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La Campanella [Life]

                                                                

 

先週末都内に住む義弟が亡くなった。私よりやや年上、同学年、団塊の世代である。

週明けに通夜と告別式を行った。通夜には義弟が好きだった曲、La Campanella (フジ子ヘミングの演奏)を流した。La Campanella とはイタリア語、教会の鐘の意味だという。

義弟は10年前突然胃癌で緊急入院し、胃の全摘をおこなって、いったん回復したにみえたが、数年前、腸に腫瘍がみつかり(転移ではない、という)緊急入院した。幾度も入院、退院を繰り返したが、1ヶ月前の入院時は重態であった。病院としては手を尽くした、あとは自宅で家族と共に過ごした方がよかろう、と主治医が提案したのは死の一週間前であった。

「ありがとう」と家族に言葉を残し、静かに最後を迎えた。足かけ十年の癌との闘いであった。

勤めていた会社では毎年定期健診を実施しているが癌は見付からなかったらしい。現在の医療技術でも癌の早期発見は難しいのか。

昨年末、ジャーナリスト立花隆(自身、膀胱癌を治療中である)がホストを務めたNHKの癌特集番組が放映された。立花が内外の著名な癌研究者を訪ね、インタビュー形式で専門的見地から素人にも分かり易く癌に関する最新の知見を伝えてくれた。ひと言で要約すれば、癌の実態はまだ確定されていない、どのような治療を施しても、癌細胞は、その治療に打ち勝って進化し、人体に食い込むのだ、という。根本的な原因は人体というものが多細胞(莫大な数の細胞)から構成され、個々の細胞がDNAを複製しながら人体の同一性を保つという構造そのものにある、つまり、複製過程でかならずいくらかの複製エラーが発生する。これが癌と呼ばれるものである。癌細胞は、人体の生成に深く係わる幹細胞と構造がよく似ている。癌成長の仕組みが正常細胞の成長と非常によく似ている。癌を攻撃すれば、正常細胞も攻撃することになる、ということである。iPS細胞(人工幹細胞:これを人体臓器再生に使用することを最終的な目標としている)を世界で最初に作りだした山中伸弥教授によれば、幹細胞の(臓器)再生の仕組みは癌細胞生成の仕組みと非常によく似ている、紙一重の差だ。高い再生能力をもつ、ということは、癌発生の確率も高い、ということ。トカゲ類(イモリ、ヤモリなど)の尾は切れても再生されるが(イモリは臓器まで再生する)、人間には再生能力はない。再生能力がある、ということは癌発生確率も高くなると言うこと。人間は再生能力があったとしても、生殖能力を身につける年齢に達する前に癌で死んでしまえば、人類が死に絶えてしまうことになる、これを避けるため進化の過程で<泣く泣く>人類は再生機能を捨てたのではあるまいか。これが山中教授の推論である。

iPS細胞は、人体パーツを作り出す機能を持つ。これを利用して機能不全のパーツ(心臓、肝臓、腎臓。。。)を生成し、正常パーツを人体から人体へ移植することなく<新品>の臓器パーツを生成することができる。iPS細胞実用化における現状の大きな問題点は、生成した臓器の癌の発生確率が極めて高いことであり、これを克服し安全な再生治療を可能にすることが課題として残っている。

しかし、iPS細胞によるパーツ再生技術が安全に実施できる方策が考案されたとしてこの技術を実用化してよいのか?私は否定的である。人間の長寿への欲望は限界を知らず、不良臓器をすべてiPS細胞から製造された新品パーツで置き換えることができる時代になれば、ほとんどすべてのパーツを置き換えたひとは長生きでき、それを望まない人、望んでも経済的に費用を負担できない人は死ぬ。これは臓器移植あるいは高額治療しか、生命延長手段がない現在では予測できない新事態である。技術が安価に使用可能になった時点で、倫理的な問題、と、医学的な問題が眼前にたちはだかる。人類が進化の過程で、癌による滅亡を避けるため選択しなかった再生機能を、高度技術を利用して再度選択しても、新たな難問が次々と襲ってくるのではないか。それに対処できるほど人間は賢くなっているとは思えない。病気の治癒は医療と呼べるが、<自然な>臓器の劣化の再生を医療と呼べるか?<病気>と、<自然劣化>を截然と区別できるのか?死は自然に訪れるのでなく、人間が選択することになる。<自然死>というコトバが新たな意味を持つ時代が来るだろう。すなわち、<自然死>も人間が<選択>することになる。それに、人間は耐えられるか?人類が高度の叡智により再生機能を捨てた(山中教授の推論)、ということの意味を、新たな観点から再考すべきではないか?臓器の交換が、あたかも、眼鏡や腕時計を交換するように安価にできるのはいいことか?良質の、頑強な内臓を容易に得ることができる人間と社会は、どの時点で<死>を迎えることを受け入れるのか?長生きはよいことである、という幻想を捨て去り、死の積極的意味を見つめるべきではないか。

同世代の人間の死の知らせは、とりわけ、近親者の死は一時的に虚脱感と思考停止をもたらす。取り残された、という気分もともなう。

日本の経済も政治も破綻への道をまっしぐらに突き進んでいる。破綻は団塊世代の責任が大きいらしい。私自身はそうおもっていない。ニッポンの末期まで、国民全員が七転八倒するのを見届けてあの世にいきたい。


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コメント 2

すずめ

> 人類が高度の叡智により再生機能を捨てた(山中教授の推論)、ということの意味を、新たな観点から再考すべきではないか?

『高度の英知』 とは、神以外に思いつかない。人類が神なしに それを意図的に捨て得るはずがない。
言い換えれば 「神の意志により」 それを失ったと考えるべきかと。

人類が消費する膨大なエネルギーに、そして産み出すエントロピーに思い至れば、この生き物が絶滅寸前であることは 明らかであろう。

ではなぜ 人類は存在し続けているのか、それが問題だ。なにか極端に 異常なことをしているはずだ。
 
by すずめ (2010-08-03 20:24) 

古井戸

>『高度の英知』 とは、神以外に思いつかない。

それはintelligent design を報ずる一団のセリフです。
二足歩行も言語機能も神の設計によるものである、と。

グリーンハウス効果も神の意図?
 グリーンハウス効果(この規模と作用が科学的に見て正しい理論にもとづくかどうかは、この際関係ない)を抑制しようと言う人間の取り組み、も、神の意図?
 分別ゴミ収集、も市議会の承認でなく、神の設計?

>A. この生き物が絶滅寸前であることは 明らかであろう。
 B. ではなぜ 人類は存在し続けているのか、それが問題だ


A: 無限に棲息できる、とは科学的jにみて信じられない。太陽が燃え尽きるときが、ハル曲げ呑。

B: ハル曲げ呑の、その時までは生きつづける。問題はない。生命発生以後、人類が地上に生まれたあと、今日まで、氷河期を何度も経験しながら生きのびてきたのは否定しようもない事実。明日もしくは、数年後(数万年後)、太陽が消えて、太陽系の生命体が全滅するかどうかは、確率的問題。神にも分からない(科学者は当たるかどうかわわからぬが、その確立を観測データに基づき計算することはできる)。




by 古井戸 (2010-08-03 20:48) 

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