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久し振りに、『福沢諭吉の真実』 [福澤諭吉]

久し振りに検索、<福沢諭吉の真実>。ブログいくつか。


http://plaza.rakuten.co.jp/boushiyak/diary/200701300000/
古井戸が木っ端みじんになっている(vs平山洋)、のだそうだ。


http://mesetudesenfrance.blogspot.com/2008/05/blog-post.html


http://www.ne.jp/asahi/wtnb/2000/recommend/genre5/hirayama.htm
。。。平山洋からのメールを掲載している。このメールを取っ掛かりにして、反論しておこう(私の過去のブログ内容から一歩も出ていない主張の繰り返しであるが)。

平川洋メールから抜粋:

1>最終段落にある疑問については、すでに数名の方から寄せられております。「そんなに石河が嫌ならなぜクビにしなかったのか?」という点は、拙著の最大の弱点にして安川さんらの最後の攻撃拠点とでもいうべき疑問でしょう。

その大まかな答えは拙著179ページ以降に書きましたが、やはり釈然とはしないかもしれません。福沢は時事新報をビジネスでやっているのであり、もしもっと理想主義的な主筆を迎えたら、発行部数が落ちる、ということを懸念したのかもしれません。石河の時局迎合性のセンスは誰もが認める(福沢も、私も)ところであったのです。

2>福沢としては、自分で全集も作ってしまったことでもあり、まさか石河が自分の死後、己を騙ってあんなことをするとは思っていなかったのでしょう。悪知恵の働かせようは、石河は福沢より一枚も二枚も上手であったのです。

3>かくして、「時事新報論集」における福沢真筆の発掘は、新約聖書におけるQ資料の探求のようになってしまったのでした。キリスト教になぞらえるなら、石河はローマに迎合した(と言ってしまうのは気が引けるが)パウロのようなもので、私はルターのような役割ともいえましょう。



## 以下、コメント。

2の、福沢真筆の発掘は、Q資料の探求のようなもの、と言っているのはビックリ仰天。Q資料はイエス刑死後の伝承を記録したものである。イエスがQ資料を読んで承認した、というものではもちろん、ない(イエスがQ資料作成と同時代に生きており、そのQ資料の内容をチェックした、というのなら別。福沢は社説の内容を読んでおり、社説執筆者は福沢の主張・持論は十分に理解していた、というのが私の理解。ルッターは私の理解ではドイツ語翻訳を行っただけ、であり、新約聖書の成立過程を吟味し、原典批判を(たとえば、わが国の田川建三のように)行ってはいないはずである。ところが、石河真筆!なる社説は福沢が読んでいたはずである。仮に一部しか読んでいないとしても、時事新報の社主は福沢であり、その社説は時事新報の意見、さらにいえば、福沢の意見である、と読者は想定しているはずである。そうでない、というなら誰の意見、執筆者は誰だと、読者は思っていたのだろうか。死後になって、あの社説(後期の時事新報)は福沢の意見に真っ向対立するものでありました!などという推論はジャーナリスト=福沢を侮辱しているのである。(福沢が惚けていなければ、である。呆けた人間が、日清戦争に多額の義捐金を出すのか?日清戦争勝利を欣快欣快、と叫ぶのか?(彼の手紙))西欧化、が福沢の立脚点であり、明治にあって帝国主義的対外進出こそが福沢の存在価値であることは、福沢ファン=平山洋ならとっくに承知しているはずである。

多くのブログが、社説、と、社主=福沢、それに、社説記者の関係を認識していない。社説を担当した記者が福沢以外であっても、福沢の意見と真反対の意見(婦人の道徳、とか、商売の心得、といった内容ではない。半島出兵、対清国戦争をおこなうかどうか、という意見だ)を掲載する、そしてそれを読者が読むのを放置する、という社主がいる、それが福沢である、とでもいうのだろうか?

すくなくとも、同時代の読者は時事新報社説は福沢の意見(筆者が誰であっても)であることを疑っていなかった。そして、福沢もそれを(そういう読者の認識を)了解していた。<- これを了解するのかしないのか、ということだ。

平山洋は、私のブログへのコメントで、日清戦争は侵略戦争ではなかった、普通の戦争であった、と述べている。これに対して私は、普通の戦争であれば(半ばはそうであろう、その当時の常識では。福沢は常識に棹さす主筆であった、ということ)、その戦争を支持するのは特段愛国者でなくとも、国民として当然の義務ではないか?であれば、戦争昂揚の記事を書き続けた石河こそ賞賛されるべきなのではないか(他の誰より、この戦争を普通の戦争という平山洋はなぜ石河を賞賛しないのだろうか?)、と疑問を呈したのだが平山洋は応えていない。 それとも、<あの戦争は日本が乗り出すべきでない帝国主義戦争、侵略戦争であった、それを言葉を連ねて支持した石河は許されざる存在だ>というふうに、平山洋は立場を変えたのだろうか?石河の社説を黙認した主筆・ジャーナリスト=福沢の態度は許されるのか?明治の時事新報社説の読者はダマされたのだろうか(昭和の岩波版福沢全集読者に至るまで)?読者が読むのは文字、であり、主張のハズである。石河がどのような主張を繰り広げようと言論の自由の下の行為であり非難されるいわれはない。福沢の主張と異なった主張を繰り広げようとそのゆえをもって非難されるものでもない(福沢の主張と異なるのであれば解雇すべきである。この点に関し、平川洋は弁護しているようだが私は未読。いずれにしても戦争支持の社説を書いたという石河を、その内容をもって非難するのは大間違いであろう)。讀賣新聞社説筆者が、ナベツネの主張をねじ曲げて社説を書いたことをもって、筆者を非難できるのはナベツネのみ(社内規則により処罰しようとそれは讀賣内部の問題である。ハナハダ問題のある社則であるが讀賣ならありうることだ)、であり、読者はあずかり知らぬことである。

