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母を訪う [diary]

今年九月一年ぶりに、母のいる介護施設を訪れた。わが故郷東広島市志和町。下手な歌を詠む。


母を訪う介護施設も六年目身体いよいよ小さくなりし
死産したわが姉追慕して母語りだすこと一再ならずと
原爆投下直後の入市被曝ゆえの死産を我うたがわず
わが姉は母胎内にて毒を吸い母と我とを救ひたまへり
わが母の認知症を発症後すでに七年の過ぎ去りし


母、大正12年生まれ、来年96歳となる。母は廣島市内中心部にあった会社に務めていた叔父を探すため8月8日に入市。当時、国鉄切符は配給制で有り、切符入手に手間取ったのである。西志和村は廣島市からほぼ真東、25km。母は6日朝実家の近くの畠で働いていた。西の山からモクモクと立ち上がる黒い(原爆)雲をみて驚き、母にそれを告げに家に駆けもどった、という。当時まだ独身。敗戦後、中国から復員した同村の父と結婚、姉は初産であった。産婆さんが「見んほうがええですよ」と言うちゃったんよ、と死産した姉を見るのを止められた、と母。当時の田舎では産婆さんを自宅に呼んで出産していた。私と、私と二歳違いの弟を認識しなくなってから久しい母であるのに、介護担当さんから「お母さんはたびたび娘さんのことを話してんですよ」と知らされとき、不意を突かれたおもいであった。母が元気なとき死産の状況を母が私に話したのは私から問うたのに答えた一回きりである。


 私(の母)のようなケース(入市被曝と死産)は当時多かった、と私と同年代の呉市に住む女性から伺ったことがある。

 福島近辺ではフクイチ事故の後、若い女性の流産死産が相当の数あり、なかには、医師から半強制的に堕胎(そうしなければ以後の出産は保証できないと)される場合もあったという。

  死産したとはいえ、数ヶ月は腹に宿して共生した娘である。姿を地上で見なかったとはいえ、いや、見なかったからこそ70年経ても(死産した)娘を懐かしむのであろうか。


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 施設を訪れた日は家族との食事会。ボランティアの方々が音楽を演奏してくれた。私は母の隣の席に座り食事をした。母が突然歌を歌い始めた。小学校唱歌である。食事を終えたあと、隣に座っている私の左手を母の右手がそろりそろりと握りにきた。わたしは握り返した。


 原爆投下後の廣島の状況を母に尋ねたことが以前一度だけ、ある。「地獄じゃったよのぅ」という返事であった。地図を持ち出してどこを、何時間くらいあるいたのか、道どりをいつか尋ねようと思いながら機会を失ったままになった。

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