対米従属に眼をつむり何が「国民の敵」か ひとならなろう独立国に [Tragedy]
戦前の絶対主義天皇制のもとでも、天皇は1882(明治15)年1月の「軍人勅諭」で、「軍人は世論に惑わず、政治にかかわらず、ただただ一途に己が本分の忠誠を守り」と、軍人の政治関与を禁止していた。また、陸海軍刑法(軍法)においても、軍人の政治関与を禁止し、軍人には選挙権・被選挙権も与えていなかった。そして、現役将校が演説または文書をもって、その意見を発表したときには、「3年以下の禁固に処す」との明文もあった。
それは、明治維新によって欧米の憲政(立憲君主制)を導入した専門家が、軍人が政治に関与すれば政争の結果、武力行使に出るのは自然の流れで、そうなれば立憲政治が窒息し、国家動乱を招くという、先進諸国の教訓を取り入れたものであった。国民の生命と財産を守るための軍隊は、主権者である国民全体を代表するものであり、軍が独自の政治的見解をもって行動することを厳禁し、国民によって選ばれた議会や政治家によって統率されなければならないというのが、近代国家に共通する憲政の常道であった。
しかし、そのようなたてまえ上の「文民統制」は機能せず、その規定にもとづいて日本の軍人の言動が裁かれたり、罰せられたりしたことはなかった。それは、戦前の日本の陸軍・海軍が叫んだ「邦人の生命と財産を守る」という大義名分とは裏腹に、国民を犠牲にして肥え太る天皇を頂点とする財閥や大地主の利益のための軍隊であったからである。いざ「国体」(天皇制による国家支配)が危機におちいれば、国民の生命や家財などいとも簡単に葬り去る。このことは、日本の民衆が国民的規模で体験し肌身でつかんだ確かな真理である。
自衛隊は戦後、アメリカの占領期に朝鮮戦争に乗り出したアメリカの必要から、米軍の指揮のもとで警察予備隊の名で創設された。当時の「民族独立」「再軍備反対」の国民世論の高まりのもとで、最初から文民である首相や防衛庁(当時)が、自衛隊を指揮監督すること(文民統制)が自衛隊法によって規定されてきた。そこから今日まで、防衛大臣を政策の専門家である文官(背広組)が支え、軍事を専門とする自衛官(制服組)を統制する仕組みが機能してきたと、説明されてきた。
しかし、過去にも文民統制を犯すかのような振る舞いは問題になってきた。1963年には、防衛庁の統合幕僚会議事務局が「朝鮮半島有事が日本に波及する事態」を想定し、自衛隊の防衛出動や戦時立法などを「統合防衛図上研究」として研究していた「三矢研究」が暴露された。1978年には、統合幕僚会議議長であった栗栖弘臣が週刊誌のインタビューで「(日本が奇襲攻撃を受けた場合、自衛隊の)現地部隊はやむにやまれず、超法規的行動をとることになる。法律がないから何もできないなどと言っちゃいられない」と発言し、議長を解任、勧奨退職に追い込まれた。しかし、懲戒処分を免れている。
1992年、陸上自衛隊高射学校の戦史教官(陸自三佐)が週刊誌に、「(政治腐敗を)断ち切るにはどのような手段があるか。革命かクーデターしかない」と明記した論文を寄稿したことが、「品位を保つ義務に違反した」として、懲戒免職処分となった。そして、田母神俊雄・航空幕僚長更迭の一件(2008年)、南スーダンPKOやイラク日報隠ぺい事件(2017年)にいたっている。その都度、文民統制(シビリアン・コントロール)の欠落が糾弾されてきたがどこ吹く風で、ついには中枢の30代幹部自衛官が「国民の敵」と立法府の構成員に向かって恫喝するまでになった。「軍事について素人が口を挟むな」という武官の圧力に、文官や野党がおたおたする状況は、戦前そっくりである。
軍事専門家はもとより、多くの者が知っているように、朝鮮戦争から南スーダンに至るまで、実質的な軍隊である自衛隊に対する指揮権を持っているのは米軍である。事実、在日米軍司令部中枢と日本の外務、法務などあらゆる省庁の高級官僚で構成される日米合同委員会が、日常的な協議で「日米安保」についての密約を積み重ねてきていることは既に暴露されている。
そのうえで、日米安全保障協議委員会の「防衛協力小委員会」が日米共同作戦の統一指揮権をもった実質的な「日米統一司令部」となっている。政府・防衛省はそれを追認する機関でしかない。それは、今や「集団的自衛権」の名のもとに、地球の裏側までアメリカの海兵隊の肩代わりとして、日本の若者を送り出すまでになっている。
首都圏をはじめ日本の制空権を他国の軍隊である米軍に握られ、米兵の犯罪や米軍ヘリコプターの墜落・部品落下などの横暴な振舞に抗議できない政府に「国民の生命と安全」「邦人保護のため」といわれても説得力などない。そして「国民の敵」と叫ぶ自衛隊は、日本を単独占領し従属国として従えている米国の下請けと化し、「昔天皇、今アメリカ」で統率されていることについて、曖昧にするわけにはいかない。日本社会を食い物にして、独立国としての主権を犯しているものには眼をつむり、小西某あたりを「国民の敵」などと認識していることそのものが笑止千万といわなければならない。これは「2・26」や「5・15」への逆戻りなどではなく、米軍直属軍隊の思い上がりと暴走であり、軍人が大きな声を出して文民を恫喝するのに対して、日本の独立と平和を目指す国民的な運動を強めて、跳ね返すことが求められている。