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映画『八日目の蝉』を観る [Cinema]

5月3日、長女と映画『八日目の蝉』を観た。以下その感想。mixiに書いた日記をほぼ、そのまま引用するので多少読みにくい所は勘弁を。正確な映画情報は、ネット検索で入手して、補整をお願いする。解釈については私も現在、映画を思い出しながら、試稿錯誤=思考中なので、おいおい変更追加はあり得ます。

 

 以下の記載は、映画の内容に触れています。

 

[ストーリ] 愛人である女性が、相手夫婦の赤ん坊を留守宅に忍び入って誘拐する。女性は子供の産めないカラダになっていた。4年間逃避行を続け、母親と偽って育てる。が、逃避行中、田舎で生活している親子の写真が入賞写真として新聞に掲載されたため(さらなる偶然として、逃亡中の母がが、この新聞写真を見て、安定した生活を捨てて再逃亡を図る。。)、母親は警察に逮捕、裁判のうえ6年の懲役刑。赤ん坊は成長し、大学生として一人生活を続け、妻子のある男の愛人となり、子供を身籠もってしまう。この大学生と同じ境遇を味わった、少し年上の女性記者とともに、過去の記憶を手繰る旅の過程で、身籠もった子を育てようと再出発を誓うまでの日々。「育ての母」との逃避行の日々と、その幼い日々の記憶を辿るための現在の旅が交錯する。美しい四国の田園や森、小豆島、瀬戸の海、の自然と田舎の人々との交流が描かれる。

原作は角田光代の同名の小説である。書店による小説の概略は次のよう:

不倫相手の留守宅に忍び込み、本妻の生んだ乳飲み子を思わず連れ去ってしまうヒロイン希和子。その希和子に逮捕までの数年間、愛情を注がれて育てられる娘。親元に戻された娘と生みの親たちの戸惑い。やがて娘は成人し、新たな人生を生きる。あたかも七日で死ぬべき蝉が八日目を生きるように、あるべき人生から大きく逸脱した世界を生きる。八日目の先は懸命に生きるしかない。第2回中央公論文芸賞受賞。

長女と映画を観に行った。(八日目の蝉)。ダメ男とエゴ女、犠牲は子供たち。帰りの車の中でムスメと激論。この映画、男女の間で批評し合わない方がヨサソうである。

まず、子役、とくに、赤ん坊が力演であった。 余貴美子、田中泯の存在感が(現実離れした)輝きをみせる。蜂谷真紀(マイミク、ヴォイスアーチスト)も出演、安心して見ることができた。プロの技、である。結局ハッピーエンド風な終わり方になるのだが。。大人への<教育映画>か。私の次女にも見せたい映画だ。登場人物の誰にも感情移入できない映画だったが、主役(赤ん坊のとき、誘拐されて、育てられた女性)にまとわりつく女性記者の素性が明らかになるにつれ、ゆいつ失点の少ない(観客からの共感の得やすい、しかもこの女性がいないと主人公は立ち直れなかったろう、という)登場人物となった。あの共感を得ない登場の仕方(目つきや、態度)にする必然性がまったくない、とおもうのだが。

余貴美子(女性の社会離脱者が集団生活をする団体の教祖的リーダー)の役も、あれほどオーラを発揮しないタイプもあり得たのではないか。マザーテレサ風の。さらに、リーダーの存在しない、より、ありふれた共同体、というのもあり得たのではないか(NGOに近い)。もひとつ、逃避行の母親が泣きすぎた。なぜ泣くのだろう?不幸でも何でもない、覚悟の逃避行であるのに(不幸なのはむしろ娘のほうだ。この辺、誘拐した母親自身の熟慮と確信の無さ、が共感しにくい)。娘を、手放そうと決断すればいつでもそうできた立場だ。一滴も涙を流さない逃避行+裁判、服役、もあり、ではないか。そうでないと観客へのインパクトは弱い。確信の行為であるはず、なのだ。

