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入市被曝 [東日本大震災]

http://onodekita.sblo.jp/article/56357207.html
フクシマの真実と内部被曝(95分) 2012.6.9( 土)

この動画、1時間15分ころから広島原爆の話に移っている。とくに入市被曝について。原爆投下の時間に広島市内にいない人が、数日後、人捜しに市内を数時間歩いただけで、原爆の直撃を受けた人と同じ症状(皮下出血、毛髪離脱、下痢など)を発症するのだ。この症状は診療データとして残っていない。混乱の極みの中の事態だから当然だろう。
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私の母(当時独身)は原爆投下の翌々日にほぼ爆心地に入市した。母の叔父を捜すため。叔父の会社は廿日市に疎開していたのだが、運の悪いことに八月六日(月曜日)は給料日。広島の本社で給与を受け取るため、前日の日曜部の夕方、私の実家(広島市から真東、30キロ)から自転車で広島市内の寮に戻ったのだ。6日の朝8時十五分だから会社に出かける頃だろう。会社は爆心地にあったから直撃を受けたはずだ。母は探すまでもなく見つからない、と観念したのではないか。

「地獄じゃったよのぅ」 これは母が見た広島である。

八月六日の朝は、8時前から自宅から500メートル西にある芋畑で母は働いていた。西の山から黙々と立ち上がる雲を見て自宅に飛んで帰った。母の母と祖母が自宅にいる。何事だろう?なんの情報もなかった。午後くらいからいろんな情報が入ってきたらしい。部落の寄り合い所で集会が開かれた。夕方近くになって戸板に載せられた真っ黒なけが人が村(当時は広島県賀茂郡西志和村)に続々と運び込まれて何が起こったのか様子がわかってきた。新型爆弾を落とされたらしい。叔父を探しに翌日でかけなければ、ということになり切符を買いに西条まで母は歩いた。往復30キロはあろう。その程度は当時誰も歩いていた。家には自転車はなかったし、あっても母は自転車に乗れなかった。当時切符は配給制で金を出せば誰でも買えるというものではなかった。西条の親戚に切符を入手できるツテがあったのだ。不思議なのは原爆が落ちても汽車は動いていた、ということだ。広島駅は爆心地から数キロ先にあり建物は被害を受けたが蒸気機関車のこと、電気は不要だから運行に影響なかったようだ。

当時自宅の近くに疎開していた叔母の赤ん坊を背負って母は出かけた(今から思うと、乳児を背負って入市するなどとんでもないことをしたわけだ)。



終戦からまもなく母の母が亡くなり、復員してきた父と結婚。翌年子供ができた。死産であった。

母が死産したことを私は長く知らなかった。高校生になった頃だったか、父が、おまえには(死んだ)姉さんがおったんど、と教えてくれた。名前も決めていたようだ。男だったら昇(今の私の名前だ)、女だったらヤスエ。母に尋ねてみた。産婆さんが、「見んほうがええですよ」と言うちゃったんよ。

この動画で院長が言っているように、奇形だったのか、小頭児だったのか。異常はなかったのか、いまとなっては産婆さんもなくなっているし確かめようがない。親父は見たのか?

私のような立場の人が広島近辺には多い、ということを、私は十年くらい前に、当時使っていたメーリングリストによって知り合った呉の女性から教えてもらった。

ABCCの後を継いだ放射線影響研究所のHPには、市内被曝と異常分娩(死産、流産、奇形)には関連性はない、と書いてある。これは信用できない。

正常な人として生まれたら、あるいは続けて私が生まれたかもしれないが、奇形や異常であったなら、両親は第二子をもうけようとしたであろうか。今日考えたことである。実際何が起こったのかは今では何もわからない。母の母は病弱であり、母の父が亡くなった後、男手のない農家で勤めていた役場を辞めて以後数十年赤鬼のように働いた頑丈な母を知っている私は、死産流産というのが不自然におもえるのだ。

封印された原爆報告書: 国民を売った国家、米軍占領下の原爆調査
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2010-08-10

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