言えば、こと裁判システムに関する限り日本の警察・検察・裁判の常識は戦前と変わっていないのではないかと思わせる。つまり、前近代的システムが、まかり通っているのではないか、ということだ。

若い小中学生、高校生がこの映画で、現在のシステムに疑問をもてば、将来、警察、検察、弁護士、司法部門に職を得る彼らにより 何かが変わるだろう。 これを監督は期待しているのである。

追記:
全体としてすばらしい映画だが、わたしに違和感があったところを列記しておく。
1 配役は全体的に素晴らしいが、弁護士助手(女性)だけは演技、とくに台詞がぎこちない。学芸会をちょい出たモノ。もっとシッカリ指導すべきだろう。
  脚本もおかしい。女性弁護士が、たとえ経験が浅いといっても、先輩弁護士(役所広司)に対して『痴漢容疑者の弁護などわたしにできません』などというのは現実離れ、とおもわれるがどうなのか?それなら、男を騙した女性の弁護などできるか!という男性弁護士もいそうだが。過去にこの弁護士が痴漢被害を受けたことがあり、それがトラウマとなって、青年容疑者への聞き取りに際して、ふと、表情に出る。。くらいにしないと、白ける。
2 せっかく盛り上がったラストに、つんまらない歌(女声)を入れて台無しにした。去年みた『蟻の兵隊』でも ラストに歌を入れて台無しにしていたし、夏に見た『ニッポン沈没』も歌を入れていて笑ったけど。。歌を入れなきゃ映画でなくなるんかい? 青年に対して最初に示談を薦めたトンデモ弁護士がいたが、この弁護士に、女性弁護士が「なぜそいうことをしたのか」と、怒鳴り込みに行き、そのあと弁護士の弁解シーンで甘いピアノ曲が流れる。 これもつまらない、流れを乱すシーン(音楽)だった。
3 青年が釈放後(母が保釈金=200万円!!だして。。)弁護士(役所)の提案で、現場再現ビデオを撮ることになった。満員電車で、青年のいた位置から、前の女子高生のパンツを触った手を、女子高生のそれを掴んだ手から、瞬時に引き抜けるか(そして青年の左隣(おそらく真犯人)にいた男性乗客からは、瞬時に抜けるかどうか)を実験するため。後ろのドアが邪魔になって、引き抜けない、という結論にしたのだが。。これはあまりに安易な実験であったとおもう。このビデオは裁判所でも上映されたが、検事と裁判官が簡単に無視してしまう(当然のことだ)。無視されてもしょうがない実験だ。 痴漢犯人の弁護には、弁護マニュアルはないのか? 裁判システムもお粗末だが、弁護のインテリジェンシがなさすぎる。これも 周防の訴えたいこと?

配役の問題だが、芸達者な役所広司を検事役にしたほうがよかった。もっと鋭い、ワンランクアップの、弁護士と検事のやりとりをみたかった。


単騎千里を走る [Cinema]

鑑賞日 2006, 2/10 於 我が町の映画館、シネリーブル
同伴者 ある女性(わがムスメ)

映画でも本でもそうだが、観た後、読んだ後から、もとの筋や内容を触媒としていろいろな考えがわき上がってくる。単に、本や映画は情報を発信しているのではなく、元から脳内にあるサムシングを起爆してくれるのである。この映画もそういう映画であった。

あらすじ
何かの事情で妻を離縁した男(男鹿半島に住み、漁師を営む。高倉健、役名高田、歳75歳=健さんの実年齢)が、息子(中井貴一)が入院したことを息子の嫁からの電話で知り上京、病院を訪れる。しかし、息子は断固、会おうとしない。長い間、親子の諍いが続いているのだ。嫁がビデオカセットを健さんに渡す。そのビデオには息子が中国に旅して民族舞踊を録画していること、今年も続きを撮る約束を交わしていることを告げる。高田は単身、中国に渡り、息子に成り代わって撮影する決意を固める。
ところが、中国を訪れたのはいいが、肝心の舞踊家が暴行事件を起こし懲役三年をくらって刑務所に収容されていることが判明。収容者の踊りを外国旅行者が撮影するなど前代未聞、許可など下りるはずもないのだが、機略で突破する(後述)。しかし、いざ撮影開始、の段になっても舞踊家が踊ろうとしない(刑務所の休憩室の舞台上)。踊れない、と号泣するのである。訳を聞くと、その舞踊家に、家庭のトラブルで未だ会ったこともない男の子(4,5歳)が奥地にいるのだ、という。刑務所関係者収監者が居並ぶ前でこの号泣。高田は呆然としてその舞踊家を見つめる。やがて、この舞踊家のため、その男の子を刑務所まで連れてきてやろう、と決意し、その子のいる奥地の町に旅する。
その男の子がいざ、刑務所に向け出発、という段になって行きたくない、と言い出す。健さんはあきらめ、刑務所に向かう。撮りためた男の子の写真を舞踊家に見せるために。途中、日本に電話をかけた。電話を受けた嫁の背中では、葬式の準備。息子は死んだのである。嫁は何度も高田に電話したのだが通じなかった。電話で、息子の遺書(高田に宛てた和解の手紙)を読む=中井貴一が代読♪。撮影する意味はなくなったが、舞踊家は、こんどは立派に踊ってみせるから撮ってくれ、という。(単騎千里を行く、とはこの舞踊の名称である)。