この二人の母親の(誘拐した母親の、服役後の)、対決の場、がほしかった、何らかの。それがなければこの映画の主題は解決しない(し、映画にしてみせるだけの価値が弱い、とおもう。つまり、続編がありうる。続編では、男どもも、しゃしゃり出てほしい。フリンは共犯、もとい、共同行為、なのだ。しかも、極めてありふれた)。両方の母親は判決後、画面からは姿を消す。父親だけが情けない姿を(しかも、これ以外にはありようがない、というう姿を)、一度だけ、娘の前にさらす。

わたしの長女が一番共感(というか、同情)していたのは子を奪われた母親だった。(これが、わたしと議論になったところ) 。わたしは、なぜ赤ん坊を奪われた母親があんなにヒステリを起こすのか、家庭で、裁判所で。。わからない、と失言してしまった。長女は、「なら、父さんは私の娘が同じように奪われたとして、冷静でいられる?」と反撃してきた。それはその時になってみなければわからぬ、と私が答えると、そらみろ!という顔をする。しかしこれは、わたしの長女が殺されたときわたしが殺人犯に対して冷静でおられるか、死刑廃止論者の私もそのとき、「死刑だ!」と叫ばないかどうか、という問題。わたしに自信はない。つまり、事件の当事者は、冷静な判断者ではなくなる(だから、殺人被害者の家族が、裁判に登場して意見を述べるなど、とんでもないことなのだ)。もちろん、死刑廃止論者ならば、自分の家族が殺されても死刑廃止をつらぬくべきであることはわかっている(安田好弘弁護士は、安田の家族が殺されても死刑反対を貫く、と、述べている)。

さて。。


映画では娘が、約15年前の、育ての母(と自分の幼い頃)の逃避行を追体験していきながら再生、回復していく。。のだが、母親(おとな視線)の体験映像(観客がカメラで観る映像)と、それが当時の幼い娘の眼にどう映じたか、を観客が切り分けられるか、が難しいところ。ごっちゃになってしまう。

零歳から6歳までを別の母親に育てられれば、その育ての母が<母>になってしまう。しかし、鳥や犬猫ではない人間は、後で、自分のリアルな恋愛を肥やしにして、<過去の自分や両親たちの体験の再構成、解釈変更>により、育ての母も生みの母とも離れたところで、自己を確立する。。母離れをしろ!という意味で私は主人公の娘の生き方を大きく肯定する(双方の母に理解を示す娘は、腹の中の、妻子ある男との間にできた子供をどのようにそだてるか)。母、とはなにか、を考えさせる映画だ。あるいは、生まれる子供は誰のものか?(もちろん、学習するのはオンナだけではない。この映画はむしろ、男どもに対する教育映画、といってもよい)。 人間は父親、母親として生まれるのではなく、父親、母親になっていくのだ。この映画のように、ある男女のなりゆきによりフリンの結果として、赤子を奪い、奪われる、ことも生じるだろう。そういう体験など絶対に私にはあり得ない、という人もいようが、その想定をとりはずし、自分だったら、あるいは、娘や息子にそういう事態が発生したらどう行為すべきか、考えるのは有用だろう。

私(古井戸)の娘も、映画の登場人物=幼児を奪い、奪われる立場、に、将来、なる可能性はあるわけだ(あるいは、彼女らの母に)。この映画を観て母とは何か、を彼女らなりに思考してほしい、とおもう。

人間を癒すのは、都会ではなく、田舎の風景と、人間たち=共同体。。というのがこの映画の一つのメッセージのような気がするが。。田舎の自然も、人心も、壊れつつあるのではないだろうか。人からも、自然からも支援を受けられない環境で自己を確立できるのか。これはオープンクエスチョンである。  

ルソーは生まれた5人の子供を次々と孤児院に入れた(俺が育ててもろくな人間にならない、という理由だと聞いた)。当時のジュネーブの子供のうち、半数は孤児院育ちであったという。子供は、生みの母親が育てるのがいい、とはもちろん、誰にも言えない。裁判所が下す日常論理に従った判決のみを正当とする視覚でこの映画を観ても得るものは何もないことは自明である。この映画は(原作も?)そのような凡庸な解釈は最初から拒否しているように見えたのは一つの救いである。 


映画の終わり方がハッピーエンド風、と最初に書いたが、小康状態を得た、というだけであり、これから先どういう運命が生まれる子供(とその母と父、父の妻)に待っているのか。予測は付かない。