平山洋の『福沢諭吉の真実』は、あとがきで、「福沢は、帝国主義的・侵略主義者か、市民的民主主義者か、という問い」を立てている。私は最初にこのあとがきを読んでぶっ飛んだのだ。対外的には帝国主義、対内的には民主主義者、というのは19世紀の西欧諸国(大英帝国に典型的)のジョーシキではないか。

戦後、発見された脱亜論として有名になった社説は福沢真筆であった、と不承不承、了承した平山洋は、この社説は発表された当時はまったく注目されなかった、と正直に書いている。注目されないのも当然だろう。朝鮮に見切りをつけた(ゆえに、武力進出を推進せよ!)のは、彼の従来の主張である半島進出(この強硬姿勢ゆえに明治政府から警戒された)なのであり、読者はこれを知っていたはずである。さらに、現在、福沢が策謀に深くコミットした朝鮮改革(クーデターのこと)の失敗、の結果としての脱亜論、であることが明らかにされている。

平成になって、福沢全集のなかの社説に石河幹明執筆のものが混じっている、と騒ぐ方がどうかしている。明治の時事新報読者は誰が書いたか、など意識もしなかった(現在の朝日、毎日、讀賣その他の新聞の読者が社説を何某が書いたか、などあずかり知らぬのとおなじ)。読者は時事新報社説と福沢の意見がまったく異なる、など想像もしていなかったろう(そして、その想像はかなりの確率で正しい、だろう、と私は思う。少なくとも、新約聖書のイエス発言が実際のイエスの発言である、と断じる以上の確信を持って)。内心、福沢がどう思っていたか?そんなことは福沢の墓を掘り起こして本人に尋ねるしかないのである。社説を担当していたのは石河の他数人いたはずである。社説には筆者など明記しないのが常識である(現在でも。筆者は誰か不明だが、讀賣新聞社説に、ナベツネの持論と真反対の内容が掲載される、とでもおもうか?)

福沢は時事新報主筆である。社説に彼の意見が大きく反映していると考えるのが正しいなら、明治の世論をリードした(すくなくともなにがしかの影響を与えた)のが時事新報である限り、筆者が誰であっても「福沢全集」に掲載するのは福沢の影響を知る上で意味のあることだ。実際に起草したのがだれであるか、とは別のことだろう。社説の<真筆>がだれであるのか、は、判明できた範囲で岩波書店のHPで明記しておけばいい話。社説を書くための専担社員(石河ら)がいたのは読者なら承知していたはず(だろう?)だ。社説、とはなにかを知っている者の常識である。半島進出の可否、が社説担当社員と、主筆(福沢)で真っ向対立する、それを主筆福沢が関知していなかった(ジャーナリスト福沢への侮辱)、あるいは、知っていたが放置していた、というのであれば、ニュースである(それを平山洋が特定したのなら平山洋の業績)。すくなくとも、日清戦争終結時までは福沢に身体障害はないはずだから、社主・主筆として社説内容の責任は取らねばならない。残るのは、誰が書いたのかを判定する方法の信頼性である。平山洋は筆者判定に採用した分析方法(井田メソッド)に100%の信頼性をおいている。はたしてそれほどのものなのか?かりに100%石河の筆になるものであったと断定できる(あり得ないことに思える。同じ意味でいわゆる『脱亜論』も100%福澤の真筆、とは断定できないだろう)、としてもこれはいわゆる偽書、ではない。社説の性格上福沢以外が書く機会があるのは当然のことであり、福沢が承認し、同時代の読者は誰が書いたかは問題とはされない(複数の執筆者がいたことを読者は承知しているのだから)。しかし内容は福沢が了承した、と読者はと信じている。わたしは、少なくとも日清戦争終了までは福沢のチェックが入っていたと考えるのが妥当だろうとおもう。