高田(健さん)は勝利者か?
映画のラストは、高田が男鹿半島の海を見つめてたたずむシーン、をフェードアウトして終わる。このシーンだけ白黒画面である。これから先、何をおもって高田は生きるのだろうか?嫁(寺島しのぶ。さすが、プロの俳優、という演技である)はどうやって生きていくのだろう? 普通の親子であれば、親が離婚したからといって直ちにいがみ合うというものではないし、仮にそうなったとしても、和解がやがて訪れるものだ。この親子の場合、双方が中国に旅をし(息子も撮影を目的として中国に行ったのではない、ことが後からわかる。おそらく、和解のきっかけをつかみに旅をしたのではあるまいか。ならば、なぜ、病院に尋ねてきた父親を追い払ったのか?)、かつ、息子の癌による死、を介さなければ和解できなかった。 これは 折り合えない人間同士の、悲劇である。 息子が病気にならず、健康なままでいたら、この二人は折り合えたろうか?

(健さんと中井を揃えれば、別のドラマもできたろう。さて、どのようなドラマ?)

コミュニケーションとは何であるか
高田がかりに中国語ペラペラ(俳優真田広之のように。。真田はロンドンの舞台でシェークスピアも演じた。。)としたら、あのように、見も知らぬ通訳、村人たち、刑務所所長などとコミュニケできたろうか?もう、20年先に、たとえば真田広之が高田の役を演じられるだろうか?この映画は日本と中国、という微妙に関わりのある国を舞台にしている。ハナシは単に家庭内のいざこざの折り合いをどうつけるか、というコマイことである。その当事者同士(中井、と、健)が別々に中国を訪ね、解決を求めた。可愛い子には旅をさせよ、という。人間いつまでも旅をしなければならない、ということか。

この映画をたとえば、米国と英国のハナシに翻案できるだろうか? とふと考えた。たとえば、健さんと通訳が、刑務所長に撮影を願い出るところ。健さんは土産物屋でみつけた(特注で作らせた?)二枚の旗を刑務所長に見せて撮影許可を求めるのだ。しかも、直接見せるのではなく、頭を下げるところをビデオに撮影し、そのビデオを所長に見せる。その二枚の旗は
          「謝」 と 「助」 (Thank & Help)
一枚を通訳、一枚を健さんが持つ。健さんは両手で掲げた旗の向こうで深々と頭を下げるのだ。

メーキング
この映画のメーキング過程をフォローした映像がNHKから1月に放映された。実際、本編よりこのメーキングのほうが出来がいい、というひともあるくらい、いい出来だった。本編のひとつの山場である刑務所内で踊ろうとして、踊れない受刑者(舞踊家)を演じたのは現地で何千人という応募者からイーモウ監督が選考した。この素人俳優には上海大学でコンピュータを学んでいる息子がいる。農業だけで学費を工面できないため、この父親はなんと自宅を売り払って学費に充て、町が提供する納屋に住んでいるのだ。帰省した息子が自宅の無いのに驚愕、親との諍いが発生した。父親が腕を怪我し、学費をその治療費に代えたため息子は留年、父親はますます己を責める、という事態も発生した。そういう事実を知ってイーモウはこの親を使ったのである。俺には踊れない、としゃがみ込んで、嗚咽する。鼻からは鼻水がだらっと垂れる。それを拭って、続く嗚咽。この舞踊を撮影に来た高田(健さん)も呆然として立ちすくむ。健さんは、「なぜ、素人がここまでの演技ができるのか?」と驚いていた。呆然として立ちすくんだ健さんの顔は演技ではなかった。まさに、イーモウの狙い通りの効果である。イーモウは「あの子を探して」でも素人俳優を使っている。13歳の女子中学生が山奥の小学校で代用教員をやるハナシ。30人くらいの教室を預かるのだが、ある日遠い町までバス旅行に出かけた折り、一人の男の子が迷子になってしまうのである。どうやって探すか。TVで訴えればいい、と入れ知恵されたこの先生は、TV局の所長に直訴するため、TV局の玄関でそれらしい男性に片っ端から、「所長さんですか?」と問いかける。このシーンが延々と続くのである。しかも、これを演じた素人の女の子は演技、と思っていないのである。そのようにイーモウが入れ知恵したらしい(もちろん、クラスで学ぶ30人の小学生も演技したとは思っていないだろう。イーモウがそのように仕込んだはずである。悪いやっちゃで)。
     ひとが、ひとを、想うこと。想えばなにごとも通ずる。
これをイーモウは訴えかけている。

最近、単騎千里を走る、が上海で封切られ、大入り満員。高倉健はやっぱりいい、と大好評だったようだ。こういう地味なハナシを受け入れてくれる中国の人々に親近感を覚える。「中国は日本の脅威」と平気でしゃべくる民主党党首はこの映画、見たのかな?

文化大革命が終息したあと、日本から健さん主演の「君よ、憤怒の河を渉れ」が外国映画としてはじめて中国で公開され全国を席巻する大人気になり健を知らぬ人はモグリ、という位になった。映画を志していた若きイーモウにとっても健さんは英雄であった。この映画で、しっかりと、イーモウは健さんに恩返しをした。


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