18:05からの上映だった(pm6以後の上映は割引で1800円ー>1200円)が、終わったのは9時前。長かった。映画が終わって、クレジットが画面に流れているとき誰も席を立たなかった。席は5割くらい埋まっていたかな?200席くらいの小さなホール。 

ユーカリが丘(千葉県)のワーナマイカル(シネコン)で観た。なぜ近所(千葉ニュータウン)のワーナーではこの映画を上映しないのか?(もうひとつのシネコン=シネリーブルは311地震で壊れてまだ点検中。娘によれば、館内のスプリンクラーが作動して水浸しになったとか)。  

なお、わたしは、この映画の原作を読んでいない。これから読む予定もない。

 

ネットで他の映画評を読んで(とくに女性の)、感想の相違に愕然とする。誘拐してまで育てよう、という発想が男(=私のことだが)、には全く理解できないようである。しかも、誘拐された側の母の、誘拐犯に対する、私の理解を越える激しい怒り、と、誘拐してまで育てよう、という心理は綺麗に両立するモノのようである。子供は誰の所有物か。法律や生物学の規定を越えたところにしか答えはない。生んだ母のものではない。育ての母のモノでもない。双方のエゴを越えたところに答えを見つけなければならない。そのかぎりで、二人の<親>に和解のチャンスは将来ある、とおもうのだが。だれも、他の誰をも所有できない、という地点で。 

余貴美子、田中泯が特異な(得意な)キャラクタを演じているが、この二人の役柄は交換してもよかった、とおもう。田中が組織のリーダー役を演じるの現実にあった事件(ヤマギシ会、イエスの箱船、オウム。。)と連想されやすいのが難点か。この二人は昨年のNHK ETVで、ロシアの作家トルストイとその妻ソフィアとして、彼らの残した日記を交互に読むという<朗読劇>を見事に演じた。私はその番組で余さんを初めて知った。彼女ならこの映画で赤ん坊を奪う役、奪われる役を与えられても十分演じ分けると思う。多少のストーリは変更する必要はあるだろうが田中泯にフリンの相手として登場してもらい、二人の対決の場面をこしらえたらどうなるか。私はその空想を愉しんだ。



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映画を観て、三日が経過した。

乳飲み子を奪って4年も露見せず生活することができる、というのはあり得ない話だがそれは置いておく。この事件は刑法に照らして犯罪なのだろうが、道徳的にそれほど大きな犯罪とは言えない、と私は思うようになった。むろん映画を観た直後にもそう感じてはいたのだが。事情があって育てることができない両親が孤児院、病院に預けて育児を放棄する、のとどう違うか。まず、誘拐の場合は子供が育っているのか(あるいは殺されたのか)まったく不明。露見する4年間の苦痛は想像を絶するモノがある、したがって、誘拐犯は相応の処罰が適当である、と、法律家なら言うだろう。この映画の母親もそういうはずである(裁判所の判決言い渡しの際の態度から察するに)。しかし、夫の愛人であった、子供を持つことができないカラダになっている、という事情を考慮、さらに、子供をきちんと4年間育ててきた、ということを考慮すると、わたしは微罪、執行猶予を付けてもよい、と思っている。この映画では一人生活をする娘に、父親が心配して会いに来る場面がある。生活費を渡そうとするが、娘が、いらないよ、わたしはバイトしているし、と受け取るのを断る。父親は、そうか、と言って立ち去る。文章では伝えるのが難しいが、子供に対する愛情は十分伝わってきた。ちょい役でしかない、この父親は何を考えてきたのだろう、いま、なにを考えているのだろう?この映画のなかで、唯一、共感できる人物として私の中では、この父親がせりあがってきつつある。彼以外の登場人物は、すべて、背景である。。。登場人物のすべてが欠損を背負い、救出を求めている。 夫の愛人が赤子を奪って逃亡中。その状況下で、そして、誘拐者が逮捕され子供が戻ってきた、それ以降も、この夫婦は同じ屋根の下で、おそらく地獄の、歳月を過ごす。その地獄を、逃走中の<母>、保釈後の<母>は想像したろうか。画面に映らないところに真実がある。


もう一回、この映画を観てくる予定である。


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