すくなくとも、明治の読者は、時事新報社説を誰の意見だと思って読んだのか?は明らかにする必要がある。主筆は複数存在した、社説はその個別の筆者の意見であり、時事新報社の意見(すなわち、福沢の意見)ではない、と認識していたのか?わたしは、そうではない、時事新報社説=福沢の意見である、と読者は認識していたし、福沢もそれを了解していた、と考える。福沢が社説も読めぬくらいに惚けだした(日清戦争終了前に、だ)、というのであれば、その事実をたとえば医者や家族の証言など添えて明らかにしてもらいたい(平山洋の新著ではこの辺が明らかになっている、と期待する)。黒澤明の『影武者』ではないが、すくなくとも、ジャーナリストが闘い終えて半世紀経過した時点で、真筆が誰であったか!と騒ぎ出すのはミットもないことであるし、<社説の真筆捜し>に対する基本認識が誤っている、とおもう。(日米安保に対するナベツネ=讀賣の論調、とは言うが、社説筆者誰それの持論、とは普通いわないものである。しかし、ナベツネ伝を書こうとするなら讀賣社説の参照は必須な作業だろう、ナベツネ自身は1行も社説を書いていないにせよ)。福沢全集に、時事新報社説として、福沢真筆でないものを含めてヨイのかどうか?これは、たとえば兆民全集、鴎外全集などとは、社説というものの性格上、別の判断が必要ではないか。福沢は主筆(社主)、を死の近くまで名乗っていたはずだ。

平山洋はブログあるいはHPのいずかで、福沢は自分の考えていることと違う内容を意図的に書くことがあった、と述べている。そうなると、たんに別人が書いたから、あるいは当人が書いたから、という事実をもって一律に全集掲載の要否は論じられないことになる。福沢真筆、と判明しても、署名記事でないものは全集から削除、ということもあってよいだろう。平山洋の言うように、福沢真筆でも福沢の言いたいことを意図的に偽って書く場合もある。福沢真筆でなくても福沢思想を体現している書き物もある、ということだ。
 

 
『。。真実』を読むと、石河幹明は日清戦争前の数年戦意高揚記事を社説に書き続けた、らしい(私は読んでいない)、が、このことをもって、福沢が市民的・平和主義者であった(反戦、反侵略論者)などと言えないことは小学生でもわかる。福沢が生きていればこういうだろう。「おいおい、平山君、曲解するのはいい加減にしてくれたまえ。石河君でなく俺が社説を書いたならもっと華麗な筆致で、説得力のある戦意高揚記事を書いたよ、あはは」。あるいは、「いやあ、石河君の草稿を読んだとき、驚いたよ。俺が書いたのか?とオモワズ眼をこすってしもうた。無署名記事だから俺が書いたもの、かどうか100年間は判別できないだろう。内容も俺が書く以上に素晴らしい。。引退してもいいかな、と思ったモンダ」。どちらだろうか?

 
『。。真実』は石河に対する罵詈雑言にあふれており、後半にくると読むのが辛くなる。石河をこき下ろすのは結構だが、それが、福沢護持の意図に反して、贔屓の引き倒しにならないか、と私は案じる。石河の視点にたてば、「俺は先生の鍛錬を受け、先生の意見を代弁しているだけだ」という意識であったのではないか(福沢もそう考えていたろう)。福沢のサジェッションや添削が皆無ではなかったろう。たとえば、ケネディ大統領の演説は全てスピーチライターの代作であるが、スピーチライターが自身の著作集にこの演説を含めることはしまい。ケネディ大統領演説集に当然入れるのである。後世の史家が、文体分析したところ、これはケネディが書いたのではない!スピーチライターがおのれの作品を「大統領演説集」にまぎれこませた!などと非難することは普通、ない。朝日新聞の天声人語は筆者個人の著作として出版することがある。エッセイと社説の違いである。100%福沢真筆のもののみしか福沢全集に入れてはならぬ、という原則をとるならば『脱亜論』をふくめ無署名の記事はすべて全集から削除すべきであろう。<井田メソッド>が現れるまでは誰の真筆か?など、明治の読者だけでなく、石河を含め、その後の誰も考えもしなかったことであろう(ケネディ演説を聴いてライターは誰か、などと詮索しないのと同じ)。「誰の真筆か?」と、石河幹明に(そして福沢に)質しても彼らは質問の意味を解しかねるのではないか。私の推測では、石河自身も多数に及ぶ社説のどれが福沢真筆、どれが石河(のみ、あるいは他の執筆者)の筆になるか、どれを福沢がどの程度筆を入れたのか、はどうでもよかったのではあるまいか。つまり、どの社説も福沢の見解を表明しているという自信があったのではないか。石河が全集編纂時に<井田メソッド>なるものを知悉していたとしても採用しないだろう、と私は思う。福沢の校閲をうけ、福沢の意見をおおよそ表現しているのであれば誰が執筆したかなど問題にならない、と考えたのではないか。福沢が草稿を書かなかった故を持って全集に不採用、などハナから念頭になかったのではないか。このような詮索は歴史家(平山洋)の仕事なのだろう。



上記、すべて従来の私の主張から一歩も出ていない。ブログ記事の繰り返しである。これまでのブログ記事同様、素人の意見として読み捨ててもらって結構。

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